2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(2)

2010-09-24 04:09:48 | Weblog

 ――気づいた二つの事柄――

 「ミレニアム開発目標」に基づいた日本の支援を「菅コミットメント」とする厭味な自慢臭

 自分自身が提唱した理念――国のリーダーがまず果たすべき役目とは、疾病、貧困、紛争といった不幸の原因をできる限り小さくするという「最小不幸社会」構築の理念はMDGs(エム・ディー・ジーズ)の理念に共通するもので、この「最小不幸社会」の理念に基づいて2015年期限の発展途上国貧困層割合半減等を目標とした「ミレニアム開発目標」の達成に向けて開発途上国の保健分野に2011年から5年間で50億ドルを、教育分野に2011年からの5年間で35億ドルを支援と国連総会で昨23日に演説、この支援を以て「菅コミットメント」と謳い上げているが、いくら「最小不幸社会」がMDGsの理念に共通していたとしても、今日の日本の存在は様々な外国や様々な外国人の関与を受けつつ、これまで生存してきたすべての日本人の様々な分野に於ける活動の変遷と積み重ねの総体としてあるもので、開発途上国向け支援の総額2011年から5年間で85億ドルはこのような今日の日本の存在から生み出された貴重な資金であって、今日の日本の存在が菅首相個人の総体としてあるものではなく、当然、開発途上国向け支援の総額2011年から5年間で85億ドルは菅首相個人の存在から生み出された貴重な資金と言うわけではないのだから、個人の名前を冠して「菅コミットメント」とするのではなく、「ジャパンコミットメント」とすべきではなかっただろうか。

 85億ドル、1ドル84円計算でも、7140億円にものぼる。これだけのカネを援助しますと言うとき、そこに自慢がないわけではあるまい。自慢と言って悪ければ、誇りがないわけではあるまい。これだけのカネを出すことができますよの意味を込めているのだから。

 「菅コミットメント」と個人の名前を冠したとき、これだけのカネを出すことができますという自慢、もしくは誇りは菅首相個人に帰することになる。

 一国のリーダーには今後の日本のために今現在何を為すべきかが何よりも問われる重要事項であるにも関わらず、演説の中に「私は厚生大臣時代、初めて薬害エイズ問題に於ける国の責任を認めました。そして、患者全員に謝罪し、和解しました」と例の如く過去の自慢を付け加えていることにも現れているが、総額85億ドルの開発途上国支援に「菅コミットメント」と個人の名を冠したことにどうしようもなく厭味な自慢臭を感じたのは私一人だけのことだろうか。 
 連勝で名を遺す力士と連勝を止めて名を遺す力士

 大相撲モンゴル人力士白鵬がかつての千代の富士が持つ連勝記録53をあっさりと抜いて、昨日の秋場所12日目で59に連勝を伸ばした。双葉山の69連勝に向けてとどまるところを知らない勢いを見せている。

 千代の富士の53連勝を抜いて54連勝を達成したとき、大相撲の国際化到達の象徴的出来事に思えた。双葉山の69連勝を抜いたとき、単なる伝統的競技に過ぎない大相撲を日本の伝統文化だとする独善的、大仰な価値観からの解放を象徴する出来事となるように思えて仕方がない。

 厳密に日本の伝統文化なら、日本人の血を受け継いだ力士にしか成し遂げることができない連勝記録としなければならない。

 日本の大相撲史に外国人力士が後世に名を遺す。もし白鵬が双葉山の連勝記録を破ったなら、日本人力士、外国人力士を含めて再び破る力士は二度と現れないように思える。

 例え双葉山の記録を破らなくても、次なる連勝記録者として大相撲史に十分に名前を遺すことになる。連勝記録者としても、さしたる成績優秀者としても名を遺せない現役力士にとって、逆に名を遺す方法は白鵬が双葉山の連勝記録を破る前にその連勝を止める力士になることであろう。大相撲史に名を遺す絶好のチャンスとも言える。

