マニフェスト(政権公約)とは政権政党選択、あるいは第一党選択の判断を国民に委ねる際、委ねる判断の基準として国民に約束する政策集であり、公約という性質上、政権を取った場合は国民との契約の形を取るはずである。また、そういった形を取らなければならないはずである。
政権を取った場合に国民との契約の形を取らなければ、公約とは言えまい。契約という形を取るから、国民はマニフェストが掲げる政策を基準に政権を担ってその政策を実現して欲しい政党の立候補者に投票する。例え参議院選挙のように政権選択選挙ではなくても、政権担当実現への前準備として第一党を占めて欲しい、あるいは政権党の政権運営が遅滞なく実現できることを願ってマニフェストを投票の基準とする。
少なくともこの形が理想の民主的な選挙形態であろう。当てにもならない公約、当てにもならない国民との契約であるなら、政権政党選択の基準、あるいは第一党選択の基準を失う。投票の基準を失うということである。いつどこで修正されるか分からないとなったなら、政策判断の基準さえ失う。
民主党は中学生以下の子どもに月額2万6千円の「子ども手当」支給という政策をマニフェストに掲げて昨年9月の総選挙に臨んだ。いわば2万6千円「子ども手当」の契約を政権を取った場合を条件として国民に持ちかけた。国民の側からの政権選択がその契約を成立させる要件となる。
多くの国民が「子ども手当」政策を基準に民主党に政権を託して政権と国民との間の契約を成立させるべく一票を投じていったはずである。そして民主党に政権選択して、その契約を成立せしめた。
農業従事者の多くは「農業戸別所得補償」の契約を成立させるために民主党に投票したことが「農業戸別所得補償」政策を通した政権担当の原動力となったはずである。政権を担当しなければ、契約は白紙となるからである。
このようにマニフェスト(政権公約)に掲げた各政策を基準として集まった票が全体としての大量得票の姿を取ったはずである。
このような構造を逆説するなら、政権を担当することによってマニフェスト(政権公約)に掲げた各政策は国民との間の契約としての実体を持つことになる。
勿論、国民から見た場合、最初から契約として交わしたくない政策というものもある。契約として交わしたい政策と交わしたくない政策の差引き、交わしたい政策がより多く上回ったマニフェスト(政権公約)を提示した政党に、その契約を成立させる要件となる政権選択を託すべく票が流れて、政権選択という結果が生まれるはずである。
参議院選挙の場合は次の総選挙で政権選択を託すためにその前準備として、あるいは政権党が政権運営をスムーズにこなせるよう第一党を託そうとする比較多数の国民の意思が働いて第一党という結果が生まれる。
ところが、民主党は政権獲得前に掲げた国民との契約となるマニフェスト(政権公約)の内、主たる政策、目玉として掲げた政策を政権担当後に変更、国民との契約を変質させた。
契約の変質は政権選択、もしくは第一党選択の基準を曖昧にする、あるいは基準を破棄する行為に当たる。
公約は守られることを前提としている。守られない公約は自己矛盾でしかない。守ることのできない国民との契約など許されるだろうか。公約が変更されるなら、何を基準に政権政党を選択していいのか分からなくなる。
政党は基本的には守ることのできる公約の提示を義務づけられているはずである。それが政治政党を組織する者が使命として負うべき責任であり、結果に対する責任への備えでもあろう。
ところが民主党ばかりか、多くの国民までがマニフェスト(政権公約)の変更、国民との契約違反を許している。
《参院選連続世論調査―質問と回答〈6月12・13日〉》(asahi.com/2010年6月13日23時18分)
〈参院選に向けて朝日新聞社が6月12、13の両日実施した全国世論調査(電話)〉――
◆今年度から月額1万3千円で始まった子ども手当についてうかがいます。民主党は去年の衆院選のマニフェストで、来年度からは満額の2万6千円の支給を公約していましたが、長妻厚生労働大臣は「財源の確保が難しい」として、満額の支給はしない考えを示しました。満額の支給をしないことに賛成ですか。反対ですか。
賛成 72
反対 21
《NHK世調 内閣支持率61%》(NHK/10年6月14日 19時15分)
◆子ども手当について、長妻厚生労働大臣が、来年度以降、満額に当たる子ども1人当たり月額2万6000円を支給するのは難しいという考えを示したことをどう思うか尋ねたところ、
「大いに納得できる」 ――40%
「ある程度納得できる」 ――30%
「あまり納得できない」 ――15%
「まったく納得できない」――10%
「賛成」とした72%、あるいは 「大いに納得できる」と「ある程度納得できる」とした70%の国民は、マニフェスト(政権公約)として掲げた各政策を判断材料として政権選択、あるいは第一党選択の主たる基準とすべきを、その変質を許すことで、その基準を国民の側から放棄したことになる。
国民との契約を政党の側からばかりか、国民の側からも契約でないとすることになる。
そして両者のこのような態度は今後とも公約の変質を許す素地となり、変質を招く事態を生じ入れることになるに違いない。
