「強固な国粋主義者」安倍晋三の「アジアの人々に多大な苦痛を与えた」は本心か

2013-05-11 10:12:25 | 政治

 安倍晋三が4月23日の参院予算委で、「侵略という定義は国際的にも定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかということに於いて(評価が)違う」と間接的に日本の戦争は侵略戦争ではないと否定したことに対して韓国や中国からの反発だけではなく、アメリカのマスコミや議会から批判が出た。

 5月1日に米議会調査局が安倍晋三の発言を批判する「日米関係報告書」を公表。《米議会調査局「安倍首相の歴史認識、国益に有害」》朝鮮日報/2013/05/10 08:34)
  
 「日米関係報告書」「強固な国粋主義者といわれる日本の首相が、帝国主義日本の侵略やアジアの犠牲を否定する歴史修正主義に加勢している。慰安婦と呼ばれる性的奴隷、歴史教科書、靖国神社参拝、韓国との領土対立への安倍首相のアプローチは、米国はもちろん日本の近隣諸国からも注意深く監視されている。

 首相は情熱的な国粋主義者を閣僚に任命し、これらの閣僚が靖国神社を参拝した。安倍首相は、従軍慰安婦の強制動員を認めて謝罪した『河野談話』を修正すべきだという持論を持っており、これを実際に断行した場合、韓日関係は悪化するだろう」――

 対して菅官房長官が5月9日の記者会見で釈明している。《安倍首相批判は「レッテル貼り」=米議会報告は誤解-菅官房長官》時事ドットコム/2013/05/09-18:25)

 菅官房長官「議会の公式見解ではない。コメントは差し控えるべきだが、誤解に基づくものだろう。(中国や韓国に批判に対して)レッテル貼りではないか。

 かつて多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に多大な損害と苦痛を与え(たとの認識は)安倍内閣もこれまでの内閣と同じだ。しっかり理解してもらう(よう)外交の中で説明していく」――

 菅官房長官は「日米関係報告書」が安倍晋三を「強固な国粋主義者」と批判していることも含めて誤解に基づく歴史認識だと逆に批判している。

 また、中国や韓国の批判は事実を根拠としない、批判だけを目的とした決まりきった言葉の投げつけ――レッテル貼りではないかと一蹴。

 果たしてそうだろうか。

 すべての批判を誤解だとするための理由として菅官房長官は日本の戦争が多大な損害と苦痛を与えたとする歴史認識を安倍内閣も踏襲しているとする事実を持ち出した。

 安倍晋三自身も5月8日午前中の参議院予算員会で同じ発言をしている。

 安倍晋三「かつて多くの国々、とりわけアジアの人々に、多大な損害と苦痛を与えたことは過去の内閣と同じ認識だ。その深刻な反省から、戦後の歩みを始め、自由と民主主義、基本的な人権をしっかりと守り、多くの国と共有する普遍的な価値を広げる努力もしてきた」(NHK NEWS WEB

 間接的に日本の戦争の侵略事実を事実でないと否定しているのである。侵略戦争が与えた「多大な損害と苦痛」とそうでない戦争、例えば自存自衛だとする戦争、アジア解放だとする戦争が与えた「多大な損害と苦痛」とでは言葉に込めた意味・感情が異なってくる。

 国粋主義者とは断るまでもなく自国を絶対とする思想に染まった人間のことを言い、民族主義者、国家主義者を指す。安倍晋三が「天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきた」とする、天皇を日本の歴史の縦糸、中心と見做し、皇室の存在を日本の伝統と文化そのものと見做している日本国天皇中心主義とも言うべき思想そのものが既に国家主義者、国粋主義者であることを証明している。

 日本という国を国民主権、民主主義の時代となっても支配者の位置から価値づけているからである。戦後生まれでありながら、戦前の思想を今以て引きずっている。復古主義者と言われる所以である。

 戦前の日本は国家主義の国であった。国民の権利・自由よりも国家を優先させた。戦争がそれを破綻させ、占領軍が国家主義の日本を民主主義の国に変えた。

 だから、安倍晋三は占領政策、占領時代を忌避し、占領政策がもたらした日本国憲法を変えようとしている。

 安倍晋三が思想としている日本国天皇中心主義――天皇を日本の歴史の縦糸、中心と見做し、皇室の存在を日本の伝統と文化そのものと見做している“アベノイデオロギーミクス”とも言うべき思想は事実に立脚しているのだろうか。

 2012年9月16日の当ブログに次のようなことを書いた。

 《安倍晋三だけは首相にしてはいけない、その天皇中心主義に見る頭の程度と質の悪さ - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

 天皇とは何者か?

 日本の歴史を『日本史広辞典』(山川出版社)を参考にひも解いてみよう。大和 朝廷で重きをなしていた最初の豪族は軍事・警察・刑罰を司る物部氏であった。

 それを滅ぼして取って代わったのが蘇我氏である。蘇我稲目は欽明天皇に二人のムスメを后として入れ、後に天皇となる用明・推古・崇峻の子を設けている。

 稲目の子である崇仏派の馬子は対立していた廃仏派の穴穂部皇子と物部守屋を攻め滅ぼし、自分の甥に当たる崇峻天皇を東漢駒(やまとのあやのこま)に殺させて、推古天皇を擁立し、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子にしている。このような皇室に対する恣意的な人事権は実質的な権力者が天皇ではなかったことの証明であろう。

 親子である「蘇我蝦夷と蘇我入鹿は甘檮岡(あまかしのおか)に家を並べて建て、蝦夷の家を上の宮門(みかど)、入鹿の家を谷の宮門と称し、子を王子(みこ)と呼ばせた」と『日本史広辞典』に書かれているが、自らを天皇に擬すほどに権勢を誇れたのは、その権勢が天皇以上であったからこそであろう。

 聖徳太子妃も馬子のムスメで、山背大兄王(やましろのおおえのお)を設けている。だが、聖徳太子没後約20年の643年に蘇我入鹿の軍は斑鳩宮(いかるがのみや)を襲い、一族の血を受け継いでいる山背大兄王を妻子と共に自害に追い込んでいる。

 蘇我入鹿は大化の改新で後に天智天皇となる中大兄(なかのおおえ)皇子に誅刹されているが、後の藤原氏台頭の基礎を作った中臣鎌足(なかとみのかまたり)の助勢が可能とした権力奪回であるから、皇子への忠誠心から出た行為ではなく、いつかは天皇家に代って権力を握る深慮遠謀のもと、いわば蘇我氏に続く実質権力者を目指して加担したことは十分に考えられる。

 その根拠は鎌足の次男である藤原不比等(ふじわらのふひと)がムスメの一人を天武天皇の夫人とし、後の聖武天皇を設けさせ、もう一人のムスメを明らかに近親結婚となるにも関わらず、外孫である聖武天皇の皇后とし、後の孝謙天皇を設けさせるという、前任権力者の権力掌握の方法の踏襲を指摘するだけで十分であろう。

 藤原氏全盛期の道長(平安中期・966~1027)はムスメの一人を一条天皇の中宮(平安中期以降、皇后より後から入内〈じゅだい〉した、天皇の后。身分は皇后と同じ)とし、後一条天皇と後朱雀天皇となる二人の子を産んでいる。別の二人を三条天皇と外孫である後一条天皇の中宮として、「一家三皇后」という偉業(?)を成し遂げ、「この世をば我が世とぞ思ふ」と謳わせる程にも、その権勢を確かなものにしている。

 藤原氏の次に歴史の舞台に登場した平清盛は実質的に権力を握ると、同じ手を使って朝廷の自己権力化を謀る。ムスメを高倉天皇に入内(じゅだい)させ、一門で官職を独占する。今で言う、ついこの間失脚したスハルトの同族主義・縁故主義みたいなものである。その権力は79年に後白河天皇を幽閉し、その院政を停止させた程にも天皇家をないがしろにできるほどのものであった。

 本格的な武家政権の時代となると、もはや多くの説明はいるまい。それまでの天皇家の血に各時代の豪族の血を限りなく注いで、血族の立場から天皇家を支配する方法は廃れ、距離を置いた支配が主流となる。信長も秀吉も家康も京都所司代を通じて朝廷を監視し、まったくもって権力の埒外に置く。いわば天皇家は名ばかりの存在と化す。

 そのように抑圧された天皇家が再び歴史の表舞台に登場するのは、薩長・一部公家といった徳川幕府打倒勢力の政権獲得の大義名分に担ぎ出されたことによってである。明治維新2年前に死去した幕末期の孝明天皇(1832~1866)に関して、「当時公武合体思想を抱いていた孝明天皇を生かしておいたのでは倒幕が実現しないというので、これを毒殺したのは岩倉具視だという説もあるが、これには疑問の余地もあるとしても、数え年十六歳の明治天皇をロボットにして新政権を樹立しようとしたことは争えない」と『大宅壮一全集第二十三巻』(蒼洋社)に書いてある。

 天皇家と姻戚関係を結んで権力を確実なものとしていったかつての政治権力者は確実化の過程で不都合な天皇や皇太子を殺したり、幽閉したり、あるいは天皇の座から追い出したりして都合のよい天皇のみを頭に戴いて権力を握るという方法を採用している。そのような歴史を学習していたなら、再び天皇を頭に戴いて権力を握る方法を先祖返りさせた倒幕派が天皇と言えども都合の悪い存在を排除するために「毒殺」という手段を選んだとしても、不思議はない。

 明治以降実質的に権力を握ったのは薩長・一部公家の連合勢力であり、明治天皇は大宅壮一が指摘したように彼らの「ロボット」に過ぎなかった。天皇を現人神という絶対的存在に祭り上げることで、自分たちの政治意志・権力意志をさも天皇の意志であるかのように国民に無条件・無批判に同調・服従させる支配構造を作り上げたのである。これは昭和天皇の代になっても引き継がれた。実質的な権力を握ったのは明治政府の流れを汲む軍部で、彼らの意志が天皇の意志を左右したのである。軍服を着せられた天皇の意志によって戦争は開始され、天皇の意志によって国民は戦場に動員され、天皇の意志によって無条件降伏を受入れさせられるという形を取った。 

 かくこのように日本の権力は常に二重構造を取り、天皇はその一方の名目的な権力者に過ぎなかった。実質的な政治権力は世俗的権力者に握られていた。彼らからしたら、天皇の存在は権力掌握の正統性を証明する便宜的な背景に過ぎなかったはずだ。

 当然、「天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきた」としている歴史の縦糸にしても権力の二重構造の影響を受けて、世俗権力掌握の正統性を証明する歴史を通した便宜的な「縦糸」に過ぎなかったことになる。

 そのような「縦糸」が果たして日本の歴史の実質的な中心を担うことができたのだろうか。日本の伝統と文化の主宰者足り得ただろうか。

 日本の歴史の実質的な中心は各時代に於ける物部氏や蘇我氏、藤原氏、それ以降の各世俗権力者であり、彼らが各時代の伝統と文化に影響を与え、ときには民衆発祥の伝統と文化と拮抗し、ときには混交し、また、中国・朝鮮半島に始まって、オランダやポルトガル、そしてヨーロッパやアメリカ等の外国の文化の影響を受けながら引き継がれてきたのである。

 いわば日本の伝統と文化は外国を含めた様々な要素が混ざりに混ざり合った総合体だということであって、天皇家の伝統・文化に限定して説明するとしても、それを頑固に守り通こと自体、そもそもは中国や朝鮮半島の伝統と文化から取り入れたその反映を踏襲することになって、天皇を日本の歴史の縦糸、中心と見做すこと自体、あるいは「皇室の存在は日本の伝統と文化のもの」という表現で日本の伝統と文化のすべてが皇室の存在に関係する、あるいは皇室の存在が生み出したとすること自体、歴史の歪曲以外の何ものでもない。

 いわば安倍晋三の歴史修正主義は日本の戦前の戦争に関わる歴史認識だけではなく、天皇に関する歴史認識に於いてもその力を発揮している。

 国家の中心に天皇を何が何でも据えたい欲求を抱えた国家主義者、国粋主義者だからこその歴史修正主義的な天皇の価値づけなのだろう。

 国民の立場よりも国家の立場を上に置き、優先させる国家主義者、国粋主義者は体質的に国家の誤謬に拒否反応を持っている。国家の誤謬は国民の立場よりも国家の立場を上に置き、優先させる思想の否定要因となりかねないからだ。

 国家を正しい存在、無誤謬な存在と価値づけることによって国家主義、国粋主義は成り立つ。戦前の日本は神聖にして侵すべからずの絶対的存在とした天皇を国家元首とした大日本帝国を常に正しい国家とし、そのことを以って国民を統治してきた。

 そのような正しい国家にとって侵略戦争は認めることのできない否定要素となる。

 また、戦前日本を正しい国家としているからこそ、靖国神社参拝も可能となる。「お国のために尊い命を捧げた」と命を捧げた対象としての国家を正当化できる。

 安倍晋三の一国のリーダーの参拝義務正当化の発言をみてみる。

 小泉内閣時代、自民党幹事長代理だった安倍晋三は2005年5月2日、ワシントンのシンクタンク「ブルッキングス研究所」で講演。

 安倍晋三(中国が小泉首相の靖国神社参拝の中止を求めていることについて)「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ。国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」

 2013年2月7日の衆院予算委員会。

 安倍晋三「私の基本的な考え方として、国のために命を捧げた英霊に対して国のリーダーが尊崇の念を表する、これは当然のことだろうと思いますし、各国のリーダーが行っていることだろう、こう思っています。その中で、前回の第一次安倍内閣において参拝できなかったことは、私自身は痛恨の極みだった、このように思っております」――

 そして合祀されているA級戦犯に関しては、「国内法的には犯罪人ではない」と免罪して、参拝の障害とはならないとしている。

 だが、歴史という長大なタペストリーの縦糸の一部分を継ぎ、日本の伝統と文化の表現者の一人として戦前と戦後の昭和時代を担った昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀が意に召さず、「だから私はあれ(合祀)以来参拝していない。それが私の心だ」とA級戦犯合祀に拒絶反応を示し、それ以来不参拝を貫いた。

