『生活の党と山本太郎となかまたち』PR
《2月24日(火)山本太郎共同代表記者会見要旨・党HP掲載ご案内》
「今国会ではとんでもない危険な法案が沢山考えられています」山本太郎代表
【質疑要旨】
自公が進めている安全保障議論について
辺野古での抗議市民の逮捕事件について
選挙年齢の18歳への引き下げと若者からの支持拡大策について
統一地方選挙での擁立候補者の目標数並びにその発表時期について
街頭記者会見について
小沢一郎代表の韓国訪問について
西川公也・前農水相の辞任について
川崎市の多摩川河川敷で中学1年生の上村遼太(13)の首を刃物で刺された死体が発見されたのは2月20日。
新聞は「上村遼太さん」とか、「上村遼太君」と書いているが、何故か他処よそしい。特に前者は13歳の、大人から見たらまだ幼い少年に対する呼び方からすると、例え一個の人格として扱うにしても、距離を置いた表現に思えてしまう。マスコミにしたら呼び捨てにはできないだろうが、父親や母親が自分の子供を例え呼び捨てたとしても、父親失格者でなければ、あるいは母親失格者でなければ、そこに常に親しみが込もっている。当たり前に生きていたときの少年に対する親しい人間であったかのように装うことにして呼び捨てにすることにした。
昨日2月27日の衆院予算委員会でもこの事件を取り上げていた。
文科相のエセ教育家下村博文は痛ましげな声の調子を作っていたが、原稿を読んで次のように答弁していた。
下村博文「一般的には生徒が連続して長期間欠席したり、欠席日数が急に増えたりした場合は、電話連絡や家庭訪問などによる欠席理由を把握し、必要があれば警察や児童相談所と連携しつつ、早期に対応するのが通例であると承知をしております。
本件の場合にそういう対応が十分になされたのか、子どもを守る点での対応に不足がなかったのかどうか、しっかりと検証していく必要があります。この事件を検証し、二度とこのような事件が起きないように実効ある再発防止策の策定につなげるために本日、丹羽副大臣を主査とするタスクフォースを設置致しました」――
事務的な響きしか聞こえてこない。
以下の答弁は「NHK NEWS WEB」記事を利用した。
安倍晋三「なぜこのようなことが起こり、果たして防ぐことができなかったのかと思う。子どもたちを守るのは私たち大人の責任だ。できることは何でもやっていくという思いで、今後取り組んでいきたい。学校や教育委員会、警察や児童相談所との連携が十分だったのかも含めて検証しながら、再発防止策をしっかりと考えていかなければならない。こうしたことを二度と起こさないという決意で臨んでいく」
山谷右翼国家公安委員長「子どもは国の宝、未来の宝だ。前途ある少年が殺害されたことに胸が痛む。平素から警察は、学校、教育委員会、児童相談所などと枠組みを作り、連携し、情報収集に当たっている。子どもたちの安全確保と健全育成は、安全・安心社会の基盤だ。今回のようなことが起きないように、今後より一層、関係機関との連携に努め、早期の把握、情報収集、的確な対応を検証し直して、この痛みを胸と体に刻みながら、再発防止に努めていきたい」
塩崎厚労相(閣議後記者会見)「少年が悲惨な事件の犠牲となったことは残念だ。こうした事件が二度と起こらないようにするため、しっかりと検証することが大事であり、児童相談所などの制度の下で何を改善すればいいのか考えたい。関係省庁ともしっかり連携していきたい」
悲惨な事件が起きてしまってから、「二度とこのような事件が起きないように」とか、「二度と起こさないように」とか、「再発防止に努める」と決まって言う。
そしてこれらを決まり文句とし、「検証」と「再発防止」の呼びかけを決まりきった取り組みとする。この繰返しである。
学校関係者にしても同じ穴のムジナとなっている。遼太が通っていた中学校の校長。
「容疑者が逮捕されたとはいえ、上村さんの不幸に変わりはなく、お悔やみのことばしかありません。欠席が続いたときに学校として、もっとできることがなかったか反省することはあると思う。教育委員会と連携して十分に検証していきたい」
遼太が一昨年7月まで通っていた島根県隠岐諸島の西ノ島町にある西ノ島小学校の金築康治校長。
「何をしても遼太君は帰ってこないのだから、事件に対する怒りよりも、今はとにかく静かに祈りをささげたい思いです。彼の死をむだにしないよう、私たち教育関係者も事件の再発防止に取り組んでいかなければならないと思います」
福田紀彦川崎市長「被害にあった生徒に改めてご冥福を祈りたいと思っています。逮捕された少年が市内在住なのか、それとも市内の高校生なのか、まだ情報がないですが、仮にそうだとすれば、大変深刻な問題だと受け止めています。被害に遭った生徒本人によるSOSを私たち大人がしっかりと受け止められなかったことに深く反省するとともに、これからどうすべきなのか、しっかりと詰めていかなければいけないと思います」(以上NHK NEWS WEB)
市長は加害者が市内在住か市外在住か気にしている。加害者がどこに住んでいようと事件の深刻さは変わらないはずだが、市内在住によって事件の深刻度が増し、市外在住によって深刻度が和らげられると密かに思っている。
