《2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(6)》の続き(最終章)
乙武が、親・教師がこうなって欲しい、こうなっては困るとうるさく指示して子どもを窮屈にするのではなく、少しぐらい失敗してもいい、親が責任を取ってやるとストライクゾーンを大きく構えて、子どもがもっと自由に生きいきと自分の良さを発揮できるようにすべきではないかと忠告を与えている。
管理教育イコール権威主義教育・暗記教育だと先に触れたが、乙武のこの忠告は非管理教育のススメを示している。親・教師は子どもをこうなって欲しい、こうなっては困るとうるさく管理するのではなく、子どもがもっと自由に生きいきと自分の良さを発揮できるように管理から解き放つべきだとの非管理のススメである。
非管理のススメは同時に権威主義教育・暗記教育からの解放のススメとなる。
改めて言うと、管理とは上の者が下の者の行動を上の者の思い通りに指示通りに支配、もしくは規制することを言う。当然、下の者は上の者の指示通りの支配、もしくは規制を受けて行動することになるから、そこでは子どもが主体的存在として自分で考えて行動する独自性確保の余地を許さない。
逆説するなら、親・教師は子どもを管理することによって、子どもを非主体的存在として閉じ込めて置くことになる。非主体的存在からはそれぞれが独自性を必要とする考える力も個性も育つはずはない。
管理教育イコール権威主義教育・暗記教育だから、当然、権威主義教育・暗記教育にも言えるそれぞれの姿となる。
そのことを乙武は次に言う。
「当然、30人40人という人数で一人の教師が授業をするということだけを考えれば、確かにストライクゾーンを狭くしてその中にみんないてくれた方が楽ですし、効率的ではあるんですが、それでは個性を伸ばすことには全くならないので、ただ、教師が楽をするだけで、どんな暴投でも受け止めてやるっていうような、そういう広いストライクゾーンで子供たちと付き合うのは大切だと思う」と。
管理ではなく、できるだけ子どもの主体性に任せる非管理のススメを説いている。本人は気づいていなくても、このことは権威主義教育・暗記教育からの解放のススメともなる。
個性は自分から考えることから始まる。自分から考えることが既に主体的存在となっていることを示している。考える習慣が身につき、自分なりの考えに従って主体的に行動し、主体的に思考すること自体が既に個性の提示となっている。
このような主体性の積み重ね、主体的思考と主体的行動の積み重ねによる思考と行動の深まりがそこに自ずと個性を際立った方向に導いていく。
こういった経緯からすると、いわゆる“個性を伸ばす教育”を心がけるのではなく、日常普段の授業の中で生徒が自ら考える機会が持てるような“考える教育”を心がけることが個性教育の必須条件となる。“個性を伸ばす教育”と称して、上からの管理で知識・情報を与え、生徒がそれを自ら考え、思考して受け止めるのではなく、与えられたなりになぞり暗記して自身の知識・情報とする権威主義教育形式・暗記教育形式の“個性を伸ばす教育”なら、個性は何ら期待できないことになる。
親、教師、大人が、ああしなさい、こうしなさいとボールを投げて、ああしなさい、こうしなさいどおりに子どもがボールをキャッチしていたのでは個性は育つ余地を与えない。
要するに知識・情報、行動まで管理する管理教育からの解放、知識・情報、行動までなぞらせるストライクゾーンを固定した権威主義教育・暗記教育からの解放が求められていると言うことでなければならない。
乙武のストライクゾーンの話に対して須田アナが、「確かにいい話なんですけど、寺脇さん、小学生、中学生のレベルで全体の学力のレベルの平均点を上げようと思うと、これは矛盾するのか、それとも、それが一番いいことなのか」と質問したのに対して、寺脇が、矛盾するが、基礎学力は大事であるものの、それだけで終わらないことをきちんと整理して子どもや保護者に言っていけばいいと分かったような分からないようなことを言っている。
基礎学力だけで終わらないのは極々当たり前の話で、わざわざ言うことではない。言うべきことは、基礎学力自体が暗記教育をベースとした学力となっていて、生徒に自分で考え、思考する機会を用意していないから、基礎学力から応用学力への発展を困難にさせているということであろう。