 現天皇もその意志を受け継いでいる。

 要するに昭和天皇は安倍晋三と違ってA級戦犯を戦争を主導した戦争犯罪者と見ているということだろう。当然、その戦争に対して侵略戦争という位置付けを行なっていることになる。

 A級戦犯を間違っていない戦争を主導した国家指導者と見ていたなら、強烈な拒否反応を示す理由はなくなる。いわば国家を常に正しい存在と見る国家無誤謬の国家主義、国粋主義の昭和天皇からの解放を意味するはずだ。

 昭和天皇は日中戦争から太平洋戦争、そして敗戦に至るまで皇居で日本国家の間違いの数々を見てきた。軍部が昭和天皇に対してウソの戦果の報告をしたことも、少なくとも戦後には知ることとなっていたはずだ。

 このような点に戦後生まれでありながら、民主主義と国民主権の戦後の時代に国家主義・国粋主義を思想としている安倍晋三との大きな違いがある。 

 当然、「日米関係報告書」が安倍晋三を「強固な国粋主義者」と位置づけたことを含めてその歴史認識を批判したことに対して菅官房長官が「誤解だ」としたことは不当な正当化であり、報告を正解としなければならない。

 また、安倍晋三がA級戦犯の戦争犯罪を免罪しているばかりか、戦前の日本を現在でも国民の上に置く正しい国家と歴史認識している以上、既に触れたが、「侵略という定義は国際的にも定まっていない」の口実のもと間接的に否定したとおりに日本の戦争を侵略戦争と見ていない歴史認識を抱えていることは確実であって、これらの点から判断すると、安倍晋三が「かつて多くの国々、とりわけアジアの人々に、多大な損害と苦痛を与えたことは過去の内閣と同じ認識だ」としていることは本心ではなく、批判を受けて国会運営が困難を来さないための単なる体裁に過ぎないと解釈せざるを得ないことになる。

 このような解釈と結果として安倍晋三の歴史認識に対する各方面からの批判は決して「レッテル貼り」でも何でもなく、正当な批判であり、批判は安倍晋三が戦前の日本国家を正しい国家だったと認識している国家主義者・国粋主義者であることから起こっていると見なければならない。

 自国を絶対とするその国家主義・国粋主義は、既に目にすることになっているように自国を絶対とする潜在意識が意図しなくても表に現れて外国との摩擦を招く危険性を裏合わせとしている。民主主義と基本的人権、グローバルな国際社会の時代に決して受け入れてはならない安倍晋三の国家主義・国粋主義としなければならない。

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安倍晋三は侵略の定義に立ち入りながら、立ち入らないといくらでもウソをつく自己都合主義者

2013-05-10 09:29:22 | 政治

  昨日のブログで「NHK憲法に関する意識調査」をリンク付きで取り上げましたが、各種世論調査が載っているページをまだ気づいていない読者のために紹介しておきます。

 『社会や政治に対する世論調査』(NHK放送研究所)  

 4月23日(2013年)の参院予算委。

 安倍晋三「侵略という定義は国際的にも定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかということに於いて(評価が)違う」(MSN産経) 

 安倍晋三は侵略の定義が国際的に定まっていないことを理由に日本の戦争の侵略性を否定した。少なくとも「侵略という定義は国際的にも定まっていない」のだから、日本の戦争が侵略戦争だとはまだ国際的に定義づけられたわけではないとした。

 後者の意味で言ったとしても、日本の戦争の目下のところの侵略性の否定となる。

 また、「国と国との関係で、どちらから見るかということに於いて(評価が)違う」と言っていることは中国や韓国、あるいはアメリカが日本の戦争を侵略戦争だと見ていることに対する国による見方の違いを言ったのであって、やはり日本の戦争は侵略戦争ではないと否定したことになる。

 侵略戦争と把えるか、把えないかも歴史認識である。どう認識するかで定義は決まっていく。その根拠は後で述べる。

 安倍晋三は侵略の定義は「国際的に定まっていない」と言いながら、自分自身の侵略の定義(日本の戦争は侵略ではないとする定義)に立ち、日本の戦争は侵略戦争ではないとする歴史認識を披露したのである。

 いわが「国際的に定まっていない」とウソをつく自己都合に走ったに過ぎない。

 安倍晋三の上記発言に中国や韓国が反発。アメリカのワシントン・ポスト紙が電子版社説で「歴史を直視していない」と批判。5月3日ワシントンで開催の歴代駐日アメリカ大使等出席のシンポジウムでシーファー元駐日大使が、「河野談話を見直せば、アメリカやアジアでの日本の国益を大きく損なう」と警告。

 朴槿恵韓国大統領が5月7日(日本時間8日未明)オバマ米大統領と会談、「北東アジア地域の平和のためには、日本が正しい歴史認識を持たなければならない」(時事ドットコム)と名前は出さないが、安倍晋三の歴史認識を批判。

 さらにこの後、朴槿恵韓国大統領は翌5月8日午前10時30分(日本時間 5月8日23時30分)上下両院合同会議で演説、「歴史に目をつぶる者は未来が見えない。歴史に対する正しい認識を持てないことは、今日の問題でもあるが、さらに大きな問題は、明日がないということだ」(時事ドットコム)と批判しているが、この上下両院合同会議演説に先立つ5月8日午前中の参議院予算員会で、韓国等の反発に関して安倍晋三は自分自身の侵略の定義に則って自らの歴史認識に自己都合なウソを更に重ねている。

 《首相「アジアに苦痛の認識 過去と同じ」》NHK NEWS WEB/2013年5月8日 14時8分)

 安倍晋三「侵略の定義は、学問的なフィールドでさまざまな議論があり、政治家としてそこに立ち入ることはしないということを申し上げた。絶対的な定義は、学問的には決まっていないということを申し上げた。

 かつて多くの国々、とりわけアジアの人々に、多大な損害と苦痛を与えたことは過去の内閣と同じ認識だ。その深刻な反省から、戦後の歩みを始め、自由と民主主義、基本的な人権をしっかりと守り、多くの国と共有する普遍的な価値を広げる努力もしてきた」

 後段の「かつて多くの国々、とりわけアジアの人々に、多大な損害と苦痛を与えたことは」云々は自らの歴認識を曖昧化するレトリックに過ぎない。嘘八百だということである。このことは後で証明する。

 問題は前段の「侵略の定義は、学問的なフィールドでさまざまな議論があ」ると言っていること、「政治家としてそこに立ち入ることはしない」と言っていること、「絶対的な定義は、学問的には決まっていない」と言っていることである。

 散々に立ち入っていながら、「立ち入ることはしない」とウソをつく。批判や反発を受けて形勢不利となると、自己都合にもウソで塗り固めたゴマ化しで逃げる。

 そもそもからして侵略の「絶対的な定義は、学問的には決まっていない」と言っていること自体が真っ赤なウソである。実験や実証によって裏付けを可能とし、共通性を持たせることができる自然科学の物理や数学の定義ではない。例え文献という形で資料が残されていても、その文献自体が多分に人間の解釈、安倍晋三が4月23日の参院予算委で「どちらから見るか」と言っていた見方を介在させることで成り立たせている社会科学である歴史にそもそもからして「絶対的な定義」などは存在しない。

 だからこそ、一つの歴史的事件に題材した解釈の異なる歴史小説が存在することになる。「絶対的な定義」が存在したなら、異なる解釈を許さないことになって、同じ題材の解釈の異なる歴史小説自体も存在しないことになる。

 当然、「絶対的な定義」は学問によって決めることができない。学問ができることは自らが定義づけた学説、もしくは解釈をより多くの人によって受け入れられ、一般的な定義・一般的な解釈として定着するかどうかである。

 「絶対的な定義」が存在しないことは現在でも、ドイツその他でヒトラーを信奉し、善なる存在とするネオナチストが跋扈しているいることが証明している。ヒトラー信奉者はナチスドイツの戦争を侵略戦争と認めはすまい。

 侵略の定義は戦争を自分はどう解釈するかに決定権がかかっている。あるいは学者等の第三者のどの主張を取り入れるかである。第三者の主張を取り入れることも自身の解釈の内に入る。

 その定義が社会的に一般性を持ち得ることによって社会的な認知を受けることになる。あるいは国際的に一般性を持ち得ることによって国際的な認知を受ける。

 要するに安倍晋三は歴史に「絶対的な定義」など存在しないのに「絶対的な定義は、学問的には決まっていない」をゴマ化しの理由として日本の侵略戦争否定の自らの歴史認識を曖昧化するウソを働いたのである。

 歴史に「絶対的な定義」が存在しない以上、自分はどう解釈するかである。あるいはどう認識するかである。さらには学者等の第三者のどの主張を取り入れるかである。第三者の主張を取り入れることも自身の解釈、あるいは認識の内に入る。

 言葉を言い換えると、日本の戦争は侵略戦争だと解釈する歴史認識に立つか、侵略戦争ではない、自存自衛の戦争だった、あるいは植民地解放の正義の戦争だと解釈する歴史認識に立つかどうかである。

 安倍晋三は日本の歴史に対して機会あるごとに自らの解釈を施し、後者に立つ歴史認識を示している。

 例えば2006年7月初版の自身の著作『美しい国へ』で歴史認識に踏み込み、日本の侵略戦争を否定している。いわば侵略の定義に立ち入って、否定を自らの定義としている。

 既にブログに利用した一節だが、『その時代に生きた国民の目で歴史を見直す』と題して次のように自らの歴史認識を述べて、その歴史認識を以って自らの侵略の定義としている。

 安倍晋三「歴史を単純に善悪の二元論で片付けることができるのか。当時の私にとって、それは素朴な疑問だった。

 例えば世論と指導者との関係について先の大戦を例に考えてみると、あれは軍部の独走であったとの一言で片付けられることが多い。しかし、果たしてそうだろうか。

 確かに軍部の独走は事実であり、最も大きな責任は時の指導者にある。だが、昭和17、8年の新聞には『断固戦うべし』という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化する中、マスコミを含め、民意の多くは軍部を支持していたのではないか」――

 「歴史を単純に善悪の二元論で片付けることができるのか」と言っていること自体が善悪二元論による解釈の否定、歴史認識の否定であって、その否定は戦前の日本の肯定論、戦前の日本の戦争の肯定論となる。

 全体として言わんとしていることは当時のマスコミ・国民が支持していたのだからという理由で間接的に日本の戦争を正当化し、正当化を通して侵略戦争であることを否定する歴史認識を披露、『その時代に生きた国民の目で歴史を見直す』とする論理を自らの侵略の定義としたのである。

 「マスコミを含め、民意の多くは軍部を支持していた」と戦前の日本を肯定している以上、「かつて多くの国々、とりわけアジアの人々に、多大な損害と苦痛を与えた」としている歴史認識は肯定の否定という矛盾を来すことになる。

 自らの歴史認識、侵略の定義を明らかにした場合の批判を避ける曖昧化のためのレトリックに過ぎないとした根拠はこの点にある。

 もしマスコミ・国民が支持していた軍部が誤ってアジアの国々と人々に多大な損害と苦痛を与えたとする文脈での歴史認識、侵略定義であるなら、「歴史を単純に善悪の二元論で片付けることができるのか」と言って、そこに肯定の意思を置くことはしないし、置くこと自体が既に矛盾そのものの表現となる。

 上記文脈であるなら、戦争とその加害は軍部とマスコミ・国民の共同責任となり、マスコミ・国民の責任に関わる言及もあって然るべきだが、言及はないし、軍部の責任も軍部の責任として言及すべきを、その最大の責任を時の指導者に転嫁し、軍部なりの責任を免罪している。

 だからこそ、安倍晋三は「A級戦犯を国内法的には犯罪者ではない」と免罪扱いができるのだろうし、免罪扱いを通して日本の戦争そのものを肯定することができていたはずだ。

 また安倍晋三が同じ『美しい国へ』で、「日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ」と言っていること、2012年9月2日日テレ放送の「たかじんのそこまで言って委員会」で、「皇室の存在は日本の伝統と文化、そのものなんですよ。まあ、これは壮大な、ま、つづれ織、タペストリーだとするとですね、真ん中の糸は皇室だと思うんですね」と言っていることは戦前の大日本帝国憲法上の天皇独裁体制、国体そのものの肯定であって、そのような国体下で演じることとなった日本の戦争をも肯定に含んでいるはずである。

 いわば安倍晋三はここでも自らの歴史認識を示し、一般的に侵略戦争だと言われている日本の戦争に対して,それを否定する自らの侵略の定義を下した。

 また安倍晋三が日本国憲法は占領軍がつくった憲法だから、日本人自身がつくり直さなければならないと言っている占領政策否定・日本国憲法否定は自らの歴史認識に立った考えであり、占領政策が日本の戦前の侵略戦争・軍国主義(ファシズム)のアンチテーゼとして存在し、その集大成が日本国憲法である関係から言うと、当然、侵略戦争・軍国主義(ファシズム)であったことの否定を意味することになる。

 いわば安倍晋三は占領政策と日本国憲法に対して自らの歴史認識を下し、政治家として自らがこうだとする侵略の定義に立ち入って日本の侵略戦争の否定を導き出した。

 このように「侵略という定義は国際的にも定まっていない」と言いながら、その言葉に反して日本の侵略戦争の否定という自らの侵略の定義を打ち立てるウソを平気でついている。

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安倍晋三の占領軍がつくったを理由とした日本国憲法改正意思の国民共有度の低さは何を物語るのか

2013-05-09 08:33:30 | 政治

 【謝罪】

 5月7日当ブログ記事――《安倍内閣の違反操業台湾漁船は拿捕、主権侵害の領海侵入中国艦船は警告のみの矛盾 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で冒頭、〈「日台民間漁業取り決め」が4月10日台北で締結され、同日発効の運びとなった。〉と書きましたが、〈4月10日台北締結、30日以内(5月10日から)運用〉の間違いでした。謝罪し、訂正します。

