《2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(5)》からの続き
(寺脇なりの“教育環境論”)
「大学での授業をやっていると、私のところは芸術大学だから、あんまり高校まで一生懸命やったんじゃないと思うんですがね。でも、私の授業は映画学科の学生さん。戦争映画の戦争、どうして戦争が起こって、どう歴史の中でなってきたのかって話をしますが、みんな分かるんですよ。よく、今の子どもは誰もそういうのは知らないっていう。俺たちね、教室ではあんまり聞いていなかったけど、映画見たり、小説読んだり、マンが読んだり、爺ちゃん婆ちゃん聞いたりしているんで、日本がアメリカ戦争をやって、こういうことがあったというのみんな知っているな。そこで授業が成り立っていく。
勿論、それだけで成り立つわけではないけど、単に教科書に書いてあったことだけ学んできて、そこでやることと、自分で選んで色々なものを見たり、学校以外の爺ちゃん、お婆ちゃんと、お母さん、近所の人たちとの話から、得たものを、大学でもっと、勿論、当然、そこではきちんとした理論でいくということだと思うんですけどね」
文部省だか文科省だかの役人をやっていて、しかも現在は曲がりなりにも大学教授。話し方が粗雑一方で、自分自身が「きちんとした理論」に則った話し方ができていないことに気づいていない。こんな粗雑な話し方の男を大学の教授としなければならない大学生は不幸だと思うが、それとも飾りっ気がなくて取っ付きやすいとでも思っているのだろうか。だとしても、知性をまるきり感じさせない話し方をする。
日本の教育に於ける資質の相互循環的な「環境」は権威主義を土台とした暗記教育の形式を取り、大人から子どもへ、あるいは子どもから子ども、逆に子どもから大人へと循環している「環境」なのだから、「学校以外の爺ちゃん、お婆ちゃんと、お母さん、近所の人たち」との人間関係にも当てはまる「環境」であって、教師から知識・情報を受け取るときの自らの考え・思考の濾過・咀嚼を通さない同じ形式を踏んだ「爺ちゃん、お婆ちゃんと、お母さん、近所の人たち」からの知識授受となった場合、他人の知識・情報をそのままの形・内容でなぞり暗記し、自分の知識・情報とし、知識量・情報量を増やしただけで終わりかねない。いわばそこに自分から考え、思考するプロセスを介在させない限り、「学校以外の爺ちゃん、お婆ちゃんと、お母さん、近所の人たち」から聞いた話として、単に知ったというだけのことで済ますことになる。
学校教育も、「学校以外」の教育も共にこの逆であるなら、今の子どもは考える力がない、言語力が欠如しているといった問題点を議論する必要はなくなる。
単に学校教育のみが権威主義教育・暗記教育となっているのではなく、日本人の思考様式・行動様式自体が権威主義の形式に則っている点を押さえなければならないはずだが、誰もが押さえずに話を進めているから、誰が議論しても、議論しただけのことで推移して、何も解決しを見い出せずに終わる。
学校社会も日本社会を形成する下位社会の一つなのだから、学校のみが権威主義の思考様式・行動様式を取るわけではない。逆に日本社会の権威主義的思考様式・行動様式の反映を受けて、学校という下位社会で教育、その他の人間関係が同じ権威主義の形を取って形成されていくに過ぎない。
須田アナが乙武に「小学校の教育現場にいて、今求められる人材養成には、どういうことが必要だと感じました?」と聞くと、乙武は「先ずは3年間教員経験をして感じたのは子どもたちに、次はこれをやってみようと課題を提示したときに、必ず返ってくる言葉がある。『えー、無理、できなーい』。まだやってもいないうちから、もうそんなの無理だよっていう言葉が返ってくる。それが凄くもどかしい。勿体ないという思いがあって。先ずはチャレンジしてみて、それがダメだったら、方法を変えてみたり、色々試行錯誤する中で色々身についていくというものがあると思うが――」と答えているが、この答の中にも日本の教育が権威主義教育・暗記教育となっていることの暗黙の示唆を窺うことができる。
権威主義教育・暗記教育は教師が伝える知識・情報を伝えるままになぞり暗記して自分の知識・情報とする教育であり、そこに生徒が考え思考するプロセスを用意してないから、教師が教えたことしか自分の知識・情報としていないため、教えた知識・情報に対しては暗記している限り答を引き出すことができるが、教えない知識・情報に対しては自分で考え、試行錯誤するといったチャレンジは不可能となる。
