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玉城デニーは普天間の辺野古移設阻止で安倍政権を踊らすことができるのか、阻止できないままに自身が踊るだけで終わることになるのか。
10月16日(2018年)から今月20日までの日程でヨーロッパを歴訪中の安倍晋三が靖国神社の秋の例大祭に合わて「内閣総理大臣 安倍晋三」名で真榊を神前に奉納したと各マスコミが伝えた。但し奉納は公費ではなく、私費、安倍晋三のポケットマネーで行ったと言う。
「内閣総理大臣 安倍晋三」と公職名を使いながら、私費の奉納とする。この使い分けの理由が官房長官菅義偉の10月17日午前の記者会見発言で明らかになる。「NHK NEWS WEB」/2018年10月17日 12時27分)
菅義偉「安倍総理大臣が『真榊』を奉納されたという報道は承知している。これは私人としての行動に関するおたずねであり、政府として見解を申し上げる事柄ではない」
真榊を「内閣総理大臣 安倍晋三」という公職名で納めたが、奉納は私費で支払ったから、「私人としての行動だ」と言うことになる。公職名を冠していながら、私人としての行動としていることに釣り合いが取れないが、安倍晋三や菅義偉にとっては釣り合いの取れる事柄なのだろう。
例えば安倍晋三が妻昭恵以外の女性とホテルに泊まる場合、宿泊名簿に「内閣総理大臣 安倍晋三」と記入、宿泊料は自費で支払って、「私人としての行動だ」とするだろうか。あくまでも「私人としての行動」とするなら、宿泊名簿に「安倍晋三」と記入、宿泊料私費とすることによって世間的常識という点で初めて釣り合いが取れることになる。
いわば「内閣総理大臣 安倍晋三」名で真榊を奉納している以上、いくら私費で支払おうと、公人としての行動になるはずだが、「私人としての行動」としている。
靖国神社が日本と中国や韓国、北朝鮮等の国家との間に歴史認識問題を抱えている空間である以上、日本の内閣総理大臣は如何なる理由付けを行おうと、靖国神社を私的空間とすることはできないはずだ。にも関わらず、内閣総理大臣でありながら、日本国家の戦争犠牲者を祀る靖国神社への真榊奉納を「私人としての行動」とすることは靖国神社自体を私的空間としたことになる。
例えば国家を代表してロシアを相手に北方四島返還に努めている安倍晋三が北方四島を単なる旅行したり、ゴルフを楽しんだりする私的空間とすることは果たして許されるだろうか。許されるはずもなく、常に公的空間の扱いとし、その扱いに則った行動を取らなければならないのと同じである。
だが、安倍晋三は「内閣総理大臣 安倍晋三」の公職名を使ってながら、真榊奉納自体を「私人としての行動」としたことによって、靖国神社を私的空間とした。
安倍晋三の靖国神社に祀られた戦争犠牲者=英霊に関わる歴史認識を改めて振り返ってみる。
2005年5月2日、小泉内閣時代の自民党幹事長代理だった安倍晋三はワシントンのシンクタンク「ブルッキングス研究所」での講演で次のように発言している。
安倍晋三(中国が小泉首相の靖国神社参拝の中止を求めていることについて)「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ。国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」
靖国参拝が国の「リーダーの責務」であるなら、真榊奉納に形を変えた靖国神社に祀られている戦争犠牲者に対する尊敬の念の表明にしても国の「リーダーの責務」とすべきであって、だからこそ、奉納しているのだろうが、「内閣総理大臣 安倍晋三」名は便宜的な使用にとどめて、真榊奉納自体を国のリーダーとしての行動ではなく、「私人としての行動」としていることは自らの歴史認識に対する裏切りであって、言っていることと実際の行動とは違うこのような歴史認識の裏切りは、当然、英霊に対する背信行為そのものに相当する。
安倍晋三の2013年2月7日の衆議院予算員会での答弁からも、真榊奉納を「私人としての行動」としていることが如何に英霊に対する背信行為に当たるか、見て取ることができる。
安倍晋三「私の基本的な考え方として、国のために命を捧げた英霊に対して国のリーダーが尊崇の念を表する、これは当然のことだろうと思いますし、各国のリーダーが行っていることだろう、こう思っています。
その中で、前回の第一次安倍内閣に於いて参拝できなかったことは、私自身は痛恨の極みだった、このように思っております」
安倍晋三は「痛恨の極み」を解き放つために第2次安倍内閣発足満1年を期した2013年12月26日に靖国神社参拝を決行した。
「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊」の命を犠牲にする対象は戦前日本国家を措いて他にない。国家のために命を犠牲にするとは命を捧げることを意味する。戦前の日本国家を否定し、その戦争を侵略戦争だと歴史認識していたなら、「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊」などといった歴史認識は形成されない。戦争の犠牲になったと言う前に国家の犠牲になった言うだろう。