 今夏の参院選挙で憲法改正を争点とする動きが着々と進んでいる。既にご存知のように改正の柱に「第9章 改正 第96条 改正の手続」を置いている。

 「この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする」

 「各議院の総議員の3分の2以上」を2分の1以上に改めて、憲法改正を発議し易くしようという狙いを込めている。当然96条改正は憲法改正の入口ということになる。

 最終目標は憲法9条改正に置いているはずだが、憲法9条改正はチラチラと見せるだけで、殆ど背後に隠し、96条改正を主として前面に押し出している。

 常識的には憲法のどこを改正し、どういう国の形にしたいか、そのような国の形にしたら、日本の国家としての国民に対する責任、国際社会に向けた責任のみならず、国民の社会に対する責任もしくは国民の国際社会に向けた責任がどう変わるのか、国際的な地位への位置づけ等、96条改正による最終目的たる憲法改正に関わるすべての説明責任を国民に果たすことを先に持って来るべきが、説明責任を果たさずに96条改正を先行させている。

 小沢一郎生活の党代表が4月8日の記者会見で発言していたことは最も当然なことである。

 小沢一郎代表「(改正の)手続き部分だけを先行するのは非常に邪道だ。憲法のあり方、国家像を明示して議論すべきだ」(YOMIURI ONLINE

 だが、安倍晋三も橋下徹も石原慎太郎も、96条改正の数合わせにまっしぐらである。96条さえ改正したら、後の改正はこっちのものだと考えているのかもしれない。

 勿論、憲法改正の手がかりとしての96条改正を目指す勢力には国民世論の最近の憲法に対する意識の変化が支えとなっている。

 4月19日付「YOMIURI ONLINE」による「読売新聞社全国世論調査」(3月30、31日、面接方式)

 「憲法を改正する方がよい」 ――51%(昨年2月調査・54%)
 「憲法を改正しない方がよい」――31%(昨年2月調査・30%)

 少し下がっているものの、過半数超えを維持している。この微減は安倍晋三の国家主義、歴史認識に危険を感じ始めたことによる傾向かもしれない。

 集団的自衛権行使

 「憲法を改正して使えるようにする」   ――28%(昨年2月調査・28%)
 「憲法の解釈を変更して使えるようにする」――27%(昨年2月調査・27%)

 容認派の半数超えとなっている。

 憲法改正の発議要件を定めた96条

 「改正すべきだ」   ――42%
 「改正する必要はない」――42%

 憲法解釈変更による集団的自衛権行使容認派の27%は96条改正必要性の是非を差し引きするはずだが、あくまでも改正には厳しい条件をつけるべきだとする考えからの拮抗ということもある。

 「産経新聞社・FNN」4月20、21両日実施合同世論調査

 「憲法改正賛成」――61・3%
 「憲法改正反対」――26・4%

 憲法96条改正による衆参両院改憲発議3分の2以上から過半数への変更

 「反対」――44・7%
 「賛成」――42・1%

 北朝鮮による同盟国への武力攻撃を日本の攻撃とみなす「集団的自衛権」を行使可能とする見直について

 「賛成」――65・8%
 「反対」――21・8%

 対象国を北朝鮮と限ったことが「賛成」に影響したことも考えられる。

 対日本向けミサイル発射準備国に対する敵基地事前攻撃ついて

 「専守防衛の範囲内と思う」  ――43・6%
 「専守防衛の範囲内と思わない」――43・1%

 5月3日付記事「毎日新聞社」4月20、21日実施世論調査。

 憲法改正

 「改正すべきだと思う」  ――60%
 「改正すべきだと思わない」――32%

 「改正賛成60%の96条発議要件引き下げ」

 「賛成」――59%
 「反対」――37%

 憲法96条改正

 「反対」――46%
 「賛成」――42%

 憲法9条

 「改正すべきだと思う」――46%
 「思わない」     ――37%

 「9条改正賛成46%の96条発議要件引き下げ」

 「賛成」――63%
 「反対」――35%

 いずれも発議要件の厳格維持が約半数以上を占めている。憲法改正には賛成だが、発議要件は厳しくしたままにしておくべきだとする意見が無視できない数を占めている。

 いずれの世論調査も憲法改正の賛否を尋ねてはいるが、改正の理由は質問していない。

 2013年4月19日(金)~21日(日)実施、5月3日発信のNHK世論調査が改正の理由を質問している。 

 「2013年4月 NHK憲法に関する意識調査 単純集計表」(部分的参考引用)
 
第2問あなたは、現在の憲法について、どのような考えをお持ちですか。次に読み上げる4つの中から、もっともあてはまるものを、1つ選んでお答えください。

1.ほぼ理想的なもので、現実と合っている・・・・・・・・・7.6%
2.ほぼ理想的なものだが、現実とは開きがある・・・・・・・・・32.6
3.日本の実情からみて望ましいものではないが、実際には定着している・・・・・・・・・35.7
4.日本の実情からみて望ましいものではないし、現実とも開きがある・・・・・・・・・13.1
5.その他・・・・・・・・・0.2
6.わからない、無回答・・・・・・・・・10.9

第3問あなたは、今の憲法を改正する必要があると思いますか。それとも、改正する必要はないと思いますか。次に読み上げる3つの中から1つ選んでお答えください。

1.改正する必要があると思う・・・・・・・・・41.6%
2.改正する必要はないと思う・・・・・・・・・16.0
3.どちらともいえない・・・・・・・・・39.3
4.わからない、無回答・・・・・・・・・3.1

第3問SQ1 〔第3問で「1. 改正する必要があると思う」の人に〕それは、なぜですか。次に読み上げる3つの中から、もっともあてはまる理由を1つ選んでお答えください。

1.アメリカに押しつけられた憲法だから・・・・・・・・・8.6%
2.国際社会での役割を果たすために必要だから・・・・・・・・・15.0
3.時代が変わって対応できない問題が出てきたから・・・・・・・・・75.4
4.その他・・・・・・・・・0.1
5.わからない、無回答・・・・・・・・・0.7


第3問SQ2 〔第3問で「2. 改正する必要はないと思う」の人に〕それは、なぜですか。次に読み上げる3つの中から、もっともあてはまる理由を1つ選んでお答えください。

1. 今の憲法がいい憲法だと思うから・・・・・・・・・7.3 %
2. 多少問題はあるが、改正するほどのことはないから・・・・・・・・・35.5
3. 戦争の放棄を定めた憲法9条を守りたいから・・・・・・・・・52.5
4. その他・・・・・・・・・0.0
5. わからない、無回答・・・・・・・・・4.6

第4問憲法改正の手続きを始めるにはまず、衆議院と参議院の両院ですべての議員の3分の2以上が賛成する必要があると憲法96条で定めています。

現在、これを改正して「過半数の賛成」に緩めるべきだという主張があることを知っていますか。次に読み上げる4つの中から1つ選んでお答えください。

1. よく知っている・・・・・・・・・16.8 %
2. ある程度知っている・・・・・・・・・35.9
3. あまり知らない・・・・・・・・・30.4
4. まったく知らない・・・・・・・・・14.6
5. わからない、無回答・・・・・・・・・2.3

第5問あなたは、憲法96条が定めた、憲法改正の手続きを始めるためにまず必要な「すべての議員の3分の2以上の賛成」という条件を「過半数の賛成」に緩めることについて、どのような考えをお持ちですか。次に読み上げる3つの中から1つ選んでお答えください。

1. 賛成・・・・・・・・・25.6 %
2. 反対・・・・・・・・・23.8
3. どちらともいえない・・・・・・・・・46.8
4. わからない、無回答・・・・・・・・・3.8

第6問次に、憲法9条について、あなたのお考えをうかがいます。憲法9条は、戦争を放棄し、戦力を持たないことを決めています。
あなたは、戦後、憲法9条の果たした役割を、どの程度評価しますか。次に読み上げる4つの中から1つ選んでお答えください。

1. 非常に評価する・・・・・・・・・25.2 %
2. ある程度評価する・・・・・・・・・51.1
3. あまり評価しない・・・・・・・・・13.9
4. まったく評価しない・・・・・・・・・3.2
5. わからない、無回答・・・・・・・・・6.6

第7問
あなたは、憲法9条を改正する必要があると思いますか。それとも改正する必要はないと思いますか。次に読み上げる3つの中から1つ選んでお答えください。

1. 改正する必要があると思う・・・・・・・・・33.1 %
2. 改正する必要はないと思う・・・・・・・・・29.9
3. どちらともいえない・・・・・・・・・31.8
4. わからない、無回答・・・・・・・・・5.1

第7問SQ1 〔第7問で「1. 改正する必要があると思う」の人に〕それは、なぜですか。次に読み上げる4つの中から、もっともあてはまる理由を、1つ選んでお答えください。

1.自衛力を持てることを憲法にはっきりと書くべきだから・・・・・・・・・46.9%
2.国連を中心とする軍事活動にも参加できるようにすべきだから・・・・・・・・・31.6
3.海外で武力行使ができるようにすべきだから・・・・・・・・・8.6
4.自衛隊も含めた軍事力を放棄することを明確にすべきだから・・・・・・・・・7.1
5.その他・・・・・・・・・1.1
6.わからない、無回答・・・・・・・・・4.7
                (分母=535人)

第7問SQ2 〔第7問で「2. 改正する必要はないと思う」の人に〕それは、なぜですか。次に読み上げる4つの中から、もっともあてはまる理由を、1つ選んでお答えください。

1.海外での武力行使の歯止めがなくなるから・・・・・・・・・8.5%
2.アジア各国などとの国際関係を損なうから・・・・・・・・・6.8
3.平和憲法としての最も大事な条文だから・・・・・・・・・66.0
4.改正しなくても、憲法解釈の変更で対応できるから・・・・・・・・・15.9
5.その他・・・・・・・・・0.0
6.わからない、無回答・・・・・・・・・2.7
                  (分母=483人)

第8問現在の「自衛隊」を「国防軍」に変えるべきだという意見がありますが、あなたはどのような考えをお持ちですか。次に読み上げる3つの中から、もっともあてはまるものを、1つ選んでお答えください。

1.「自衛隊」のままでよい・・・・・・・・・44.8%
2.「国防軍」に変えた方がよい・・・・・・・・・19.1
3.どちらともいえない・・・・・・・・・30.6
4.その他・・・・・・・・・0.4
5.わからない、無回答・・・・・・・・・5.1

第9問あなたは、政府が憲法解釈では認められないとしている集団的自衛権の行使について認めるべきだと思いますか、それとも認めるべきではないと思いますか。次に上げる4つの中から、もっともあてはまるものを1つ選んでお答えください。

1.憲法を改正して、行使を認めるべきだ・・・・・・・・・18.6%
2.政府の憲法解釈を変えて、行使を認めるべきだ・・・・・・・・・29.3
3.政府の憲法解釈と同じく、行使を認めるべきでない・・・・・・・・・16.5
4.集団的自衛権自体を、認めるべきでない・・・・・・・・・9.4
5.その他・・・・・・・・・0.1
6.わからない、無回答・・・・・・・・・26.0 

 NHKの世論調査にしても憲法改正賛成が第1位を占めている。憲法9条改正も僅差ながら、第1位を占めている。憲法9条を改正して、「自衛力を持てることを憲法にはっきりと書くべきだ」にしても過半数近くを占めている。国民の現状に於ける憲法観は他の世論調査とほぼ同様の傾向を示しているはずだ。

 だとすると、憲法そのものの改正の必要性の理由についても、同様の傾向にあり、最大公約数と見ることができる。

 「改正の理由」

1.アメリカに押しつけられた憲法だから・・・・・・・・・8.6%
2.国際社会での役割を果たすために必要だから・・・・・・・・・15.0
3.時代が変わって対応できない問題が出てきたから・・・・・・・・・75.4
4.その他・・・・・・・・・0.1
5.わからない、無回答・・・・・・・・・0.7

 「時代が変わって対応できない問題が出てきたから」が圧倒的多数の75.4%、次が、「国際社会での役割を果たすために必要だから」が15.0%。「アメリカに押しつけられた憲法だから」がごく少数派の8.6%。

 安倍晋三は日本国憲法の改正理由を占領軍がつくった憲法だからに置いている。

 2013年4月5日衆院予算委員会。

 安倍晋三「我々は事実上占領軍が作った憲法だったことは間違いないわけであります。

 ま、形式的にはですね、そうではないわけであります。しかし、占領下にあって、それが行われたのは確として事実であります。その中に於いてですね、やはり、占領が終わった中に於いて、そういう、いわば(憲法改正の)機運が盛り上げるべきではなかったか、というのが私の考えであります」――

 日本国憲法は「事実上占領軍が作った憲法」であり、占領が終わった時点で「(憲法改正の)機運が盛り上げるべきではなかったか」と、占領軍がつくったことを最大理由に憲法改正意思を示している。

 安倍晋三の憲法改正理由と国民の憲法改正理由に大きなズレがあることになる。この改正理由の大きなズレは基本的にはそのまま改正意思のズレとなって現れているはずで、この同床異夢とも言うべき改正意思の国民との共有度の低さは何を物語るのだろうか。

 安倍晋三は「皇室の存在は日本の伝統と文化、そのもの」だとし、その中心に天皇を置く国家観はそこに国民を省いていることによって国民の権利・自由よりも天皇中心の国家を優先させる国家主義を宿らせた発想だと言うことができる。

 また、安倍晋三が示している日本の戦前の侵略戦争・軍国主義(=ファシズム)のアンチテーゼとして存在した占領政策とその集大成である日本国憲法の否定は侵略戦争・軍国主義(=ファシズム)の否定でもある。侵略戦争を自存・自衛の戦争と見、軍国主義国家(ファシズム国家)だったことを軍国主義国家(ファシズム国家)だったとは見ずに、天皇を倫理的・精神的・政治的中心とした国体・国柄と見る、やはり国民を中心に置いていないゆえに国家優先の国家主義思想を纏わせた歴史認識者だと言うことができる。

