インターネット記事で「日本維新の会」代表の橋下大阪市長が9月27日の記者会見で、靖国に祀られている先人に対する敬意の表明と戦争総括の必要性を発言したことを知った。 記者「先日の記者会見で靖国参拝について日本維新の会の意見を質問させて頂いた者です。選挙までに国政政党としての方針を纏めるというご回答ありがとうございました。一方、回答の中で、靖国参拝について、個人としての考えを持ってらっしゃると答えていました。
私自身も戦争総括の必要性を、役に立たないながらも言い続けてきた。日本国家は戦前の日本国家や国家に関わった個人の責任を検証する総括を行いもせずに敗戦から10年も経たない1950年代前半に戦犯の釈放決議・赦免決議を行なって、一国主義的に戦犯の名誉を回復させている。
総括というものに責任検証の目的を持たせる以上、橋下市長の先人に対する敬意表明と戦争総括の必要性の間に齟齬がないか、詳しく知りたいと思って記者会見の動画がないか探したところ、「YouTub」動画で都合よく記者会見の動画を見つけることができた。
靖国参拝に関係する個所のみを文字に起こした。
大阪府知事を3年8カ月、大阪市長を9カ月、1997年から大阪府知事になる2008年までの約11年近くも弁護士を職業としていて、相当コツを得た簡潔な話術に長けていると思いきや、的確・簡潔な情報発信とは正反対の、饒舌ではあっても、同じことを何度も繰返す堂々巡りの発言を随所に見受けることになった。
新聞記事は纏めて短くして取り上げるから、記事からでは分からないが、合理性を備えた話しぶり、情報発信とは言い難い。
そこで、現時点のもので構わないですが、靖国参拝について、橋下さん個人の考えを今一度お聞かせ頂ければと思います」
橋下市長「ハイ。僕前に一度言いましたけども、やはり日本をつくるに当たって、えー、命を落とされた方、色んな事情、まあ、おー、イー、まあ、日本のために、国のために命を落としたと、いう、方々に対して、えー、きちんと、敬意を表するということは、これは絶対に必要だと思いますね。
で、日本維新の会でね、えー、靖国参拝については議論しました。
結論としては、これは、あのー…、個人の問題だと。おー、個人の、おー、まあ、宗教心も含めてね、個人の問題でもあるんで、えー、これは政党として、えー、方針を決める問題ではないと、いうことになりました。
ですから、これは個々人の、おー、それぞれの態度・振舞いに委ねていくことになります。これは、あの、日本維新の会の考え方で、日本維新の会として、こうしましょう、ああしましょうと言わずに、個々人の政治家に委ねる、ということになりました。
僕自身は、あのー…、その先人の、命を落とされた先人に対しては敬意を評されなければいけない、という思いがありますが、先ずね、これいくつかの、二点問題があって、一点はあまり大したことのない問題で、二点目はこれはちょっと、また外交安保問題につながる問題ですが、一点目はね、僕がこの話をした時にね、(苦笑混じりに)うちの母親からね、僕自身感じていいたのですけど、『やー、あんたね、それはね、爺ちゃんの墓参りも行ってないんではないか』と、
で、それはね、記者会見で靖国に対してあんなように堂々と、言ってもね、『爺さんの墓参りすら行ってないのにね、どういうことや』って言われましてね。
で、それは確かにね、あのー、そうなんですよ。だから、こうやって先人の、命を落とした先人に対してね、あのー、敬意を表さなければいけないって、うちの爺さんにも、そうやってやっぱり命、日本のために頑張って。あの、海軍出身ですから。あの、頑張って、別に戦で死んだわけじゃないですけども、あのー、日本のために頑張ってきた。
確かにそう言われるとね、何で急に政治家になって、何で急に格好つけるんだっていうところあります。だから、あの、爺さんの、墓参りも、あんまり行っていない。
えー、勿論、父親の、実の父親の墓参りも、それはもう殆ど、たまに行くぐらいで、殆ど行っていない。そういう人間です。
だから、先に格好つけんなって言われた。そういう人間だけど、その話もね、日本維新の会でやったんだけど、ま、そうは、それは個人の、そういう人間だけれども、役職に就いたら、やっぱり国民を代表してね、えー、僕はやっぱり知事、とか市長とか立場になるから、戦没者追悼式に出るわけです。
