南アフリカ大使が2月11日(2015年)の産経新聞に載せた曽野綾子のコラムが人種隔離政策のアパルトヘイトを許容するものだとして産経新聞に文書で抗議したとマスコミが伝えていた。
かつて教育再生実行会議委員を務め、「学校教育の場では日の丸を掲揚し、君が代をきちんと歌わせるべし」と主張し、教育についての議論・提言も多い、教育家としての一面を備えた曾野綾子である。人種差別的な思想の持ち主ということになったなら、マズイじゃないか。
どんなコラムなのかネット上を探し、やっと見つけ、そこから拝借することにした。
《産経新聞『曽野綾子の透明な歳月の光 労働力不足と移民』全文》( テレビ大菩薩峠/2015年02月15日)から拝借した。
《透明な歳月の光》 「労働力不足と移民 適度な距離」保ち受け入れを」〉(曾野綾子/産経新聞2015年2月11日)
最近の「イスラム国」の問題など見ていると、つくづく他民族の心情や文化を理解するのはむずかしい、と思う。一方で若い世代の人口比率が減るばかりの日本では、労働力の補充のためにも、労働移民を認めなければならないという立場に追い込まれている。
特に高齢者の介護のための人手を補充する労働移民には、今よりもっと資格だの語学力だのといった分野のバリアは、取り除かねばならない。つまり高齢者の面倒を見るのに、ある程度の日本語ができなければならないとか、衛生上の知識がなければならないとかいうことは全くないのだ。
どの国にも、孫が祖母の面倒を見るという家族の構図はよくある。孫には衛生上の専門的な知識もない。しかし優しければそれでいいのだ。
「おばあちゃん、これ食べるか?」
という程度の日本語なら、語学の訓練など全く受けていない外国人の娘さんでも、2、3日で覚えられる。日本に出稼ぎに来たい、という近隣国の若い女性たちに来てもらって、介護の分野の困難を緩和することだ。
しかし同時に、移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らねばならない。条件を納得の上で日本に出稼ぎに来た人たちに、その契約を守らせることは、何ら非人道的なことではないのである。不法滞在という状態を避けなければ、移民の受け入れも、結局のところは長続きしない。
ここまで書いてきたことと矛盾するようだが、外国人を理解するために、居住を共にするということは至難の業だ。
もう20~30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。
南アのヨハネスブルクに一軒のマンションがあった。以前それは白人だけが住んでいた集合住宅だったが、人種差別の廃止以来、黒人も住むようになった。ところがこの共同生活はまもなく破綻した。
黒人は基本的に大家族主義だ。だから彼らは買ったマンションにどんどん一族を呼び寄せた。白人やアジア人なら常識として夫婦と子供2人くらいが住むはずの1区画に、20~30人が住みだしたのである
住人がベッドではなく、床に寝てもそれは自由である。しかしマンションの水は、一戸あたり常識的な人数の使う水量しか確保されていない。
間もなくそのマンションはいつでも水栓から水のでない建物になった。それと同時に白人は逃げ出し、住み続けているのは黒人だけになった。
爾来、私は言っている。
「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」
移民とは自由意思に基づき平和的に生活の場を外国に移し定住する人のことであるとネットで解説されているが、定住年数やその他の条件によって国籍取得も可能となる自由を保障されている。
ところが曽野綾子が言っている労働移民は移民としての法的身分を厳重に守らせる制度の必要性と彼ら移民を日本人とは隔離した専用の居住区に人種別に住まわせる必要性を訴えているところを見ると、移民と言うよりも、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーン等の中東諸国がフィリピンやバングラデシュ、インド、パキスタン、スリランカ等から受け入れている出稼ぎ労働者を念頭に置いてこのコラムを書いたようだ。
そもそもからして入国を認められて以降の定住地の選択は個人の自由意志に基づく決定事項だが、専用居住区への定住は法(=国家権力)の意志に基づく決定事項となって、移民の条件から外れることになる。