 戦前の戦争を侵略戦争と見ていないからこそ、安倍晋三は「侵略という定義は国際的にも定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかということに於いて(評価が)違う」という発言が可能となる。

 だとすると、「アメリカに押しつけられた憲法だから」と見る憲法改正意思の安倍晋三と国民の共有度の低さは安倍晋三と国民との国家主義思想共有の程度の差であって、安倍晋三が体現している国家主義に国民の多くがまだ染まっていないことの現れと見ることができるはずだ。

 日本国憲法の改正意思を、「アメリカに押しつけられた憲法だから」と見ていない国民が多いこと自体が、戦前の日本の戦争を否定し、占領政策を肯定、占領時代から現在に続く日本国憲法を基本の所で肯定していることの現れでもあるはずである。

 少なくとも日本の国民の多くが安倍晋三流の国家主義に染まっていないということは安倍晋三とは違って健全な精神状態にあることの証しともなる。

 国民の多くが「アメリカに押しつけられた憲法だから」と日本国憲法そのものを否定することになったとき、思想的に危険な時代を迎えたシグナルとなるはずだ。

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菅官房長官の「安倍内閣は河野談話見直しも検討もせず」は広義の解釈に従うと事実に反する

2013-05-08 08:47:07 | 政治

 歴代の駐日アメリカ大使らが安倍政権の外交政策をテーマにしたシンポジウムを5月3日、ワシントンで開催し、安倍政権の閣僚等の靖国神社参拝や従軍慰安婦問題などについて議論を交わしたという。

 《歴代駐日米大使 歴史認識で議論》NHK NEWS WEB/2013年5月4日 11時17分)

 シーファー前駐日米大使(安倍政権の閣僚が靖国神社に参拝したことに中国や韓国が反発していることについて)旧日本軍によって被害を受けた人々は違った見方をしているが、国のために命をささげた人々に哀悼の意を表そうという気持ちは理解できる。

 (従軍慰安婦問題について)正当化できる理由はない。(政府の謝罪と反省を示した平成5年の河野官房長官談話を見直すべきだという意見が日本国内の一部から上がっていることについて)見直せば、アメリカやアジアでの日本の国益を大きく損なう」(NHK NEWS WEB)――

 靖国参拝に一定の理解を示しているが、安倍晋三は4月23日の参院予算委で次のように答弁している。

 安倍晋三「侵略という定義は国際的にも定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかということに於いて(評価が)違う」(MSN産経) 

 いわば間接的に日本の戦争が侵略戦争であったことを否定しているが、この安倍晋三の侵略戦争否定発言を待つまでもなく、靖国参拝者たちが「国のために尊い命を落とした尊いご英霊に対して、尊崇の念を表することは当たり前のことだ」と言って戦没者の戦争行為を善行・美挙(褒めるべき美しい行為)として把えていることは、そのような戦争行為に対応させた国家の戦争は当然善と位置づけていることになって、既に参拝行為を通して侵略戦争否定を行なっている。

 もし日本の戦争を侵略戦争だと歴史認識していたなら、兵士は例え自らは意図した行為でもなく、与り知らない行為であったとしても、結果的に国家の侵略戦争に加担させられた者として国家の犠牲となった犠牲者の扱いを受けることになり、あるいは戦争被害を受けた国々から見た場合は加担者としての扱いを受けるだろうから、「国のために尊い命を落とした尊いご英霊」などと日本の戦争と兵士の戦争行為を「尊い」というレベルで対比させて、双方を立派扱いすることはできないはずだ。

 シーファー前駐日米大使の日本の政治家たちの河野談話見直し意思に対する拒絶感は強いようだ。

 記事はアメリカの有力紙(ワシントン・ポスト)が安倍晋三が歴史を直視していないと批判する社説を載せたことについても触れている。

 このようなアメリカの動きに菅官房長官が発言している。《菅官房長官 河野談話見直し検討せず》NHK NEWS WEB/2013年5月7日 12時57分)

 5月7日(2013年)の閣議後の記者会見。

 菅官房長官「河野談話は、その見直しを含めて検討という内容を述べたことはない。安倍政権は、この問題を、政治、外交問題にさせるべきではないというのが基本的な考え方だ」――

 確かに第2次安倍内閣では河野談話の見直しを検討していない。だが、2007年3月8日辻元清美提出の河野談話に関わる質問主意書に対して2007年3月16日提出の安倍内閣答弁書は、「官房長官談話(河野談話)は、閣議決定はされていないが、歴代の内閣が継承しているものである」としつつも、河野談話発表までに「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである」として、河野談話が認めた従軍慰安婦の官憲による強制連行という事実を否定している。

 しかも河野談話が閣議決定された文書ではなく、河野談話の内容を否定した安倍内閣答弁書は閣議決定された文書という位置づけで河野文書に対して優位性を置いている。

 と言うことは安倍内閣として河野談話を見直したということであり、前原誠司民主党議員が2013年2月7日の衆院予算委員会で安倍晋三の結果的に見直したことになる発言を紹介し、安倍晋三自身、その発言を認めている。

 前原誠司民主党議員「去年の5月12日、産経新聞の『単刀直言』というインタビュー。かつて自民党は歴代政府の政府答弁や法解釈などをずっと引きずってきたが、政権復帰したらそんなしがらみを捨てて再スタートできる。もう村山談話や河野談話に縛られることもない。これは大きいですよ。これは総理がおっしゃっているんです。去年の5月ですよ。

 これは一議員であったということを酌量したとしても、次以降は自民党の総裁選挙のときにおっしゃっている。申し上げましょうか。

 去年の9月12日、自民党総裁選挙立候補表明。強制性があったという誤解を解くべく、新たな談話を出す必要があると御自身がおっしゃっている。菅さんがおっしゃっているんじゃない、御自身が総裁選挙でおっしゃっている。総裁になれば政権交代で総理になる、そういう心構えで総裁選挙に出た総理がおっしゃっている、御自身が。

 そして、討論会、9月16日。河野洋平官房長官談話によって、強制的に軍が家に入り込み女性を人さらいのように連れていって慰安婦にしたという不名誉を日本は背負っている、安倍政権のときに強制性はなかったという閣議決定をしたが、多くの人たちは知らない、河野談話を修正したことをもう一度確定する必要がある、孫の代までこの不名誉を背負わせるわけにはいかない。総裁選挙の討論会でおっしゃっている。これは御自身の発言ですよね」

 安倍晋三「ただいま前原議員が紹介された発言は全て私の発言であります。そして、今の立場として、私は日本国の総理大臣であります。私の発言そのものが、事実とは別の観点から政治問題化、外交問題化をしていくということも当然配慮していくべきだろうと思います。それが国家を担う者の責任なんだろうと私は思います」――

 9月12日(2012年)の自民党総裁選挙立候補表明と9月16日の討論会の発言を合わせると、河野談話によって「強制的に軍が家に入り込み女性を人さらいのように連れていって慰安婦にしたという不名誉を日本は背負っている」ことになるから、「新たな談話を出す必要がある」とし、「安倍政権のときに強制性はなかったという閣議決定をしたが、多くの人たちは知らない、河野談話を修正したことをもう一度確定する必要がある」と言って、答弁書閣議決定によって「河野談話を修正した」、いわば見直したと断言、この見直しを「多くの人たちは知らない」から、「もう一度確定する必要がある」と発言したことになる。

 いわば新たな談話を発表していないが、2007年の答弁書の閣議決定によって河野談話は既に見直したとしているのである。

 但し国を代表する立場に就いた現在、見直すことに関わる発言は政治問題化・外交問題化するから配慮しなければならないと言っている。

 安倍晋三は第1次安倍内閣時代の2007年3月5日の参院予算委員会で従軍慰安婦問題について次のように発言している。

 安倍晋三「河野談話は基本的に継承している。狭義の意味で強制性を裏付ける証言はなかった。いわば官憲が家に押し入って連れて行くという強制性はなかったということだ。そもそもこの問題の発端は朝日新聞だったと思うが、吉田清治という人が慰安婦狩りをしたという証言をしたが、まったくのでっち上げだったことが後(のち)に分かった。慰安婦狩りのようなことがあったことを証明する証言はない。裏付けのある証言はないということだ。

 国会の場でそういう議論を延々とするのが生産的と思わないが当時の経済状況もあり、進んでそういう道に進もうと思った方はおそらくおられなかったと思う。間に入った業者が事実上強制したこともあった。そういう意味で広義の解釈で強制性があったとうことではないか」――

 私自身は状況証拠から狭義の意味に於いても広義の解釈に於いても従軍慰安婦の強制連行はあったとする考えに立っているが、要するに安倍晋三は厳密な解釈(=狭義の意味)に従えば河野談話が伝えている官憲による従軍慰安婦の強制連行はなかったが、売春業者にまで広げた「広義の解釈」に従うと、売春業者に限った強制連行もあったとしている。

 この狭義・広義という言葉を拝借すると、安倍晋三は内閣として公式に見直しや検討の方針を示して、方針に従って実際行動に移していなかったのだから、「狭義の意味」に従うと菅官房長官の言うように河野談話の見直しも検討もなかったが、第1次安倍内閣時代に質問主意書に対する答弁書の閣議決定という手を使って閣議決定していない河野談話よりも閣議決定という点で答弁書を優位に置く形の「広義の解釈」に於ける見直しを行っていたことになる。

 但しこの閣議決定した答弁書は以下の内閣が見直したり否定したりしていないのだから、現在も生きていることになる。

 この意味に於いては菅官房長官が言っている「河野談話は、その見直しを含めて検討という内容を述べたことはない」は事実に反することになる。

 現在も生きている以上、第1次安倍内閣が生かすことになったのだから、見直しや検討の事実の否定ではなく、どのような政治問題化・外交問題化が起きようとも、あるいはシーファー前駐日米大使が言うように、「アメリカやアジアでの日本の国益を大きく損なう」ことになったとしても、見直した事実の肯定から入って、かつて発言したように「新たな談話」を安倍内閣によって出すことが一連の発言に対する正直な姿ではないか。

 政治問題化・外交問題化を恐れて「新たな談話」に進まないというのでは自身の発言を軽くする卑怯な振舞いとなる。自らの発言を軽くすることに慣れているというのなら、何をか言わんやであるが。

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安倍内閣の違反操業台湾漁船は拿捕、主権侵害の領海侵入中国艦船は警告のみの矛盾

2013-05-07 08:35:50 | 政治

 沖縄県尖閣諸島周辺排他的経済水域一部を双方が相手側の漁船の取締りを行わない水域とすること等を盛り込んだ「日台民間漁業取り決め」が4月10日台北で締結され、30日以内(5月10日から)運用の運びとなった。「民間」の形は取っているが、日台間に国交がないためで、実質的には日台両政府間で推進、締結した政府間協定だそうだ。

 特に安倍政権が尖閣諸島領有権問題で台中の共闘を恐れて合意を急いだと次の記事が伝えている。《尖閣で中台共闘を懸念、合意急ぐ…日台漁業協定》YOMIURI ONLINE/2013年4月11日07時22分)

 記事題名の「尖閣で中台共闘を懸念」は尖閣諸島の領有権主張は中国ばかりではなく台湾も行なっているからなのは断るまでもないが、記事が言っていることが事実とすると、安倍政権は尖閣諸島には領有権問題は存在しないという立場を取っているが、日台漁協協定締結を通して領有権問題が存在することを認めたことになるはずだ。

 もし存在しないを押し通すなら、例え日台が共闘しても、共闘自体を問題外としなければならない。

 記事は、〈同県の尖閣諸島を巡る問題で挑発行為を続ける中国に対し、政権発足以来厳しい姿勢を示す安倍首相の外交戦略の一環だといえる。〉と解説している。

 果たして「厳しい姿勢」を示していると言えるのだろうか。

 しかも沖縄県がこの協定に反対しているにも関わらず、〈首相官邸主導で日本側が譲歩した。〉と書いている。

 菅官房長官(4月10日記者会見)「歴史的な意義を有する。地域の安定にもつながる」

 協定締結の経緯――〈日中間では2000年に漁業協定が発効したのに対し、日台間は1996年以来計16回の漁業協議が決裂の繰り返しで、「無秩序状態」(外務省幹部)が続いた。尖閣周辺水域を「伝統的な漁場」とみなす台湾漁業者の要求水準が高く、日本が呑めなかったためだ。

 しかし、昨年9月の尖閣国有化に反発した台湾漁船団が巡視船を伴って日本の領海に侵入し、中台が「共闘」する姿勢も見られ、親日的な台湾を中国側に追いやるおそれが高まったことで、状況は一変した。

 安倍首相は昨年12月、漁業協定の合意を急ぐよう関係省庁に指示。東日本大震災2周年追悼式で台湾代表の席を各国代表や国際機関と同じ場所にする配慮を示すなど、布石も打った。沖縄の漁業には打撃になりかねない譲歩案に水産庁が難色を示す中、最後は首相官邸が押し切った。4月からマグロ漁などが本格化しており、台湾漁船との衝突を避ける必要もあった。〉云々。

 締め括りの記事解説である、〈安倍政権にとって中台の“分断”は、狙い通りの成果になる。〉の文言一つを取っても、尖閣諸島に領有権問題が存在することを認めているからこその“狙い”ということになる。

 いわば安倍政権は日台漁業協定を通して領有権問題が存在することを炙り出してしまったことになるが、どうだろうか。

 尤も日台漁業協定締結によって「尖閣で中台共闘を懸念」は必ずしも薄らいだと言うことのできる保証はないようだ。《台湾総統 取り決め評価も領有権譲らず》NHK NEWS WEB/2013年4月11日 19時3分)

