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玉城デニーは普天間の辺野古移設阻止で安倍政権を踊らすことができるのか、阻止できないままに自身が踊るだけで終わることになるのか。
150年前の1868年10月23日に元号が慶応から明治に改められたことを記念して東京・千代田区の憲政記念館で政府主催の式典を行い、安倍晋三が式辞を述べた。
「安倍晋三式辞」(首相官邸) 安倍晋三「今から150年前の今日、明治改元の詔勅が出されました。この節目の日に、各界多数の御参列を得て、明治150年記念式典を挙行いたしますことは、誠に喜びに堪えないところであります。皆様と共に、我が国が近代国家に向けて歩み出した往時を思い、それを成し遂げた明治の人々に敬意と感謝を表したいと思います。 近代化への道のりは、大きな危機意識の中で始まりました。当時、技術に先んじる列強が植民地支配を進め、その波がアジアにも押し寄せていました。国力に後れを取っていた我が国は、正に国家存亡の危機に直面していたと言っても過言ではありません。 独立を守らなければならない。当時の人々は、文字通り命懸けで、情報を集め、策を練り、そして、果敢に行動しました。内外旺盛な交流により、学びに学んで、最先端の知を貪欲なまでに求め、それにとどまらず、日本の良さや伝統をいかしたものにまで高めていきました。 五箇条の御誓文が、古い陋習(ろうしゅう)を破れと説き、身分や階級を問わず志を追うべしと勧めたとおり、新しい国づくりに際しては、それまでの身分、武士・農民・町民の別に関わりなく、若者や女性を含め、志を持った人々が、全国各地で躍動しました。外国からも多くの人々が訪れ、我が国の発展に大きな役割を担っていただきました。 明治という時代が新たに生み出した多くの人材が、急速な近代化の原動力となり、我が国は近代国民国家への第一歩を踏み出しました。憲法の制定、議会の設置、内閣制度の導入など、立憲政治・議会政治の基礎が築かれました。工業化の進展、鉄道の開通、郵便や金融制度の整備。産業も大きく発展しました。義務教育が導入され、女子師範学校が開設されるなど、教育が充実したのもこの時代です。現在の政治、経済、社会の土台が築かれました。 我が国の近代化は、西洋に比べて、極めて短い期間に行われました。それまでの歴史の礎があっての飛躍であろうことを併せ考えたとしても、それを成し遂げた先人たちの底力、道半ばで倒れた方々も含め、人々にみなぎっていた、洋々たる活力、志の高さに驚嘆せずにはいられません。同時に、今を生きる私たちも、これを誇りに力強く歩んでいかなければならないと思います。 今日、我が国は、内においては、急速な少子高齢化が進行し、外に目を転ずれば、急激に変化を遂げる国際社会の荒波の中にあります。正に国難とも言える時代にあって、故(ふる)きを温(たず)ね新しきを知る。明治の人々が、勇気と英断、たゆまぬ努力、奮闘によって、世界に向けて大きく胸を開き、新しい時代の扉を開けたことに想いをはせながら、私たちは、この難局に真正面から立ち向かい、乗り越えていかなければならないと思います。 現在、明治150年関連行事として、近代化の歩みが記された歴史的遺産を次世代に残し、学び、将来につなげていこうとする取組が、全国各地で行われています。特に、若い世代の方々には、是非とも、この機会に、我が国の近代化に向けて生じた出来事、人々の息遣いに触れ、光と影、様々な側面を貴重な経験として学びとって欲しいと思います。 来年は、約200年ぶりに天皇陛下が御退位され、皇位の継承が行われます。その翌年には、東京オリンピック・パラリンピックが開催され、世界中の人々が我が国を訪れ、世界の関心が日本に集まります。我が国は、正に、歴史の大きな転換点を迎えようとしています。 私たちは、平成のその先の時代に向けて、明治の人々に倣い、どんな困難にもひるむことなく、未来を切り拓いてまいります。そして、平和で豊かな日本を、次の世代に引き渡していく、その決意を申し述べ、式辞といたします。 平成30年10月23日 内閣総理大臣 安倍晋三 |
相変わらず綺麗事満載の発言となっている。安倍晋三の言葉巧みなレトリックにコロッと騙されてはいけない。
「五箇条の御誓文が、古い陋習(ろうしゅう)を破れと説き、身分や階級を問わず志を追うべしと勧めたとおり、新しい国づくりに際しては、それまでの身分、武士・農民・町民の別に関わりなく、若者や女性を含め、志を持った人々が、全国各地で躍動しました。外国からも多くの人々が訪れ、我が国の発展に大きな役割を担っていただきました」
確かに江戸時代の士農工商の身分制度は廃止され、「四民平等」が謳われたが、「Weblio辞書」には次のような記述がある。
〈【四民平等】