その点を把えた議論がない。
もし基礎学力が生徒が自分で考えて思考するプロセスを踏んだ学力であるなら、自身の考え、思考を自分自身でさらに拡大、広範囲化させていき、基礎学力自体を応用学力へと自分から発展させていくはずである。だが、全然そうはなっていない。
応用する能力、応用能力を備えたなら、教師、親からの知識・情報だけではなく、誰からの知識・情報からでも、テレビ・ラジオ、マンガ、雑誌からの、あるいは街で目に把える知識・情報からでも、そこに自分なりの思考を置くこととなって、与えられたなりに受け止めるのではなく、その思考を通した自分なりの知識・情報へと持っていくことができるようになる。
肝心のことに気づいていないから、当然、「それだけで終わらないことをきちんと整理して」と言っても、見当違いのことを言っているに過ぎないことになる。
寺脇が「学力テストの成績は何点だったとか、授業時間が何時間で増えたの減ったのだとか、教科書はページが増えたの減ったのみたいな」“数量的管理”が行われることになって、「マインドの面が出にくいところがある」と言っていることも、本質的な問題点がどこにあるのか気づいていないから、日本の教育がなぜ“数量的管理”を優先する教育となっているのかまでの追究がないまま、日本の教育に対して単に表面的な観察を一通り言及しただけのことで終わることになる。
日本の教育が機械的暗記教育で成り立っているために、その機械的性格に対応してその成果を機械的にテストで問い、その点数のみで生徒の能力を機械的に評価する、最悪生徒の人間性までテストの成績で価値づける“数量的管理”が行われることになっている教育構造をまで問うことをしない。
また、“数量的管理”はこういったことだけで終わらない。“数量的管理”にしても“知識・情報管理”と同様に考えるプロセスを省いていることによって生じている双子の管理形式となっていることを自覚的に把握しなければならない。例え教科書が薄くても、生徒が自分から考えて自分自身の知識・情報に高めていけば、それぞれの生徒の中で知識量・情報量が増えることになって、教科書の中の知識・情報は見えないところで増えていることになる。教科書の薄さは問題ではなくなる。
知識・情報を一から十まで管理して段階的に暗記させる権威主義教育・暗記教育となっているから、多くを学ばせようとすると教科書を厚くし、授業時間を増やさなければならなくなることは既に書いた。
教科書が薄ければ、その薄さに応じた少ない知識量・情報量に対応して生徒の暗記知識量・暗記情報量も少なくなる。暗記能力も個人差があるから、不得手の子どもはさらに知識量・情報量が少なくする。
逆により多く覚えさせるとなると、1+1=2の教育で、1+1を生徒それぞれが自分で考えて3にもし、4にもする教育でないから、知識量・情報量を増やそうと思えば、1+1=2を2+2=4とか、3+3=6と順を追って与える知識量・情報量を順次機械的に増やしていかなければならないことになって、どうしても教科書を厚くし、厚くした分、授業時間も多くしていかなければならない。
結果、教える量に従って生徒が暗記する量はイコールか、それ以下の暗記能力次第の対応を取ることになる。暗記している知識にしても、教師が伝えたとほぼ同じの意味・内容となる。
暗記教育を食堂のチェーン店の料理作りに譬えることができる。本部が決めた食材とその種類、調味料配合、作り方等のレシピに従って、煮たり茹でたり、炒めたり、油で揚げたり、本部が指示した方法と時間で各チェーン店が仕上げていき、それぞれの料理へとレシピに忠実に則って機械的に纏め上げていく。そこに料理を仕上げていく従業員の味への工夫、盛り付けの工夫等はすべて許されない。単に本部が指示したレシピに従うのみ、従属があるのみである。
レシピが暗記教育に於ける教科書か教師が伝える知識・情報に当たり、仕上がったレシピどおりの料理が生徒自身が暗記して獲得した知識・情報に当たる。間違えずに暗記さえしたなら、レシピ(=教科書、あるいは教師)が示す知識・情報と従業員(=生徒)が頭に暗記した知識・情報は何ら変わりはない。