市外在住なら、ホット一息つけるというわけなのだろう。事件そのものも市外在住者の間で起きて欲しかったと願っているに違いない。そして直接的な言葉は使わなかったが、「被害に遭った生徒本人によるSOSを私たち大人がしっかりと受け止められなかったことに深く反省するとともに、これからどうすべきなのか、しっかりと詰めていかなければいけないと思います」という表現で検証と再発防止を言っている。
「二度と起きないように」を決まり文句とし、「検証」と「再発防止」の呼びかけの繰返しに過ぎないことは既に何度も同じような事件が起きていることが証明している。自殺と他殺の違いはあっても、1994年の大河内清輝君イジメ自殺事件、2011年10月の大津中2イジメ自殺事件、自殺にも殺人にも至らなかったが、2000年4月発覚の中2男子をイジメた上に金銭を恐喝し、その金額が5000万円にも達した名古屋市緑区5000万円少年恐喝事件。
但し最後の事件は主犯格の少年は恐喝事件発覚を恐れて、「中2男子の殺害計画を立てていたことも判明している」と「Wikipedia」には記述されている。
そして今回の事件。
似たパターンで繰返されている。大人の世界での似たパターンは1972年2月の12名の仲間をリンチに掛けて死に至らしめた連合赤軍リンチ事件、2012年10月に兵庫県尼崎市で発覚した2015年1月25日現在死亡9名・行方不明者2名の角田美代子(自殺時64歳)による連続殺人死体遺棄事件を挙げることができる。
全ては暴力や威しを用いた恐怖心の巧みな植えつけを手口として権威主義的な支配と従属の関係を築き上げて言うことを聞かす人間操作術を同じパターンとして踏んでいる。
いわば恐怖心の植え付けが権威主義的な支配と従属の関係をより良く築き上げる力となる。
イジメは、児童・生徒のイジメであろうと、大人のイジメ(上の地位の者による下の地位の者に対する常識を超えた絶対的な服従欲求)であろうと、全てこのような人間関係を基本的構造としている。このような支配と従属(=イジメ)の行き過ぎた形態がときによってイジメ被害者の自殺への発展であり、イジメ加害者によるイジメ被害者に対する殺人となって現れる。
恐怖心を言うことを聞かす力として支配と従属の人間関係を取ったイジメの行き過ぎた同じパターンの事件が繰返されている以上、「検証」と「再発防止策」を大河内清輝君イジメ自殺事件後に、あるいは同じパターンのイジメ自殺事件、あるいはイジメ殺人事件がそれ以前にもあったかもしれないが、その場合はそれ以後に有効性ある形で成し遂げて、それを以て「二度と起きないように」の決意を言葉だけで終わらない形としなければならなかった。
勿論、「検証」と「再発防止策」を十二分に果たし得たとしても、同じパターンの事件が二度と起きない保証はない。
そのためにも学校関係者は「二度と起きないように」という決意を日常普段から心に刻んで日々新にして、一旦構築した「検証」と「再発防止策」を足りないところは補ってより役立つものに生かし続けて、新たな起き得るかもしれない権威主義的支配と従属を人間関係の構造としたイジメとそれが行き過ぎた自殺や殺人の予防に心掛けていなければならなかった。
だが、心掛けていなかった。だから、「二度と起きないように」と同じ決まり文句を繰返し、「検証」と「再発防止策」の同じ呼びかけを行わなければならないことになる。
尤も日々予防に務めていながら同じパターンの事件が起きたら直ちに責任問題に直結するから、予防に努めず、事件が起きたら、同じ決まり文句を繰返し、同じ呼びかけを繰返していれば責任問題にも発展しないで済むのだから、その方が楽なのかもしれない。
もしそうであるなら、安倍晋三や下村博文、あるいは学校関係者たちが口にする子どもの生命(いのち)に関わる言葉は単なるその場凌ぎの言葉となる。
遼太は昨年2014年夏休み以降、バスケットボールの部活を休みがちになり、冬休み明けの1月8日から不登校になったという。担任は母親に何度も電話を掛け、5回に亘って家庭訪問し、2月16日に初めて遼太の携帯番号を知ることができて、その日に本人と話して登校を促したところ、「そろそろ行こうかな」と答えたと「asahi.com」記事が伝えている。
そしてその4日後に死体で発見された。
担任が一生懸命対応している姿が浮かんでくるが、不登校がイジメが原因となっていないだろうかと一度でも想像して、心配したり恐れたりしたことがあるのだろうか。教師である以上、イジメを受けていることも、逆にイジメを働いていることも自分から進んで口にはしない。そしてこのことがイジメの発見が遅れる主な原因となり、多くが行き過ぎたイジメへの発展を放置することになる。
担任が不登校の原因が最悪の事態であるイジメに関係していないかと一度でも想像していたなら、起きているかもしれないが、本人からは聞き質すことが難しいイジメかどうかを明らかにするためには母親や本人と話をするだけではなく、遼太と付き合いのある同級生や付き合いがなくても、目撃者となり得る遼太自身を知っている同級生、その他に不登校の原因を聞いて回ることをしなければならなかったろう。
