柴山昌彦の天皇全体主義と全体への奉仕を骨格とした教育勅語を普遍的価値あるとした道徳教材化への時代錯誤な意欲

2018-10-05 11:51:21 | 政治
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 国家主義者・戦前回帰主義者の安倍晋三によって今回文科相に任命された柴山昌彦(東大法学部卒、52歳)が親分が自らの精神としている国家主義・戦前回帰主義を自らもお裾分けに与っているのか、10月2日の記者会見で、教育勅語は「現代風に解釈されたり、アレンジしたりした形で使える分野は十分あり、普遍性を持っている部分が見て取れるのではないか。同胞を大切にするとか、国際的な協調を重んじるとかいった基本的な内容を現代的にアレンジして教えていこうという動きもあると聞くが、検討に値するのかなと考えている」などと発言したと2018年10月3日付「NHK NEWS WEB」記事が伝えていた。何と時代錯誤なと思って、実際、どういった発言をしたのか調べてみた。

 「柴山昌彦記者会見」(文科省/2018年10月2日)

 記者「大臣はご自身のツイッターで今年の8月17日に『私は戦後教育や憲法の在り方がバランスを欠いていたと感じています』とツイートされていますが、戦後教育や憲法の在り方がどのようにバランスを欠いていたと感じてらっしゃいますか」

柴山昌彦「その私のツイートの趣旨はですね、やはり教育というのは当然のことながら私たちの権利と共にですね、義務や規律ということについても教えていかなければいけないと、これは当然のことだと思っております。

 ただ、戦前、義務とか規律が過度に強調されたことへの、これもまた大きな反動としてですね、個人の自由とかあるいは権利ということに重きを置いた教育、あるいは個人の自由、非常に最大の価値とする日本国憲法が今制定をされたということだと思っております。そういう中で憲法については、我々、憲法尊重擁護義務のある公務員ですから、ここではその在り方について言及をすることは避けたいというように思うんですけれども、少なくとも教育においてはですね、権利や義務、あるいは規律ということをしっかりバランスよく教えていくと、こういったことがこれから求めらるのではないかと、そういう趣旨でツイートしました」

記者「関連してなんですけれども、教育勅語について、過去の文科大臣は中身は至極まっとうなことが書かれているといった発言をされているわけですけれども、大臣も同様のお考えなんでしょうか。

柴山昌彦「教育勅語については、それが現代風に解釈をされたり、あるいはアレンジをした形でですね、今の例えば道徳等に使うことができる分野というのは、私は十分にあるという意味では普遍性を持っている部分が見て取れるのではないかというふうに思います。

記者「それはどの辺が今も十分に使えると考えてらっしゃいますか。

柴山昌彦「やはり同胞を大切にするですとか、あるいは国際的な協調を重んじるですとか、そういった基本的な記載内容についてですね、これを現代的にアレンジをして教えていこうということも検討する動きがあるというようにも聞いておりますけれども、そういったことは検討に値するのかなというようにも考えております」

 要するに教育勅語を現代風な解釈、あるいは現代的なアレンジを用いて道徳教育の教材にしようと「検討する動きがある」ことを聞いているが、「検討に値する」と断定するのではなく、「検討に値するのかなと考えている」と第三者の「動き」に一応の賛意を示すにとどまっている。

 東大法学部卒ながら、このはっきりしない態度は「検討に値する」と断定した場合の世間の批判的な反応を避ける意味合いがあったからだろう。なぜなら、前段で教育勅語は道徳という点では「普遍性を持っている部分が見て取れるのではないかというふうに思います」と断っているからである。

「普遍性」とは、「すべての物事に通じる性質」を言う。「すべての物事に通じる性質」とは、「物事のどの場面でも本質に於いて共通する性質」を言う。本質的に共通するからこそ通じる。

 つまり柴山昌彦は戦前の教育勅語が求めている日本人としての道徳観は時代が戦後へと変わろうとも、戦後という時代が求めている日本人としての道徳観と本質的には相共通する考えて、教育勅語を現代風な解釈、あるいは現代的なアレンジしさえすれば、戦後の道徳教育の教材として十分に使うことができ、使用は「検討に値するというようにも考えている」ということになる。