 横綱を倒す最短の位置にいる大関たる外国人力士や以下の地位の日本人力士がそういった意気込みを持って場所に臨んでいたなら、昨日の大関の不甲斐ない負け方を見なくて済んだだろうし、もう少し場所全体が緊張感でピリピリと張り詰め、盛り上がったはずだが、白鵬の連勝記録だけが淡々と伸ばされていくだけとなっている。

 親方たちは、白鵬のような記録で名を遺すチャンスがなければ、連勝を止めれば、止めた力士としてたった一度の勝負で大相撲に名を遺すことができるのだとハッパをかけるといったことはしないのだろうか。ハッパをかけているが、力士たちが誰一人乗ってこないということなのだろうか。

 前者なら、親方の指導がなっていないと言うことになる。後者なら、救いようがないと言うことになる。

 大相撲をスポーツの一種で、日本の伝統文化だと認めていない私自身は白鵬のフアンではないが、双葉山の69連勝を破って、大相撲を日本の伝統文化だとする価値観を打ち破って欲しいとは思っている。

 2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(1)の続き
 
 須田アナ「乙武さんは先生を、教師を教えればいいんじゃないかと意見がありましたが、同じ立場で親たちの気持も今の時代、変わっていった方がいいなと思う部分が随分あるんじゃないかと思うんですが、親の立場で如何ですか?」

 乙武「保護者の方ともお話をしていて感じたのは、自分のお子さんに完璧さを求めている。自分も息子が二人になったけど、彼らが育っていったときに多分アラが見えてくると思う。そのとき思い出したのは、自分が子どもの頃、そんな俺もできていなかったな、俺もここがダメだったなどと振り返ることで、だったら、彼のこういう欠点も認めてあげないといけないな、そういう視点が必要かなと思う。

 小学校で個性ということを教えるときによく授業で使われるのは金子みすずさんの『私と小鳥と鈴と』という詩があって、最後、みんな違って、みんないい、というところが、凄く有名になっているが、あの詩をよく読むと、私は小鳥のように速く飛べないとか。でも、小鳥は私のように速く走れないとか、私は鈴のように綺麗な音が出ない。でも、鈴は私のようにたくさんの歌を知らない。全部できないことの詩です。

 そういう意味で、個性というものは、勿論いいところを伸ばすということも大事だが、しっかりできないことを、コンプレックスと向き合って・・・」

 須田アナ「認めるんですね?」

 乙武「そうですね。そして自分と向き合うということをもっと大事にされていいと思う」

 「管理職なんですね。ダメな管理職程、自分ができなかったことで、僕らに求めるんですよ」

 (吉田松陰の教育論に入るが、省略。番組では素晴らしい教育だと持ち上げているが、それが事実だとしても、現在の日本の教育に生きていなければ意味はない。ノーベル賞を受賞した一人の素晴らしい才能を褒めたとしても、日本の教育が素晴らしいことにはならないことと同じ。)

 途中、安藤忠雄の声が入る。

 安藤「今の若い人は本当に過保護に育っているから、一から教えなあかん」

 (次に安藤忠雄が建築した広壮な幼稚園の教育を取り上げる。『野間自由幼稚園』。相当カネをかけた大きな建物。自由奔放がテーマ。芝生を敷いた広い庭、幅の広い長い廊下。その廊下の柱に一方の縄の端を結んで、もう一方の端を幼稚園教師が握って縄を回転させ、園児に縄跳びをさせたり、廊下で三輪車に乗ったり、子ども同士がぶっつかったり自由に遊ばせている。

 だが、カネのかかった広い敷地、広壮な建物は一般的な教育の場とはなり得ない。きっとそれ相応に通園料も高いだろうから、高額所得者の子ども専用の幼稚園といったところではないのか。親が高額収入の子どもは高学歴を得る傾向にあるという図式に幼稚園の段階で参加可能とする幼稚園の類ではないのか。)