安倍晋三たちが抱える国家を対象とした国民の命の奉仕は戦前の日本国家という空間で演じられた国家と国民との間の関係性として存在した。いわば戦前日本国家と国民の関係性を肯定し、理想としているからこそ、犠牲になった場合、「尊崇の念を表する」価値を認めることになる。
だからこそ、戦争の犠牲になったと言うが、国家の犠牲になったとは決して言わない。
当然、靖国神社参拝とは靖国神社を舞台として戦争犠牲者に対する鎮魂の姿を借りた戦前日本国家と国民の関係性を理想とする戦前日本国家称揚の儀式でしかなく、このような儀式を政治の次元で重要としているのは戦前日本国を理想の国家像とし、そのような理想の国家像を戦後日本国家に連続させたいと欲しているからに他ならない。
この連続性への願いが安倍晋三が唱えている「戦後レジームからの脱却」――占領軍によって築かれた戦後体制からの脱却となって現れた。
安倍晋三はこのように戦前日本国家の肯定を出発点とした歴史認識を自らの内に抱えている。そしてこの手の歴史認識に続く政治家がゴマンと存在する。
こういった歴史認識を抱えている以上、「国のために命を捧げた英霊に対して国のリーダーが尊崇の念を表する」と国会で答弁、その他で発言している手前、繰返すことになるが、例え直接の靖国参拝によってではなく、真榊奉納を手段とした英霊に対する尊崇の念の表明であろうと、徹頭徹尾「国のリーダー」として行わなければならない。だが、「内閣総理大臣 安倍晋三」の公職名を記したものの、私費奉納とすることによって「国のリーダー」としての行動ではなく、「私人としての行動」にとどめた。
安倍晋三の歴史認識からしたら、国のリーダーとして君臨している以上、あるいは靖国神社が各国との歴史認識問題を抱えている空間となっている以上、靖国神社を私的空間と位置づけることは不可能で、常に公的空間と位置づけ、国のリーダーとしての行動、いわば公人としての行動を自らの責務としていなければならないはずだが、それを平気で裏切って、英霊に対して背信行為で報いる。
関係改善に向かいつつある中韓との摩擦が公人として行動するよりも私人としての行動とする方が少ないと考えたご都合主義から出た真榊奉納「私人としての行動」なのは間違いないが、そのご都合主義が自身の歴史認識を如何に裏切り、英霊に対してもどれ程の背信行為となっているかまでは考えていなかったようだ。
ご都合主義からのウソや詭弁は、その正体をいつかは現す。
玉城デニーは普天間の辺野古移設阻止で安倍政権を踊らすことができるのか、阻止できないままに自身が踊るだけで終わることになるのか。
10月16日(2018年)から今月20日までの日程でヨーロッパを歴訪中の安倍晋三が靖国神社の秋の例大祭に合わて「内閣総理大臣 安倍晋三」名で真榊を神前に奉納したと各マスコミが伝えた。但し奉納は公費ではなく、私費、安倍晋三のポケットマネーで行ったと言う。
「内閣総理大臣 安倍晋三」と公職名を使いながら、私費の奉納とする。この使い分けの理由が官房長官菅義偉の10月17日午前の記者会見発言で明らかになる。「NHK NEWS WEB」/2018年10月17日 12時27分)
菅義偉「安倍総理大臣が『真榊』を奉納されたという報道は承知している。これは私人としての行動に関するおたずねであり、政府として見解を申し上げる事柄ではない」
真榊を「内閣総理大臣 安倍晋三」という公職名で納めたが、奉納は私費で支払ったから、「私人としての行動だ」と言うことになる。公職名を冠していながら、私人としての行動としていることに釣り合いが取れないが、安倍晋三や菅義偉にとっては釣り合いの取れる事柄なのだろう。
例えば安倍晋三が妻昭恵以外の女性とホテルに泊まる場合、宿泊名簿に「内閣総理大臣 安倍晋三」と記入、宿泊料は自費で支払って、「私人としての行動だ」とするだろうか。あくまでも「私人としての行動」とするなら、宿泊名簿に「安倍晋三」と記入、宿泊料私費とすることによって世間的常識という点で初めて釣り合いが取れることになる。
いわば「内閣総理大臣 安倍晋三」名で真榊を奉納している以上、いくら私費で支払おうと、公人としての行動になるはずだが、「私人としての行動」としている。
靖国神社が日本と中国や韓国、北朝鮮等の国家との間に歴史認識問題を抱えている空間である以上、日本の内閣総理大臣は如何なる理由付けを行おうと、靖国神社を私的空間とすることはできないはずだ。にも関わらず、内閣総理大臣でありながら、日本国家の戦争犠牲者を祀る靖国神社への真榊奉納を「私人としての行動」とすることは靖国神社自体を私的空間としたことになる。
例えば国家を代表してロシアを相手に北方四島返還に努めている安倍晋三が北方四島を単なる旅行したり、ゴルフを楽しんだりする私的空間とすることは果たして許されるだろうか。許されるはずもなく、常に公的空間の扱いとし、その扱いに則った行動を取らなければならないのと同じである。