ただ、そういう立場としてね、やはり靖国問題を把えなければいけないと思っています。
そうなってきた時には、僕はね、先人に対する敬意っていうものも絶対に必要だけども、僕はこの戦争の総括っていうものもやらなきゃいけないと思ってるんですね。
で、僕はね、あの、メッセージの出し方、その、そういう役職に就いた立場になればね、メッセージの出し方っていうところも非常に僕は重要だと思っていましてね、えー、周辺諸国について気を使うことはないという考え方もあるかもしれませんが、実際に日本は過去に於いて、えー、僕は、そのー、戦争の総括までは出来切れていないから、歴史家じゃないから確定的には言えないけれども、それでもやっぱり周辺諸国に過去、迷惑をかけたことは間違いないわけです。
謝り続けたら、、それでいいじゃないかなんて言うのはね、弁護士やっててね、日本国内に於いて、色んな事件・事故の代理人やりましたけども、加害者サイドがね、もう謝り続けたから、もう謝るのはいいじゃないか。そんな加害者は見たことない。
加害者になったらね、弁護士やってみて、被害者サイドから見ればね、ずうっと腹ん中にね、恨みつらみ残りますよ、それは。
で、それを加害者サイドの方がね、もう十分謝ったんだから、もう十分賠償渡したんだから、もういいじゃないかって言うのは、心情として、僕は、そういう態度は取れないですね、僕は。
これは弁護士やって実際に色んな命を落とす事件の代理人をやったときに、被害者側の方にも立ったし、加害者側の方にも立ったし、国内ですらですよ、国内でも被害者の方、被害者が加害者に対してね、一生忘れるな、と。
そんなのね、この事件について一生忘れるな、この事故については忘れるなっていうことは、国内に於いても被害者はこれにも、もう、本当にそれはね、遺族としてね、泣きたい気持で言い続けるわけですよ。
で、恨みつらみを持ち続ける場合もある。
そしたらね、対中国、対韓国に於いてね、あの、謝り続けたからもういいじゃないとかね、おカネ払ったからいいじゃないのっていう、そういうことは僕は違うと思います。ただ、それを事実誤認とか、違うことを言われたら、それは反発しますよ。それは。
だから、僕は慰安婦問題のね、あの暴行・強迫で以て、あのー、強制連行されたとか、ああいう問題に関して違うことは違うって言いますけども、しかしね、加害者っていう、そういう、うー、国である以上、やっぱりそれはそういう気持ちを持って、えー、そして然るべき立場に立った場合、には、メッセージの出し方っていうのは気をつけていかなきゃいけない。
で、なれば、靖国参拝に於いて、終戦記念日っていう時にね、えー、そのときに参拝するのかね、それとも、靖国神社に於いては例大祭っていう、そっちの方で重きを置いた行事であるから、そっちの方でいいじゃないかとか、そういう、あのー判断はしなければいけないっていうのは思ってますね。
だから、あのー、これもまた日本維新の会で色々議論しなきゃいけないですけども、あの、中国や韓国にね、事実と違うことを言われたら、これはもう猛反発してね、抗議をしてね、日本の国家としてのプライドが、あのー、落とされるようなことになれば、それはもう、猛攻撃しなければいけないし、それから尖閣海域周辺に於いてもね、今の現状では日本が実効支配している以上は、それを実力行使で実効支配を変えていこうとする、そういう力に対しては、これはもう、果敢にですね、そこは対抗措置を取らなければいけない。
だから、海防力、海防の力とかね、そういうものの生身の力っていうものをしっかりと備えなきゃいけないと思いますけども、しかしやっぱり、あのー…、加害者であったという、この事実、はね、世代を超えたとしても、やっぱり忘れちゃいけないことだと僕は思っていますけどね、これはまた考え方違うかもしれないけど、弁護士やっていた以上、被害者側の代理人やってたら、そんなの被害者側からしたら、そんなの何が何でも許せないと、そういう気持ちを否定するわけにはいきませんね」
記者「敬意を表するとしても、するしないっていうのはまだ未定だということでよろしいでしょうか」