だから、安藤が言うように、何度でも同じ例を出して恐縮だが、優秀な大学を出ても、「先ずは自分から一歩踏み込むことはしない」ということが起きる。
いわば暗記教育に慣らされる余り、自分で主体的に考えて応用を効かす教育習慣を身につけていないために一旦教えたことを教えた範囲内でほぼ教えた通りに機械的に問う「課題」でなければ、「次はこれをやってみよう」と言ったとしても、ついていけないことになる。
チャレンジするという行為自体が人任せではない、主体性が深くかかわっている行為を指す。だが、日本の権威主義教育・暗記教育は自分から考え、思考するという生徒の主体性を排除した構造となっている。あるいは主体性を育てない構造を成している。
違う言葉で言い換えると、すべての知識・情報が教師の手を煩わせた知識・情報であり、前以て手を煩わせた知識・情報に対する問いや課題の提示でなければ、対応できないことになる。ここにあるのは生徒の主体性の排除そのものであろう。
そもそもからして、「それがダメだったら、方法を変えてみたり、色々試行錯誤する」という考えるプロセス自体が権威主義教育・暗記教育にはない工程だということである。
教師が、最初はこうやってみよう、次はこうしてみるといった具合に一つ一つ教えてリードする課題なら、いわば教師の一から十までの管理のもと行う課題なら、生徒はチャレンジすることができる。教師のリードをなぞり応じる非主体的対応・従属的対応は権威主義教育・暗記教育が最大の習性としている要素だからだ。
課題の提示に対する生徒のチャレンジ精神の欠如を訴えた乙武に対して宋が「やる気、どうやって教える?」と聞くと、「先ず一つは、大人がチャレンジした結果の失敗を責めないということだと思う。最初はやりたがるのが子どもだと思うが、それがやってみて、ダメだったときに、ダメだったじゃないかとか、何でこんなことになったなったのっていうふうに責められた経験がるから、チャレンジを恐れるようになってしまっていると思う」と乙武は答えている。
そういったこともあるかもしれないが、それ以前の問題として、教師が伝える知識・情報を丸のまま受け止めるのではなく、自分なりに主体的に考え、自身の知識・情報としていくことも教師の知識・情報に対する一種のチャレンジだということに留意しなければならないはずだ。
だが、日本の教育は何度でも言うようにそういったプロセスを用意していない。当然、主体的に自分なりに考えるという一種のチャレンジの習慣が身につかないことになる。考えるというチャレンジ精神が身についていたなら、それがどのような課題の提示であっても、そのことに対しても主体的に自分なりに考えるというチャレンジ精神を発揮するはずだ。
どう見ても、日本の教育が生徒自身が主体的に考え、思考するプロセスを介在させない構造の権威主義教育・暗記教育となっていることが日本の教育の問題点のそもそもの出発点となっていると把えべきであろう。
勿論、このような指摘を的外れと見る者もいるだろう。
乙武の子どもがチャレンジして失敗しても大人は責めてはいけないとの説明に対して、宋が、「会社の問題と一緒だなあ。同じことですよ。学校の教育の問題じゃない。何だか会社では管理職、先生になっていて、社員が生徒みたいに、僕は仕事としては見えますよ」と答えている。
一頃、日本の教育は管理教育だと盛んに言われた。日本の管理は管理する側の上の者が自分たちの命令・指示どおりに下の者が動くことを最善とし、下の者も上の者の命令・指示どおりに動くことを最善と考える人間関係の構造を成していた。現在もそう変わりはないはずである。
この構造はまた、下の者が主体的存在であることを否定する構造となっている。主体的存在であったなら、命令・指示どおりの相互関係を壊すことになるからだ。
この構造自体が権威主義教育・暗記教育の構造そのものに重なる。一頃盛んに管理教育、管理教育と言われたが、管理教育イコール権威主義教育・暗記教育なのである。知識・情報の伝達だけではなく知識・情報そのものも管理された状態にある。
宋が前のところで、「違うことをやると、怒られるからですよ。私の子どもが短期留学行ったんですね。違うこと言ったら、先生に怒られるんです。こういうことを言ってくださいと言われたんですよね。多少違うこと言っていいですよと言ったら、先生には色々と言われても困りますと言われた」云々と言っていたことがこのことに当てはまる。教師が知識・情報に関しても生活指導に関わる行動に関しても教えたとおりに生徒が覚え、教えたとおりに答を出す管理した状態に置いているから、権威主義の文脈から言うと、従属させた状態に置いているから、教えたとおりから外れると教師の拒否反応に遭うことになる。