 馬英九台湾総統が4月11日、日本の台湾に対する窓口機関「交流協会」の大橋光夫会長と面会、取り決めによって台湾の漁業者の権利が拡大するとして、「歴史的な成果だ」と高く評価したという。

 馬英九の「歴史的な成果だ」の発言は安倍政権の譲歩の大きさを物語ることになる。日本側の譲歩によって手に入れさせた「歴史的な成果」という関係を成り立たせたということである。

 だからこその沖縄の反発なのだろう。沖縄の操業上の治安問題を含めた漁業利益を割譲して、割譲した分を台湾側に与えた譲歩と言うことなのだろう。

 その割譲が大きいからこそ、台湾側の「歴史的な成果」ということでもあるはずだ。

 問題は馬英九次の発言である。

 馬英九「今回は島の領有権には踏み込まなかったが、今後、議論をしていきたい」
 
 この発言は、〈台湾では漁業権と領有権を引き換えにしたものだという声も上がっていて、馬総統の発言は、そうした批判を意識したもの〉と解説しているが、引き換えの裏取引があったとしても、「今後、議論をしていきたい」と一旦口にした以上、領有権の主張を続けなければならないことになる。

 主張をやめたとき、引き換えたことが証明されることになるからだ。

 例え漁業権と領有権の引き換えを裏取引した協定であっても、明文化されていなければ、裏取引は表に出すことができない関係上、主張は続けることによって生きてこない保証はない。

 台湾が領有権の主張を続けた場合、台中連携の今後の可能性は否定できない。中台分断の狙い通りの成果となるかどうかは危うい状況にある。

 逆に裏取引があって、その裏取引が生き、中台分断が狙い通りの成果を上げたとしても、そのことによって中国の領有権主張が和らぐというわけではないだろう。 

 協定締結を受けて4月10日、仲井真沖縄県知事が国に対する抗議の意思を示すコメントを発表した。《「極めて遺憾」「国に抗議」=日台漁業協定を批判-仲井真沖縄知事》時事ドットコム/2013/04/10-20:49)

 仲井真沖縄県知事「沖縄県からの要望が全く反映されておらず、台湾側に譲歩した内容で極めて遺憾。

 合意により漁場競合の激化や好漁場の縮小は避けられない。国に対して強く抗議する」

 この沖縄の抗議をかわす意図もあったに違いない、江藤拓農水副大臣が4月5日那覇市で記者会見している。

 江藤拓「対象水域外で台湾漁船が違反操業するのを発見した場合は徹底的に拿捕するのが基本的な姿勢だ。出だしから厳しくする」(47NEWS

 違反操業は「拿捕するのが基本的な姿勢だ。出だしから厳しくする」と、手抜きはしない姿勢を示していることは立派である。結構毛だらけ猫灰だらけ。

 だが、日台漁業協定は排他的経済水域の一部について取り決めた約束事である。ご存知のように領海は基線から12海里(約22キロメートル)以内の海域。接続水域は領海の外側から、12海里(約22キロメートル)以内の海域。排他的経済水域は基線から領海部分を除いた200海里(約370キロメートル)まで、いわば領海の外側12海里(約22キロメートル)を基点として200海里(約370キロメートル)までの間の188海里(348キロメートル)の帯状の海域を言う。

 経済的主権は適用されるが、領海と違って国家の統治権としての主権が適用されているわけではない。日本政府が排他的経済水域内で禁止している経済活動以外の活動は許されることになる。 

 台湾漁船が協定の海域以外の排他的経済水域で違法操業したとしても、日本国の主権を侵害することになる領海侵入には当たらない。例え領海内に入り込んで違法操業したとしても民間の漁船である。

 だが、中国の領海侵入は中国政府所属の中国艦船である。一国の政府による他国政府に対する領海侵入という主権侵害とどちらの罪が重いかは明らかだが、違反操業した場合の台湾漁船は拿捕するが、中国艦船の領海侵入は拿捕もせず、警告射撃も行わず、海上保安庁の巡視船による無線を使った領海外退去要求のみの警告では領海侵入の方の罪を軽くすることになるはずだ。

 江藤拓の発言を記事で知ったとき、例え沖縄を批判をかわすための発言であったとしても、この男は何を言っているのだろうと思った。
 
 以前、ブログにも書いたことだが、3月7日の午前中の衆院予算員会で 安倍晋三が中国艦船の尖閣海域での行動に対して民主党政権とは違って厳しく対応すると国会答弁している。

 安倍晋三「前の政権では、過度に軋轢を恐れるあまり、領土・領海・領空を犯す行為に対して、当然行うべき警戒・警備の手法に極度の縛りがかけられていた。相手方に誤ったメッセージを送ることになり、不測の事態を招く結果になると判断したので、安倍内閣が発足した直後から、前の政権の方針を根本から見直し、冷静かつ毅然とした対応を行う方針を示した」(NHK NEWS WEB

 違反操業した場合の台湾漁船拿捕と領海侵入中国艦船無線警告の罪の重さを逆転させる矛盾は江藤拓発言を有効とさせ、上記安倍発言を無効とする矛盾となって対立させることになるだけではなく、安倍発言の無効は口先だけと化していることの証明ともなる。

 民主党の前原誠司は口先番長という有難い名称を頂いていたが、安倍晋三はさしずめ口先首相と言ったところか。その口先だけの言葉にゴマ化されてはいけない。

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麻生太郎がインド訪問で見せた対中国観に見る相変わらず単細胞な浅知恵

2013-05-06 08:39:04 | 政治

 インドを訪問していた単細胞麻生太郎が5月4日、インド商工会議所連盟等が主催する講演会で講演、講演後の質疑応答で中国に対する警戒感と日本の採るべき軍事的対応を述べている。

 《麻生副総理「中国とスムーズにいった歴史ない」日印米豪の協力強調》ZAKZAK/2013.05.05)

 記者の質問は解説文を会話体に直した。

 記者「インドでも中国と領有権をめぐる紛争があり、安全保障や海洋分野での日本とインドの関係を強化すべきではないか」

 麻生太郎「インドは陸上で中国と国境を接し、日本は海上で接触を持っているが、我々は過去1500年以上の長きに亘り、中国との関係が極めてスムーズにいったという歴史は過去にない」

 要するに麻生は日本を善の立場に置き、中国を悪の立場に置いて発言している。中国は日本と違って歴史的に見ても友好な外交関係を築く能力がない国だと貶(けな)した。

 かなりの蔑みである。

 だったら、中国とは政治関係のみならず、経済関係も一切やめたらどうかと言いたくなるが、もしやめるわけにはいかないと言うことなら、もう少し考えた物言いをすべきだが、単細胞に出来上がっているから、無理な注文といったところなのだろう。

 記者「中国の軍事的台頭に対抗する日印関係はどうあるべきか」

 麻生太郎「インドと日本は哲学で結ばれ、価値によって突き動かされる同盟国同士ではないだろうか。

 豪州に米国が駐留軍を置くという事態は、地域のスタビリティー(安定)を大事にしなくてはならないという表れだ」

 発言の後半は記事解説を待つまでもなく、既に設立している「日米豪印戦略対話」に基づいた対中国包囲網強化の必要性への言及である。

 前半の発言の「価値」とは安倍晋三が常々言っている「自由、民主主義、法の支配、基本的人権等々の普遍的価値観」を指し、そういった価値観を共有できる外国と外交関係を推進していくとしている、いわゆる「価値観外交」の共有を謳った。

 「インドと日本は哲学で結ばれ」の発言は哲学が日印両国関係の強力な絆となっているという物言いとなる。と言うことは、両国間の多くの利害は絆が一致させる力となることを意味することになる。

 恐れ入る単細胞な浅知恵だ。

 断るまでもなく、外交の基準はあくまでも国益である。但し如何なる二国関係に於いても、すべての面に亘って国益が合致するということはない。日米関係に於いても為替や関税、商習慣等で利害を異にする。

 インドと日本が軍事的に対立することはなくても、インドは国益の程度に対応した濃淡の関係を日本と築いていくはずだ。

 いわば国益は如何なる「哲学」に優先する。哲学で結ばれているからと言って、国益を犠牲にすることはないはずだ。

 安倍晋三は今年3月末にモンゴルを訪問、エルベグドルジ大統領との首脳会談後、「自由や民主主義、法の支配といった普遍的価値を共有する戦略的パートナーシップに弾みがついた」(MSN産経)と訪問の成果を誇ったが、モンゴルは、日本とは普遍的価値観を共有していない中国と長距離に亘って国境を接し、戦略的パートナーシップの関係を構築している。

 いわば日本とモンゴルがいくら戦略的パートナーシップの関係を構築しようとも、モンゴルの対中、対日を天秤にかけた国益に応じて日・蒙の戦略的パートナーシップは蒙・中の戦略的パートナーシップによって相対化の力を受けるということであって、日・蒙の戦略的パートナーシップが常に絶対ではない関係に曝される。

 と言うことは、「自由や民主主義、法の支配といった普遍的価値」も絶対ではなく、常に相対化の力を受けることになって、殊更誇る外交基準足り得ないことになる。

 だが、安倍晋三は単純に誇ることができる単細胞を見せた。

 勿論、蒙・中関係も日・蒙関係を受けて同じ相対化に曝されることになる。但しどちらの相対化が優位性を獲得できるかも問題となる。

 安倍晋三のモンゴル訪問については4月1日(2013年)当ブログ記事――《安倍晋三の水戸黄門葵の印籠の如くに言う「価値観外交」の有効性 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之
に書いた。

 麻生太郎は単細胞にも日本に都合のいい、日本側からのみ見た「哲学」と「価値」を持ち出して、日印米豪の対中包囲網とする軍事的・政治的協力体制構築強化の必要性を訴えたが、この「哲学」と「価値」にしてもインドと中国の関係を受けて相対化に曝されない保証はない。

 インドは中国と国境を接していて、1962年の中印国境紛争では中国側の侵攻によって軍事衝突まで起こしている。いわばインドにとって中国は再度の侵攻の将来的な可能性を否定できない警戒レベルの高い軍事大国だが、だからこそ、「自由や民主主義、法の支配といった普遍的価値」を共有する他国と中国に備えた何らかの協力関係を結んだとしても、そのような協力関係を中国と友好な関係を維持する国益上、相対化させないということはないだろう。

 インドは第1次安倍内閣時代の安倍晋三が提唱、2007年5月設立の非公式軍事同盟の「日米豪印戦略対話」の一員である。この「日米豪印戦略対話」は日本が扇子の要となって、日印、日米、日豪の各二国間同盟によって維持されているという。

 関係国の顔ぶれを見れば、明らかに対中を意識した戦略対話であるはずだ。

 日印二国間同盟によって日印首脳は毎年相互訪問を継続している密接な関係を築いている。

 さらに日印は「外相間戦略対話」を日印交互に開催している。この外相間戦略対話は「日米豪印戦略対話」の構築を進めている間に構想され、第1回外相間戦略対話は日米豪印戦略対話が2007年5月に設立される前の2007年3月22日、日本で当時の麻生太郎外相とムカジーインド外相との間で開催されている。

 今年の対話はクルシード・インド外相が来日して3月26日岸田外相との間で第7回目を行なっている。

 日本の外務省のHPによると、この対話で、岸田外相から、シン・インド首相訪日の成功に向け引き続き準備を進めたい旨述べた上で政治・安全保障分野で両国の対話と協力が進展していることは喜ばしく、この観点から次官級「2+2」対話や局長級日米印三カ国協議等の政治対話を充実させたい旨述べ、海洋に関する対話とサイバー協議の第2回会合を本年中に開催したいとの考えを伝えたという。

 これに対しクルシード外相からインド側も「2+2」対話や日米印協議、海洋に関する対話、サイバー協議を進め、日本との政治対話を一層深化させていきたい旨述べたとのこと。

 以上の文脈からして、「日米豪印戦略対話」がそうであるように、その対中包囲網に対応させた対話であることが分かる。

 但しこの対話が描き出す日印関係がそれぞれの国益に応じて相対化の力を受けない独立した対中包囲網となり得るかである。

 クルシード外相自身が今回の訪日前に対中包囲網を否定している。《インド外相:「中国包囲網」構築に否定的》毎日jp/2013年03月21日 20時59分)

 クルシード外相が3月26日からの日本訪問を前に3月21日に日本人記者団と会見したときの発言である。

 クルシード外相(中国を牽制するため、日本や米国、インド、オーストラリアが戦略的協力を深めるべきだとの声が日本などで出ていることに関連して)「インドは中国を念頭にした多国間関係は築かない。

 日本が中国への懸念を深めているのは理解できるが、領土問題などの争点は、2国間の建設的な対話で平和的に解決すべきだ。インドも中国と領土問題を抱えているが、印中関係発展の妨げになっていない」――

 「日米豪印戦略対話」にしても、この対話を構築する日印二国間同盟にしても相対化を受けるというメッセージであり、中国に対する、インドは対中包囲網の構築には加わらないというメッセージであろう。

 この相対化は「日米豪印戦略対話」が想定している対中包囲網効果を想定以下とすることになる。

 麻生太郎がこの発言を情報としていなかったとは考えられない。例え情報としていなかったとしても、インドの中国との間の地理的関係をも含めた政治情勢を考えたなら、外国がインドと結ぶどのような戦略的関係も中国によって左右されるインドの国益に対応して相対化の力学を受けることを想定していなければならなかったはずだ。

 にも関わらず、「我々は過去1500年以上の長きに亘り、中国との関係が極めてスムーズにいったという歴史は過去にない」と発言、中国の反発を誘発することに成功したとしても、「インドと日本は哲学で結ばれ、価値によって突き動かされる同盟国同士」だと、国益という点からしたら確実性が希薄であることに気づかずに「哲学」とか、自由や民主主義、法の支配等々の「価値」を持ち出して同盟関係強化を求める外交センスはまさに浅知恵としか言い様がない。