料理に対して各従業員の味への工夫や盛り付けの工夫が許されないように、暗記教育では知識・情報授受の過程で各生徒がそれらに対して自分で考え、思考して自分なりの知識・情報へと向上させることを許さない。本来的にそういった機会を与える教育構造となっていないからなのは既に指摘した。
寺脇の意見に対して、清家教授が大学教授にふさわしい主張を開陳している。これも全文再現してみる。
「寺脇さんが言われたようにバランスの問題だと思います。ですから、もう少し基礎学力のところはもう少ししっかりやる必要があるし、それ以上のところについて、もっともっと自分で頭で考える能力を伸ばす。そのためには例えば大学生には卒業論文の中に入っていますが、もっともっと授業だけではなく、研究をさせる。つまり大学生というのは高校生のアレと違って、分かっている問題に答を出すのが勉強じゃなくて、問題を探すのが大学生ですから、一番大切な点で、基礎教育のところと高等教育のところのターゲットを分けた方がいい」
清家がここで殊更にわざわざ「問題を探すのが大学生ですから」と高校生との違いを断らなければならないのは、大学生がそういう状況の姿――高校生とは違う姿を取っていないからだろう。自分で考え、思考する習慣を与えない教育となっているのだから、当然と言えば当然と言える高校生とは違うことのない大学生の姿なのだが、しかし同時に「問題を探すのが大学生ですから」の指摘をそのまま裏返すと、“問題を探さないのは高校生まで”の指摘となる。
「問題を探す」には考える力が必要となる。「分かっている問題に答を出す」には考える力を必要としない。いわば高校生までは教師が伝える知識・情報を伝えるままに咀嚼する教育、考え、思考するプロセスを介在させない教育でいいとの権威主義教育・暗記教育の逆説的容認となっている。「問題を探すのが大学生ですから」と大学生に限定し、その限定から高校生を外して「分かっている問題に答を出す」としたのは、そういった教育でいいとの意味で言っているはずだ。
しかし大学生になってからは権威主義教育・暗記教育から離れて、「問題を探す」教育――考える教育をして欲しいと希望しているが、希望通りには大学生は「問題を探す」ところまでいっていない、高校生と同じだと指摘している。
大学生が置かれている状況を把握して指摘はするものの、やはり、ではなぜそうなっているのかの原因追究の姿勢がない。原因を追究しない限り、抽象的に「問題を探すのが大学生」と言い続けなければならないことになる。
基礎教育のところで生徒自身に考え、思考する機会を与えない教育となっていて、そのような基礎教育を受け継いで高等教育が成り立ち、そのことが原因で「問題を探すのが大学生」の姿を取ることができていないと言うことなら、「基礎教育のところと高等教育のところのターゲットを分けた方がいい」の提言も無意味と化す。無意味なことを言っているに過ぎないということである。
考える習慣を身につけていたなら、高校生の年齢で必要とされる知識・情報を自身の思考作用を通して自分なりの知識・情報へと高めていき、そういった経験を基に大学生の年齢で要求される知識・情報に対しても、同じく自分の思考作用を通して要求される以上に自分なりの知識・情報へと発展させていく経験を踏んでいくことになる。
ここで両者間に問題となるキーワードは“考え、思考するプロセス”であるのだから、求めるべきは生徒の側の思考作用の一貫的な発展性であって、教育する側の「基礎教育のところと高等教育のところのターゲットを分けた方がいい」といった教育形式ではないはずだ。
現役教師の乙武が日本の教育が生徒が自分で考え、思考する教育となっていないことを物の見事に言い当てる発言を行っている。
「僕が小学校で担任して最初に凄くビックリしたのは、子どもたちがトイレに行っていいですかって聞きに来るんですよ。つまり今休み時間なのにトイレに行っていいかと判断ができないし、国語のノートを取っていても、先生、新しいページにした方がいいですか、聞いてくるんですよ」