もし生徒がこの管理状態に対して自分で主体的に考え、思考するプロセスを介在させたなら、管理の構造そのものを壊し、日本の教育を権威主義教育・暗記教育ではないものとすることができる。
要はそういった構造の教育とするにはどういった方法を採ったらいいか、そのことの議論こそが必要だと思うが、別の議論ばかりに走っている。
宋の学校の教師対生徒の関係を会社の管理職対部下の関係になぞらえて、部下の失敗に上司が怒るから、部下はチャレンジできなくなる、会社と一緒だとの指摘に対して、寺脇が、「それはその通りですよ。さっき職員室の空気の話をなすったけど、先生方ができないって言っちゃっているし、それから我々大人も、日本がこんな状態になって、どうしていくのって、できないって言ってるんで、子どもだけが言っているわけじゃないんですよ」と答えているが、だとしたら、子どもの言動は大人の言動の反映としてある、そのヒナ型だと突きつめるところまで議論を進めなければならないはずだが、ここでも事象の表面的把握と表面的解釈で終わっている。
ここで須田アナが、「宋さん、会社の問題に置き換えていますが、そういう会社は伸びていかないですよ」と聞いたのに対して宋は「伸びていかないですよ」と答えているが、会社が伸びていかないことだけではなく、子どもが伸びていかないことまで把えなければならないはずだが、やはりそこまでの考察がない。
教師や親、いわば社会一般の大人が子どもの失敗を責めて萎縮させるから、子どもはチャレンジすることを恐れるようになって伸びない。では、子どもの失敗を責める大人の習性、と言うよりも日本人の一般的な習性はどのような行動様式から来ているのだろうかと突きつめていく考察がない。
何度でも言うように自分で考えて行動するということは主体的行動であって、上の指示・命令の管理で下が動くことは単に上に従って動く受動的行動だから、本人の主体的能力に関しては伸びしろは生じない。受動的行動は常に上の指示・命令を必要とする。そこから指示待ち症候群と言われるような行動傾向が生じる。
上の命令・指示を待ってから動く人間にチャレンジ精神は期待できない。自分で考えて動く主体的行動は自分で考えて動くゆえにチャレンジ精神も期待できることになるし、当然、主体的能力に関しても伸びしろを持つことになる。
当然、子どもが伸びない原因を管理教育=権威主義教育・暗記教育に原因を置かなければならないことになる。
須田アナの「これからの時代、どんな人材を育てるべきだとお考えですか」の問いに清家が答えている。繰返しになるが、一言一句再現してみる。
清家「やっぱり大きな変化の時代ですよね。大きな変化の時代と言うのは、過去の延長線上でものを考えたり、問題を解決することではなく、新しい状況を自分の頭で理解して、そしてその理解に基づいて問題を解決する。実は吉田松陰の話が出ましたけど、同じ時期、福沢諭吉、私たちの大学の創設者なんですけども、福沢はまさに明治維新を経て、明治の維新の前と後の大きく変化する時代に生きたわけですが、そのときに状況を自分の頭で理解して、問題を解決するということをとても大切に、そしてそのとき頼りにしたのは実は学問だったわけです。
つまり自分の頭で考えるっていうのは無から何かを考えることはできないわけで、何か考えるのは何か科学的なものの考え方、つまり問題を見つけて、その問題に何が起きているのかということについて仮説をつくって、その仮説を誰もが納得できるような方法で検証する、説明する。そういう能力ですね。
ですから、今国際化と言われているが、国際的にも異質な人の中で自分を理解させるためにはやはり論理の仕方と、そしてその論理を実証する力、学問の力が益々大切になってくる」
須田アナは「これからの時代、どんな人材を育てるべきだとお考えですか」と聞いた。それに対して「新しい状況を自分の頭で理解」する、「その理解に基づいて問題を解決する」、「科学的なものの考え方」をする、「問題を見つけて、その問題に何が起きているのかということについて仮説をつくって、その仮説を誰もが納得できるような方法で検証」できる人材を育てるべきだと指摘したのだろう。
だが、その結論として、「国際的にも異質な人の中で自分を理解させるためにはやはり論理の仕方と、そしてその論理を実証する力、学問の力が益々大切になってくる」と学問の力を借りた論理術、実証能力の必要性を訴えているが、清家の前の発言と合わせて全体として見た場合、学問の必要性の訴えとなっている。自分が挙げたような人材が学問をどう役立てたなら育成することができるか、学問がどのように役立つのかの具体的説明がない。
