昨日(2012年10月10日)のブログ記事――《「東京維新の会」の「日本国憲法無効・大日本帝国憲法現存」思想と橋下徹容認の国家主義的危険性 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で2個所記載漏れがあったため、訂正します。
「東京維新の会」の日本国憲法を無効として、大日本帝国憲法を現存憲法とすることの認知を求める請願請求に関する橋下日本維新の会代表の発言を伝えていた新聞記事《橋下大阪市長ウォッチ 東京維新の会「帝国憲法復活を」 橋下氏「そんなんほっといたらいい」》の発信元を漏らしてしまいました。「J-CASTニュース」/2012年10月09日17時52分)です。
次に「東京維新の会」の上記請願行動に関して橋下徹日本維新の会代表の「地方議会は維新八策のうち地方に関係することは100%賛同してもらわないといけないが、そうでない部分は政治家の自由行動だ」と記者団に語った発言日の「10月9日」を記載漏れしてしまいました。
謝罪して訂正します。
橋下代表は次の日の10日になって発言を変えたため、その判断速度の遅さに感心して、ついでにブログ記事にして見ることにした。
《日本維新、東京維新との連携「保留」 請願賛成巡り》(asahi.com/2012年10月10日23時14分)から。
記事は最初に、〈東京都議会で「日本国憲法は無効で、大日本帝国憲法が現存する」との請願に賛成した会派「東京維新の会」〉に対する「日本維新の会」の昨日(10月10日)の意思表示を取り上げている
「日本維新の会」「連携を保留する」
「日本維新の会」幹部「(日本維新の会の傘下に今後入るなら)完全な政策一致が必要。考え方を改めてもらいたい」
記事は、〈東京維新の野田数(かずさ)代表からは10日に謝罪文が届いた〉と伝えている。
橋下徹維新の会代表(10月10日、市役所で報道陣に)「大日本帝国憲法復活はどう考えてもありえない。連携をやめるか維持するかは担当幹部に見極めてもらった上で判断する」
記事はこれだけのことを報道している。
橋下徹維新の会代表は昨日10月9日は維新八策の地方関係の政策以外は「政治家の自由行動だ」と言って、「東京維新の会」の「日本国憲法無効・大日本帝国憲法現存」の主張を容認した。
民主主義を政治行動の基本姿勢としているのか、国家主義、あるいは全体主義を政治行動の基本姿勢としているのか、民主主義の時代と民主主義の国家に於ける資格を問う極めて重要な問題でありながら、その資格を問題とせず、次の日には「大日本帝国憲法復活はどう考えてもありえない」と否定する、その判断決定の不的確さ、判断決定速度の遅さは果たして政党責任者に適格だと言えるだろうか。
橋下市長が大飯原発再稼働問題等で時折り判断のブレを見せるのは判断の質に問題があるからではないだろうか。
何事にも迅速で的確な判断が伴わなければ、強い指導力は発揮できない。
前日の記事で安倍晋三を国家主義者と書いたが、もう少し詳しく説明したいと思う。
以前にもブログに書いたことだが、安倍晋三は兼々天皇・皇室について次のように発言している。
安倍晋三「皇室の存在は日本の伝統と文化、そのものなんですよ。まあ、これは壮大な、ま、つづれ織、タペストリーだとするとですね、真ん中の糸は皇室だと思うんですね。
この糸が抜かれてしまったら、日本という国はバラバラになる」
このことを安倍晋三著の『美しい国へ』では次のように表現している。
「『君が代』が天皇制を連想させるという人がいるが、この『君』は、日本国の象徴としての天皇である。日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ。ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか。素直に読んで、この歌詞のどこに軍国主義の思想が感じられるのか」
「日本の伝統と文化、そのもの」としての存在とは、あるいは日本は「天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきた」とは天皇を一種の創造主に置いていることを意味する。万世一系の代々の天皇が「日本の伝統と文化」を生み出し、「日本の伝統と文化、そのもの」の存在となっている、あるいは万世一系の代々の天皇が中心となって日本の歴史を織りなしてきたと言っている以上、一種の創造主でなくして、叶わない偉業である。
ここにある思想は断るまでもなく天皇を絶対的存在とした天皇中心主義である。だが、戦後日本に於いては天皇は絶対的存在としての中心から外されて創造主としての資格を剥奪され、単なる国民統合の象徴に格下げとなった。
当然、天皇が絶対的存在であった天皇中心主義の戦前日本に郷愁を抱くことになる。そこでは「天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきた」
天皇は「日本の伝統と文化、そのもの」の存在であった。
いわば郷愁が結びつけている、安倍晋三の天皇絶対主義、天皇中心主義の国家主義と戦前日本の天皇絶対主義、天皇中心主義の国家体制ということであって、両者が響き合って安倍晋三の中でハーモニーを奏でているということなのだろう。
その結果、「(国を)命を投げ打ってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」といった、戦前日本の天皇絶対・国家絶対の思想を戦後日本の時代に持ち出すことになる。
国を守るとは命を投げ打つことではなく、国民それぞれが自らが置かれた役割をそれぞれに十全に果たしていく努力をする、その総合的成果が結果として国を守っていくことにつながるはずだ。
特に国家の上層に位置して、国家を運営する立場の人間が自らに与えられた役割を果すことができなかったなら、国を守ることはできない。戦争に際しても兵士が戦争で命を投げ打つことよりも、国家や軍上層部の、国力や軍事力を勘案した開戦決定から戦争継続の各プロセスに於ける戦略や戦術に関わる役割の履行如何が国を守るか否かの命運を握るのであって、この要件に反して戦前の戦争では政治家も軍上層部もその役割を果すことができなかった。
そういった国家体制に郷愁を感じているのだから、安倍晋三の時代錯誤も甚だしい。