学校が教師と児童・生徒によって構成される集団社会であるのは断るまでもないことだが、果たして児童・生徒は学校が集団社会であり、自分たち一人ひとりが構成員だという認識をどれ程に把握しているのだろうか。
教師はそのことを教えているかもしれない。例え知識として持っていても、自ら肌で感じて、そのことを日々の学校生活を送っていく中でそれを無意識下に置いているのだろうか。
学校が集団社会であるということは児童・生徒は集団生活の場に立たされているということであり、そこでは常に学校に特有の集団生活の人間関係力学が働いていて、誰もがその関係力学に影響を受けて行動することになるが、そういったことをどれ程に認識しているのだろうか。
特に集団生活の人間関係は仲間のそれぞれの行動意識によって決まってくる。当然、仲間が違えば、集団生活の人間関係力学も異なる働き方をし、微妙に異なる人間関係を形成することになる。
このような学校社会に於ける集団生活上の人間関係力学を受けて形成されることになる児童・生徒それぞれの人間関係に対する校則の影響はどれ程のものだろうか。
校則は一般的には学校が決め、児童・生徒がそれに従う学校単位の一律性を性格としている。生徒が参加して決めた場合でも、学校全体の規則という形式を取る。
この校則が持つ学校全体を一つの単位とした一律性が各学年の各クラスの児童・生徒のそれぞれの行動意識を規制するとしても、仲間が違えば、集団生活上の人間関係力学も異なる働き方をし、微妙に異なる人間関係を形成することになる各学年の各クラスそれぞれの人間関係により柔軟に且つ的確に対応して児童・生徒それぞれの規律性(=仲間としての行動意識)に適うことができるのだろうか。
例えば国の憲法やその他の法律は日本全体を一つの単位として一律的に日本国民の行動・規範等を規制する役目を担っているが、一律性では規制し切れない各地域毎の、広い意味での生活の特徴に対応するために都道府県単位で各自治体が自治体ごとに条例を制定して自治体住民の生活の規制が必要となっているように、あるいは自治体の最小単位である市町村も都道府県単位の条例による規制では漏れる部分を市町村ごとの条例を制定して市町村住民の生活を規制することになっているように、校則という学校全体を一つの単位とした規則を児童・生徒全体に当てはめるよりも、各学年の各クラスごとにクラスの集団生活をより健全に維持する方向のクラスの児童・生徒の行動を規制するルールを設けて、各クラス毎の集団生活上の人間関係、あるいはその力学に対応した方がより的確にクラス単位の集団生活の秩序維持に適合するのではないだろうか。
いわば各クラス毎にルールを設けることによって各クラスの児童・生徒それぞれの行動意識に直接働きかけることになり、少なくとも校則以上に、あるいは校則よりも身近にルールというものを意識させることに役立つはずだ。
最も直接的な働きかけは集団生活上のルールを各クラスの児童・生徒が決めることに優る方法はないはずだ。
ルールは当然、罰則を伴う。各クラス毎にクラスの児童・生徒それぞれの行動意識に対応した集団生活上のルールを彼らに議論させて決めさせ、自分たちで守り、守ることができなかった場合は、自分たちで決めた罰則に従う。あるいは罰則を課す
このようなルール決定の構造はルールに対して主体的に向き合う姿勢の育みにもつながっていく。
自分たちでルールを決めて、自分たちで守る。そのことによってクラスの秩序を守ることができる。ルールを破る者が多発してクラスの秩序を守れなくなったとき、クラスのルール作りの力、罰則の適用の力が試されることになる。
教師はこのことに留意しなければならない。
どう転んだとしても、クラスが集団生活の場であること、一人ひとりが集団生活者であることをより認識することに役立つはずだ。
学校はもとより、クラスが集団生活の場であること、一人ひとりが集団生活者であることを主体的に認識できるようになれば、イジメの防止にも役立っていくだろう。
当然、そのように認識させるためには小学校1年の時から、クラスの集団生活上の行動ルールは児童が決めるという教育方法を取るべきだろう。
担任の手助けでルールがより完璧に出来上がったとしても、守ることに不完全で、例え守ることのできないルールとなったとしても、守ることによってルールをルールとして確立しなければならない力が自ずと働くことになって、小学校1年の時からそのことを経験していたなら、ルール確立の意識は年令と共に積み重ねられていってクラスの主流を占めていくことも可能で、主体的な規範意識の育みにも連動していくはずだ。
2013年3月12日衆院予算委員会。
下村博文「道徳教育をすることによっていじめ教育につながるというふうに我々は思っておりまして、つまり、道徳をすることによって逆にいじめがふえるということではなくて、道徳というのは、人が人としてつき合う、社会としての規範意識、ルール、人間関係ですね、これは、国境を越えて、それから歴史を超えて、やはり人が生きるための基本的なルールというのを子供たちにきちっと教える必要があると思うんですね。
これを学ぶことによって、逆に、人に対するいじめはやめようとか、あるいは、もしいじめられている子供がいたら助けてあげようとか、こういうことにもなってくることであって、逆に、いじめを少しでもなくしていくために、そういう道徳をきちっと教えるということは必要なことであるというふうに考えております」――
このように言っているだけでは、規範意識は育たない。
戦前の道徳教育である、忠君愛国や忠孝を植えつけた「修身」は大日本帝国軍隊の古参兵による陰湿。過酷な新兵イジメの防止に役立ったのだろうか。外国軍捕虜に対する虐待やリンチ、虐殺に役立ったろうか。
否である。
兵士としてお国の役に立たないからと差別した障害者イジメの防止に役立ったろうか。
否である。
都会の子が米軍の空襲を逃れるために疎開した田舎で土地の子から受けたイジメの防止に役立ったろうか。
否である。