2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(4)

2010-09-27 06:34:08 | Weblog

 「尖閣列島は我が国固有の領土」は聞き飽きた

 菅首相「尖閣列島は我が国固有の領土であり、謝罪や賠償は考えられず、まったく応じるつもりはない」NHK) 

 日本政府「尖閣諸島がわが国固有の領土であることは、歴史的にも疑いない。領有権問題は存在しない。謝罪や賠償といった中国側の要求は何ら根拠がなく、全く受け入れられない」(MSN産経

 前原外相「東シナ海に領土問題は存在しない。これから同じような事案が起きた時には、毅然(きぜん)と対応していくことに変わりはない」(asahi.com

 中国「釣魚島と付属の島は古来、中国固有の領土で、中国は争う余地のない主権を有している」(MSN産経

 姜瑜中国外務省副報道局長「釣魚島とこれに付属する島々(尖閣諸島)は中国固有の領土だ。日本は中国の領土主権と国民の人権を侵しており、中国側は日本に謝罪と賠償を求める権利を当然持つ」(asahi.com

 船長「釣魚島に行き、漁がしたい。機会があれば、また行く」(YOMIURI ONLINE

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 中国の漁船が日本の領海を侵犯して漁を行っている現実が現実としてある。逮捕すれば、中国から、「釣魚島とこれに付属する島々(尖閣諸島)は中国固有の領土だ。日本は中国の領土主権と国民の人権を侵しており、即時釈放すべきだ」と強硬な即時釈放要求が実行され、日本が「尖閣列島は我が国固有の領土であり、国内法で粛々と対応する」と釈放拒否しても、中国は日本が無視できない経済的損失を蒙る様々な制裁・圧力をかける。

 いわば現実問題として、菅首相以下が言っているようには「尖閣列島は我が国固有の領土」となっていない。なっていないにも関わらず、「尖閣列島は我が国固有の領土である」と口を揃えるのは、「尖閣列島は我が国固有の領土である」は単なる口先だけの言葉と化していることを意味している。口先だけの言葉でしかない何よりの証明が中国側の様々な制裁・圧力を含めた今回の中国人船長逮捕から釈放に至る過程で見せた日本側のドタバタ劇であろう。

 政治家に口先だけの言葉は許されない。中国が発する「釣魚島とこれに付属する島々(尖閣諸島)は中国固有の領土だ」を撤回させる政治的・外交的方策を講じて、「尖閣列島は我が国固有の領土である」を口先だけの言葉であることから確固たる実質的な有効性を備えた「尖閣列島は我が国固有の領土」とする責任が菅内閣にはあるはずだ。

 2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(3)からの続き

 須田アナ「慶応大学の清家先生は学問、基本的には学問である、生涯教育のすべてで学問の心、学問の姿勢というのは、どう構えていたらいいのでしょうか?」

 清家「それは見たものは真実ではないんだと。学問を通じて初めて真実を知ることができるんだという、その謙虚な気持を持つということが大切だと思います」

 須田アナ「見たものをそのまま信じちゃいけない」

 清家「信じちゃいけない。学問を通じて真理が分かる。いずれそれが分かったら、若者というのは本当に驚く程伸びますので、とても楽しみです」

 須田アナ「乙武さん、お父さんとして、どんな教育、どんな子育て、考えていますか」

 乙武「こうあって欲しいとか、こういうふうになって貰わないと困るという思いを強く持ち過ぎずに。どんな君でも認めて上げるよという、そういう心持で向き合っていきたいなというふうに思います」

 須田アナ「先ず受入れること。あるがままを受入れて、さあ、どう育つか(ニコニコと)。愉しみが湧いてきますよね」

 乙武「ハイ」

 須田ナナ「今日は教育というテーマで、まあ、学習という、置き換えて寺脇さんの方から提案が上がりましたが、色々なことをみんな考えさせられたんじゃないかと思います。どうもありがとうございました」

 (考察部分)