 女性主任「小学校に行って、リーダーシップみたいな取っている子はうちの園の子が多いっていう話も聞きますが、逆に取り過ぎて困ると言うこともありますが」

 解説「環境を与えてやることで人は変わるのか」

 須田アナ「何が安全か、何が危険か、自然と学べるわけですね」

 安藤「子どもとのときにそういう体験のない子がすくすくと、いわゆる温室のようなところから育っていくと、私はちょっと問題があるじゃないかと」

 「本来、教育は二つの部分があって、一つは体験、一つは知識。どう教えても、日本は知識中心なんですね。体験はつくれないよね。先生も体験ないし、親も体験させたくない。そしたら、(知識だけを)一生懸命教え込むしかないんですよね」

 須田アナ「安藤さんのように世界に羽ばたく日本人、これも日本人に対する大きなテーマですよね。世界に羽ばたくには闘争心だと安藤さんはよくおっしゃいますが?」

 安藤「島国日本では国際化の中でやるには、自分を知って外国人を知ると。そして自分を知って、他人を知らないと国際化にならない。一番基本は自分がいて、他人がいると。そして日本があって、外国があると。必ずぶっつかりますから、(それを避けるような?――聞き取れない)ところありますね」

 「ボクの子どもは去年まで日本の小学校だったけど、この1年間の間中に小学校(日本の中国系小学校か、中国の小学校か?)に入っていて何が分かったかというと、本当に主張が激しくなる。先月食事に行って、前の人が片付いていないということで、うちの子どもがすぐ走って、『あの、お姉さん、これ片付いていない』。2年生ですよ。日本では絶対言いません」

 吉田アナ「中国の教育には詰め込み教育ではなく、コミュニケーションが――」

 「それは教育のせいじゃなくて、先生もそういう人間だし、友達もそういう人間。環境なんです。みんな言うから、言わないと何もできない」

 須田アナ「教育というものは環境なんですね?教えることじゃないですね。如何ですか、寺脇さん?」

 寺脇「大学での授業をやっていると、私のところは芸術大学だから、あんまり高校まで一生懸命やったんじゃないと思うんですがね。でも、私の授業は映画学科の学生さん。戦争映画の戦争、どうして戦争が起こって、どう歴史の中でなってきたのかって話をしますが、みんな分かるんですよ。よく、今の子どもは誰もそういうのは知らないっていう。俺たちね、教室ではあんまり聞いていなかったけど、映画見たり、小説読んだり、マンガ読んだり、爺ちゃん婆ちゃん聞いたりしているんで、日本がアメリカと戦争をやって、こういうことがあったというのみんな知っているな。そこで授業が成り立っていく。

 勿論、それだけで成り立つわけではないけど、単に教科書に書いてあったことだけ学んできて、そこでやることと、自分で選んで色々なものを見たり、学校以外の爺ちゃん、お婆ちゃんと、お母さん、近所の人たちとの話から、得たものを、大学でもっと、勿論、当然、そこではきちんとした理論でいくということだと思うんですけどね」

 須田アナ「乙武さん、小学校の教育現場にいて、今求められる人材養成には、どういうことが必要だと感じました?」

 乙武「先ずは3年間教員経験をして感じたのは子どもたちに、次はこれをやってみようと課題を提示したときに、必ず返ってくる言葉がある。『えー、無理、できなーい』。まだやってもいないうちから、もうそんなの無理だよっていう言葉が返ってくる。それが凄くもどかしい。勿体ないという思いがあって。先ずはチャレンジしてみて、それがダメだったら、方法を変えてみたり、色々試行錯誤する中で色々身についていうというものがあると思うが――」

 「でも、やる気、どうやって教える?」

 乙武「先ず一つは、大人がチャレンジした結果の失敗を責めないということだと思う。最初はやりたがるのが子どもだと思うが、それがやってみて、ダメだったときに、ダメだったじゃないかとか、何でこんなことになったのっていうふうに責められた経験があるから、チャレンジを恐れるようになってしまっていると思う」