また、公約の変更を許すなら、次の選挙のとき、何を判断材料に政権政党を、あるいは第一党を選択していいのかの基準を失うことになる。いや、政党の側も、国民の側も自ら基準を捨てることになる。
民主党は昨17日、参議院選挙のマニフェストを公表した。マニフェスト(政権公約)の変質、あるいは国民との契約の後退を許す世論調査に元気づけられたのか、「修正」、「見直し」と言っているものの、実質的には国民との契約の後退・変質であることに後ろめたさがあるからなのか、この部分に関する発言に時間を割いていた。
枝野幹事長の発言のあと、玄葉光一郎政調会長がマニフェスト(政権公約)の概要を述べる発言があった。「プレスクラブ - ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局」から、マニフェスト(政権公約)の違約、国民との契約の後退・変質に関する説明に関してのみ抜粋。(「エー」、「おー」は抜いて文字化)
玄葉「私から概要についてお話をさせていただきたいと思います。その前に総論的なポイント、若干幹事長と重なるかもしれませんけれども、いくつか申し上げたいと思います。
一つはこのマニフェストに最後のところでありますけれども、できたことと、できなかったこと、これを客観的に事実として書かせていただいているということが一つの特徴だと思います。
それともう一つは、昨日も本会議で申し上げたのですけれども、マニフェストと言うのは生きものであり、常に手入れが必要なものだというふうに認識をしております。従って、環境や状況の変化に柔軟に対応することが重要だということで、改めるべきは改めると言う観点から書かれているということです。
さらに誤解のないように申し上げれば、基本的には総選挙マニフェストというものがあって、それを見直しのチャンスという位置づけ、補完するものであるというのが参議院選挙のマニフェストの位置づけだということでございます。
従って基本的な考え方、例えば、教育、子育て、医療、地域、そういったものを重視をしている、それが総選挙のマニフェストの一つの特徴だったと思いますけれども、そういった基本的な考え方が変わったわけではありません。それを変えずに、しかしながら、ご存知のように財源の問題、つまりは大幅な税収減がある。あるいはムダの削減はギリギリまでこれからも目標を高く掲げて続けますけれども、残念ながら目標に届いていないという、財源の問題が生じている。
従って、新規政策を一部抑制をし、且つ強い経済のための成長戦略というものをかなり詳細に亘って書き込み、且つ財政健全化、強い社会保障をつくるためにも財政健全化が必要であるという観点で財政健全化に触れているというのが大きな特徴だというふうに思います。・・・・」
次は菅民主党代表。同じくマニフェストの変更部分に関する発言のみ文字化。
菅直人「私自身が国民のみなさんに強く訴えたいと思って、このマニフェストに合わせて盛り込んでいただいたことについて申し上げたいと思います。
何と言っても昨年9月の衆議院選挙で私は民主党が多くのみなさんに支持をされたのは、やはりこの20年に亘る日本の閉塞状態、それは経済に於いてもそうでありますし、自殺者の数が3万人を切らなくなって、かなり長くなっている。そういう問題でも、そうでありますし、いろんな意味でそういった閉塞状態が続いている。
これを何とか変えて貰いたいという国民のみなさんのエネルギーであったと思います。数年前にはそのエネルギーが小泉総理を誕生させ、あるいは郵政選挙というものがありました。しかしそれが結局のところ何も変わらなかったという、その失望の中から今度は新しい民主党政権をつくって、この閉塞をまさに打ち破って貰いたい、私はその気持をしっかりと鳩山内閣から引き継がなければならない。
この意識が第一でありまして。勿論、先の衆議院選挙で掲げたマニフェストについて、やれることはやってまいりましたし、またこれからも引き続き取り組むべき問題も、たくさんあります。
一方では多少の、あるいは大幅な修正が必要になったものもありまして、それについては率直にその理由を述べてご理解をいただく、こういう基本的な姿勢で臨んでいるところであります。・・・・」
玄葉政調会長にしても菅直人民主党代表にしても、言っていることはマニフェスト(政権公約)として掲げた政策は内容が「修正」される、あるいは「手直し」される場合があり、政権政党選択の、あるいは第一党選択の判断材料にはならない、基準とはならない、国民との間の契約として成立させるだけの内容を備えていないと言っているに過ぎない。
要するに民主党は党を挙げてマニフェスト(政権公約)に対して「修正」、「手直し」を原則づけたのである。
10の恩恵を約束していながら、それを7に下げる、6に下げるということなのだから、契約としての性格を備えていない不完全な内容となるということだけではなく、その不完全さに応じて、当然、契約するに値しない対象と化す。
極端なことを言うと、政権を取るためにはウソが許されるということになる。
