2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(1)

2010-09-23 04:35:12 | Weblog

 2010年7月11日(日曜日)フジテレビ放送の「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を聞いていて、ゲストの著名な各識者の主張に核心を突いている発言が確かにあるものの、ズレていると思える箇所も見受けられた。番組の一部分を省略したが、ほぼ全体を文字化して、自分なりに日本の「教育とはナンだ」を前々からの印象も含めて改めて考えてみた。

 尤も私なりに感じたズレであるから、第三者から見た場合、私自身のズレかもしれない。長文で制限文字数に入りきらないゆえ、7回に亘って掲載することにした。途中、この記事とは全然関係ない時事問題を挟むかもしれないが、悪しからずご容赦。
 
 最初に断っておくが、前々から言ってきたことだが、誰が何と言おうと日本の教育は暗記教育を教育形式としている。このことは吉田アナが「ゆとり教育」の目的を、「多くの知識を教え込む詰め込み、暗記力を重視する教育から、個性を生かし、自ら考える力を養う教育」への転換と説明するところで、逆説的に日本の教育が暗記教育となっていると言っているし、小学校教師を3年間務めている乙武洋匡氏自身もこの番組の中で言っていて、証明していることでもある。

 このことをしっかりと自覚して、暗記教育であることを出発点として教育問題に当たらないと、何を議論しても前進しないことになる。なぜなら、日本の教育の様々な問題点は暗記教育を土台として発生していることになるからだ。

 暗記教育は何を発生原因としているかと言うと、このこともHPやブログで前々から言ってきていることだが、日本人が伝統的に行動様式・思考様式としている権威主義を成り立ちの基としている。教師と生徒との関係を上下関係に規定して知識・情報の伝達・受容に於いてもその他あらゆる指示に関しても、上の教師が下の生徒を機械的に従わせ、下の生徒が上の教師に機械的に従う権威主義の構造を取るためにそこに教師が伝える知識・情報、その他指示に対する生徒の機械的なぞりが発生し、必然的に暗記教育の形式を取ることになる。

 なぞり覚えるは暗記の別名でもある。そこにあるのは機械性を持った記憶である.

 ゆえに暗記教育を権威主義教育とも言い換えることができるはずである。教師が伝える知識・情報を権威と看做し、それに従う。なぞって、暗記し、教師の知識・情報のままに機械的に自分の知識・情報とする。

 当然、生徒に於いて知識・情報の画一化、平均化が発生する。違いは多く暗記しているかいないか、暗記能力に応じた暗記量の違いしか出てこないことになる。

 教師の知識・情報をそのままの形・内容で生徒自身の知識・情報とする伝達形式はその中間に教師の知識・情報に対する生徒自身の側からの思考に関わる濾過・咀嚼を何ら置かないことを意味する。生徒自身の側からの思考に関わる濾過・咀嚼とは生徒自身が主体的に自分なりの考え・思考で以って教師の知識・情報を解釈し、自分なりの知識・情報へと主体的に消化・発展させることを言う。

 逆説するなら、教師の知識・情報を生徒が受容する中間過程に生徒自身の側から主体的に思考に関わる濾過・咀嚼の工程を置いて自分なりの知識・情報へと消化・発展させた場合、その知識・情報は暗記知識でも暗記情報でもなくなる。

 いわば暗記教育は生徒が自分なりの考え・思考で教師の知識・情報を主体的に(=自分から)濾過・咀嚼することを阻害要因として成り立つ。暗記教育は生徒の考える力を養う教育形式ではないということである。考える力をつける教育は暗記教育ではなくなる。

 主体性という点でのみ説明すると、生徒が自分から学ぶ、自分から考える主体的姿勢を取る学習のプロセスを暗記教育(=権威主義教育)は構造としていない。そのようなプロセスを備えていたなら、同じように暗記教育(=権威主義教育)でなくなるからだ。あくまでも教師が与える知識・情報を生徒がなぞり暗記する非主体的・受動的学習のプロセスを取る。それが権威主義教育であり、暗記教育である。