 「会社の問題と一緒だなあ。同じことですよ。学校の教育の問題じゃない。何だか会社では管理職、先生になっていて、社員が生徒みたいに、僕は仕事としては見えますよ」

 寺脇「それはその通りですよ。さっき職員室の空気の話をなすったけど、先生方ができないって言っちゃっているし、それから我々大人も、日本がこんな状態になって、どうしていくのって、できないって言ってるんで、子どもだけが言っているわけじゃないんですよ」

 須田アナ「宋さん、会社の問題に置き換えていますが、そういう会社は伸びていかないですよ」 

 「伸びていかないですよ」

 須田アナ「これからの時代、どんな人材を育てるべきだとお考えですか。ちょっと大きなテーマですけど」

 清家「やっぱり大きな変化の時代ですよね。大きな変化の時代と言うのは、過去の延長線上でものを考えたり、問題を解決することではなく、新しい状況を自分の頭で理解して、そしてその理解に基づいて問題を解決する。実は吉田松陰の話が出ましたけど、同じ時期、福沢諭吉、私たちの大学の創設者なんですけども、福沢はまさに明治維新を経て、明治の維新の前と後の大きく変化する時代に生きたわけですが、そのときに状況を自分の頭で理解して、問題を解決するということをとても大切に、そしてそのとき頼りにしたのは実は学問だったわけです。

 つまり自分の頭で考えるっていうのは無から何かを考えることはできないわけで、何か考えるのは何か科学的なものの考え方、つまり問題を見つけて、その問題に何が起きているのかということについて仮説をつくって、その仮説を誰もが納得できるような方法で検証する、説明する。そういう能力ですね。

 ですから、今国際化と言われているが、国際的にも異質な人の中で自分を理解させるためにはやはり論理の仕方と、そしてその論理を実証する力、学問の力が益々大切になってくる」

 須田アナ「我々もどうやったら答が出るんだろうと考えてしまうが、生徒の中でですよ、それよりも問題を見つけると」

 清家「そうですね」

 須田アナ「それも発想の転換が必要ですかね?」

 「先生がおっしゃっているのはロジカルにシンキングですね。日本の最近の社会では、理屈じゃないっていう自慢する人がいるんですよ。何か理屈言うと、お前理屈っぽいぞと。私はよく言われたんですよ。異なる意見を認めるのはロジカルシンキングの始まりですね」

 清家「異質の社会で生きていくためには、以心伝心は通用しない。論理的に説明できて、この論理が客観的にちゃんと客観的に証明できる。それが自分が言いたいことを相手に納得させる唯一の方法だと思います」

 須田アナ「それ、安藤流の教え方とどうですか?得手不得手を認識させて、そこから奮起する」

 安藤「子どもには失敗したら、もうダメになるんじゃないかという恐怖心があるから、それは決して失敗させないというところから問題だと思う」

 「それで弱くなる候補ですよ」

 ――(中略)――

 乙武「親も教師もストライクゾーンを広げてあげることが大事だなあと。教師になる前にスポーツライターをやっていた。ダメなキャッチャーはそのゲームに負けると監督に怒られるのは自分だからということで、ピッチャーにお前は次はここに投げろ、次はここだぞ、細かにコントロールを要求して、その結果、ピッチャーは肩に力が入って、ボールがいかなくなる。

 逆に優秀なキャッチャーというのは、もう俺が責任を取ると、ドーンと広く構えてやるから、どこでも投げてこいというふうに構えると、以外にピッチャーは気持ちよく肩が振れて・・・・(吉田アナが言葉を挟んで聞き取れない。)

