猪瀬直樹東京都知事が8月23日定例記者会見で「4・4・4制」の小中一貫校の学校制度改革で「ノーベル賞を受賞した山中伸弥京都大教授のような人材を輩出したい」と抱負を語ったという。
《【猪瀬直樹知事会見詳報】4・4・4制の小中高一貫校で「山中伸弥教授のような人材を」》(MSN産経/2013.8.25 07:00)
冒頭発言の学校制度改革に関わる個所。
猪瀬知事「次に、都立の小中高一貫教育について。公立では全国初となる都立小中高一貫教育校を平成29年4月に開校することにしたのでお知らせします。この学校は現在の『6・3・3』という学校制度にとらわれず、4年ごとの『4・4・4』という新たな区切りで実施します。学年を越えた学習内容の先取りを行い、義務教育9年間の学習を8年で終了し、実質的な飛び級を実現するほか、海外留学や専門的な学習を行う時間を充実させます。場所は都内の広い範囲から通学が可能で、周辺の環境に恵まれているところとして、小学校4年までは駒場東大前の旧都立芸術高校跡地、小学校5年から現在の都立武蔵高校付属中学としました。
こうした取り組みを東京モデルとして全国に発信し新しい教育システムの構築を国に提案していく。小中高の12年間にわたる一貫教育は、受験に区切られることなく学びたいことをじっくり学ぶことが可能で、特に理数系の分野で効果を発揮することが期待されている。新しいかたちの学校で理数を中心に世界で活躍できる、ノーベル賞受賞者の山中(伸弥・京大)教授のような人材を輩出していきたい。理数で発想力のあるそういう人材を育てていきたい。今後1学年の学級規模や途中段階の募集など、開校に向け課題についてこれから詰めていくところがあります」――
質疑応答に於ける学校制度改革に関わる発言。
記者「都立一貫校について。4・4・4制は画期的だが、卒業入学式や学校に合わなかったときの転校などさまざまな課題がある。4・4・4制について知事の考えを」
猪瀬知事「6・3・3制の何が問題なのか。中学受験、高校受験、大学受験と、一貫した教育の流れが分断されてしまう。そうじゃない新しいスタイルをつくりたい。すでに小中一貫、中高一貫はあるが、小中高一貫で実質飛び級ができる、ということを可能にしたい。飛び級ができるからといって、ただエリートを育てるというわけではない。より進んだ能力に合わせ、新しい発想で、海外留学を含め別のこともできるかなと。6・3・3で分断されている現在の教育システムに改革を与える。ただ、ずっと小中高同じところにいてうまくいかないケースもあるかもしれない。それは、4・4・4の中で考えていきたい」
記者「導入すると小学校入学時に入試が行われるが、受験の低年齢化に拍車をかけないか」
猪瀬知事「小学校受験って一体何をやるんですかね。つまり、中学受験なら詰め込みのような受験がありますが、小学校に入るときは少し余計に字が書けたとか余計に算数ができたとか、そういうことが小学校に入る基準にはならない。それは受験とは関係ない入り方になると思う」
記者「理数系の適正を見極めるということだが」
猪瀬知事「適正を見極めるのは試験とは別ですね」
記者「世界に通用する理数系の人材育成をするとのことだが、そうした高度な教育をしている私立学校は東京に集中している。一方で低所得世帯は進学率が上がらず貧困の連鎖から抜け出せないという現状がある。そうした受け皿作りを公教育はもっとやるべきではないかという考え方もあるが」
猪瀬知事「これが一つの受け皿じゃないですか。つまり私立に行かないで、公立でさまざまな可能性を探ることができるわけです」(以上)
最初に断っておくが、ノーベル賞受賞者の山中教授のような優れた逸材は滅多に輩出されるわけではない。
山中教授は4・4・4制の小中高一貫校で輩出されたわけではなく、6・3・3制小中高の学校制度下で生み出された。
と言うことは、自ずと結論が見えてくる。
いわば6・3・3制小中高の学校制度を4・4・4制の小中高一貫校に改革したとしても、山中教授のような優れた逸材は滅多に輩出されるわけではないということである。
猪瀬都知事の狙いが4・4・4制小中高一貫校化による理数系の人材育成にあるのは明らかである。だからこそ、山中教授の名前を上げたのだろうが、小中高一貫校化によって「特に理数系の分野で効果を発揮することが期待されている。新しいかたちの学校で理数を中心に世界で活躍できる、ノーベル賞受賞者の山中(伸弥・京大)教授のような人材を輩出していきたい。理数で発想力のあるそういう人材を育てていきたい」と、「理数系」を強調している。
要するに4・4・4制小中高一貫校を理数系の人材育成の土壌としたいということなのだろう。