 その道徳観の例として、「同胞を大切にする」あるいは「国際的な協調を重んじる」とかを挙げた。

 稲田朋美も教育勅語が求めている「親孝行とか夫婦仲良くとか友達との信頼関係」等々の日本人としての道徳観は「現代でも通用するような価値観」を有していて、教育勅語のそのような道徳観の涵養によって「日本は単に経済大国を目指すのではなくて世界中から尊敬される高い倫理観と道徳心で世界中から尊敬されて、また頼りにされるようなそんな国を目指したい」と発言していた。

 確かに一つ一つの道徳観を取り上げれば、身につけるべき点に於いて戦前であろうと戦後であろうと時代の違いによって変わらないように見えるし、何の問題もないようには思える。

 但し大きな問題を無視しなければである。例え戦前という時代に教育勅語が求めていた日本人としての道徳観が戦後という時代に教えるべき道徳観と本質的に相共通するからといって、教育勅語を戦後の道徳の教材とすることは、教材とすることを求めている側が無視している大きな問題をウヤムヤにすることになって、戦前という時代を肯定しかねない危険性を抱えることになる。

 その理由は教育勅語が前提とし、目的としていたことと戦後の道徳教育が前提とし、目的としていることとは本質的に似て非なるものでだからである。教育勅語は天皇全体主義を前提とし、天皇=国家への奉仕を目的としていた。当然、ここでは個人の自由や自律を制限した道徳の教えとなる。

 戦後の道徳教育は民主主義を前提とし、個人の自由や自律を目的としている。個人の自由・自律は個人的人権として憲法で保障されている。

 「全体主義」とは、「全体の利益を第一とし、個人の権利や利益、社会集団の自律性や自由な活動を認めず、個人の価値は全体に奉仕する点でだけを認める政治体制」を言うとネットで紹介されている。

 教育勅語が天皇全体主義を前提としていることは天皇が国民を「我カ臣民」と呼んでいるところに象徴的に現れている。国民としての自律性を否定し、天皇に対する従属関係を求めている。そこには本来的な意味での自由は存在しない。

 更に教育勅語は「常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」(憲法を重んじ、法律に従いなさい。そしてもし危急の事態が生じたら、忠義と勇気を持って公のために奉仕し、それによって永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい)と、天皇と国家、いわば全体への奉仕を求めている。

 これが教育勅語の目的である。

 当然、教育勅語に書いてある「臣民」が守るべき道徳の教え「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」(汝〈なんじ〉臣民たちよ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲睦まじく、友達とは互いに信じ合いなさい)云々にしても、その他の道徳の教えにしても、目的としている全体への奉仕へと誘導するために求めている良き臣民の姿である。

 かくの如き良き臣民であってこそ、全体への奉仕は誘導しやすくなるし、求めやすくなる。

 天皇全体主義を前提とし、天皇と国家への奉仕を目的とし、個人の自由と自律を認めなかった、そのような背景を持った戦前の教育勅語を背景を無視して、普遍性があるからとこじつけ、現在の民主主義の時代にも通用する道徳観だからと言って道徳教育の教材にしようとする。

 このようなことを一旦罷り通らせたなら、教育勅語を悪者視していたことは間違っていたではないかと勝ち誇らせることになり、現代風な解釈や現代的なアレンジどころか、良き教え・立派な道徳観として教育勅語そのものを道徳教育の教材に格上げしかねない。

 そうなった場合、子どもたちの精神に道徳の教えの姿を借りて教育勅語が求めている天皇全体主義に基づいた全体への奉仕を次第次第に植え付け、自由と自律の精神を侵食していくことになる危険性が生じる。

 大体が天皇全体主義と全体への奉仕を時代的な骨格とした戦前の教育勅語の有用性を戦後の民主主義の時代に持ち出すこと自体が時代錯誤な歴史認識以外の何ものでもなく、そのような時代錯誤の歴史認識に気づかないのは自らの精神のどこかに天皇全体主義と天皇への奉仕精神を血としているからに違いない。

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