 日本の政治体制、官僚体制が中央集権と言われるのも中央を上に位置づけて、下に位置づけた地方を従わせ、下の地方が上の中央に従う権威主義の行動様式・思考様式を構造としているからなのは断るまでもない。日本人全体が権威主義の行動様式・思考様式に絡め取られているから、教育にしても、政界、官界の組織・体制にしても、その他、上が下を従わせ、下が上に従う上下の力関係に従った意思伝達で何事も推移することになる。

 上下の関係を取った者が対等に意見を闘わすことは、会議の場等のそれが前以て許されている形式を取っている場以外、先ず存在しない。下の者が対等な意識で意見を言うと、上の者は下の者を生意気だと把え、下の者は上下関係を気まずくしないために上の者の言うことを聞いて置けば無難だといった態度を取ることになる。

 教育について論ずるどの場面でも、誰もが「基礎学力」の必要性を訴えるが、例え基礎学力が身についたとしても、それが暗記教育に則った基礎学力の授受であるなら、教師が伝える基礎学力を単になぞって暗記する形式を踏んだ基礎学力に過ぎないことになり、考える力への発展に役立つとは思えない。単に基礎学力がついていると言うことだけで終わるだろう。

 その視点なく、誰もが基礎学力だ、基礎学力だと基礎学力の必要性を訴える。

 前置きはここまでにして、2010年7月11日(日曜日)フジテレビ放送の「新報道2001」の文字化記事を掲載、次いで出席者のそれぞれの発言に批評を加えながら、自身の考えを伝えたいと思う。ゲストの著名な各識者の敬称は略させてもらう。

 【レギュラー出演】 須田哲夫アナウンサー、吉田恵アナウンサー。

【ゲスト】

 乙武洋匡(34歳)――(おとたけ ひろただ)早稲田大学を卒業後スポーツライターに就く。2005年学校教諭免許状を取得するために、明星大学通信教育課程人文学部へ学士入学、2007年2月に小学校教諭二種免許状を取得。同年4月より杉並区任期つき教員として杉並区立杉並第四小学校に勤務。(Wikipedia

 安藤忠雄(68歳)――建築家。

 宋文洲(47歳)――中国国籍。北海道大学大学院卒業。ソフトブレーン株式会社創業者。現在は同社マネージメント・アドバイザーだとか。

 寺脇研(58歳)――東大卒、文部省入省、ゆとり教育推進。2006年文部科学省を退官。現在京都造形芸術大学で芸術論担当。

 清家篤(56歳)――慶應義塾大学 商学部教授。

 テーマ『答のない時代 教育とはナンだ?』

 須田哲夫アナ「3年間の教師生活を経験している。今の教育現場に於ける自分の経験の中で一番足りないと思ったのは何ですか」

 乙武洋匡「教育現場で凄く感じたことは子どもたちが自然と傷つく場面を奪ってしまっている。杞憂ばかり、ああなったろどうしよう、こうなったしまったら困ってしまうっていう。

 子どもが挫折したら、自然と傷ついたりという場面をなるべくなくそうとしている」

 須田アナ「自分が傷つかないと、どういう状態になってしまうのですか」

 乙武「バレンタインデーは絶対チョコレートを持ち込んではいけない。で、昔だったら、多少その日ぐらいいいんじゃないのっていう感じはあったが、なぜいけないのかお聞きしました。貰えない子がいるのは可哀想だと。

 でも、ボクはいいと思う。貰えない子は、あ、俺、もてないんだと。そこで傷ついて、じゃっ、もっとモテるようになるにはどうしたらいいんだろうとか。あいつはモテるのどうしてなんだろうと考え、もっと自分を伸ばそうとか思ったりすると思う。

 そうやって傷つく機会をどんどん奪っていくから、自分を伸ばしていくとか、自分の足りないとこを気づくという経験が足りていないのではないかと・・・」

 吉田恵アナ「守られ過ぎているんですね?」

 乙武「3年生と4年生を担任しています」

 須田アナ「今のそういう状況から、安藤さんがよくおっしゃるチャレンジ精神、それが失われていくんでしょうかね?」

 安藤忠雄「チャレンジする、失敗しますから、できるだけ失敗しない子をつくろうと。いわゆる戦後の教育をしてきたから、民主主義の教育も平均で、まあ、レベルの高くというよりはレベルの低く、優しい子ばかりってきましたから、生きていく力は全然ないじゃないですか?