だが、安倍晋三は「内閣総理大臣 安倍晋三」の公職名を使ってながら、真榊奉納自体を「私人としての行動」としたことによって、靖国神社を私的空間とした。
安倍晋三の靖国神社に祀られた戦争犠牲者=英霊に関わる歴史認識を改めて振り返ってみる。
2005年5月2日、小泉内閣時代の自民党幹事長代理だった安倍晋三はワシントンのシンクタンク「ブルッキングス研究所」での講演で次のように発言している。
安倍晋三(中国が小泉首相の靖国神社参拝の中止を求めていることについて)「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ。国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」
靖国参拝が国の「リーダーの責務」であるなら、真榊奉納に形を変えた靖国神社に祀られている戦争犠牲者に対する尊敬の念の表明にしても国の「リーダーの責務」とすべきであって、だからこそ、奉納しているのだろうが、「内閣総理大臣 安倍晋三」名は便宜的な使用にとどめて、真榊奉納自体を国のリーダーとしての行動ではなく、「私人としての行動」としていることは自らの歴史認識に対する裏切りであって、言っていることと実際の行動とは違うこのような歴史認識の裏切りは、当然、英霊に対する背信行為そのものに相当する。
安倍晋三の2013年2月7日の衆議院予算員会での答弁からも、真榊奉納を「私人としての行動」としていることが如何に英霊に対する背信行為に当たるか、見て取ることができる。
安倍晋三「私の基本的な考え方として、国のために命を捧げた英霊に対して国のリーダーが尊崇の念を表する、これは当然のことだろうと思いますし、各国のリーダーが行っていることだろう、こう思っています。
その中で、前回の第一次安倍内閣に於いて参拝できなかったことは、私自身は痛恨の極みだった、このように思っております」
安倍晋三は「痛恨の極み」を解き放つために第2次安倍内閣発足満1年を期した2013年12月26日に靖国神社参拝を決行した。
「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊」の命を犠牲にする対象は戦前日本国家を措いて他にない。国家のために命を犠牲にするとは命を捧げることを意味する。戦前の日本国家を否定し、その戦争を侵略戦争だと歴史認識していたなら、「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊」などといった歴史認識は形成されない。戦争の犠牲になったと言う前に国家の犠牲になった言うだろう。
安倍晋三たちが抱える国家を対象とした国民の命の奉仕は戦前の日本国家という空間で演じられた国家と国民との間の関係性として存在した。いわば戦前日本国家と国民の関係性を肯定し、理想としているからこそ、犠牲になった場合、「尊崇の念を表する」価値を認めることになる。
だからこそ、戦争の犠牲になったと言うが、国家の犠牲になったとは決して言わない。
当然、靖国神社参拝とは靖国神社を舞台として戦争犠牲者に対する鎮魂の姿を借りた戦前日本国家と国民の関係性を理想とする戦前日本国家称揚の儀式でしかなく、このような儀式を政治の次元で重要としているのは戦前日本国を理想の国家像とし、そのような理想の国家像を戦後日本国家に連続させたいと欲しているからに他ならない。
この連続性への願いが安倍晋三が唱えている「戦後レジームからの脱却」――占領軍によって築かれた戦後体制からの脱却となって現れた。
安倍晋三はこのように戦前日本国家の肯定を出発点とした歴史認識を自らの内に抱えている。そしてこの手の歴史認識に続く政治家がゴマンと存在する。
こういった歴史認識を抱えている以上、「国のために命を捧げた英霊に対して国のリーダーが尊崇の念を表する」と国会で答弁、その他で発言している手前、繰返すことになるが、例え直接の靖国参拝によってではなく、真榊奉納を手段とした英霊に対する尊崇の念の表明であろうと、徹頭徹尾「国のリーダー」として行わなければならない。だが、「内閣総理大臣 安倍晋三」の公職名を記したものの、私費奉納とすることによって「国のリーダー」としての行動ではなく、「私人としての行動」にとどめた。
安倍晋三の歴史認識からしたら、国のリーダーとして君臨している以上、あるいは靖国神社が各国との歴史認識問題を抱えている空間となっている以上、靖国神社を私的空間と位置づけることは不可能で、常に公的空間と位置づけ、国のリーダーとしての行動、いわば公人としての行動を自らの責務としていなければならないはずだが、それを平気で裏切って、英霊に対して背信行為で報いる。
関係改善に向かいつつある中韓との摩擦が公人として行動するよりも私人としての行動とする方が少ないと考えたご都合主義から出た真榊奉納「私人としての行動」なのは間違いないが、そのご都合主義が自身の歴史認識を如何に裏切り、英霊に対してもどれ程の背信行為となっているかまでは考えていなかったようだ。
ご都合主義からのウソや詭弁は、その正体をいつかは現す。