 番組冒頭部分で、小学校教師乙武洋匡は学校が貰えない子はかわいそうだからという理由でバレンタインデーのチョコレートを学校に持ち込んではいけない規則となっていることを例に上げて、「傷つく機会をどんどん奪っていくから、自分を伸ばしていくとか、自分の足りないとこを気づくという経験が不足する」ことになるといったことを言い、傷つく機会を与えて自分自身に不足している点を考えさせるめにもチョコレートを持ち込むのはいいと思うとしているが、ただ単に持ち込むことを許可して、「傷つく機会」を与える、あるいは自分がなぜチョコレートを貰えないのか、自分に不足している点を反省させて、そこを伸ばす努力をすべきだと生徒に教師の言葉を伝えるのみでは、中には発奮する子もいるだろうが、すべての生徒が教師の言葉に従って忠実に自己省察し、自身に不足している性格、才能等を把握してその点の自己発展を図るとは限らない点を考えると、必ずしも効果ある助言とは言えない気がする。

 勉強もできない、スポーツも得意ではない、容姿も取り立てて優れていなくて学校では自分を生かすことができない。だからバレンタインデーでチョコレートが貰えない。だが、人間は学校を卒業して世の中に出ると、誰もが何かの仕事に就いて働くことを通して生きていかなければならない。一生懸命仕事をし、一生懸命生きていきさえすれば、学校では見つけることができなかった才能を見い出し、その才能によって自分を生かすことができるようになる。学校でバレンタインデーのチョコレートを貰えなくても、みんなそうして生活し、生きていく。

 チョコレートを貰える子も貰えない子もその点では同じだと教える。

 一生懸命仕事をし、一生懸命生きて自分を世の中で生かすためには、例え勉強ができなくても一生懸命勉強し、例えスポーツが得意ではなくても、体操の時間は一生懸命体操をして、容姿とかは関係なしに毎日を一生懸命生活し、学校を卒業して何かの仕事に就いたとき一生懸命仕事をして一生懸命生きていけるように学校にいるときから“一生懸命できる”練習をしておかなければならない。一生懸命できる準備をしておかなければならない。バレンタインデーでチョコレートを貰える貰えないよりも努力する姿こそが美しい、立派だと機会あるごとに教師は生徒に伝えるべきではないだろうか。

 それまで何でも適当にやっていて、急に一生懸命やろうとしても急には一生懸命できないからだと教える。それが何であっても、一生懸命取り組んでいたなら、学校を卒業して世の中に出てもどんな仕事についても一生懸命取り組むことができる。

 そのように教えて、例え勉強ができなくても、運動の成績が悪くても、チョコレートを貰えなくても常に一生懸命であること、努力する姿勢を求める。おお、頑張っているな、頑張る姿は社会に出たとき必ず役に立つからな、と。

 いわば勉強ができないこと、運動が不得手であること、当然テストができないこと、容姿が優れていないこと、バレンタインデーでチョコレートが貰えないことを受入れてやり、その代わりすべてに一生懸命取り組む努力する姿勢に最大限の価値観を置き、それを求めて、そういった姿へのエールを送り続ける。

 あるいは勉強ができなくても、運動が苦手でも、容姿が優れなくても、そういった生徒が日々頑張ることができるエールとなる言葉を教師自身が考えて発することが教師に求められているのではないだろうか。

 すべての生徒が成績優秀となることは永遠に不可能だからだ。

 「安藤さんところに優秀な新人が入ってきたそうですが、如何ですか、期待度は?」と須田アナに問われて、安藤は「優秀な、学校だと言うだけでは。優秀な学校だと言われている学校だけれども、先ずは自分から一歩踏み込むことはしないから、言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」と答えている。

 「先ずは自分から一歩踏み込むことはしない」、「言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」姿とは、指示を待って、あるいは指示を得て初めて指示通りに動く姿勢を言い、指示に従って指示通りに動くから、与えた指示「以上のことはやらない」という一連の行動パターンが生じることになる。いわば指示の範囲以内の行動しか取らない。