勿論、玄葉政調会長は「基本的な考え方、例えば、教育、子育て、医療、地域、そういったものを重視をしている、それが総選挙のマニフェストの一つの特徴だったと思いますけれども、そういった基本的な考え方が変わったわけではありません」と前以て逃げの手を打っている。
「教育、子育て、医療、地域」は他の政党も重視している政策であって、お互いにこれこれを重視していますでは政策の優劣の比較基準とはならない。
玄葉政調会長は「社会保障をつくるためにも財政健全化が必要であるという観点で財政健全化に触れているというのが大きな特徴」と言っているが、これは自民党にしろ、他の与党にしろ言っていることで、政策の重視が政策の優劣の比較基準とはならない何よりの証明となる。
時代時代で優先的に解決が要求される重視政策というものがある。それが長年に亘って重視政策であり続けるのは解決を見ないまま先送りされているからだろう。待機児童問題、少子化問題、地方格差、地方の高齢化の問題等々。どの政党も重視しなければならない、だがなかなか有効な解決策を見い出せずにいる古くて常に新しい政策となっている。
いわば重視政策とは一つの政権の失政から生じたものであっても、政党自らが重視するというよりも、殆んどが外からの、多くは社会からの要請を受けて取りかかる形を取るゆえに他の政党と重視政策が重なることになる。
違う点は解決の優先順位をつけることぐらいであろう。
となると、問題は何が障害となって重視政策となって立ちはだかっているのかの課題把握能力と把握した課題をどう克服、解決し、どういう手順で理想の形に持っていくのかの解決能力が問われているのであって、その道筋を示してそれら能力の有無の国民の判断を仰ぐ材料がマニフェスト(政権公約)であり、それを介して国民は政権政党選択、あるいは第一党選択の基準とし、最終的にマニフェスト(政権公約)を政権党と国民との間の契約に持っていくべきかどうかの最終決定を示すという手順を取るはずだが、そもそもの判断の基本的基準となるマニフェスト(政権公約)自体を「生きものであり、常に手入れが必要なものだというふうに認識をしております」と「環境や状況の変化」に応じて変わる変数扱いとし、それを前以ての原則としているでは政権政党選択、あるいは第一党選択の基準としようがなくなる。
玄葉は「さらに誤解のないように申し上げれば、基本的には総選挙マニフェストというものがあって、それを見直しのチャンスという位置づけ、補完するものであるというのが参議院選挙のマニフェストの位置づけだということでございます」ともっともらしげに言っているが、そういうことなら、参院選挙のマニフェストの「見直しのチャンスという位置づけ」が次の総選挙のマニフェストの位置づけとなって、「見直しのチャンスという位置づけ、補完」が総選挙と参議院選挙の間を行ったり来たりすることになる。
尤も見直し、補完で衆議院選挙と参議院選挙の間を行ったり来たりしているようでは、国民は民主党政権を早々に見捨てることになるだろう。
玄葉は「大幅な税収減」を政策変更の主たる理由に挙げている。民主党は野党時代から自民党政権の空港の需要予測が過大であったため、あるいは高速道路の過大な需要予測を基にカネをかけた道路建設に走ったがために空港や高速道路の現在の赤字経営を招いていると批判していたが、リーマンショックを受けた金融不安から生じた税収減を逆に過小評価して予算を組んだ見通しの甘さ、先見性のなさが招いた予算の縮小規模簿でもあったはずである。
玄葉の言っていることはすべて国民との契約を破ったことを如何に正当化しようか図る狡猾な口実、詭弁に過ぎない。
菅直人にしても、「先の衆議院選挙で掲げたマニフェストについて、やれることはやってまいりましたし、またこれからも引き続き取り組むべき問題も、たくさんあります。
一方では多少の、あるいは大幅な修正が必要になったものもありまして、それについては率直にその理由を述べてご理解をいただく、こういう基本的な姿勢で臨んでいるところであります」と言っているが、「やれることはやってまいりました」は、やれないことはやってまいりませんの逃げ口上を含む余りにも無責任な物言いで、マニフェスト(政権公約)として掲げ、政権を取って国民との契約の形に持っていった以上、掲げたことはすべて実現させることが結果責任のはずである。
マニフェスト(政権公約)の変更、国民との契約内容の変質は結果責任の放棄にもつながると言うことである。
結果責任の認識なくして、「マニフェストと言うのは生きものであり、常に手入れが必要なものだというふうに認識をしております」と「手直し」、「修正」を原則づけたなら、民主党が掲げた「強い経済・強い財政・強い社会保障」にしても、マニフェスト(政権公約)の原則に則って常に「手直し」、「修正」を運命づけることになって、足許の定まらない政策実現となるに違いない。
もしマニフェスト(政権公約)に対して「手直し」、「修正」等の変質を原則づけるなら、マニフェスト(政権公約)と言わずに「政策ガイドライン」と名付けるべきだろう。
そうすれば、結果責任を取らなくてもよくなり、日本の政治の無責任体質と心地よくマッチすること間違いなしである。