独裁者金正恩を将軍様と呼び崇拝している北朝鮮軍兵士が北朝鮮国家のために戦い死ぬことを厭わず、自らの正義とするのは崇拝している金正恩を正義と見做し、その北朝鮮国家を正義と見做しているからだろう。
いわば兵士は自らの正義と国家の正義、あるいは支配者の正義を相互に響き合わせることによって、「国のために戦って尊い命を犠牲にする」という行為を成り立たせることができる。
逆に兵士が国家を正義と見做さなければ、誰が国のために戦って尊い命を犠牲にするだろうか。
国家の側も、国家自身を正義と見做しているゆえに、兵士の戦闘行為、それ故の戦死を「国のために戦って尊い命を犠牲」にした正義だと価値づけ可能となる。
国家の正義の反映としてある兵士の国のために戦う正義、あるいは国のために戦って戦死する正義という構造を取る。
あるいは兵士の国のために戦う正義は、あるいは国のために戦って戦死する正義は国家の正義の反映を受けた正義という構造を取る。
戦前の大日本帝国も、自身を正義とし、天皇を正義とし、天皇と国家が協同して仕掛けた戦争を正義とし、兵士に(あるいは国民に)その正義の戦争を戦う正義を求め、兵士は(あるいは国民は)国家の正義に応じ、戦争の正義に応じて、「国のために戦って尊い命を犠牲にする」正義で応じた。
かくこのように戦前の日本は相互の正義を響き合わせた。正義の結末が、朝鮮人や台湾人の軍人、軍属約5万人を含んだ軍人、軍属約230万人の戦死者であり、外地一般邦人約30万人、空襲等の国内戦災死没者約50万人の犠牲である。
勿論、日本人死者を遥かに上回る外国人兵士の死者、民間人死者も日本の正義の結末のうちに入る。
そして今なお戦前の日本国家の正義を信じ、天皇の正義を信じ、その戦争の正義を信じ、それらの正義と響き合わせる形で「国のために戦って尊い命を犠牲」にした戦士兵士の正義を讃えるために多くの国会議員や閣僚が靖国神社を参拝する。
8月5日午前の記者会見――
菅官房長官「国のために戦って、尊い命を犠牲にされた方に対し、手を合わせてご冥福を祈り、尊崇の念を抱くのは、どこの国でも同じだと思っている。
(閣僚の8月15日終戦の日参拝について)政府として、『行くべきだ』とか『行かないべきだ』ということは差し控えるのが、安倍内閣の基本的な考え方なので、各閣僚が私人の立場で参拝するかしないかは、官邸でどうこう言う問題ではない。
(安倍晋三の8月15日参拝について)安倍総理はかつて、『参拝するか、しないかは言わない。行ったか、行かなかったかも言わない』ということだったので、私から答えることは差し控えたい」(NHK NEWS WEB)
8月6日広島市記者会見――
安倍晋三「国の内外を問わず、国のために戦って尊い命を犠牲にした方々に対し、手を合わせてご冥福をお祈りし、尊崇の念を表する気持ちは持ち続けていきたい。その気持ちに全く変わりはなく、参拝についての私の思いは変わっていない。
(閣僚の敗戦の日参拝について)閣僚が私人として参拝するかどうかは、もとより心の問題であり自由だ。私が閣僚に対して『行け』とか『行くな』とか、何かを求めるということはないし、そうすべきではないと考えている。
(自身の8月15日参拝について)私が参拝するかしないか、あるいは閣僚が参拝するかしないか答えるのは差し控えたい」(NHK NEWS WEB)
兵士は戦前日本国家の正義を信じ、天皇の正義を信じ、その戦争の正義を信じて、それらの正義と響き合わせる形で「国のために戦って尊い命を犠牲にする」自らの正義を忠実に実行した。
当然、現在の日本で「国のために戦って尊い命を犠牲にした」という兵士の正義を口にするとき、その正義は戦前日本国家の正義、天皇の正義、その戦争の正義と響き合わせていなければ、論理的に成り立たないことになる。
「不正義の国家のために不正義の戦争を戦って尊い命を犠牲にした」という名目の讃えは論理的な整合性を失う。
その国家を批判し、その戦争を批判する場合のみ、論理的整合性を持ち得る。
逆もまた真なり。「正義の国のために正義の戦争を戦って尊い命を犠牲にした」という名目の讃えのみが論理的整合性を持ち得る。
つまり、「国のために戦って尊い命を犠牲にした」という讃えの言葉は“正義”という価値づけを前提としている。
国家、戦争、尊い命の犠牲、すべてが正義に価値づけられ、正義を彩っていることになる。
そこに不正義の価値づけは一点たりとも許さない。
安倍晋三にしても、菅官房長官にしても、靖国を参拝する安倍内閣の閣僚にしても、その例に漏れないはずだ。