 この行動パターンは知識・情報の授受に関しても、生活指導に関しても上に位置する教師の指示(=教え)に生徒が従ってなぞるだけの、普段から慣らされ、浸みついた権威主義教育・暗記教育に於ける生徒の行動パターンをそのままを踏襲した行動パターンであって、優秀な大学を出て社会人になってもそのような行動パターンから抜け出ることができず、血肉化してしまっている様子を伝えている。

 元々が行動の構造・思考の構造が上が下を従わせ、下が上に従う権威主義の構造に支配されているのだから、当然と言えば当然の行動パターンなのだが、このことは逆に、父親が権威主義の行動様式・思考様式をたまたま受け継いでいなくて、その影響で子どもの頃から自身も受け継いでいない幸運にでも恵まれていなければ、安藤のような優れた建築家、独創性溢れる人間が輩出しないことを教えてくれる。

 他人の指示に従って、指示通りに動く思考性・行動性からは独創性は決して生れない。自分で考え、思考し、それを発展させていくところに独創性は生れる。

 また、「先ずは自分から一歩踏み込むことはしない」、「言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」非主体的、受動的行動性は日本人の労働生産性の欧米と比較した低さにも関係している。ブルーカラーの場合は現場で上司の監視が届いてるから、尻を叩かれる形で「言われたことは」せっせとやっていれば、それなりの生産性を上げるが、ホワイトカラーの場合はその働きは営業のように成績が監視役を果たす場合を除いて上司の監視では把握困難なため、「先ずは自分から一歩踏み込むことはしない」、「言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」ことが阻害要因となって生産性を上げることができないでいる。

 寺脇研が自身が推進役の一人となったゆとり教育について、「画一的にみんなで同じにとか、誰も傷つかないようにというような教育じゃなしに、個別教育、一人ひとりにできるだけ合わせていって、それぞれの能力を伸ばしていって欲しい。当然、自分の能力のある部分はチャレンジしていって欲しいということだった」と述べ、「画一から個別へという整理」の必要性を訴えている。

 いくら画一性からの脱却を訴えても、教師の知識・情報を生徒が全員してなぞって暗記していく、暗記量に個人差はあっても、暗記している内容に関しては結果として同じことを暗記することになる権威主義教育・暗記教育の構造自体が画一性を量産しているのであって、元凶となっている日本の教育自体を改めないことには画一性の打破は不可能であろう。

 一人ひとりにできるだけ合わせていく個別教育を施せば、画一性から脱却でき、個別性が獲得可能なことを寺脇は言っているが、一人ひとりにできるだけ合わせていく個別教育にしても、それが生徒の学習進度に合わせた権威主義教育・暗記教育である点が変わらない以上、一人ひとりに合わせるために単に学習に時間がかかるというだけのことで、同じ知識・情報を植えつけ、植えつけたとおりになぞり暗記させる画一性に変化はない。

 冒頭で日本の権威主義教育・暗記教育は生徒が自分から主体的に学習する教育の構造を取っていないと書いたが、そういった主体性を無視して親が子どもを幼い頃から親の指示・命令通りに考えさせたり行動させたりするのではなく、主体的に自分から考え行動するように訓練づけ、幼稚園・保育園に入ってからも、教師が園児を教師の指示・命令通りに考えさせ、行動させるのではなく、自分から考え行動するように訓練づける教育を施し、そういった教育方法を小中高と受け継いでいったなら、如何ともし難く存在する能力差を埋めて全員等しくすることは誰もできないのだから、例え教師が「一人ひとりにできるだけ合わせ」なくても、教師の手を離れて、子ども、あるいは生徒自身の能力に応じて能力に合った学び方を自分から考えて、選んでいくはずである。分からないときに質問を受けるだけで済むはずである。

 自分から主体的に考え学ぶことによって、例え低い水準にとどまった知識・情報の獲得であっても、教師が与える画一的な知識・情報を超えて曲りなりにも生徒自身の個別的で独自な知識・情報とすることができる。それが個性という要素であろう。