ではなぜ、6・3・3制小中高は自らの学びの場を理数系の人材育成の土壌とすることができなかったのだろうか。6・3・3制でも、小学校では算数・理科、中学校では数学・理科、高校では数学・化学・物理と理数系の時間をそれなりに用意していたはずだ。
だが、猪瀬都知事は6・3・3制では理数系育成の場としては不適格だと見做している。
ここに矛盾が生じるが、6・3・3制のそれなりの理数系の時間に対して理数系育成の場足り得ていないということは理数に興味を持たせる教育ができていない、教師の質の問題という答しか出てこないはずだ。
もし教師の質の問題であるなら、4・4・4制で6・3・3制よりも理数の時間を増やして理数に重点を置いた教育を展開したとしても、それ程の効果は出ないことになるし、逆に理数に興味を持たせる教育のできる教師を増やすか、興味を持たせることができるよう、教師の質を高めることができれば、4・4・4制でなくても、6・3・3制であっても構わない理屈となる。
日本の教育は考える教育を必要としながら、知識詰め込みの暗記教育から脱することができずに考える教育とはなっていないと言われている。
と言うことは、日本の教師は詰め込み教育を得意な資質とし、考える教育を不得手な資質としているということになる。
ここにこそ問題があると見るべきか、猪瀬知事のように学校制度に問題があると見るかである。
前者であるなら、ブログ記事題名通りに、猪瀬都知事が言うように「4・4・4制」小中高一貫校化で山中伸弥教授並みの人材輩出は可能かということになる。
後者であるなら、「4・4・4制」小中高一貫校こそが理数系人材育成に適う可能性の場と言うことができるかもしれない。
それでも尚且つ、ノーベル賞受賞者の山中教授のような優れた逸材は滅多に輩出されるわけではないし、山中教授は4・4・4制の小中高一貫校で輩出されたわけではなく、6・3・3制小中高の学校制度下で生み出されたのだと言わざるを得ない。
と言うことは、6・3・3制が考える教育とはなっていないのだから、山中教授という逸材の輩出は山中教授自身の考える能力を含めた資質と可能性への追求に負ったものと考えざるを得ない。
猪瀬知事は「12年間にわたる一貫教育は、受験に区切られることなく学びたいことをじっくり学ぶことが可能」と言っているが、日本の教育は、考える養育ならそうはならないはずだが、詰め込み式の暗記教育に慣らされた結果、試験の存在が児童・生徒の学力(詰め込みの暗記知識が主体の学力だが)向上の尻を叩く側面を有することが否定し難く、4・4・4制によってテストの成績を下げた場合、ゆとり教育の時のように大騒ぎとなって、4・4・4制反対の声が上がらないとも限らない。
猪瀬都知事の提案で唯一賛成なのは、「専門的な学習を行う時間を充実させます」という発言である。
猪瀬都知事が意図する「専門的な学習」が学校が決めた教科に対応させて学年毎にそれぞれに決めたレベルの専門性を目指す学習としているのかしていないのか分からないが、多分前者だと思うが、前者だとすると、日本の学校が“児童・生徒の多様な可能性”を言いながら、テストの成績やスポーツの能力といった限定された少数の可能性(=専門性)を問う場としている自らの矛盾・不作為に同調する猪瀬都知事の意図となる。
厳密な意味で、“児童・生徒の多様な可能性”に応え、それらを問う場とするためには児童・生徒一人ひとりが持つ可能性のうち、共通項を持つことのできる可能性を集約して一つの専門教科とするクラス編成を行って、(例えばダンスを自らの可能性としている児童・生徒と歌うことを自らの可能性としている児童・生徒は一つのクラスに纏めることができる。)可能性の問いに漏れがないようにする、あるいは不公平のないようにする学校改革を通して、集約した可能性を専門性としていくプロセスが必要となる。
このように学校がすべての児童・生徒の可能性に応えて、どのような授業であっても、すべての児童・生徒に有意義な時間とするためには上記可能性の専門性化は学年に応じて学校が決めた一定のレベルを求める場合と、児童・生徒それぞれが自発的にレベルを決めていく二極化が必要となる。
前者は大学進学に対応した可能性の専門性化であり、後者は自らに適した可能性の追求を通して学校を有意義な場とするための専門性化となる。
このことは2008年11月18日当ブログ記事――《日本の教育/暗記教育の従属性を排して、自発性教育への転換を - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いた。
約5年も経つから、認識に違いが生じているかもしれないし、付け足しの文言もあるが、基本のところは変わらない。