麻生太郎のナチス憲法改正の手口を学ぶべしとは安倍政治の国家主義化の予言なのか

2013-08-01 04:30:50 | 政治

 

 副首相兼財務相の麻生太郎が7月29日、東京都内のホテルで講演し、憲法改正はナチスの手口を学ぶべきだと発言していたという。何が問題なのだろうか、考えてみた。

 《「ナチスの手口に学べば」=麻生氏、改憲めぐり発言》時事ドットコム/2013/07/31-12:57)

 麻生太郎「いつの間にか騒がれるようになった。マスコミが騒いで、中国も韓国も。ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうかね」――

 記事解説。〈憲法論議は静かな環境で進めるべきだとの認識を強調したものとみられるが、ナチス政権の手法を肯定したとも取れる発言で、波紋を呼ぶ可能性がある。〉――

 この発言への認識を問われた菅官房長官の7月31日の記者会見。

 菅官房長官「麻生副総理が答えるべきだ」

 要するに言った本人に聞いて貰いたいということなのだろう。
 
 記事解説は、〈ナチス政権の手法を肯定したとも取れる発言〉としているが、憲法改正の手口を学べと言ったので、ナチス憲法の条文そのものを学べと言ったのではないと言われたらどうするのだろう。

 インターネットで掻き集めた知識で、おおまかに概観すると、ワイマール憲法は第1次世界大戦(1914年~1918年)に敗れて国が混乱していた翌年の1919年8月11日に制定、第1条で国民主権を規定していて、近代憲法が自由権に絶対的価値を見出していたのに加えて社会権の保障を謳って現代憲法への転換がなされ、その後に制定された諸外国の憲法の模範となったという。

 【自由権】「個人の自由が国家権力の干渉・介入を受けることのない権利。現憲法に於ける信教・思想・良心・表現・集会・結社・居住・移転の自由など自由権的基本権。」(『大辞林』三省堂)

 【社会権】「個人の生存、生活の維持・発展に必要な諸条件を確保するために国家に積極的な配慮を求める権利の総称。現行憲法は生存権・教育権・勤労権・勤労者の団結権・団体交渉権・争議権を規定している。」(同『大辞林』三省堂)

 だが、膨大な戦争賠償を抱えた敗戦後の国力低迷とインフレ下の国民の生活苦の混乱に加えて、1929年のアメリカ・ニューヨークウォール街の株価大暴落に端を発した大不況がヨーロッパにも波及、世界恐慌化して、さらなる打撃をドイツに与えることになった。

 第1次世界大戦敗戦の自信喪失と社会の混乱に見舞われたドイツ国民にはヒトラーのドイツ民族の優越を訴える、あの激しい奇矯な演説に国民はリーダーシップを感じて熱狂したのだろう、世界恐慌の翌年の1930年、ドイツの総選挙でナチスは党勢を9倍に伸ばす大躍進を記録、1933年、ヒトラーはついに首相の座を手に入れて、ヒトラー政権を発足させる。

 ヒトラーはワイマール憲法を他処に1933年、議会多数派を利用して野党の反対を押し切り、立法府(立法を担当する機関。国会)が行政府(政府)に立法権を含む一定の権利を認める、5年間の時限法である全権委任法(授権法)を成立させ、ワイマール憲法を死文化させることになった。

 要するにヒトラー政権は国会が持つ立法権を政府が握って、政府一存で政府が望む法律を制定することができるようになり、ナチス以外の政党の解散を命じた。独裁権力の成立である。

 このような一連の出来事は憲法をいくら民主的な思想で成り立たせていても、議会最大勢力の政治的恣意によって、憲法の民主的な精神は抹殺し得るということを教えている。

 麻生太郎の頭の中ではヒトラーはナチス憲法を手に入れるために「落ち着いた世論の上に成し遂げる」手口を用いたということが事実として記憶されている。

 あるいは「(国民が)騒がないで、納得して変」えていく手口を使ったということが事実として記憶されている。

 だが、手口はそうであっても、独裁権力を可能にするという目的があって、その目的に対応させた手口であることも見逃してはならない事実である。

 手口は目的としたものを周囲の状況に対応して手に入れるために決まってくる。手口が目的を伴うと言うこともできる。当然、目的に向けた手口ということになって、目的が違えが、手口もそれなりに違ってくる。

 いわば周囲の状況の中で手口と目的は切り離すことのできない関連性によって相互に結び付けられている。手口の中に既に目的が含まれていると言うこともできる。

 そうである以上、手口だけを学べばいいというものではない。頭の程度が知れているから、自分では気づいていないだろうが、手口を学びさえすれば、済むと思っている。

 ヒトラーがどのような目的を持ってその手口を用いたかを考えもせずに手口を学ぶべしと勧める頭の程度は如何ともし難い。

 だが、何よりもワイマール憲法という、その当時としては最先端の民主憲法下のヒトラーの独裁権力掌握が教えている、憲法をいくら民主的な思想・条文で成り立たせていても、議会の最大勢力の政治的恣意によって、憲法の民主的な精神は抹殺し得るという教訓、憲法とて絶対的ではないという示唆は常に学ぶべき知識としていなければならないはずだ。

 既に安倍憲法改正思想は前文で、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」と、天皇を上に置いた国家を先に持ってきて、当然、国民を下に置くことになる“国民主権”を謳い、基本的人権の中に関しても、「公益及び公の秩序に反しない限り」と、「公益及び公の秩序」の範囲、あるいは内容を国家権力が決め得る、いわば決定に国家権力の介入の余地を持たせた国家権力主体の基本的人権となっているのである。

 安倍晋三が独裁権力とまでいかなくても、静かな遣り方で「誰も気が付かな」い間に国家権力を次第次第に強めていき、一方の国民主権、基本的人権が弱められる方向に向かわない保証はない。

 あるいは麻生太郎が「ヒトラーの手口を学んだらどうだね」と言ったことが、手口が目的を伴う関係から、安倍政治の国家主義化の予言とならない保証もない。

 気をつけるべき麻生太郎の発言と見るべきだろう。

コメント (1)
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