菅首相の愚かしいリーダーシップ論/一国のリーダーは単なる纏め役ではない

2010-09-13 06:31:37 | Weblog

 民主党代表選は政策で争うよりも指導力、リーダーシップを基準に争われるべき

 どのような選挙も言葉で訴える。落選という自己存在否定を突きつけられたくないばっかりに有権者の歓心を買う姿勢が生じ、勢い言葉が現実を離れて走りかねない。いわば実行可能性を無視して、いいこと尽くめの言葉で満たしかねない。

 菅首相が11日午後、都内(有楽町)で街頭演説を行った。これは菅陣営のみの街頭演説だそうだ。からした声で言葉を区切り区切り訴えかけていた。

 《首相 国民の支持を得て改革を》NHK/10年9月11日 19時12分)

 菅首相「いよいよ、これから、本格的な、日本の、大改革の、本丸に攻め込む。私はリーダーシップというのは、一人の政治家が、一人でやれるもんではない。400人の国会議員、2500人の自治体議員、35万人の民主党党員・サポーター、そして何と言っても、1億2000万人のみなさま方国民、そのチームプレーでなければ、日本は変えることはできない。その先頭に立たせていただきたい」(NHK記事動画から)

 消費税発言が災いして参議院選挙を大敗すると、たちまち消費税発言を自ら封じてしまう、羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹くような政治家に、リーダーとは名ばかり、「大改革の本丸に攻め込む」ことなどできようがない。

 それにしても「大改革の本丸に攻め込む」とは言葉だけは勇ましいことを言う。

 官僚主導から政治主導転換の中枢機関と位置づけた首相直属の「国家戦略室」を「局」に格上げして法的根拠を持たせる「政治主導確立法案」の国会上程を与野党逆転した参議院通過は覚束ないと早々に断念するような諦めの早い男、信念と執念を欠いた男、逆境に反撥も持って立ち向かう踏ん張りを知らない男に(私自身にはすべてないが、一国のリーダーは逆にすべてを備えていなければならないはずだ。)「攻め込む」といった猛々しいことは期待しようがなく、口先だけの言葉なのは目に見えている。

 そのくせ8月24日の新人議員との意見交換会、実態は新人の囲い込みが目的の場に過ぎなかったが、「今までの古い体制や官僚の省益を優先する仕組みを壊す力が、自分にとって一番強いメッセージだ」と実際行動とは離れたことを平気で言う。

 「おかしいところをおかしいと思って立ち向かう姿勢と、物事を作り替える上で必要になる壊すことに対しては、自分は相当力を持っている」と、相手が新人議員と見て、何も分からないだろうと甘く見たのか、実際行動で示すべきを言葉で勇ましく示す自己顕示にかけては誰にも負けないところを披露する。

 上記街頭演説での再選後の党役員人事、内閣改造についての発言。

 菅首相「挙党態勢というのは、それぞれの持ち味や能力、自分の得意な分野がある人たちが党の内外から集まっているので、適材適所で、みんながその力を発揮できるような体制を作る」

 だが、鳩山辞任の後の代表選で当選すると、挙党態勢に反する「脱小沢」を演じた前科を抱えているのだから、挙党態勢云々は“オオカミ少年”の「オオカミが来た」の可能性が高い。

 「ねじれ国会」への対応。
 
 菅首相「採決をすれば、すべてが進むわけではない。与野党でしっかりと話をして、その中で『よし、わかった、ここまではいっしょにやろう、しかしこの部分は自分たちの言うことも聞いてくれ』そういう熟議の民主主義こそが、しっかり議論する民主主義こそが、私は本物のリーダーシップを生み出す条件だと考えている」・・・・

 「リーダーシップ」とはリーダーが自分が信じた政策を、失敗したら責任を取る覚悟で貫き通そうとする姿勢にこそ生み出される。勿論、他の協力を得る必要上、「一人の政治家が、一人でやれるもんではない」が、それは政策の構築や法案化と国会通過に関してであり、政策理念の維持や政策の方向性指示は偏にリーダー一人の信念と責任意識にかかっていて、そのような全体像を取りつつ、リーダーが自らの責任に於いて政策を法律の形に持っていき、国民生活向上の一制度として社会全般に反映させる務めを負うはずであり、そういった実現過程の全体に亘る指揮を以ってリーダーシップと言うはずである。

 それを「リーダーシップというのは、一人の政治家が、一人でやれるもんではない」とリーダー自身にかかっている意志・能力の所在を他の政治家にも拡散させようとするのは自身のリーダーシップ欠如を誤魔化す詭弁でしかないだろう。

 このことは参院選前は消費税増税を主体とした税制改革による税収を財源とした「強い財政・強い経済・強い社会保障」、特に消費税増税の税収を社会保障分野に投入して、それを強い財政と強い経済の実現に結び付けていくと訴えていた、自らが信じていたであろう政策を参院選大敗を境に貫くとは反対の後退を演じた上、参院選大敗の責任も取らなかったことの変節がリーダーとしての菅首相一人の意志にかかっていた決定であることが何よりも証明している。
 
 これが他の政治家の指示による決定であったとしたなら、菅首相のリーダーとしてのリーダーシップになおさら疑問符がつくことになる。

 「熟議の民主主義」と言えば聞こえはいいが、話し合いで、「よし、わかった、ここまではいっしょにやろう、しかしこの部分は自分たちの言うことも聞いてくれ」といった、実質は妥協を実態とした取引からはリーダーシップは決して生れない。

 そうでなければ、国家のリーダーであることの意味を失う。単なる纏め役ではないからだ。「熟議の民主主義」を体裁のいい口実に纏め役を自任していながら、「いよいよこれから、本格的な日本の大改革の本丸に攻め込む」と矛盾したことを言って、何ら恥じない。

 「攻め込む」ことと「よし、わかった、ここまではいっしょにやろう、しかしこの部分は自分たちの言うことも聞いてくれ」とは異質の行為だからだ。

 菅首相からしたら、「攻め込む」のは官僚に対してであり、「熟議」は野党に対してであると使い分けるだろうが、どのような場合でも「攻め込む」意志を確固たる最大公約数とした姿勢を維持していなかったなら、官僚に対しても、「よし、わかった、ここまではいっしょにやろう、しかしこの部分は自分たちの言うことも聞いてくれ」と取引による妥協を演じることになる。

 小沢候補と菅候補の政治姿勢の主たる違いは一時的に財政再建を無視して景気回復のために財政出動する、一方は財政再建を重視するの違いと、同じ民主党に所属し、2009年民主党衆院選マニフェストに掲げた同じ政策にほぼ則っているが、その実現の手法の違いぐらいであろう。

 だが、議員票でほぼ拮抗する現在の状況から見たら、誰が首相になったとしても、なれなかった側は一大勢力として残る。政策の調整を話合う場面が否応もなしに生じる可能性を考えなければならない。

 当然、政策の決定、実行は首相と決定した一国のリーダーが自らの信念を如何に守り通し、維持するかの確固たるリーダーシップにかかってくる。勢力として残った側との話し合いで妥協した政策を取り、参議院を通過させるために野党と妥協して、さらに自身の最初の信念を曲げる、あるいは後退させるようでは自らの理念、政策を掲げて一国のリーダーとなった意味を失う。

 話し合いを強いられる状況下に於いては何よりも指導力、リーダーシップが問われることになる。そうである以上、政策実現の手法の違いを問うことも然ることながら、何よりも指導力、リーダーシップの有無を争点に代表選は戦われて然るべきだと思うが、菅首相の場合、リーダシップに関しては言い逃れ、詭弁で誤魔化してばかりいる。

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