国家主義者安倍晋三が2月17日午前中の参院本会議代表質問で主権者教育の推進を表明したという。与野党が近く選挙権年齢を「18歳以上」に引き下げる公職選挙法改正案を提出することを踏まえてのことだそうだ。
国家主義者が主権者教育を口にするとは一種のパラドックスである。民主主義の時代の国家主義者は限りなく主権を国民から遠ざけて、国家に主権を置きたい衝動を抱えているはずだからだ。
安倍晋三の答弁は誰かの作文なのだろう。今の時代、そう言わざるを得ない。
安倍晋三「若者の声が政治に反映されることは大変、意義のあることだ。若い世代の投票率の向上に向けて最も重要なことは、国や社会の問題を自分の問題として捉え、考え、行動していく主権者を育てることであり、学校教育と選挙管理委員会、地域が連携し、あらゆる機会を通じて主権者教育を進めていく」(NHK NEWS WEB)
要するに主権者であることの自覚を求める教育と言うことであろう。その自覚を持った「国や社会の問題を自分の問題として捉え、考え、行動していく」自律的な社会的行動性を担うことへの期待である。
基本的には自律性のススメである。
【自律性】
1 他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動すること。「―の精神を養う」⇔他律。
2 カントの道徳哲学で、感性の自然的欲望などに拘束されず、自らの意志によって普遍的道徳法則を立て、これに従うこと。」⇔他律。(「goo辞書」)
教育は、あるいは教育や教えという形で受け取る、人が人として社会的に生存していくことに必要な様々な考え・思想は大人から子供に伝えられる。主権者教育も同じで、もし大人が主権者であることの自覚を総体的に自らの精神としていたなら、安倍晋三みたいな国家主義者がわざわざ言い出さなくても、親と子供、教師と児童・生徒の日常普段の関係の中で自ずと受け継がれていくはずである。
わざわざ言い出さなければならなかったということは日本の大人たちの多くが主権者としての自覚を有していないということでなければならない。
その証拠の一つは昨年2014年12月14日投開票の自民党大勝の総選挙に現れている。総選挙での投票率としては戦後最低だった前回2012年の59.32%を大きく下回る56.44%を記録。都道府県別では8県で50%割れ、全ての都道府県で60%に届かなかった。
有権者数約4900万人。約2766万人が投票。約2135万人が棄権。約1.8人に1人が投票。1.2人に1人が棄権。
自らの声を政治に反映させるという主権者としての基本的な行動を多くの有権者が放棄した。
また有権者をして主権者としての基本的な行動を放棄させるに至らしめている政治の側の責任もないとは言えないはずである。国民の側の主権者としての自覚と政治の側の国民の信託を受けていることの自覚の相互欠如が反映し合っている結果の大量棄権であろう。
いわば自民党大勝にしても野党敗北にしても、両自覚の欠如の上に成り立った。
そもそもからして主権者とは国家の主権を有する者を言う。日本国憲法はその前文で次のように主権者を規定している。
〈日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。〉
国政の権威は主権者である国民に由来する。だが、国政の権威が堕ちたからなのか、国民が主権者としての自覚を未成熟なままにしているからなのか、卵が先か鶏が先なのか分からないが、投票を介した信託は満足に機能していない。
日本国憲法が国民主権を規定している以上、基本的には主権者としての自覚は日本国憲法の三大要素の残る二つ、基本的人権と平和主義を自己存在性の基盤に置いて自己を律し、「国や社会の問題を自分の問題として捉え、考え、行動していく」自律的な社会的行動性を見い出し、確立していかなければならない。
そうでなければ、日本国憲法の精神は日本人の血肉に根づいていないことになる。
基本的人権と平和主義を自己存在性の基盤に置いた自律性の確立と言い換えることができる。
だとすると、安倍晋三は一方で主権者教育の推進を言い、一方で靖国参拝を正当化することは矛盾することになる。
同じ2月17日だが、その午後の衆院本会議代表質問で共産党の志位和夫委員長の2013年12月の靖国神社参拝に対する質問の答弁として靖国参拝に言及している。
安倍晋三「国のために戦い尊い命を犠牲にした方々に対し、尊崇の念を表し、ご冥福をお祈りするのは国のリーダーとして当然のことだ。
(閣僚の参拝について)もとより自由だ」(時事ドットコム)
戦前の日本国民は主権を有していなかった。主権は天皇にあると大日本帝国憲法は規定していた。基本的人権も満足に認められていなかった。国政や軍を批判すると、国賊だ、非国民だ、英米のスパイだと糾弾された。政府や軍に批判的な集会は禁止され、強行した場合、あるいは秘密裏に開催して露見した場合、逮捕され、時には刑務所に収監された。
いわば基本的人権と平和主義を自己存在性の基盤に置いた自律的な社会的行動性に則って活動することは許されず、それを当然のこととして慣らされていた。
個人の権利・自由よりも国家を至上の存在としてその利益を優先させる国家主義に支配され、国民は天皇と国家に奉仕する存在とされていたからである。戦死は国民にとって天皇と国家に対する奉仕の最大級の表現であった。
だから、特攻にしても玉砕にしても進んで戦死を目的とすることができた。
靖国に祀られるということは奉仕の誉れある最大級の褒賞、あるいは生存の最大級の証しであった。
だが、このような天皇・国家と兵士、あるいは国民との関係性は国民が自律的存在ではなく、他律的な存在、あるいは天皇と国家に対して従属的存在であることによって成立可能となる。
当然、靖国参拝は天皇と国家への奉仕を最終的、最大限の表現とした他律性からの戦死を国家主義に立って顕彰するものとなる。
安倍晋三は靖国参拝によって「国のために戦い尊い命を犠牲にした」と、天皇と国家への奉仕であった戦死を讃え、讃えることで天皇及び国家と兵士をそのように関係づけている国家主義を、「尊崇の念を表し、ご冥福をお祈りするのは国のリーダーとして当然のことだ」と正当化していることになる。
既に書いたように主権者教育は戦前の日本軍兵士が天皇と国家への最大級の奉仕を戦死と定め、実行した他律的・従属的行動性とは真逆の基本的人権と平和主義を自己存在性の基盤に置いた自律的な社会的行動性――自律性を教え育むものである。
だが、安倍晋三は靖国参拝を通して前者の他律的・従属的行動性を讃え、戦前の国家主義を戦後生まれながら自らの資質としている国家主義に立って正当化していながら、その一方で民主主義下で十全に可能となる後者の自律的行動性を育む教育を言う。
前者・後者の矛盾した関係性は後者をニセモノとしなければ、成り立たない。ケースバイケースで演じ分けることはできるが、本質的に両者をホンモノとすることはできない。