自分で考え、思考することによって判断能力は自然と身についていく。だが、休み時間にトイレに行っていいのかどうかも自分で判断ができない。教師が知識・情報の授受と同じように、「休み時間だから、トイレに行ってきなさい」と指示したなら、あるいは許可を求められて許したなら、暗記と同じ形式で、指示した、あるいは許可されたトイレに行くという行為を指示したとおり、許可されたとおりになぞることはできるだろう。だが、そこには教師の判断はあっても、生徒自身の判断は存在しない。
管理(=権威主義的行動様式)が知識・情報の授受だけではなく、授業とは関係のない生徒自身の行動にまで及んでいる姿をここに見ることができる。既に指摘したように生活指導に関しても管理教育となっている、権威主義教育・暗記教育となっているということである。
乙武は須田アナに、そのときはどう教えるのかと聞かれて、考える癖がつくように仕向けるといったふうに答えている。このことも日本の教育が考える習慣のないことの間接的な示唆となっているが、乙武はここで日本の教育が暗記教育であることを直接的に言及している。
「いいよって、一言言った方が僕も楽なんですが、それではいつまで経っても考える力がつかないので、今は何の時間?5分休みです。それはトイレに行っていい時間、ダメな時間?いい時間です。じゃあ行っておいで、と言うと、子どもたちも考える癖がついてくる。小学校で教えていて、これじゃあ子どもたちに考える力がついていないなと思ったのは、兎に角テストというのは教えたことを暗記して、それをテストのときに記憶から取り出してくるっていう作業ばっかりなんですね。ですから自分で考えるということが授業の中で普段の学習の中でなかなか行われていない」――
乙武はここで日本の教育の問題点を解決する方法を示唆している。「自分で考えるということが授業の中で普段の学習の中でなかなか行われていない」
「授業の中で普段の学習の中で」こそ、考える教育が行われるべきだとの指摘であろう。その実践の一つが聖徳太子の17か条の憲法に18条目を生徒に考えさせる授業だったはずだ。
当然、日本の教育の問題点を論ずる場合、日本の教育は暗記教育の形式を踏み、そこに生徒が考える作業・考えるプロセスを含まない、逆に排除している構造となっているということを把握した議論とならなければならないはずだが、なかなかそういう姿を取らない。
生徒が考える作業・考えるプロセスを備えた教育とするためには答は誰にも分かることだが、権威主義教育・暗記教育を廃止すること以外にない。だが、そのような廃止論が社会の中で優勢となる状況を未だ見ていない。日本の教育を語る議論の殆んどがこの番組も同じだが、表面的に観察して、表面的に解釈するだけで終わっている。
現役教師の乙武にしても、日本人の行動様式・思考様式となっている権威主義からきていて、それゆえに教師や親を含めた大人全体の行動と思考が関係している知識・情報の授受が原因だとまでは認識していない。
確かに聖徳太子の17か条の憲法をもう1か条加えて18か条とするなら、どういった条文を付け加えたいかとする授業はユニークで、生徒に考え、思考する機会を与えはするが、「みんな自分も18条目の憲法をつくってごらん」と教師の指示を受けて考え、思考するという形式はそれが教師の教えをなぞった知識、情報をそのまま答とする形式ではなくても、教師の指示に従う暗記教育の形式に則っていることに変わりはなく、教師の指示を受けなくても自発的に考え、思考して答を見い出す形式とは自ずと違うことを認識して、そのような形式に近づくよう常に心がけなければならない。
このことは、「そういう場を設定していくことが大事だ」からと言っていることにも当てはまる。そのような「設定」に励んだとしても、教師の指示を受けた「設定」であることに変わりはない以上、指示を与えなくても生徒自身が必要に応じて自分から考え、思考する主体的思考の習慣――自発的に考え、思考する習慣にまで高めることを心がける必要がある。
そのような形式に持っていくためには、乙武は「(答の)どちらも○にした。自分で考える力があれば、考えたことなら、どちらも等しく○なんだと思うんです」と自分の判断のみで○としているが、その判断に生徒自身が考え、思考する判断を介在させなければ、教師が○としたから、機械的に○だと受け止めた場合、権威主義教育・暗記教育形式の知識・情報の授受と変わらないことになる。それぞれの答を生徒同士で評価させる議論を加えたなら、生徒は自ずと自分の考えで判断することなり、「そういう場」の「設定」こそが自発性の判断能力の訓練の場となるはずだ。