 また自分から考え学ぶ主体的姿勢が勉強もできない、スポーツも得意ではない、容姿も取り立ててが優れていなくても、何事に取り組むにしても自分から一生懸命に取り組む努力する姿勢を生むはずである。少なくとも建築家の安藤が言うように優秀な大学を卒業して社会に出ても、「自分から一歩踏み込むことはしない」、「言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」といった主体性の欠けらもない、受動性一辺倒の人間に育つことはないに違いない。

 寺脇研が日本の教育が知識・情報の画一性を生む権威主義教育・暗記教育となっている点に触れずに画一的教育を排して個別的教育の必要性を訴えたのに対して、宋文州が「今の先生は自分たちが個性がないので、個性を教えるのに人間が教えるのではなく、環境づくりから始めなければいけない。お父さん、お母さん、先ず、個性がないでしょう?先生が個性もない。社会全体が個性がない」と答えている。

 自らの思考の濾過・咀嚼を通さない、いわば自分の考えを通さない、他人が与えるままになぞり暗記した知識・情報だから、画一的な知識・情報に満たされることになって、当然個性がないことになる。宋文州が言うように、「お父さん、お母さん、先ず、個性がないでしょう?先生が個性もない。社会全体が個性がない」ということになる。

 暗記教育で同じことを教えられ、ただ単になぞって同じことを覚えていくから、単に覚えた、あるいは暗記した知識・情報の量がそれぞれに違うということだけで、覚えている、あるいは暗記している中身は同じで、そこからそれぞれの思考・行動が発動することになるから、当然「個性がない」という事態が生じる。

 権威主義教育・暗記教育自体が画一性を育み、画一性が個性を拒否する。

 日本の教育が権威主義教育・暗記教育であるという自覚に立って議論を進めないと、いつまで経っても同じ堂々巡りを繰返すことになる。

 宋文州は次のようにも言っている。「教育できないものがある。馬は川へ行きたくないのに川へ連れて行っても、仕方がない。つまり、意欲がないと教えられない。社員見ても、そうなんですよ。意欲のない人間に教えるよりも、意欲のある人間に教えた方が早い。評価に差をつけて、よく引き出しての教え(が必要)」

 「意欲」とは、自分から考え、学ぶ姿勢に宿る。自分から考え、学ぶ姿勢が可能とする欲求であろう。あるいは主体性が可能とする欲求であろう。そのような欲求が進取のエネルギーとなって現れる。

 既に触れた主体的に一生懸命に取り組む努力する姿勢に当たる。宋の発言は日本の教育はそういう教育にはなっていないということの逆説的言及となっているはずだ。

 主体的に学んでいるように見えても、教師が伝える知識・情報を伝えるままになぞり暗記する教育となっている。自分から考え、自分から学んで、自分なりの知識・情報へと発展・向上させる教育とはなっていない。

 勿論、意欲を持ったとしても、様々な能力があるうちで、得手不得手がある。何を取り組むについても、意欲を持って取り組む姿勢が必要であることを言い、そういった姿勢を常に求めるめるべきであろう。

 主体的要素としてある、あるいは自発的要素としてあるこの「意欲」、一生懸命に取り組む必要性を安藤は自分では気づかないままに間接的に指摘している。

 「人間というのは生きていく力というものを含めて、教えられるものと教えられないものとがある。学校教育で全部言われることはできないわけです」

 教師が不可能であるにも関わらず、すべてを一つ一つ教えようとするから、無理が生じる。生徒に自分から考え、自分から学ぶ姿勢――意欲を持たせることによって、教師が教えることができないことで生徒自身が必要とする事柄(知識・情報、その他)は生徒が自分から埋めていく。結果として教師はすべてを教える手間を省くことができる。生徒自身の自分から考え、自分ら学ぶ主体的な発展性、自発的発展性に期待することによって「生きていく力」が自ずと身についていく。