明治維新の改革における身分制廃止のスローガン。1869年(明治2)農工商を平民、1871年・の称を廃止し「平民と同様たるべき事」としたが、華族・士族・平民の呼称のもとに身分秩序が再編成され、被差別民の差別は残存された。〉
・は法律上は1871年(明治4)8月の解放令によって平民とされたものの、現実社会では真の平民ではないという意味で「」との呼称で区別され、個人的にだけではなく、集団的な居住地域をと称し、その居住者全体を民と名指しして、社会的にも意識の面でも差別対象とし続けて、その差別構造は戦後も尾を引くことになった。
このように華族・士族・平民の階級差別、あるいは平民の「」に対する人間差別だけではなく、地主制度も江戸時代から引き継ぐことになり、土地を持つ人間と土地を持たぬ人間の上下身分制的な支配と服従の関係は存在し続けて、第2次世界大戦後のGHQ主導の農地改革を待たなければ、地主制は終止符を打つことができなかった。
かくこのように明治時代も、その後の時代も、階級制度とそれを受けた各種差別が蔓延っていたのだから、当然、安倍晋三が「五箇条の御誓文が、古い陋習(ろうしゅう)を破れと説き、身分や階級を問わず志を追うべしと勧めた」と言っていることは明治の現実社会から離れた綺麗事の世界を描いたに過ぎないことになる。
大体が五箇条の御誓文(慶応4年3月14日―1868年4月6日)そのものが「四民平等」意識に基づいた民主的な国民統治体制を目的とはしていない。その一条に「旧来ノ陋習ヲ破リ 天地ノ公道ニ基クベシ」(古い悪習を破り 世界的なおおやけの道理に基づくべし)とあり、一見、世界基準の道理に則ることのススメに見えるが、次の「智識ヲ世界ニ求メ 大ニ皇基ヲ振起スベシ」は(知識を世界に求めて、「皇基」、即ち天皇が国家を統治する基礎に役立つよう、おおいに奮起しなさい)の意味を取ることになるため、「天地ノ公道ニ基クベシ」は「天皇、もしくは上(国家権力)が定めた人が行うべき正しい道に拠って立ちなさい」との解釈となる。
要するに「五箇条の御誓文」とは、既に触れたように「四民平等」意識に基づいた民主的な国民統治体制を謳っているわけでもなく、世界の道理に従った民主主義を説いているわけでもなく、国民の力を天皇の国家統治体制へと集約させる、一種の独裁体制を忍ばせていた。
そのような独裁体制への求心力を働かせた「広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スベシ」であり、「上下心ヲ一ニシテ 盛ニ経綸ヲ行ウベシ」等々なのである。
このことの証明として次の事実を挙げることができる。天皇を主権者とした大日本帝国憲法は明治時代半ばの1889年(明治22年)2月11日に公布、天皇独裁を明らかにしたが、明治の早い時期の1875年(明治8年)6月28日布告の讒謗律(ざんぽうりつ)は現行刑法の名誉毀損罪の原型となっていると言うことだが、同時に天皇、皇族、華族に対する誹謗中傷等の名誉毀損はより罪を重くしていて、いわば5年後の1880年(明治13年)布告の旧刑法第117条「天皇三后皇太子ニ対シ不敬ノ所為アル者ハ三月以上五年以 下ノ重禁錮ニ処シ二十円以上二百円以下ノ罰金ヲ附加ス」と定めた不敬罪の先駆けを成すもので、明治の早い時点で、あるいは大日本帝国憲法発布よりも遥かに早い時点で既に天皇の存在を絶対とする独裁体制の顔を覗かせていたと指摘できる。
讒謗律布告と同じ年に制定された新聞紙条例が自由民権運動に対する言論弾圧を目的としていたことも、明治の時代が国家独裁を骨格としていたことの証明となる。
天皇を独裁者に仕立て、その天皇独裁様式を薩長明治政府が着用し、自分たちが独裁政治の実行者となって国民を統治した。このような国家統治体制を引き継いで、天皇の名のもとに軍部が独裁を揮(ふる)う時代へと繋がっていった。
いわば明治政府も後の軍部も天皇を傀儡として扱った。
安倍晋三は最後に「私たちは、平成のその先の時代に向けて、明治の人々に倣い、どんな困難にもひるむことなく、未来を切り拓いてまいります。そして、平和で豊かな日本を、次の世代に引き渡していく、その決意を申し述べ、式辞といたします」と述べているが、明治は「平和で豊かな日本を、次の世代に引き渡していく」ために倣うべき時代、決して手本としていい時代では決してない。
逆に否定すべき時代であるが、安倍晋三の精神の中では特に明治を戦前日本国家の理想の国家像に仕立てている。この精神性によって上記式辞からも窺うことができるが、明治時代を現代日本の出発点に置くことになっている。敗戦以後の時代を出発点とはしていない。結果、明治時代を優先的な取扱とした連続性を日本の戦後の時代との間に打ち立てようとする衝動を常に見せることになる。
その一つが戦後レジームからの脱却であり、靖国参拝もその手段の重要な一つとなっている。こういったことが安倍晋三をして戦前回帰主義の姿を取らせている。