道徳教育熱心の安倍・下村コンビの道徳教育を用いた「いじめ防止対策推進法」のイジメ抑止効果は疑問の逆説

2013-08-12 04:34:09 | 教育


 
 道徳教育の教科化に熱心な安倍晋三と下村博文文科相主導の《いじめ防止対策推進法》が2013年6月28日公布された。施行は公布の日から起算して3カ月を経過した日からとされている。

 効果は如何に。

 《いじめ防止対策推進法案の根本的な問題を考える》(PHP研究所研究員コラム 亀田徹/2013年6月21日 19:30)には、法案の内容は従来から文科省が通知で示し、指導してきた内容とほぼ同じであり、法律の制定によって効果的な取組が推進されることは期待できないと法律の効果に否定的な見解が述べられている。

 この指摘通りだとすると、文科省はイジメがなくならない、イジメを受けて自殺する最悪のケースも跡を絶たないといった学校のイジメを防止するためにイジメ対策としてこれまで出してきた通知・通達の類いを纏めて、少しは新たに加えた箇所もあるだろうが、法律を新たに作ったことになる。

 当然、その効果はイジメの現実を変えるに限界を抱えることになる。

 法文を読んでみて感じたことは、対処療法に向けた努力を示していて、原因療法へ向けた努力ではないということである。「学校におけるいじめの防止」として第15条は「学校の設置者及びその設置する学校は、児童等の豊かな情操と道徳心を培い、心の通う対人交流の能力の素地を養うことがいじめの防止に資することを踏まえ、全ての教育活動を通じた道徳教育及び体験活動等の充実を図らなければならない」と、一見原因療法へ向けた努力の要請に見えるが、学校社会に限って言うと、なぜ子どもは人をイジメるのかという本質的な問題を補足して、その病理自体に治療を施す原因療法としての「道徳教育及び体験活動等」による狙い撃ちというわけではないし、そもそもからして「道徳教育及び体験活動等」が必ず「児童等の豊かな情操と道徳心を培い、心の通う対人交流の能力の素地を養う」という保証があって初めて原因療法ともなり得るが、「養う」保証がないことはこれまでの道徳教育を無効とするイジメの多発が証明しているはずで、このこと自体が原因療法へ向けた努力の無効と、結果として対処療法に向けた努力が前面に出ていることの原因を成しているように思える。

 また、「道徳教育及び体験活動等」のススメは何も今回の《いじめ防止対策推進法》が初めて掲げるわけではなく、1958年の学習指導要領から道徳教育を義務付けていて、小学校と中学校の学習指導要領共に道徳教育の目標を「学校の教育活動全体を通じて、道徳的な心情、判断力、実践意欲と態度などの道徳性を養うこととする」とし、小学校の道徳教育の内容は、「よいことと悪いことの区別をし、よいと思うことを進んで行う」、その他盛りだくさんに掲げて道徳的にも倫理的にも理想の小学生像を最終目標地点とし、中学校の道徳教育の内容は、「自律の精神を重んじ、自主的に考え、誠実に実行してその結果に責任をもつ」等、これもまたその他盛りだくさんに盛りつけて、同じく道徳的にも倫理的にも理想の中学生像を目標地点としているが、イジメの多発が証明することになる理想の小中学生像とは正反対の多くの児童・生徒の存在と、多発を許している周囲の児童・生徒の存在が証明することになる、これまた理想の小中学生像とは程遠い児童・生徒の存在にこそ道徳教育は必要としているはずだから、学習指導要領が掲げている道徳教育は無効となっていることの突きつけでしかない。

 さらにイジメを隠したり、見逃したり、責任逃れしたりする少なくない校長・教師の存在は校長・教師自体に児童・生徒に対する道徳教育を施す資格のないことの証明でしかないのだから、学習指導要領に何をどう掲げようとも、その効果は限界の上に限界を抱えていることになる。