 続けて安藤は、「子どもが自分でモノを判断する力とか、勇気とか教えられるものではないが、取れる時間ない、勉強、勉強、勉強と。意識朦朧としているんですよ、子どもは」と、学校では教えることができない「自分でモノを判断する力とか、勇気」とかを勉強ばかり押し付けられて子どもが学ぶ時間がないと言っているが、「自分でモノを判断する力とか、勇気」は自分から考え、学ぶ主体的姿勢――意欲が解決する課題であろう。何事も一生懸命取り組もうとする努力する姿勢が否応もなしにあれこれと考えさせて、「自分でモノを判断する力」がついてくる。「勇気」にしても、自分から取り組んで色々と失敗を乗り越えたり、成功を収める試行錯誤によって自然と勇気がついてくる。

 教師に教えられるままに教えられたとおりのことを暗記していくだけでは「自分でモノを判断する力とか、勇気」とかはついてきてはくれない。

 宋文州が、「ゆとり教育は発想は全然いいと思う。今からそれを実現するための具体論をやらなければならない」と言うと、寺脇が、十年前の日本の学校は教育で教科書に書いてあることとか、文部省の学習指導要領に書いてあることだけがすべてだった。それを変える勇気が必要だと答えている。

 教育で教科書に書いてあることとか、文部省の学習指導要領に書いてあることだけをすべてとするとは、それらを絶対的権威と看做して、一から十までそれに従うことを言うが、この絶対的権威に対する無条件の受動性自体が権威主義教育・暗記教育の構造そのものの体裁となっているのであって、現在も日本の教育が権威主義教育・暗記教育となっている以上、十年前の日本の学校風景では決してない。

 それを変えるには勇気以上に日本の教育がどういう構造を取っているか自覚することが必要となる。 

 宋が「乙武さん、先生を教えればいい」と言ってみんなを笑わせたが、このことに対して慶大教授の清家が、「バランスの問題だと思う。多様性とか個性は勿論大切だと思う。その基礎にしっかりとした学力がないと、あくまでも多様性とか個性はあるものを勉強した上で、自分なりの個性とか、あるいは自分なりの多様性とか出てくる。そういう面で、小学校とか中学校という義務教育のところは、むしろ国がお願いしてしっかり勉強してもらう所ですから、そこはレベルを平均的に底上げするという考え方は正しいと思う」と、基礎学力の上に多様性と個性を築き上げるバランスが必要だと指摘している。

 安藤が指摘する「優秀な、学校だと言うだけでは。優秀な学校だと言われている学校だけれども、先ずは自分から一歩踏み込むことはしないから、言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」若者像は清家が言う「学力」ある元生徒だったはずだが、その上に築かれるとする「多様性とか個性」は一切排除した姿を取っている。基礎学力の上に多様性と個性が築かれるとする主張との矛盾を清家はどう説明するのだろうか。

 また清家の主張を裏返すと、今の子どもは基礎学力が十分に身についていないから、多様性、個性に見るべきものがないということになる。だが、意外と先生の言うことを真面目に聞いてせっせと暗記教育に励み、テストの成績のよい勉強ができる子は多様性、個性は感じなく、勉強はできなくても、山や川や海といった自然の中で良く遊ぶ子に多様性、個性を感じる。

 遊ぶ子は一つの方法でばかり遊ぶと飽きてきてつまらなくなるから、遊ぶ方法を常に考える。あるいは新しい遊びに挑戦したりする。挑戦するには危険でない方法、どういった方法で行えば目的とした遊びを実行できるか瞬間瞬間に考えながら遊びを進めていく。また、うまくいった遊びでも、こうしたらもっと面白くなるかな、もっと楽しめるかなと工夫して、遊びの方法を修正するといったこともある。

 この傾向は個人的な見方ではなく、一般的な見方としてある傾向であろう。基礎学力の上に多様性と個性が築かれるとする主張とは全然整合しない清家の主張となる。


    ――以下続く――

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