 今問われているのは教師も、親もそうだと思う、この子にはこうなって貰いたいというよりも、こうなっちゃあ困ると、こうじゃなくちゃ困るという、どんどんストライクゾーンを狭めていって、子どもを窮屈にさせてしまっているなっていうのを感じる。こんなところへ行っても、どんなとこへ行っても、どこでも受け止めてやるぞ、大丈夫だぞと、構えてやることでもっともっと自由に生きいきと自分の良さを発揮していけるんじゃないかなと思う」

 吉田アナ「実際3年間、先生をされていて、そのように子どもたちを自由にさせるように教えてらっしゃって――」

 乙武「当然、30人40人という人数で一人の教師が授業をするということだけを考えれば、確かにストライクゾーンを狭くしてその中にみんないてくれた方が楽ですし、効率的ではあるんですが、それでは個性を伸ばすことには全くならないので、ただ、教師が楽をするだけで、どんな暴投でも受け止めてやるっていうような、そういう広いストライクゾーンで子供たちと付き合うのは大切だと思う」

 須田アナ「確かにいい話なんですけど、寺脇さん、小学生、中学生のレベルで全体の学力のレベルの平均点を上げようと思うと、これは矛盾するのか、それとも、それが一番いいことなのか」

 寺脇「矛盾しますよね。だから、両方を何でも二兎でも三兎も得ようとするから、ややこしいんで、きちんと整理をしていかなければならない。さっき清家先生が言われたみたいにきちんとした基礎学力をつけるということは大事ですよ。だけど、それだけで終わるんじゃないよということをきちんと整理して、子どもや保護者にそれを言っていけばいい。

 それをどうしても日本の先生方だってね、本当は乙武さんみたいに情熱を持ってやりたいんだけども、数量的に管理させていく。学力テストの成績は何点だったとか、授業時間が何時間で増えたの減ったのだとか、教科書はページが増えたの減ったのみたいな、数字の面だけで言われてしまうので、マインドの面が表に出て来にくいところがある」

 清家「寺脇さんが言われたようにバランスの問題だと思います。ですから、もう少し基礎学力のところはもう少ししっかりやる必要があるし、それ以上のところについて、もっともっと自分で頭で考える能力を伸ばす。そのためには例えば大学生には卒業論文の中に入っていますが、もっともっと授業だけではなく、研究をさせる。つまり大学生というのは高校生のアレと違って、分かっている問題に答を出すのが勉強じゃなくて、問題を探すのが大学生ですから、一番大切な点で、基礎教育のところと高等教育のところのターゲットを分けた方がいい」

 「親が教育現場にあまり頼らないようにお願いしたいのですよ。教育で学校がやるもんだということはやめて欲しい。こうせいだとか。親が教えないと絶対無理だと思う。今の親を見ると、(口出しばかりしているから)先生なんか何もできないもの。乙武さん、(口出しされても)多分許してもらえるけど、普通の先生は全部親に気を使っているんですよ」

 寺脇「だから、学校を5日制にしたというのは別に学校の先生、学校の教育をさせるということではなくて、学校以外の時間を増やすことで、親も今までのようにほったらかしにはできないって思って貰おうということです」

 安藤「子どもの自由を奪っているわけですよ。親は子どもを怖がっている。先生は子どもを怖がっている。生徒の裏にいる親を怖がっている。子供と先生方と親がもっと自分たちの未来をこの子どもたちが、自分たちを支えてくれるんですから、そろそろ勇気を出さないといかんのは、親や先生です」

 寺脇「うまくいっていないというのは先生(安藤)のおっしゃるとおりなんですよ。つまり先生と親と子どもがやれみたいな話になって、先生でも親でも子どもでもない周りの政治家と官僚とか、あるいは企業のトップでもそうだけど、遠巻きに見ているだけで、お前らダメじゃあないかみたいなこと言っているけども、本当はこういうときこそ周りが先生もうちょっと大胆にやれよ、親ももうちょっとストライクゾーンを広げてみようと、それでも大丈夫だよと、メッセージを企業の側とか、社会の側から出していくべきときなんですよ」

   ――以下、続く――

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