 乙武さんが言っていたように貰えない子は考えると。貰えない子はどうするんだというところから始まっているから、・・・(かすれ声で聞き取れない)」

 須田アナ「安藤さんところに優秀な新人が入ってきたそうですが、如何ですか、期待度は?」

 安藤「優秀な、学校だと言うだけでは。優秀な学校だと言われている学校だけれども、先ずは自分から一歩踏み込むことはしないから、言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」

 須田アナ「そしたら、どんどん言うんですか?どうなんですか?」

 安藤「私はどんどん言います。朝からバンバン言いますが、掃除ひとつできない」

 吉田恵アナ「言い続けていくと、どの方向にどんどん変わっていくのですか?」

 安藤「ちょっと遅いですけどね、大学出ていたら、24でしょ?」

 須田アナ「へこたりませんか、安藤さんの強い言葉にパッパと言われると」

 安藤「大阪弁で喋る。何か恐怖感を持つらしいですよ」

 須田アナ「あの、社会に羽ばたくにはやはりチャレンジ精神ですかね?」

 安藤「ですね。やっぱり強い気持ちを持たないといけないと思います」

 吉田アナ(フリップを取り出して)「今の教育はゆとり教育。寺脇さん中心となって、文部科学省時代に推し進めたものですが、多くの知識を教え込む詰め込み、暗記力を重視する教育から、個性を生かし(フリップに「個性重視」の文字)、自ら考える力を養う、という教育に変えるということを目的にしたのもですが、今年春卒業した方がゆとり教育を受けた第一世代ということになります。今のゆとり教育の効果、現場でどのように現れているのですか」

 フリップ――週5日制 脱偏差値 総合学習 個性重視 道徳教育・・・

 寺脇研「乙武さん、現場でおやりになっていると思いますが、ゆとりと言うと、緩くするとか、遊ばせるみたいな受け止められ方をしてしまっている。根っこのところはきちんと教育審議会とか、臨時教育審議会で長いこと議論して、決めてきたわけです。画一的にみんなで同じにとか、誰も傷つかないようにというような教育じゃなしに、個別教育、一人ひとりにできるだけ合わせていって、それぞれの能力を伸ばしていって欲しい。当然、自分の能力のある部分はチャレンジしていって欲しいということだった。

 今おっしゃったように、そうは言いながら、まだ2002年から始まって、今8年ですからね、本当はそれをずっと受けてきた子は中学生ぐらいです。今年卒業しているっていうのは、それは高校ぐらいで、ちょっとそこをかすってきたって言うぐらいですからね。もうちょっと様子を見てみないと、成功・失敗、簡単に結論出せる話じゃない」

 須田アナ「ゆとりは当時求めたものだと思いますが、それが反撥・抵抗も受けていますが?」

 寺脇「ゆとりというのは文学的で、あまり使うべきじゃなかったと思う。当時の議論ですから、しょうがないけど、むしろ画一から個別へという整理をきちんとしていっておけば・・・」

 須田アナ「画一的ではない、もっと個別教育が必要であるということがゆとり教育の根本であると」

 寺脇「根本なんですねー」

 須田アナ「宋さん、今の理念、聞いてどうですか?」

 宋文州「今の先生は自分たちが個性がないので、個性を教えるのに人間が教えるのではなく、環境づくりから始めなければいけない。お父さん、お母さん、先ず、個性がないでしょう?先生が個性もない。社会全体が個性がない。だから、さっき乙武さんがおっしゃったように、ああいう競争を許さない、格差を許さないような世の中の雰囲気では、絶対競争心を養えない」