 安倍晋三にしても靖国参拝を敢行したい衝動を持ちながら中韓との間に政治問題化・外交問題化することを恐れて参拝を控えている。村山談話、河野談話を見直したい国家主義者らしい衝動を抱えていながら、やはり政治問題化・外交問題化を恐れて、見直したい意思を曖昧化している。

 自らがこうあるべきだとしている信念さえも内閣運営上の利害を優先させて相対化の力を加える。麻生太郎は安倍晋三のそういった相対化を常日頃から間近に見ていながら、外国との関係にしてもそれぞれの国益という利害を受けて相対化の力学が働くことに思いを及ぼすことができなかったから、あのような相対化を含意しない日本を中心に置いた単細胞・浅知恵な発言となった。

 鈍感な男だ。

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安倍晋三、下村博文が意図している道徳教育はクソの役にも立たない

2013-05-05 10:41:10 | 政治

 ――人間という存在を考えさせる教育こそが道徳教育に優る――

 一般的に道徳教育は肯定的な価値観に立った行動を、各テーマに添って、ああしましょう、こうしましょう、あるいは逆に否定的価値観に立った行動を、それはしてはいけませんといった具合に決まり事を前提として、それを教え、決まり事通りの行動を求める。悪く言うと、教えた通りの言いなり人間を求める。

 このような道徳教育が成功した例は戦前の国家権力が教育勅語や修身を通して天皇と大日本帝国に対する忠君愛国や社会や親に対する忠孝を国民に吹き込み、そのような道徳観で裏打ちした天皇と日本国家に対する国民の統一的行動を創り出したところに顕れている。

 このことの成果としてあった「陛下のために、お国のために」の国民統治装置なのは断るまでもない。

 そのような戦前の国民統治装置に郷愁を感じているのか、国家主義者安倍晋三にしろ、同じ穴のムジナである下村博文文科相にしろ、国家権力を使って人間形成の名の下、道徳の教科化に執心を燃やしている。

 4月1日(2013年)衆院予算委員会。

 平沼赳夫代表代行がたちあがれ日本を結党したときに入党したというだけで、その国家主義が分かる三木圭恵(けえ)女性議員が自らが望んでいることからの質問である、下村に国定教科書を視野に入れているか問い質し、下村が視野に入れているわけではなく、道徳教育の充実を図る懇談会で議論していく中で決定をしたいと答弁すると、三木は私見はどうだと重ねて質問した。

 下村「これは予算委員会ですので、私見はございません。

 文部科学大臣という立場でいえば、道徳において、子供たちが、より、そのことによって、その時間によって、子供たちの自尊意識と、そして、ルールや社会のマナー、規範意識を含めて学ぶ場として、知徳体の、特に徳の部分が醸成されるような空間、時間をぜひつくっていきたいと思います」――

 道徳教育によって子供たちの自尊意識、ルールや社会のマナー、規範意識を育むと素晴らしいことを言っている。

 果たして安倍晋三や下村博文のような国家主義者の考える道徳教育が国家権力が考える日本人像の植えつけではなく、個人の自律を促す道徳教育足り得るのだろうか。

 三木圭恵がさらに「人権教育と道徳教育のバランスが崩れているがゆえに、今のいじめ問題である」と質問を重ねた。

 下村「例えば、偉人というのは、歴史を超えて、あるいは国境を越えて、人が人として生きる道筋として参考になる、最初から成功している人生ではなくて、いろいろな苦難の中で、それを乗り越えて物事をなし遂げた、だからこそ偉人と言われるんでしょうし、これは特定の国家の価値観をそこに押しつけるということではなくて、例えばそういうエピソードをいろいろと入れることによって、子供たちに生きる勇気なり、自分も頑張ろうという気持ちなりを提供するという意味で、道徳の教科化という中で、いかに子供たちに、よりよい教材等をどう配付するかということについて、今後、(道徳教育の充実を図る)懇談会で議論していただきながら、学校現場でより有効な道徳の時間が活用できるようなバックアップをしてまいりたいと思います」――

 「人が人として生きる道筋として参考になる」からと、道徳教育の中に偉人伝を加えると、結構なことを言っている。

 安倍晋三も、既に一度ブログで取り上げたが、山内康一みんなの党議員が「道徳教育をやったら、イジメがなくなるのか」と、道徳教育に否定的な趣旨で行った質問に対して道徳教育との関連で偉人伝に触れている。 

 安倍晋三「私は子どもとのきに、まあ、様々なことを学んだわけでありますが、まあ、ウソをついていはいけないということについてですね、学校で、まあ、例えばジョージ・ワシントンの桜の木、の話も、乃木大将の話なんかも私の地元でよく話をする話しなんですが、そういうことが記憶として残って、そういうことをしてはならないな、と、いうことが果たして山内さん、いけないんですか」

 確かに安倍晋三は一国の首相である。だが、その認識能力――考える力は疑問符をつけざるを得ない場合が多い。

 偉人は常に肯定的存在として扱われる。一般的には、いわば時代の変化に応じてその業績が否定される特別な場合を除いて、肯定的存在としての扱いは永遠に続くと言ってもいい。

 そのような偉人の成功物語を書き記した偉人伝は成功した人間の話を前提としているゆえに肯定的存在として見る目を通すことになって、その一度や二度の失敗は成功の糧として、あるいは成功へのプロセスとして肯定的な側面から把えられて、否定的評価では見ないことになる。

 人間の失敗は果たして否定的側面を持たない万々歳の失敗ばかりだろうか。

 問題はこのことばかりではない。否定的な観点という対立軸を欠いた肯定的な観点からのみの認識の植えつけは果たして考える力の育みとなるのだろうか。

 偉人伝はまた失敗から成功へと決まりきった段階を踏むストリーとなっていて、固定的なプロットを踏んでいる。

 固定的なプロセスに慣らされることも、知らず知らずのうちに考える力を奪う危険性を抱えていないと言えるだろうか。 

 戦前の国策としての道徳教育は国民の考える力を奪い、忠君愛国や忠孝の名の下、天皇や国家権力といった国家的上位者、親を含めた社会的上位者に無考えに自動的に服従する権威主義を植えつけるのに成功した。

 4月10日(2013年)の衆議院予算委員会で山内康一みんなの党議員の「道徳教育を教科化したら、イジメがなくなるという根拠はどこにあるのか」という質問に下村博文は次のように答弁している。

 下村博文「このたび教育再生実行会議の第一次提言の中でイジメ対策として道徳の教科化というのが提言されました。しかしそれは、国家の特定の価値感を国民に押し付けるということではさらさらないわけでございまして、これは国境を超えて、また歴史を超えて、人が人として生きていくためにですね、学んでおくべきルールとかマナーとか規範意識、あるわけでございまして、こういうものをきちんと学んでいないために知らないうちに、例えば人を傷つける、イジメる。

 加害者にも被害者にも傍観者にもならないという意味では、人が人としてある意味では生きていく。そういう常識的なものをきちっと教えていく必要があるのではないか、ということから、この、おー、道徳の教科化が提言されたことでございます。

 この道徳教育を通して規範意識や自己肯定感、それから社会性、思い遣りの心など、豊かな人間性を育む、ということはイジメ問題を根本的に解決する上で、大きな意義を持つものと考えます」――

 「人が人として生きていくために」「学んでおくべきルールとかマナーとか規範意識」の育み、あるいは「人を傷つけるイジメ」の自己抑制、「社会性、思い遣りの心」と「豊かな人間性」の育みには極めて考える力を要する。

 しかも「自己肯定感」は道徳教育が与える感性と言うよりも、自身が持つ可能性を生かすことができるかどうかで決まっていく感性であるはずだ。

 また「社会性、思い遣りの心」にしても、人と人との関係の中で考え、学んでいくことによって真に身につく感性であるはずだ。

 イジメはこれら逆の感性としてあるものであって、歪んだ可能性の発揮としてある。イジメによって「自己肯定感」、あるいは自己達成感を得る。

 当然、考える力の欠如がもたらす自己能力ということになる。悪く言うと、教えた通りの言いなり人間しか育てないことになる。

 そもそもからして道徳教育の肯定的か否定的か、いずれか一方の価値感を持たせた決まり事を前提として、それを教え、決まり事通りの行動を求める画一性自体が既に考える力を排除している。

 考える力を根としなければ、道徳教育という栄養分を与えようと、どのような教育を栄養分としようが、言われたことを単に受け止めるだけの無考えの自動的な従属人間を育てるだけで、「社会性、思い遣りの心」、「豊かな人間性」、「規範意識」といった頑丈な幹にまで成長することはない。

 だが、安倍にしても下村にしても、「考える力」の育みの必要性に触れずに道徳教育の必要性、道徳の教科化を話している。

 無考えの自動的な従属人間であることの方が国家にとっては都合のいい国民統治となるからなのか、考える力の必要性を欠いていることが道徳教育への偉人伝教育をプラスすることに併行して、あるいは道徳教育の教科化に併行して考える力の必要性に触れていない理由となっているはずだ。

 人間は常に肯定的な存在としての姿のみを見せるわけではない。また逆に否定的な存在としての姿のみを見せるわけではない。肯定的な存在と否定的な存在が非間欠的に交互に現れたり、あるいはどちらかが一方的に現れながら、他方がときたま顔を覗かせたり、あるいはときには同時に現れたりもする。

 考えることができる人間であっても、自己利害に災いされて否定的存在としての姿を見せてしまうことがある。借金に追われて考える力が狭まり、道徳感を失ってつい他人のカネに手をつけてしまうといった例は枚挙に暇はないはずだ。

 人間が例え考える力を持っていたとしても、ましてや考える力を備えていなかったなら尚更なのは予想できることだが、常に肯定的な存在としての姿のみを見せるわけではなく、往々にして否定的な存在としての姿を見せてしまう生きものと言うことなら、肯定・否定いずれかの価値感を持たせた行動を持たせたなりに画一的に求める、結果的に考える力を介在させない道徳教育よりも、肯定・否定いずれの姿も取り得る人間の現実の姿を学習する機会を与えて、人間という存在を考えさせる教育をこそ行うべきではないだろうか。
 
 例えば大津中2男子が陰湿なイジメを受けて2011年10月11日朝自殺した事件を教材として取り上げ、学校の教育委員会に、あるいは教育委員会の市に報告すべきことを報告しなかったり、過小報告したり、公表すべき情報を隠蔽したり、あるいは校長や学校教師のイジメと疑うべきを、その疑いから目を逸らしたりした責任回避の姿を新聞記事等から逐一調査して、そこから人間の否定的存在としての姿を学ぶことをしたなら、否応もなしに人間という存在を考えることになり、否定を学んで逆に肯定を考える教育が可能となるはずだ。

 少なくともああしましょう、こうしましょう、あれこれはしてはいけませんといった画一的な決まり事から離れた、児童・生徒にそれぞれに独自な学びの機会を与えることになると断言できる。

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安部晋三の日本民族優越意識の非現実性に立った、あるべき国家像足り得ない「美しい国、日本」

2013-05-04 09:36:58 | 政治

 安倍晋三は第1次安倍内閣時もそうだったが、今内閣に於いても、「美しい国」を小鳥の喧しい囀りのように囀っている。先頃4月28日の主権回復の日の式典式辞の題名そのものが「日本を良い美しい国にする責任」となっていて、その中で「美しい国に」ついて次のように触れている。

 安倍晋三「私たちの世代は今、どれ程難題が待ち構えていようとも、そこから目を背けることなく、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、日本を、私たちの大切な国を、もっと良い美しい国にしていく責任を負っています。より良い世界をつくるため進んで貢献する、誇りある国にしていく責任が私たちにはあるのだと思います」――

 「あのみ雪に耐えて色を変えない松のように」とは昭和天皇が敗戦後昭和21年の生活困難なときに詠んだとして前以て紹介していた歌、「ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ」のことである。

 『美しい国へ』という著書も著(あらわ)している。余っ程日本を美しい国にしたいようだが、国とは人間の集団であり、人間は自己利害に応じて美醜様々の姿を取る。一人の人間の中でも美醜を兼ね備えていて、同じく利害に応じて美醜それぞれを使い分け、演じる。

 いわば美しいばかりの人間は見かけ上は存在するかもしれないが、実質的には存在しない。ウソをつく利害に迫られれば、いくらでもウソをつくのが人間である。だから犯罪はなくならない。

 政治家が権力闘争を勝ち抜くために使う権謀術数もウソを重要な武器の一つとしているはずだ。美しいばかりでは権力闘争を勝ち抜くことはできない。

 不利が予想される選挙で当選するためにそれまで所属していた政党を捨てて対立政党の支援を望み、有利な選挙へと転換を図る損得計算も自己利害ばかりが目立って、決して美しいとは言えないはずだ。

 世界のトヨタにしても、下請叩きの下請泣かせを相当にやらかしているはずだ。

 厳密に「美しい国」を成り立たせるとしたら、美しいばかりの人間を掻き集めなければ成り立たない。利害に応じて美醜を使い分けるのが人間存在であるなら、「美しい国」を言うこと自体、認識能力の程度を窺うことができる。

 要するに安倍晋三は人間行為を取り締まる法律の要らない国を夢見ていることになる。国民栄誉賞以下、美しい人間の美しい行為を褒賞する基準を定めた法律だけが残ることになる。何と言っても美しい人間ばかりが集まった美しい国ということだろうから。

 あるいは格差も不公平も差別も存在しない国を夢見ていることになる。

 「美しい国」と言うためには格差も不公平も差別も存在してはならない。存在したなら、「美しい国」とは言えない。

 第1次安倍内閣では、「美しい国づくり」プロジェクトを推進し、〈安倍内閣では、皆さんとともに目指したい、新しい、私たちの国のかたちを、 活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、「美しい国、日本」と考え、そして、この私たちの国の理念、目指すべき方向を〉と言って、次のように「美しい国」の目標を掲げている。