どう見ても労働移民ではなく、出稼ぎ労働者の受け入れを考えてのコラムとしか見えない。
だが、例え出稼ぎ労働者受け入れであっても、日本人という人種から隔離し、その上、「白人、アジア人、黒人というふうに」出稼ぎ労働者の人種別にそれぞれの専用居住区を決めてお互いを隔離するという思想は人種別のゲットーを決めて、例え夜間や休日のみであっても、そこに閉じ込めることを意味して、人種隔離政策(アパルトヘイト)の性格を持つことになる。
南アフリカの人種隔離政策(アパルトヘイト)が白人優越主義の決定的な表現であったように曽野綾子の人種隔離思想は明らかに日本人優越主義を色濃く漂わせることになる。
自己民族優越主義はまた自己人格肯定と他者人格否定を構造とする。自己民族を絶対者に位置づけているということである。
南アフリカの白人が自己を絶対者に位置づけていなければ、居住区を白人から隔離して黒人を専用居住区に閉じ込めたり、白人専用のバスと黒人専用のバスを決めたり、白人専用の学校と黒人専用の学校に分けて、共に生活することも共に学び合うことも禁止することはなかったろう。
人口減少で人手不足が顕著になっている。特に安い賃金で過酷な労働現場となっている介護の分野の人手不足は大きな問題となっている。「衛生上の専門的な知識」や堪能な日本語能力など求めずに簡単な日本語が話せさえしたら、「日本に出稼ぎに来たい、という近隣国の若い女性たちに来てもらって、介護の分野の困難を緩和」すべきだ、だが、居住区は日本人と隔離しなければならないと言っていることは相手の人格を考えない、自分たちの人格だけを満足させて日本人を絶対者に置く優越主義からの発想そのものであろう。
だが、一転して「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる」と言って、日本人の人格と外国人の人格を平等と見做して、日本人を絶対者に置いてはいない。そして続いて、「しかし居住だけは別にした方がいい」と言って、居住に限った自己人格肯定と他者人格否定だとしている。
ここにこそ最悪の問題点が存在する。
居住区に限った日本人からの隔離であるとしたとしても、日本人から隔離され、その上人種別に小分けされて隔離されたそれぞれの外国人が果して心の底から日本人に信頼を寄せて「事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる」人種融合を行動として示すことが果してできるだろうか。
隔離そのものが日本人の絶対化と外国人の人格否定を発想としているのである。信頼は相互に人格を認め合うことによって成り立つ。人格の対等性を基盤としない信頼など存在し得ない。
特に人種融合の信頼は厳格な人格の対等性を必要とする。
その対等性を認めない出稼ぎ労働者の受け入れでありながら、「一緒にやれる」はずもないことを「一緒にやれる」と矛盾したことを言う。
曽野綾子の最後の言葉の矛盾はコラム全体が日本人を絶対者に位置づけた日本人の人格肯定と外国人の人格否定を趣旨としていることからも、「居住だけは別にした方がいい」とする主張を正当化するために持ち出した方便――「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる」の偽りの言葉に過ぎない。
このことの証明に戦時中の朝鮮人強制連行労働を挙げることができる。特に炭鉱に強制連行された朝鮮人は平均労働時間が1日12時間を超える過酷な労働と、日本人の半分程度の賃金、強制貯金と労務係のピンハネ、居住は狭いタコ部屋に多人数が閉じ込められ、まずくて少ない食事で高い死亡率にあったというが、彼らは果たして人格の対等性がないままに日本人に信頼を寄せるという倒錯を無視してまで日本人を信頼して炭鉱労働に従事できただろうか。
日本人は常に絶対者として強制連行の朝鮮人労働者に君臨していた。だから、虫けらのように扱うことができた。
悲しいことに曽野綾子は有識者として教育問題に多く関わりながら、自身の外国人出稼ぎ労働者受け入れの思想が彼ら外国人の人格を否定し、日本人の人格肯定一辺倒の、日本人を絶対者に位置づけた日本人優越主義を内面に抱えていることに気づいていない。
にも関わらず、平気で「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる」と人種融合を言う。その無恥・鉄面皮は素晴らしい。