あるいは日本人一般の国際化の未熟が言われているが、これからの時代必要とされる人材の育成になぜ今までの学問が役立っていないのかの考察もない。役立っていないからこそ、学問の必要性を訴えなければならない状況にあるのだろう。役立っていない根本原因を突きつめないことにはいくら学問の必要性を訴えたとしても、学問が役立たない状況は続くことになる。
いくら学問が必要だ、必要だと言ったとしても、自ら考え、思考するプロセスを欠いた日本の権威主義教育・暗記教育で自ら考え、思考する能力・習慣を欠いたまま幼保、小中高と育った人材に大学でいくら学問したからと言って、清家が言っているご大層な講釈を吹き込もうと、特別な例外を除いて釈迦に説法、的外れな主張で終わるのは目に見えている。
現在の子どもが考える力が不足している、思考能力・言語能力に欠けると言われている。その原因は日本の教育のどこから、何からきているのか。それが「問題」であり、それを解き明かして解決することが番組のテーマである『教育とはナンだ』に答える何よりの必要事項のはずである。解決した上で、清家が滔々と喋った御託が初めて展開可能となるはずだ。
考えないで育った生徒はいくら高尚な学問に親しんだとしても、表面的な理解、昔の西洋の高名な知識人がこう言った、ああ言ったとなぞるだけで終わりかねない。
清家自身にしても、「新しい状況を自分の頭で理解」する、「その理解に基づいて問題を解決する」、「科学的なものの考え方」をする、「問題を見つけて、その問題に何が起きているのかということについて仮説をつくって、その仮説を誰もが納得できるような方法で検証する、説明する、そういう能力ですね」と頭でっかちの人間なら誰もが言うような、単に必要とする能力を表面的に羅列したに過ぎない。表面的な羅列は表面的な理解が仕向ける。
教師が生徒に伝える知識・情報を教師の解説どおりに記憶させる、暗記させるのではなく、少しでも生徒に考えさせて生徒自身の知識・情報に持っていけるようにしていく。一度自分の頭で考えるようになれば、後はその積み重ねと発展である。教室以外で得た知識・情報に対しても自分の頭、考えを通して把握し、曲りなりに自身の知識・情報に変えていく。その積み重ねが考える能力を発展させていく。思考能力・言語能力を獲得していく。自身の力による、表面的ではない「理解」と「解決」のプロセスを踏むことが可能となる。
非常に単純なことがだが、日本の教育が権威主義教育・暗記教育となっていることが原因の障害であると気づかないから、単純なことも解決できず、今の子どもは考える力が不足している、思考能力・言語能力に欠けると嘆き節を続けることになる。原因を突き止めることができないために、この手の嘆き節に添った堂々巡りの議論しかできない。
清家の場合は、学問、学問と言いながら、学問が何ら役に立っていない状況を言い立てているに過ぎない。
教師が知識・情報を全部提供して丸呑みさせるのではなく、子どもに考えさせて次のステップに進むという学び、教えを幼稚園・保育園の頃から辛抱強く踏んでいけば、子どもは自分で考える習慣が身につき、最初は時間がかかっても、成長するにつれ、一から十まで、何から何まで教師が管理する形式で必要な情報を上から与えて与えたとおりに記憶させる、あるいは暗記させる手間を省くことができる。生徒は自分で考えて受け止めていくようになるからだ。教師の説明の後についていく子どもの理解がときには教師の先を行くことも可能となる。
教師が伝える知識・情報を生徒がまるのまま暗記する教育では、生徒の理解が教師の先を行くことは不可能である。教師の知識・情報と同じ知識・情報を暗記能力に応じて生徒は自分の知識・情報とするだけだからなのは既に何度となく言ってきた。
この状況は大学に於いても同じであろう。大学生が幼保、小中高生が育った姿だからだ。
知識・情報を自分で考えて受け止めることによって、そこに自ずからさまざまな問題点を見つけることができる。問題点が見つかれば、解こうという欲求が湧く。その繰返しによって、主体的に思考し、主体的に行動する人間が生れてくる。
清家が言っている、「自分の頭で考える」とか、「問題を見つけ」る、「検証する」といった思考行為に相当するプロセスであろう。主体的思考に裏付けられた主体的行動の成長が大学で学問を学ぶことによって「科学的なものの考え方」への到達を導く。
――以下続く――