1 文化、伝統、自然、歴史を大切にする国
2 自由な社会を基本とし、規律を知る、凛とした国
3 未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国
4 世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国 と考えています。

 そして、〈「美しい国、日本」は、私たち一人ひとりの中にあります。だからこそ、この「美しい国、日本」を、私たち一人ひとりが創り、そして誇りをもって伝えていきたいと考えています。〉と締めくくっている。

 以上のことは安倍晋三は現在でも口にしているお題目である。

 1の「文化、伝統、自然、歴史を大切にする国」は日本のこれらの要素をすべて善と把え、2の「自由な社会を基本とし、規律を知る、凛とした国」は日本人的存在を善と把えている。

 「大切にする」とは、大切にする対象を善と把えて、善を前提として可能となる行為であり、「悪しき文化、悪しき伝統、悪しき自然、悪しき歴史を排除し、善き文化、善き伝統、善き自然、善き歴史を大切にする国」と、善悪比較対照した客観性を持たせた上に利害に応じて美醜を使い分ける人間の現実の姿を反映させて取捨選択を求めているわけではない。

 いわば安倍晋三が希求している「美しい国、日本」は最初から到達不可能な虚構の世界だということである。

 後者にしても、規律を知る日本人ばかりではないこと、凛とした日本人ばかりではないことを窺わせる文言は存在しない。日本人的存在を善と把えているからこそ、「規律を知る、凛とした国」は言及可能となる。

 このことは「『美しい国、日本』は、私たち一人ひとりの中にあります。だからこそ、この『美しい国、日本』を、私たち一人ひとりが創り、そして誇りをもって伝えていきたい」と言っている文言にも現れている。

 日本人的存在を善と把えているからこそ、「美しい国、日本」を日本人一人一人の中にあるとすることが可能となる。

 とても安倍晋三という人間の中に「美しい国、日本」が存在しているとは到底思えない。

 日本という国を善なる国家だと前提としたとき、あるいは日本人を善なる存在だと前提としたとき、いわば自国や自国民に対する客観性を欠いた、あるいは人間の現実の姿を欠いた肯定一辺倒の位置づけが日本国家の優越性、あるいは日本民族の優越性を日本人の意識の中に誘発しない保証はあるだろうか。

 あるべき国家像は否定に対する、あらねばならないとする肯定でなければならないはずだ。あるいは否定を改めてあらねばならないとする肯定を目指す構造としなければならないはずだ。

 常に否定的側面を避けることができない人間の現実の姿に目を向けないことで成り立たせ可能となる虚構を出発点とする国家建設となるからだ。

 既にあるとした肯定を前提としてさらにあろうとする肯定を積み重ねる肯定の二重化は否定的要素を隠す肯定一辺倒となる。否定的要素を隠した肯定一辺倒とは優越性の表現そのものであろう。

 このような優越性表現は金正日や金正恩が国家指導者として否定的要素の隠蔽と否定的要素に代わる自分たちの優越性一辺倒を様々な手段を使って印象づける国民洗脳の情報操作にも見ることができるはずだ。

 安倍晋三は日本という国も日本人という存在も美しく彩ろうとしている。「美しい国、日本」と日本国家と日本人を美しく彩るとき、「日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ」(『美しい国へ』)と言っていることと、あるいは「むしろ皇室の存在は日本の伝統と文化、そのものなんですよ。まあ、これは壮大な、ま、つづれ織、タペストリーだとするとですね、真ん中の糸は皇室だと思うんですね。

 この糸が抜かれてしまったら、日本という国はバラバラになるのであって、天皇・皇后が何回も被災地に足を運ばれ、瓦礫の山に向かって腰を折られて、深く頭を下げられた」(2012年9月2日日テレ放送「たかじんのそこまで言って委員会」)と言っていることとの整合性を取ることができる。

 「美しくない国、日本」と言ったなら、「日本の伝統と文化、そのもの」のと言っている皇室の存在そのもの、安倍晋三が崇拝して止まない天皇の存在そのものを否定することになるからだ。

 いわば安倍晋三は天皇を優越的存在とすることによって、日本という国と日本人の優越性を天皇に代表させている。天皇の優越的存在と見合う「美しい国、日本」であり、日本人と言うわけである。

 安倍晋三の「美しい国、日本」は天皇と日本と日本人の優越性を前提とした国家像だと言うことである。

 戦前の天皇絶対主義、日本民族優越主義と何ら変わらない思想を安倍晋三は自らの血としている。例え戦後生まれであっても、その結末を見たはずだが、今なお戦前の思想を引きずって、自らが求める国家像としている。

 その危険性を考えなければならない。 

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猪瀬東京都知事の何様意識が許した他国蔑視、オリンピック東京開催の目がなくなった

2013-05-03 09:34:29 | 政治

 猪瀬東京都知事は常日頃から自信に満ちていた。発言は常に自己を正しい位置に置いていて断定的だったし、そういった断定的な意識がいつも胸を張った姿勢を見せていたのだろう。

 今年1月4日の都庁仕事始めの700人職員を前にした挨拶。

 猪瀬都知事「初めて都知事として新年を迎えたが、東京が日本を支えないといけないという重責をひしひしと感じている。東京が日本の心臓であり、東京が頑張らないと日本が沈没してしまう。皆さんと一緒に運命を背負ってやり抜きたい」(NHK NEWS WEB

 東京は日本最大の都市である。だから、日本の経済が東京に対して最大に影響する。東京の経済が日本という国に最大に影響する関係にあるわけではない。

 東京証券所の株価にしても日本の経済の反映としてある数値であって、東京の経済の反映として出てくるわけではない。

 尤も日本の経済にしてもアメリカ経済の影響下にあり、日本の株価はニユーヨークの株価の影響を受ける。

 当然、「東京が日本を支えないといけないという重責」にしても、「東京が日本の心臓」という自負も自信過剰の思い上がりに過ぎない。

 「東京が日本の心臓」ではないことは東京一極集中が何よりも証明している。一極集中とは心臓部の活力が心臓に連なる周辺部に反映されていない状態を言うからだ。心臓部だけが一大活力に満ち、心臓に連なる周辺部が活力を失っているという状況は周辺部の心臓足り得ていない関係にあることの証明に他ならないばかりか、東京の経済の大部分が東京にのみ役立つ自己完結的となっていることの証左でもあるはずだ。

 当然、「東京が頑張らないと日本が沈没してしまう」のではなく、「日本が頑張らないと東京は沈没してしまう」関係にある。但し東京が沈没するときには地方都市の殆どは沈没を済ましているだろう。 

 猪瀬都知事の過剰とも思える自信は高名な作家であると同時に2012年12月16日執行の東京都知事選挙で次点を300万票以上も引き離す、日本の選挙史上では個人として最多得票記録となる4338936票で当選した都民からの一大支持も背景にあったに違いない。

 単なる自信過剰は自分自身に意識を向けることで終わるが、自信過剰が過ぎて何様意識を持つようになると他を見下す意識が働くことになる。

 猪瀬都知事が2020年夏季オリンピック立候補の東京都への招致活動で訪れていた米ニューヨークでニューヨーク・タイムズのインタビューに応じて、IOC=国際オリンピック委員会の行動規範が各立候補都市の相互敬意の関係構築と他立候補都市との比較禁止を規定しているにも関わらず、他立候補都市を見下し、差別する発言を行なって騒動となった。

 《猪瀬知事「イスラム諸国はけんかばかり」》NHK NEWS WEB/2013年4月29日 18時59分)

 4月26日掲載の発言。

 猪瀬都知事「アスリートにとって、いちばんよい開催地はどこか。インフラや洗練された競技施設が完成していない、2つの国と比べてください。

 ときには例えばブラジルのように、初めて開催するのもよいでしょう。しかしイスラム諸国では人々が共有しているのは唯一、アラーだけで、互いに喧嘩ばかりしていて、階級もある」

 インタビュアー「若者の人口の割合が大きいイスタンブールが有利なのではないか」(解説文を会話体に直す)

 猪瀬都知事(高齢者が健康を維持できるよう、運動できることが日本社会のよさだと説明した上で)「トルコの人々も長生きしたいでしょう。長生きしたければ、日本のような文化をつくるべきだ。若い人は多いかもしれないが、早く死ぬようではあまり意味がない」

 まさかIOCはインフラや競技施設に十二分にカネをかけることのできる財力を主たる基準に開催都市を選考するわけではあるまい。

 このことはIOCが立候補各国の国内開催支持率を重視していることに現れている。東京は前回、その支持率の低さが選考敗因の大きな理由となったはずだ。

 支持率とは国民の開催熱望の熱意である。いわば「インフラや洗練された競技施設」で少しぐらい見劣りがしても、競技実施に特段の支障さえなければ、熱意が選考基準に於いて優ることを示している。

 だが、このような認識を持つことができずにインフラや競技施設の日本の優位性を誇って、その優位性との比較で、「2つの国と比べてください」と他の立候補国のインフラや競技施設を見下した。

 いや、インフラや競技施設を見下しただけではない。「イスラム諸国で人々が共有しているのは唯一、アラーだけで、互いにけんかばかりしている」と蔑みの感情を込め、さもそういったことのみがイスラム諸国の国民性であるかのような情報操作まで行なって決定基準とは関係しない事柄にまで言及した。
 
 この発言は日本とイスラム諸国の国民性を土俵に上げて国民性で勝負する意識の表出を意味する。

 いわば国民性に於いても、「長生きしたければ、日本のような文化をつくるべきだ」という発言に最も色濃く現れているが、日本の国民性を優位に位置付けて、イスラム諸国の国民性を見下したのである。

 猪瀬都知事は日本及び日本人を何様に置いていたのである。これは自身が持つ何様意識を日本及び日本人全体に反映させた何様意識であろう。

 いくら日本人が優秀であろうと(常に相対化の力学を受けるから、すべてに優秀ということはあり得ないが)、個人が何様意識に陥っていなければ、日本人の優秀性を言い立てることはせず、常に謙虚に振る舞うはずだ。

 だが、猪瀬都知事は謙虚どころか、イスラム諸国を見下す何様意識に囚われていた。

 大体が最終的決定権者はIOCである。アメリカのマスコミやその情報を読むアメリカ人に開催都市決定の決定権があるわけではないのにアメリカのマスコミとアメリカ国民に向けて日本を優位に置いて他の2都市を見下す発言を行う勘違いを犯している。

 ニューヨーク・タイムズ「発言で立候補都市の資格を失うことは考えにくいが、IOC側の信頼は揺らぎかねない」

 クルチ・トルコ青年スポーツ相(4月27日ツイッター)「発言は公正ではなく、悲しいことだ。オリンピック精神に反している。イスタンブールはほかの立候補都市に対して否定的な声明を出したことはないし、これからも出さない。

 我々は日本の人々を愛しているし、日本人の信仰心や文化を尊重している。そして若者も、高齢者も同じように尊重する」

 IOC声明「記事に掲載された発言の翻訳を見ただけでは知事が本当は何を言おうとしていたのかは定かではない。

 IOCとしてはすべての候補都市に対して招致活動に関連したルールを改めて強調したい」

 JOC会長兼東京招致委員会理事長は「猪瀬知事がどういう思いでどのようなことを話したのかまだ確認できていないので、何も申し上げることはできない。招致委員会としては、ほかの立候補都市と比較はしないというIOCのルールをよく理解して今後も招致活動を進めたい」――

 但し猪瀬都知事は自らの発言をニューヨーク・タイムズが正しく伝えていないとするコメントを発表した。いわば自分の発言は間違っていないと正当化した。

 《猪瀬知事「真意正しく伝わっていない」》NHK NEWS WEB/2013年4月29日 22時45分)

 猪瀬都知事(コメント)「私は、IOCの行動規範を十分に理解し、これまでも順守している。記事の焦点があたかも東京がほかの都市を批判したとされているが、私の真意が正しく伝わっていない。ほかの都市を批判する意図は全くなく、インタビューの文脈と異なる記事が出たことは非常に残念だ。今後も、IOCのルールを順守しほかの都市への敬意をもって招致活動に取り組んでいく」――

 「真意が正しく伝わっていない」は政治家の言い逃れの常套句となっている。直ちには信用できない。「真意が正しく伝わっていない」と言って、発言が自身の真意ではないと否定しながら、後で発言通りだと訂正して醜い姿を曝す例も跡を絶たない。

 一方の、いわば「真意を正しく伝えていない」とされたニューヨーク・タイムズは言葉の解釈能力、あるいは記事作成能力を疑われたことになり、マスメディアにとっては致命的な欠陥を指摘されたことになる。当然、黙っていたなら、欠陥を認めることになって、マスメディアとしての信用に関わってくる。

 《NYタイムズ 猪瀬知事の記事に自信》NHK NEWS WEB/2013年4月30日 12時5分)

 4月29日。

 ジェイソン・ストールマン・ニューヨーク・タイムズスポーツ編集責任者(コメント)「記事の内容には完全な自信がある。猪瀬知事をインタビューした2人の記者はいずれも流ちょうな日本語を話す。また、インタビューは猪瀬知事が自ら連れてきた通訳を交えて行われ、われわれは通訳の言葉をそのまま引用した」――

 ジェイソン・ストールマン氏の(猪瀬知事が連れてきた)「通訳の言葉は録音している」(47NEWS)と伝えている記事もある。

 つまり猪瀬知事の「真意が正しく伝わっていない」に対してニューヨーク・タイムズは猪瀬知事の真意通りに伝えたと反論した。猪瀬知事は白黒をつけなければならない立場に立たされた。ニューヨーク・タイムズと戦うか、戦わないで決着をつける道を取るか、いすれかの選択に迫られた。

 《猪瀬知事 五輪招致巡る発言訂正し謝罪》NHK NEWS WEB/2013年4月30日 12時16分)