橋下市長「 だから、僕がそういう然るべき立場に立ったら、国民の代表という立場に立った場合は、あー、8月15日に行くべきななのか、例大祭、秋――、春・秋の例大祭に行くべきなのか、あー、そこは考えます。
ただ、こういうことを格好よく言っても、爺さんの墓参りも碌々行っていない、えー、そういう人間がね、えー、先人の、あのー、そういう命に対して、敬意を表すべきだと格好つけ過ぎるのも、よくないことだとも思っています。
ただ、然るべき立場に立てば、それは国民を代表してね、あの、それは国民を代表してね、あの、戦没者追悼式に行くのと同じように、それは国民を代表してしっかり敬意を表するね、そういう、あの、所作はしなければいけないと思っていますがね」
記者「敬意を表するんだったら、分祀であるとか、あるいは国立追悼施設とか色んなアイデアが出ていると思うんですが、それについてはどう思いますか」
橋下市長「それはね、神社の在り方について、簡単に、それは政治家の方が、あー、宗教の一番太い軸に関わることですから、あー、簡単にそれは政治家が結論を出すべき問題じゃないと思いますね。
それは靖国神社の方でそういうことを要求していくことですがね、それもまた違うんじゃないですか。
そうであれば、そういう敬意を表するやり方を、別に考えるっていうんであれば、それはまた政治家がみんなで考えていったらいいわけで、でも、それは簡単に分祀とか政治家が言うべきことではないと思いますね。
今の神社の、靖国神社っていう中で、どう先人に敬意を表しながら、しかし加害者であったということも、おー、忘れずに、メッセージの出し方、誤ったメッセージの出し方にならないように、そこは気をつけなきゃいけないと思います。
ただ、8月15日に拘るのか、僕は例大祭というところでしっかりと先人に対してありがとうございましたということで、僕は、あのー、先人に対する敬意というものは、十分ではないんではないかというふうに思ってますけどね。
それはまた自分がそういう立場に立ったときにどうするかっていうときは、どうするかっていうことは、もっと考えたいと思いますけどね、今、まだそういう立場ではないですから、今ここで、こうします、ああしますっていう状況でもないと思っていますね」(以上)
「日本維新の会」は靖国参拝は「個人の問題」であって、参拝するか否かは「個々人の政治家に委ねる」決定を行った。
だが、橋本市長は個人としては爺さんの墓参りも実の父親の墓参りも殆ど行っていないが、「役職に就いたら、やっぱり国民を代表してね」とか、「国民の代表という立場に立った場合」と言っているから、志高く首相になった場合を想定しているのだろう、一方で戦争総括の必要性を言いながら、立場上、先人に対する敬意は絶対必要だと主張している。
但し日本は戦争の加害者であるから、靖国参拝というメッセージの出し方に気をつけなければならない。8月15日に参拝するのか、春と秋の例大祭に行くのかでメッセージの出し方に違いが生じるゆえに、そこは考えたいと言いながら、例大祭の参拝で十分ではないかというふうにも思っていると、一度言えば済むことを二度三度繰返して言っている。
日本が戦争の加害者であることは三度言及している。
「加害者っていう、そういう、うー、国である以上、やっぱりそれはそういう気持ちを持って、えー、そして然るべき立場に立った場合、には、メッセージの出し方っていうのは気をつけていかなきゃいけない」
「加害者であったという、この事実、はね、世代を超えたとしても、やっぱり忘れちゃいけないことだと僕は思っていますけどね」
「加害者であったということも、おー、忘れずに、メッセージの出し方、誤ったメッセージの出し方にならないように、そこは気をつけなきゃいけないと思います」――
先ず、国民の代表となった場合を条件とする、「先人に対する敬意は絶対必要」だとする橋下大阪市長の靖国参拝絶対必要論は国民の代表から離れた場合は、国民の代表となった場合の条件から解放されて、参拝は必要でなくなるという論法となる。
いわば橋下市長は国民の代表となったら参拝する、そうでなかったら参拝しないと、靖国参拝の根拠・基準を国民の代表であるか否か、首相であるか否かに置いているということである。