 寺脇「そこが難しい。おっしゃるとおり先生や親だけじゃなしに文部省の役人もやっぱり古い考え方だし、教育委員会の人たちもそうだという中で、でも、子どもたちのためには変わっていかなければ。ところが簡単には変わらない」

 「教育は教育の限界を求めないと、教育は直らない」

 須田アナ「限界ですか?」

 「教育できないものがある。馬は川へ行きたくないのに川へ連れて行っても、仕方がない。つまり、意欲がないと教えられない。社員見ても、そうなんですよ。意欲のない人間に教えるよりも、意欲のある人間に教えた方が早い。評価に差をつけて、よく引き出しての教え(が必要)」

 須田アナ「何でも教育できると思ったら大間違いということですか?」

 「牛を馬に教育できない。牛を馬に教育するのが今の教育」

 須田アナ「今の宋さんの考えは如何ですか、安藤さん」

 安藤「人間というのは生きていく力というものを含めて、教えられるものと教えられないものとがある。学校教育で全部言われることはできないわけです。その前に親がしっかりと子どもに教育する部分と、それから学校が教える部分と。子どもが自分でモノを判断する力とか、勇気とか教えられるものではないが、取れる時間ない、勉強、勉強、勉強と。意識朦朧としているんですよ、子どもは」

 「ゆとり教育は発想は全然いいと思う。今からそれを実現するための具体論をやらなければならない」

 寺脇「変える勇気をどう思っているかです。今、乙武さんが、教壇に立ってやっていただけるっていうのも、十年前の日本の学校だったらあり得ない。つまり、外部の方は、ちょっとアレだと。やっぱり先生だけがやっていくんだと。教育で教科書に書いてあることとか、文部省の学習指導要領に書いてあることだけがすべてだと」

 「乙武さん、先生を教えればいい」(爆笑)

 吉田アナ「先生を教えることが必要だということですか。 清家さん如何ですか」

 清家「バランスの問題だと思う。多様性とか個性は勿論大切だと思う。その基礎にしっかりとした学力がないと、あくまでも多様性とか個性はあるものを勉強した上で、自分なりの個性とか、あるいは自分なりの多様性とか出てくる。そういう面で、小学校とか中学校という義務教育のところは、むしろ国がお願いしてしっかり勉強してもらう所ですから、そこはレベルを平均的に底上げするという考え方は正しいと思う」
 
 「それでて矛盾しないと思う」

 清家「それで高校とか大学のレベルでは、もっともっと多様性とか、個性が出てくるような――」

 須田アナ「小中の教育で考えると、寺脇さんはその辺は?」

 寺脇「実は高校、大学というのは学ぶ場ですよね。学ぶためには力が必要なんで、その力を小学校で教えると、中学校で教えると、それはもう一つ、当然ある。ただそればっかりやっていると、学ぶ意欲、さっき宋さんがおっしゃった――」

 「いや、ボクは、先生、申し訳ないですけども、逆なんですよ。個性は絶対、小ちゃいうちだと思っています。知識は死ぬまで勉強するもんですよ。だから、東大は卒業したら、勉強する力なくなっちゃうんですよ。勉強し過ぎて――」

 清家「確かにそういう面があると思いますが、個性というものが勉強し過ぎると全くなくなっちゃうかと言うと、必ずしもそうじゃない。むしろ問題なのは、今、大学生というのはむしろ授業をやめるようになっている。昔の我々の頃は授業によく出て、教師の言うことをよく聞いて、しっかり凄い出席して――」

 須田アナ「授業でつまんなかった記憶しかないですけど」

 清家「しかも昔ですと、みんな休講なんか喜びましたけど、休講したら、登校するんですかと、そういう、あれですからね、それはそれでいい面があるんですが、逆に高校や中学になると、同じような形で一生懸命勉強するというパターンが大学に来てしまって、むしろ大学生はもう少し授業は教授はこういっているけれども、本当にそうなんだろうかというような形で考える、そういうスタンスになってもらいたいって気がします」


    ――(以下、続く)―― 

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