遼太は友人の一人に「一緒につるんでいる先輩たちから『スーパーで万引きをしろ』と言われ、断ったら殴られた。万引きをしないと認めてもらえない。やりたくないけど、やらないと殴り殺されるかもしれない」とも打ち明けていたと「毎日jp」記事が伝えている。
要するに友達は支配と従属の関係――イジメに巻き込まれている可能性を少なくとも知り得ていた。
担任はこれを危険な関係と見做して、危険な領域から引き出してやらなければならなかった。
これは後付けの知恵に過ぎないだろうか。
権威主義的傾向が強く、学校社会・教育の場で一般的に認められている勉強やスポーツといった能力を自己活躍の手段とし、その活躍によって自己の存在を証明、自己実現をそれなりに図ることのできない児童・生徒はときにそのような果たすことのできない能力発揮の代わりに権威主義的傾向の強さから、自分よりおとなしい児童・生徒、あるいは自分よりも腕力の弱い児童・生徒を探し出して恐怖心を巧みに植えつけて支配と従属の人間関係を巧妙に構築、そこに自己活躍の手段を見い出し、その活躍を自己存在証明とし、自己実現を図るということがある。
支配と従属との関係とは支配者が従属者を言うことを聞かす関係であり、その究極の自己存在証明、究極の自己実現として学校社会・教育の場での一般的な能力では満たすことができない、そのような能力とは正反対の位置にあるイジメが学校社会で自らに残された能力として利用しがちとなる。
そしてイジメを手段とした場合の自己存在証明を確かな形で図ろうとすればする程、自己実現を目に見える形で達成させようとすればする程、イジメは行き過ぎた形態を取ることになる。
2006年11月19日の当ブログ記事――《いじめられている君へ/「文部科学大臣からのお願い」 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に次のように書いた。
〈いじめが自己実現を図る自己活躍行為であり、そのことを自己存在証明とする権力行為であることは1994年11月27日に首を吊った大河内清輝君のいじめ自殺事件のいじめ首謀者が仲間に自分を「社長」と呼ばせていたことが象徴的に証明している。社長と言う地位は一般社会に於ける大いなる自己実現の一つであり、社長行為自体が自己活躍に入り、その全体が優れた自己存在証明となる。
首謀者は清輝君に対して暴力と恐喝を使った権力を通して強制的にカネを貢がせる人間支配を恣(ほしいまま)にし、貢がせたカネで仲間と共にゲームセンターに入り浸ったり、高額な食事を味わったりの豪勢な暮らしに耽った。貢がせたカネを全部自分が所持していて、支払いのたびにさも自分のカネで奢るかのように、いわゆる札びらを切るといったことをしたのだろう。何しろ「社長」なのだから。
いじめを通して清輝君を思いのままに支配した権力行為にしても、社長の地位で思いのままに面白おかしい、彼にしたら豪勢な暮らしに耽った行為にしても、中学生の身分でこれ程の自己実現、自己活躍はなかっただろうし、この上ない自己存在証明であったろう。それを止めるキッカケは清輝君の自殺といじめ側の3少年の逮捕・少年院送致といった物理的要因を待たなければならなかった。教師が輝君を呼び出して、いじめられているのか問い質しても、身体の怪我の原因を訊ねでも、いわば伊吹文部科学大臣のメッセージに当たる問いかけを教師が直接本人に発しながら、いじめが原因だとはついに告白させることができなかった。〉――
であるなら、不登校の原因はやはり同級生その他からの聞き取りに賭けるしかない。
イジメは支配と従属を人間関係の構造とした非常に危険な権力主義的行為であることを常に認識し、おとなしい子や体格の劣る子がその餌食として狙われ安く、しかしイジメる側は体格が左程しっかりしていなくても、力がそれ程強くなくても、多勢を組むことで力を獲得でき、恐怖心を植えつける十分な力となり得ることに考えを巡らせていなければならない。
遼太は体格も小さく、優しい男の子だとネット上に記述がある。遼太に限らず、クラスに似たタイプの生徒がいたら、担任は支配と従属の人間関係に囲い込まれてイジメの餌食に狙われ易いタイプだと見做して、実際に餌食にならないよう注意する必要があるだろう。
学校教師は学校のどこかで、あるいは校外のどこかで児童・生徒同士で権力主義的な支配と従属の人間関係が隠れた姿で幅を利かしているのではないかと常に恐れていなければならない。
勿論、イジメ側の児童・生徒が勉強やスポーツの能力でもない、イジメの能力でもない、学校社会的に肯定し得る自己存在証明となって自己実現を図ることができ、日々自己活躍の手段とし得る能力を提供しなければならない。
学校社会の能力を勉強とスポーツに限定せず、価値観の多様化・能力の多様化を図らなければならない。すべての児童・生徒が学校社会の陽の当たる場所で生き生きとできる日常の提供である。
少なくともそのような姿勢を持たなければならない。