 《いじめ防止対策推進法》がイジメ防止として採用している「体験活動」にしても、既に学習要領に掲げている項目であり、小学校の場合は、「集団宿泊活動やボランティア活動、自然体験活動などの体験活動を生かすなど、児童の発達の段階や特性等を考慮した創意工夫ある指導を行うこと」と規定し、中学校の場合は、「職場体験活動やボランティア活動、自然体験活動などの体験活動を生かすなど、生徒の発達の段階や特性等を考慮した創意工夫ある指導を行うこと」と規定して、既に実践を積み重ねている教育であるはずだが、イジメを行う児童・生徒には役に立っていなく、イジメが増えているということは改めて《いじめ防止対策推進法》に「体験活動」を掲げようとも、効果は知れることになる。

 要するに亀田徹PHP研究所研究員が指摘している、従来から文科省が通知・通達し、指導してきた教育行政がイジメの多発抑止に役立っていないにも関わらず、そのような通知・通達、指導をほぼそのとおりに反映させなぞったイジメ法案の内容という関係にあることからの法律の効果の疑わしさは学習指導要領に掲げた道徳教育及び体験活動等がイジメの多発抑止に役立っていないにも関わらず、それらを反映させたイジメ法案の道徳教育及び体験活動等という関係にあることから指摘せざるを得ない法律の効果の疑わしさは二重の関連性を持って効果の疑問を増幅させるはずだ。

 道徳教育の教科化に熱心な安倍晋三と下村博文が主導した《いじめ防止対策推進法》が彼らの好みの道徳教育を以てしてもイジメを抑止できなかったとしたら、まさに逆説そのものである。

 《いじめ防止対策推進法》が対処療法に向けた努力で終わっていて、なぜ子どもは人をイジメるのかという本質的な問題を補足して、その病理自体に治療を施す原因療法へ向けた努力とはなっていないと指摘したが、本人は気づいていないとしても、イジメは行う側からしたら立派な自己可能性の追求であり、自己実現の一つの形である。勿論、歪んだ権利主張でしかないが、イジメが自己可能性の追求であり、自己実現の一つの形であることを児童・生徒全体に知らしめる教育及び体験活動でなければならないということである。

 イジメという自己可能性の追求、自己実現が発生する原因は一般的には学校社会が承認するテストの成績とか部活の能力、その他の可能性から排除された児童・生徒に残された自己可能性の追求、自己実現の一つであって、それに成功したとき、イジメは相手の人格や感情を支配する権力行為でもあるから、支配の快感を伴うことになって、大きな自己活躍に映り、習慣になりやすく、その習慣性と自己活躍の拡大欲求が相まってイジメは往々にしてエスカレートし、陰湿性を増すことになる。

 イジメに依存した自己可能性の追求による自己実現(=自己活躍)の完成である。

 《いじめ防止対策推進法》にはこのようなイジメ発生の根本的原理に立った抑止の視点からの道徳教育でなくても、何らかの教育の必要性、あるいは教師と児童・生徒との間の対話・議論の必要性の訴えがない。

 訴えがあって初めて、対症療法から抜け出て、原因療法への入り口に立つことができるはずだ。

 勿論、イジメが歪んだ自己可能性の追求であり、歪んだ自己実現(=自己活躍)でしかないと教育し、相手の理解を得るためには学校社会が承認する自己可能性の追求機会をテストの成績とか部活の能力等に限定するのではなく、幅広く認める必要があるし、学校社会が承認する可能性追求の成功がそのまま実社会の可能性追求の成功を保証するわけではないこと、また逆に学校社会が承認する可能性追求に失敗したとしても、実社会の可能性追求に成功する場合もあるという現実を常日頃から伝えることのできる言葉を教師は持たなければならない。

 いわば学校社会が承認する可能性への挑戦と実社会が承認する可能性への挑戦とは別物であることの教えである。このことは学校の成績が悪くても、部活の才能に恵まれていなくても、世の中に出て成功する者はいくらでもいるということが何よりの証明となる。

 こういった教育こそがイジメ抑止に必要なはずである。 

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