 4月30日午前の記者会見。

 猪瀬都知事(発言内容を事実だと認めて)「イスラム圏で喧嘩しているのもあると言いました。不適切な発言があったことについておわびしたい。イスラム圏の方に誤解を招く表現であって、申し訳なかった。

 (ライバル都市に対するIOCの行動規範を尋ねられて)「甘かったといえば甘かった」――

 「互いに喧嘩ばかりしてい」ると、「喧嘩しているのもある」とでは大違いである。前者は全体的傾向を言い、後者は一部分的傾向を言う。この発言の前の言葉である「イスラム諸国では人々が共有しているのは唯一、アラーだけ」と合わせた蔑みの意識から判断して、全体的傾向として言ったはずだ。

 猪瀬都知事は自身の当初の発言をなおゴマ化して責任を小さくしようとしている。

 猪瀬都知事は5月2日になって謝罪した理由を述べている。

 《猪瀬都知事 謝罪理由を説明》NHK NEWS WEB/2013年5月2日 19時12分)

 猪瀬都知事「ライバル都市との比較などを禁じているIOCの行動規範にのっとってやりたいという気持ちがあったからだ」

 記者「イスラム社会に対する発言自体が不適切だったため謝罪したのではないか」

 猪瀬都知事「ライバル都市について全く触れてはいけないとは思っていなかった」――

 当初は「私は、IOCの行動規範を十分に理解し」ていると言って、規範に違反していないことの正当性を訴えていたが、「甘かったといえば甘かった」と必ずしも行動規範に厳しくなかったことを言い、最後に行動規範に対する解釈が曖昧であったことことを自己正当化の方便としている。

 記事は5月1日の猪瀬都知事のツイッターとツイッターに対する記者の質問を伝えている。

 猪瀬都知事5月1日ツイッター「今回の件で誰が味方か敵かよくわかったのは収穫でした」――

 記者「『敵』という表現を使うのは都知事としてふさわしくないのではないか」

 猪瀬都知事「悪意に満ちた人はちょっと嫌だねと言っただけのことだ」――

 「今回の件で誰が味方か敵かよくわかったのは収穫でした」は自分の非・愚かさを実際には認めずに発言を取り上げたり批判したりしている者を「悪意に満ちた人」と逆に悪者に貶めて、責任転嫁しているに過ぎない。逆恨みとも言える。

 ここには常に自己を絶対としたい意識が働いている。何様意識と自己絶対意識は相互反映の関係にある。

 IOCは猪瀬発言に対して処分は行わないことを決定したが、猪瀬都知事の何様意識から出た、トルコを貶めようとしたイスラム諸国蔑視発言で2020年夏季オリンピック東京開催の目はなくなった。IOCがもし東京開催を決定したら、ライバル都市の批判を許すことになる。

 あるいは批判を許したことになる。

 IOC自身が自らが決めた行動規範を自ら破ることになるからだ。

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安倍晋三はバカだから自分では気づかない4月10日衆院予算委の道徳教育無効論と犯罪貧困起因説

2013-05-02 10:38:27 | 政治

 4月10日(2013年)の衆院予算委で山内康一みんなの党議員が道徳教育の効果について安倍晋三と下村博文に問い質している。山内議員の質問に下村が答弁に立ったり安倍晋三が答弁に立ったりしているが、この記事では安倍晋三の自らは気づかない道徳教育不要論を記述するために、下村の答弁は抜かして山内議員と安倍晋三のみの答弁を取り上げる。

 山内議員が各年代ごとの『凶悪犯の少年の検挙人員』と銘打ったボードを出して、年代が下がるに連れて検挙人員が減っている事実を指摘して、教育再生の必要性との関係で追及している。

 『凶悪犯の少年の検挙人員』

        昭和33年  昭和47年  平成3年  平成24年

 凶悪犯 計   7495    2848    1152    836       

  殺人      359     147      76       46

 山内康一「まあ、道徳水準とかは測ることは難しいと思います。そういう調査はやっていないと思いますし、実際、道徳のレベルを統計で取るということは難しいと思います。

 他方で、何らかの別のデータを用いて道徳水準を間接的に評価をする、あるいは傍証として考えることはできるかなあ、と思います。それで一つのデータとしてお見せしたいと思います。

 凶悪犯の少年の検挙人数というデータを用意させて頂きました。よく教育再生を訴える人というのはですね、大体青少年の凶悪犯罪は増えていることを主張する方が非常に多いです。教育が荒廃しているから、青少年の犯罪が増えていると、そういう主張をする方が大変多いわけでです。

 そこで、少年の凶悪犯の検挙人数データを見て頂きたいと思います。ここで言う凶悪犯の定義は殺人、強盗、放火、強姦、凶悪な犯罪です。それから少年の定義は14歳以上、20歳未満となっております。

 こんな中でですね、例えば昭和33年と平成24年を比べるとですね、凶悪犯罪は非常に減っている。少なくなっているというのが明らかだと思います。

 あるいは殺人のデータを見ると、当初から比べると、今の方が8分の1です。確かに人口が当時と違うということがありますが、仮に人口で補正したとしても、恐らく凶悪な少年犯罪というのは昔の方が随分多かった。

 ということは、事実としてあると思います。そういった意味では少年犯罪の凶悪化を理由に教育再生を訴えるというのは、あんまり裏付けとしては弱いのかなあと、いうふうに思います。

 そして実際ですね、この、実は昭和47年、これはですね、ちょうど安倍総理と下村大臣が少年だった頃、平成3年に私が少年だった頃ということですが、当時、33年に比べると47年が大分減ってますし、今、平成24年はもっと減っているということであります。

 こういったデータを見て、総理と大臣、どのような感想をお持ちになるでしょうか」

 安倍晋三「これはですね、犯罪発生率等はですね、その時代の時代背景なんですが、この段階でまだ貧しかったんですね。

 私は日本はね、そういう中に於いて、えー、子どもたちが犯罪に走らざるを得ないという、そういう経済的な状況といいうのがかなりあったわけでありまして、基本的にはそういう分析がなされております。

 これは少年犯罪だけではなくて、一般の犯罪も物凄く多いですから、昭和20年代までそれはそういうことなんですが、あとは先程ですね、道徳教育をお話しをされたんですが、ではなぜ明治時代に教育勅語を出して、そして修身教育を行ったのかと言えば、それは伊藤博文がヨーロッパを回ってくる中に於いてですね、育家の役割が極めて多いということに気づいたわけですね。

 そしてそれは子どもたちは神様を見ていると。神と自分の関係に於いて罪を犯してはならないと、こういうことだったわけです。ございますが、日本に於いてはお天道さま(おてんとうさま)が見ているということであったわけでございますが、しかし教会が果たす役割をどうすればいいかということを考えた中に於いてですね、教育勅語を当時の陛下が出され、そして修身というものが生まれたということですね。

 その歴史をやはり知る必要があるのですね。では、日本ではどこを(どこで)果たしているのかいうことを考えて頂きたいと、こう思うわけでございますし、そしてですね、私は子どもとのきに、まあ、様々なことを学んだわけでありますが、まあ、ウソをついていはいけないということについてですね、学校で、まあ、例えばジョージ・ワシントンの桜の木、の話も、乃木大将の話なんかも私の地元でよく話をする話なんですが、そういうことが記憶として残って、そういうことをしてはならないな、と、いうことが果たして山内さん、いけないんですか。

 そういうことをしっかりやっていくということが私は大切なのかなあと、こう思っているわけでございますし、そして同時にですね、犯罪の場合は、顕在化しているかどうかということも、まあ、あるわけでございまして、これが一概にですね、いわば、モラルティに於いて、向上していたから、こういう結果になっているということではなくて、この犯罪の多くはですね、大体ね、経済的な理由による、これは。

 少年が強盗に入るとか、え、そういう犯罪なんですね、殆どね。貧しい時代の出来事だったということも認識して頂いた方がいいだろうと、このふうに思います」――

 安倍晋三は先ず前段で、「そういう経済的な状況といいうのがかなりあったわけでありまして」と言って、時代を遡るに連れて少年犯罪が多かったことも、一般の犯罪が多かったことも、その多くが時代的な貧しさが主たる理由となって起因していると主張している。

 このことを逆説すると、時代を下るに連れて犯罪が減少してきたのは国民の多くが豊かになってきたことが起因しているということになる。

 いわば犯罪貧困説を主張した。

 と言うことなら、現在なおなくならない少年の犯罪にしても、一般の大人たちの犯罪にしても、貧困が原因ということになる。今の社会の貧困の代表者は非正規雇用者や失業者、母子家庭生活者等々で、大変失礼な話になるが、安倍晋三の犯罪貧困起因説に従うと、犯罪の多くは彼らが代表していることになる。

 但し彼らの生活を引き上げる政策を実行し、貧困撲滅の効果あらしめれば、犯罪はなおのこと減ることになる。

 と言うことは、少なくとも少年犯罪に関しては有効な対策は学校教育にあるのではなく、政治に於ける経済対策にあることになり、道徳教育は無効ということになる。

 安倍晋三は答弁の前段で道徳教育無効論を展開したのである。勿論、本人はバカだから、そんなことを展開したとは気づいてはいない。

 イジメも度重なって習慣化すると、相手に対する支配を強めることになって過度なイジメ行為に走ることになり、暴力と区別がつかない犯罪化に至るケースが少なくないはずだ。

 当然、イジメに関しても道徳教育は無効となる。

 だが、安倍晋三は前段で犯罪貧困説・道徳教育無効論を展開しながら、中段で道徳教育必要論を展開する矛盾を犯している。勿論、本人はその矛盾に気づいていない。

 西洋に於いては神との関係で自己を見つめ、自らを省みて行動することが犯罪抑止につながっている。日本に於いては「お天道さまが見ている」からとお天道さまとの関係で自己を見つめ、自らを省みて行動することが犯罪抑止につながっているとしている。

 問題は西洋人それぞれば持つ神の有効性であり、日本人それぞれが持つお天道さまの有効性だが、バカに出来上がっているから、そんなことは考えもせずに有効性を絶対前提として答弁を進めている。

 だとすると、安倍晋三が描いている明治時代は西洋に於いても日本に於いても犯罪が存在しない世界となる。

 しかも人間が神との関係で自己を見つめ、自らを省みて行動する西洋の規範の育みは教会の役割であり、それと同じ役割がお天道さまが有効だと言うなら、お天道さまに任せておけばいいものを教会の役割に代わるものとして教育勅語、修身教育を持ち出して、一旦は道徳教育無効論を打ち出しながら、ジョージ・ワシントンの桜の木の話や乃木大将の話を持ち出して、道徳教育必要論を展開する矛盾を犯している。

 自らのこの論理的矛盾にも勿論のこと、安倍晋三は頭のいいことにさらさら気づいていない。

 そして再び後段になって、山内康一がボードで示した『凶悪犯の少年の検挙人員』が年代を下るに連れて少なくなっているのは「これが一概にですね、いわば、モラルティに於いて、向上していたから、こういう結果になっているということではなくて、この犯罪の多くはですね、大体ね、経済的な理由による、これは。

 少年が強盗に入るとか、え、そういう犯罪なんですね、殆どね。貧しい時代の出来事だったということも認識して頂いた方がいいだろうと、このふうに思います」と言って、犯罪貧困説を再度主張している。

 いわば最近の少年犯罪の検挙人員の減少はモラルティの向上が原因ではなく、あくまでも経済的理由――過去に於いては貧困の広範囲状況に応じ、現在に於いては貧困の減少状況に応じているとしている。

 と言うことは道徳教育はモラルティの向上には何ら関与していなかったことになる。

 この原理は明治時代に於いても同じ働きをしていたはずだから(明治の一般庶民はまだ貧しかったはずだから)、教育勅語も修身教育も少年犯罪に何ら有効ではなかったことになる。

 教育勅語や修身教育が無効であったことは、『日本疑獄史』(森川哲郎著・三一書房)に明治・大正・昭和50年代までの藩閥大物政治家に始まってその他政治家、陸軍を舞台とした陸軍高官、海軍を舞台とした海軍高官、官僚、豪商、財閥、県知事、教師等が相互に絡んだ汚職、贈収賄、スキャンダル等々がゴマンと列記されていることが証明している。

 だが、大人たちの上記犯罪は貧困が原因ではない。それぞれが余りある程のカネを持っていたはずだ。カネを持っていながら、なおカネに卑しい犯罪を犯す。

 このような経緯からすると、安倍晋三の犯罪貧困説は怪しくなる。

 確かに貧困が犯罪に走らせるケースは否定できないだろう。だが、子どもたちが例え貧しくても、自らが持つ可能性に気づいて、あるいは見い出して、その可能性を膨らまして確かな形としていくことを自らの情熱とすることができたなら、あるいは日々の生き甲斐とすることができたなら、イジメや犯罪に走る考えさえ浮かばないだろう。

 いくらどのような道徳教育を施そうとも、ウソをつくな、カネをゴマ化すな、イジメという方法で他人を攻撃するなと口うるさく言い諭しても、自らの可能性が何であるか分からずに学校生活を無為に過ごしていたなら、イジメ等歪んだ行為を自らの可能性とし、そのような歪んだ可能性を自己実現の手段としたとしても不思議はない。

 本質的には道徳教育の問題でもなく、貧困の問題でもなく、可能性の問題であるはずだ。

 お笑いタレントを目指す若者が下積み時代、一日カップラーメン一つの食生活しか許されない貧困を味わいながら、その貧困に負けないのは、中には負けて犯罪に走る若者も存在するだろうが、自らの可能性を信じて、いつの日かの自己達成を夢みて挑戦することに日々充実感を得ているからだろう。

 貧しい時代の子どもたちも社会に役立つ何らかの可能性を自らに見い出していたなら、易々と犯罪に走ることはしなかったはずだ。

 道徳教育にカネや時間を費やすことよりも、テストの能力と部活運動能力に恵まれていない子どもたちの可能性を見つけてやることに時間とカネを費やすべきだ。

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