どちらも約束できないことを約束している
《進次郎氏来県 “小泉フィーバー”再び》(山梨日日新聞/2010年06月14日(月))
どの程度のフィーバーか、記事はこう書いている。
〈参院選応援 女性らにもみくちゃ
自民党の小泉進次郎衆院議員が13日、県内入りし、多くの聴衆が演説に詰め掛けるなど、“小泉フィーバー”を巻き起こした父の純一郎元首相譲りの人気ぶりをみせた。〉――
進次郎は参院選山梨選挙区に同党から立候補する宮川典子の応援のため山梨入り、JR甲府駅前など3カ所で街頭演説したという。かつての小泉首相の人だかり人気を髣髴させたというわけである。
〈民主党の主要政策である子ども手当や高速道路無料化に反対した上で、〉と書いているが、自民党の面々は「バラマキ」で口をそろえているから、進次郎も、「バラマキだ」と批判したのだろう。
小泉進次郎「政治のリーダーが不幸が前提の社会を叫んで、国民が一緒に頑張ろうと思うか。・・・最小不幸社会と、自民党が目指す最大幸福社会のどちらをつくるか、選ぶのは皆さんだ」――
民主党菅首相は6月8日の記者会見で、「最小不幸社会」について次のように述べている。
「私は、政治の役割というのは、国民が不幸になる要素、あるいは世界の人々が不幸になる要素を如何に少なくしていくのか、最小不幸の社会をつくることにあると考えております。勿論、大きな幸福を求めることが重要でありますが、それは、例えば恋愛とか、あるいは自分の好きな絵を描くとか、そういうところにはあまり政治が関与すべきではなくて、逆に貧困、あるいは戦争、そういったことをなくすることにこそ政治が力を尽くすべきだと、このように考えているからであります」――
菅首相は「最小不幸の社会」を約束し、小泉進次郎は自民党の政策として「最大幸福社会」を約束した。
菅首相の「不幸になる要素を如何に少なくしていくのか」の営為が、“最小不幸社会”実現の条件と必ずしも一致するわけではない。例えば現在日本は年間3万人を超える自殺者数を12年連続で抱えているが、景気回復政策の成功、生活に関わる様々なセーフティネットの構築、社会制度の改革によって「不幸になる要素」をある程度社会から削ぎ落とすことができ、自殺者数を年間3万人を切ることに成功したからといって、“最小不幸社会”を実現したとは決して言えない。
ひとり親家庭の貧困率は54%だそうだが、これを40%以下に抑えたからといって、“最小不幸社会”の実現とは言えない。
いわば「不幸になる要素を如何に少なくしていくのか」ではなく、「不幸になる要素」をなくすこと、最低限、限りなくゼロに近づけることが「最小不幸の社会」実現の条件となる。少なくしただけで、限りなくゼロに近づけなければ、“最小不幸社会”とはならない。
自殺者数で言うなら、ゼロに近い数字としなければならない。
菅首相は実現の条件とはならないことを言って、“最小不幸社会”の実現を約束した。国民との契約とした。
一方の小泉進次郎は、「政治のリーダーが不幸が前提の社会を叫んで」いると言っているが、目指す社会の成立条件に不幸を置く政治家など存在するはずはない。不幸を少なくすることを前提にしているのであって、それをさも不幸そのものを前提に置いているかのように情報操作して吹き込む点は、さすが父親譲りと言うべきだろうか。
いずれにしても、“最大幸福社会”を約束した。まさか野党の気軽さで言ったわけではあるまい。あるいは菅首相が“最小不幸社会”を掲げたことへの対抗心から、対立概念としての“最大幸福社会”を持ち出したに過ぎないというわけではあるまい。
首相在任中、各種規制緩和を強力・強引に推進することによって日本の社会を“最大幸福社会”とは対極にある格差社会に染め上げるに最大限貢献のあった小泉純一郎元首相を父親とする小泉進次郎が“最大幸福社会”を口にするとは奇異な感じもするが、好意的に解釈するなら、父親が成し遂げた格差社会に対する罪の意識から、“最大幸福社会”実現に肩入れすることになったということなのだろうか。
だとしても、“最大幸福社会”とは大風呂敷に過ぎる。小泉純一郎も大風呂敷なところがあった。大風呂敷なところも血として受け継いでいるのかもしれない。
“最大幸福社会”とは“最小不幸社会”の遥か上に位置し、社会の構成員全体がカネに困らない、生活に困らない、物質的にも精神的にも豊かな生活を送ることができる社会を言うはずである。
例えそこに収入格差が存在していたとしても、今まで社会の最下層に位置していた貧困層が“最大幸福社会”だと認識できる程に収入が恵まれる社会、収入が保証される社会でなければならない。最も低い年収で、500万円の保証がなければ、“最大幸福社会”とは言えまい。
いわば格差が金額的に今まで以上の高い場所で存在することになる。当然、生活苦からの自殺は限りなくゼロに近づき、健康上の理由からの自殺も精神的理由からの自殺も限りなく少なくなっていかなければならない。
だが、一方で中小零細企業まで従業員に年収500万円を保証した場合、当然製品単価に撥ね返っていく状況が生じ、競争力の問題に響くだけではなく、500万円の保証が500万円という金額どおりの生活を保証するか疑わしくなる。