勿論、どういう根拠・基準で参拝するか否かは個々人の決定にかかっているから、橋下市長の自由ということになる。
但し一般的には戦没者の、「国のために命を落とした」、あるいは「天皇陛下のために命を捧げた」、そのような行為性を根拠・基準として参拝するものだが、橋下市長の場合はそういった行為性を問題とするのは国民の代表でいる間限定という便宜性を持たせた追悼意識らしい。
日本を戦争加害国・戦争加害者だと位置づけているということは橋下市長が「先人」と言っている、靖国神社に祀られた戦没者は生きて兵士として戦争を戦っている間は日本の戦争加害に加担し、命を落とした日本人たちということになる。
だからこそ、8月15日に参拝すべきか、春・秋の例大祭に参拝すべきか、メッセージの出し方に注意が必要となるとしているのだろうが、と同時に、橋下市長自身が明確に認識しているかどうかは分からないが、「先人」に対して天皇陛下のため・国のために戦ったが、戦争加害者でもあったという功罪相半ばする評価を下していることになる。
当然、戦没者は、生きて帰還した兵士をも含めて、結果的には戦争加害のために天皇陛下のため・国のために戦ったとしなければ、事実の合理性を得ることはできない。
安倍晋三のように「(国を)命を投げ打ってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません」と言い、「国のために殉じた人たちに対して国のリーダーが尊崇の念を表するのは当然だ。お参りすべきだと思う」と戦没者を功ばかりで評価する政治家なら、メッセージの出し方は8月15日と思い定めているだろうが、首相在任中に参拝を封じたのは中国への配慮という便宜性を優先させたからであった。
対中国配慮を参拝の基準として一旦決めたその場取り繕いの便宜性でありながら、今年5月、安倍晋三が会長を務める「創生『日本』」の東京研修会の壇上で、靖国参拝をしなかったことを非常に後悔していると発言したというから、過去の自身を誤魔化す往生際の悪さを相当なものである。
橋下市長の戦没者に対する功罪相半ばする評価は、だが、「加害者になったらね、弁護士やってみて、被害者サイドから見ればね、ずうっと腹ん中にね、恨みつらみ残りますよ、それは。
で、それを加害者サイドの方がね、もう十分謝ったんだから、もう十分賠償渡したんだから、もういいじゃないかって言うのは、心情として、僕は、そういう態度は取れないですね、僕は」と言っていることと真っ向から矛盾することになる。
橋下市長の発言趣旨は、戦争加害国・戦争加害者である日本に対する中国・韓国の戦争被害国・戦争被害者は日本の戦争加害に加担した「先人」――戦没者に対する功罪相半ばの評価は決して受け入れず、罪(ざい)のみで評価していると言っていることになるからだ。
事実の合理性から言って、結果的には戦争加害のために天皇陛下のため・国のために戦ったのである。当時はそのような国の姿――戦争加害国・戦争加害者の姿を取っていた。
そして、繰返しになるが、靖国神社に祀られた戦没者は生きて兵士として戦争を戦っている間は侵略という名の日本の戦争加害に加担し、命を落とした日本人たちである。
いわば否定しなければならない国家の姿であり、否定しなければならない兵士の姿・国民の姿であった。この否定の文脈での参拝なら許され、そのようなメッセージの出し方をすべきだが、「天皇陛下のために命を捧げた」、「国のために命を投げ打って戦った」英霊としてのみ顕彰、「尊崇の念を表する」と肯定の文脈で参拝する、あるいは橋下市長のように「ありがとうございました」と礼を言うメッセージの出し方は、戦争被害国・戦争被害者たる中韓にとっては事実の合理性を欠いた歴史認識の過ちとして解釈されることとなり、そのような解釈に対する「恨みつらみ」は当然の態度としなければならないはずだ。
口では侵略戦争だと言いながら、意識の底では侵略をも肯定する国家観のメッセージとなって、明らかに論理矛盾を来すことになる。
だが、安倍晋三以下、橋本市長にしてもこの論理矛盾に気づかない。
このような歴史認識に於いて、彼らには独裁国家の独裁者のような頑迷さがある。自分たちを絶対善とする頑迷さである。