「それでも半分ぐらいの子がノート白紙なんですよ。やっぱりしょうがないのかな」と言っていることは、教師から「18条目の憲法をつくってごらん」と指示を受けても、何も考えることができない子どもの存在を示している。
しかし答えた生徒の内容の議論を生徒同士で行うことで、白紙で出した答えない生徒も、ああ、こういった18カ条目もあるんだ、こういった18カ条目もあるんだと判断を伴わせて耳から学ぶはずである。
須田アナが聖徳太子の17カ条の憲法を常に17カ条としている日本の教育の画一性を前提に、「清家さん、画一的な、一歩脱皮するにはどうしたらいいんですか?」と尋ねたのに対して、清家は貴重な提言を行っている。再度全文再掲載。
「一つは学問というものを尊ぶ心を持って欲しいと思う。学問を通じて我々は真実を知ることができる。例えば一番分かりやすいのは昼夜の動きですよ。我々の普段の観察から言えば、太陽とか星が動いていて、地球が止まっている。真実はそうではない。地球が動いていて、動いているわけですよね。つまり天動説じゃなくて、地動説。
それを我々は天文学という学問を通じて真実を理解している。だから、先ず一つはそういう学問を通じて真理を理解できるということをきちっと押さえる。その上で、そういう学問をベースに自分は新たなセオリーを創り出すことができるんだというふうに考えていくことが大切だと思う。だから、自分の頭で考えることができる」
番組がテーマに取り上げていたことは学校教育の問題点であって、「学問を通じて我々は真実を知ることができる」とか、「学問をベースに自分は新たなセオリーを創り出すことができるんだというふうに考えていく」といった空論に近い大層なことではない。清家の議論は考える根を持たないにも関わらず、考える木が育つことを前提に推し進めているに過ぎない。
せめて幼保、小学校低学年で考える根を根づかせなければ、中、高学年、さらに中学校、高校へと向かって考える木の成長は期待できない。高校生までがそういう状態であるなら、当然のこととして大学生は考える根も持たない、考える木が育っていないままの状態で大学生の姿を取ることになる。だから、「問題を探すのが大学生ですから」と言わなければならなくなる。
大体が、「学問というものを尊ぶ心を持」つに至るには、自分で考え、思考する自発性の優れた判断能力を必要・前提条件としなければならないはずだ。「学問をベースに自分は新たなセオリーを創り出す」も同じであろう。ここで問題とされるのは当然のこと、「学問」ではなく、自分で考え、思考する自発性の判断能力であって、それなくして「学問」は存在しないに等しい。猫に小判であろう。
土台がないまま、大学生になっていきなり自分で考え、思考する自発性の判断能力を獲得できるわけがない。にも関わらず、清家は自分で考え、思考する自発性の判断能力を抜きにして、学問だ、学問だと言っている。学問を学ぶことによって、「新たなセオリーを創り出すことができるんだ」、「自分の頭で考えることができる」んだといったことを宣(のたまわ)っている。
では、単なる一般教育を学ぶに過ぎない、学問を学んでいるのではない小中高校生はどうしたらいいとい言うのだろうか。
土台となる前提を問題にしないで、それなくして成り立たない「学問」を問題としているに過ぎない。
子どもに如何に考える力をつけるか。思考能力、判断能力を如何につけるか。思考能力・判断能力がつけば、ゆとり教育が最終目標とした「生きる力」が備わってくる。そのためには一にも二にもなく、権威主義教育・暗記教育、あるいは管理教育から脱して、生徒自身が自発的に考え、思考するプロセスを備えた教育形式への変換が必要だと書いてきた。
その具体的な方法の一つがノートを取らない教育、さらに朗読劇の導入だと既に下記ブログに書いた。
《考える教育はノートを取らない教育から》
《考える教育は朗読劇から》
次のブログもほぼ同じ指摘を目的としているが、参考までに。
《テレビで放送していた小学生の工場見学に疑問を感じたこと》