だとしても、社会のマイナス要素の払拭に関しては“最小不幸社会”が目指す場所と重なるが、“最大幸福社会”が目指す違う点は、マイナス要素をすべて払拭した上で、それを“最大幸福”に転換することを目的としていることであろう。
その一つの転換が年収100万や200万から最低限500万円への転換であるが、人間社会はこういったことを可能とするだろうか。
中国の小平は改革開放の過程で毛沢東時代の平等主義を排除して、豊かになれる者から豊かになり、豊かな者を増やしていって最終的には国全体を富ませる『先富論』を政策として打ち出した。
言ってみれば、“最大幸福社会”を約束した。だが、現実は富める者と貧しき者との数と収入が極端な格差社会をつくり出したに過ぎない。最近、強制的な過重労働から、自殺する労働者も出ている。
いずれの国の社会に於いても、人間社会では、社会の利益循環はトリクルダウン(trickle down=〈水滴が〉したたる, ぽたぽた落ちる)を方式として成り立っている。企業が利益を上げて好景気を形づくり、それが社会の下層に向かって、上の段階により多く配分しながら順次下の段階に先細りする形で流れ落ちていく利益配分を骨組みとしている。ときには最下層に雀の涙程度しか届かない場合もあるし、全然届かないこともある。非情だが、矛盾そのもののこのような構造自体が厳然とした社会の利益配分のルールとなっている。
2008年9月のリーマンショック以前の02年2月から07年10月まで続いた「戦後最長景気」では、大手企業は軒並み戦後最高益を得たが、利益の多くを内部留保にまわして、一般労働者に賃金として還元せず、その結果個人消費に回らず、国民の多くには実感なき景気と受け止められるに至ったが、これなどは最下層にまで全然したたり落ちなかった口の最悪のトリクルダウン方式の利益配分となっていたことを証明している。
いわば戦後最長景気時には上層部で富の独占が起きてそこに利益を滞留させることとなって、下層部に通じる利益配分のパイプを空にしてしまった。
トリクルダウン方式とは平等な利益配分の否定を前提としている。いや、平等の概念そのものを否定し、差別そのものを基本概念としている。
今春の内閣府令改正によって日本企業に於ける報酬総額1億円以上の役員名の有価証券報告書への記載義務付けが定められたが、日産カルロス・ゴーン社長が8億9000万円、ソニーのハワード・ストリンガー最高経営責任者(CEO)が8億1700万円、野村HD社長が2億9900万円、大手企業の総会が開催されるたびに1億円以上が次々と公表されている。
他方で派遣を切られ、再就職先を見つけられずに生活の手立てを失い、カネを切らせ、食べ物を切らして餓死する者、ホームレスとなってその日その日の食べ物を拾い漁って食いつなぐ者、生活保護を得て、どうにか最低限の生活を維持する者の存在は人間社会の利益配分構造が、利益分捕り構造と言い直してもいいが、トリクルダウン方式となっていることを如実に物語っている。
少なくとも平等の否定、差別の肯定によって成り立つこととなった社会状況であろう。
政治家の多くがこの常に正確に作動するとは限らない、また決して逆の構図を取ることはないトリクルダウン方式となっている社会の利益配分構造をより平等な形に手直しすべく挑戦してきたが、一人が多くを得て、その多くの内から少しを他に配分するという構造そのものは人間社会の利益配分の否定することのできない基本形として存在するためにすべて部分的手直しで終わり、基本形そのものを変えることはできずにいる。
また幸福への欲求は人間の本能としてあるもので、手に入れる量に制限があるわけではないから、機会と才能に恵まれた者が幸福を獲得できるだけ獲得する。当然、多くを手に入れる者と程々にしか手に入れることができない者と、少ししか手に入れることができない者と、全然手に入れることができない者との差別が生じる。
幸福の獲得量に応じて生じた利益にしても、人間社会の利益配分の公式となっているトリクルダウン方式を受けて下層に向けて滴り落ちていくのみであり、そこに平等は決して生じない。
人間社会が厳然としてこういった利益構造となっているにも関わらず、一方は“最小不幸社会”を約束し、他方は“最大幸福社会”を約束した。
どう贔屓目に見ても、菅首相にしても小泉進次郎にしても、約束できないことを約束した大風呂敷に思えて仕方がない。“最小不幸社会”だとか、“最大幸福社会”だとか言わずに、スローガンとしては結構毛だらけだが、社会の矛盾点のここを改める、あそこを改めると具体的、堅実に一つ一つの手直しを政策によって図っていくべきではないかと思う。
それでも人間の利害は立場や生活環境に応じてそれぞれに異なるから、一つの有効な政策でもプラスマイナスがあり、マイナスの利益しか受けない層が存在することになる。労働者派遣法の改正が下層労働者に利益となっても、経営者の利益にならないことから反対するように、常にプラスマイナスが付き纏う。
かくかように厄介な人間社会だということを厳に認識した上で政策に取り掛かからないと、約束できないことまで約束することになる。