参院質疑で安保関連法案の新しい運用例が明らかにされる 衆院で不備な運用のまま採決ということではないか

2015-09-10 10:15:58 | 政治


 安全保障関連法案が衆議院を成立・通過したのは7月16日(2015日)である。安倍内閣と与党自公は9月16日に参議院での成立を謀ろうとしている。

 これまでの参議院の質疑では法案の新たな運用例が明らかにされたり、付け加えられてきたりした。参議院で審議に応じて新たな運用例を加えていくことは審議と平行して法案に於ける運用の全体像を新たに構築していくことになる。

 このことを裏返すと、衆議院の質疑では明らかにされなかった運用例であり、その運用例を欠いたまま、ゆえに運用の全体像の構築を待たずに衆議院で法案の採決が行われて、賛成多数で衆議院を通過させたことになって、そこに矛盾が生じないだろうか。

 つまり運用面の不明な点を審議を通じて明らかにしないままに法案の衆議院通過を数の力で優先させた。

 政府のこの態度を正しいと言うことができるのだろうか。

 様々なマスコミ記事から、衆議院の質疑では表に現れなかったが、参議院の質疑で新たな運用例が明らかにされたり、付け加えられてきたりしたケースを見てみる。

 8月5日午前の参議院平和安全法制特別委員会で民主党白真勲議員の「法律上、大量破壊兵器、全てのこの世にある兵器、弾薬はこの法律で運べるわけですね」という質問に対して防衛相の中谷元は、「確かに法律上、特定の物品を排除するという規定はありません」と前置きした上で、「我が国は国是として非核3原則もあるし、生物禁止条約がありますし、それははあり得ないし、そういうような要請は拒否するということでございます」と答弁している。

 つまり、「法律上、特定の物品を排除するという規定」はないが、非核3原則を国是としていることを挙げて、「それははあり得ない」と、自衛隊の米軍後方支援活動で米軍の核兵器運搬を行うことはないとしている。

 衆議院では核兵器運搬に関わる質疑は行われていない。

 但し8月7日の衆議院予算委員会で民主党の山井和則議員が上記8月5日中谷元の「法律上、特定の物品を排除するという規定はない」と答弁したことから、「純粋法理上、核兵器を自衛隊が輸送することは除外されされているのか、除外されていないのか」と確認の質問を行っている。

 このことからして、衆議院平和安全法制特別委員会では核兵器の輸送に関わる運用例についての質疑は行われていなかったことが分かる。

 安倍晋三はこの質問に対して「そもそも政策的選択肢としていないものをどうだと議論すること自体が意味が無いと思う」と答弁したが、少し後で、「法理上は中谷大臣が純粋法理上は答弁したとおりだ」と、法律上は核兵器輸送を排除していないことを認めたが、中谷元と同様に非核3原則を挙げて、実際の輸送を否定した。

 安倍晋三は日本国憲法でさえ解釈によってその運用を変えようとしている。非核3原則はいつでも変えることができる日本政府の方針に過ぎない。法律上、輸送を可能とする以上、法律通りの運用も可能となるということであるが、そうでなくても、法律上可能としているということは、「政策的選択肢としていない」と言っても、参議院の質疑で新たに明らかになった運用例であろう。

 しかしこのような運用例を欠いたまま、衆議院で採決を行い、賛成多数で成立させた。

 8月25日の参院平和安全法制特別委員会で中谷元は安全保障関連法案の一つ、「米軍行動関連措置法改正案」には自衛隊の安全確保規定がないことを認め、「運用で安全を確保する」と答弁している。

 この参議院で自衛隊の安全確保規定がないことを認めて、「運用で安全を確保する」としたことも、衆議院の質疑では行わなかった運用例の一つと言うことができる。

 政府は衆議院では訓練や教育で自衛隊員の安全確保を行うからリスクは高まらないと、訓練と教育に基づいた、「訓練絶対安全神話」とも言うべき運用を提示してきた。

 つまり訓練と教育が自衛隊員のリスクを回避する手段としているから、法律の自衛隊の安全確保規定は必要なかったということかもしれない。

 だが、訓練にしても教育にしても、絶対の安全を保証するわけではない。勿論、法律に規定を設けたとしても、その規定が常に安全を保証するわけではない。

 但し法律の裏付けがあるのとないのとでは大きな違いがある。規定を義務とすることになって、政府は自衛員の安全確保に常に厳格でなければならないことになる。

 当然、規定を法律に設けないということは、万が一自衛員の安全確保ができなかった場合でも、法律上の責任はないとすることができる。訓練や教育にどこか不備があったのではないのか、あるいは支援活動の現場での自衛隊の対応に不適切な点があったのではないのか等、自衛隊自身の責任とするメリットが生じる。

 中谷元は8月21日の参院平和安全法制特別委員会で集団的自衛権の行使要件となる存立危機事態に関して武力攻撃を受けた他国からの要請や同意は必要ないと答弁したが、8月25日には、他国からの要請や同意がなければ存立危機事態は認定されないと答弁を変えている。

 これも参議院で新たに付け加えられた運用例の一つであり、衆議院では議論されなかったこととして挙げることができる。

 つまり法律の運用の全体像が不備なまま採決された。参議院でその不備を補えばいいというわけにはいかないはずだ。賛成か反対かを問う以上、運用は法律から割り出す関係から、運用の全体像も欠陥のない内容としなければ、法案の建て付け自体に影響することもあり得るからだ。

 中谷元は8月26日の参議院特別委員会で外国軍隊への後方支援で新たに可能になる自衛隊からの他国軍に対する弾薬の提供について「想定されるのは主に拳銃・小銃・機関銃など他国部隊の要員の生命や身体の保護のために使用される武器に適合する弾薬が考えられる」と答弁している。

 この答弁にしても、既に衆議院で行っていたなら、参議院で行わなくても済むはずの新たな運用例の一つであるはずだ。

 だが、こういった運用例を欠いたまま、いわば衆議院で不備な運用で成り立っている法案の賛否が問われて、賛成多数で採決された。

 と言うことは、運用が法律から割り出す関係にある以上、法律そのものも不備な状態で衆議院で審議を尽くさず、審議不十分なまま、政府は採決を強行したということにならないだろうか。

 どうもどこか間違っているように思うが、当方の思い込みに過ぎないのだろうか。

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安倍晋三の今回総裁選のオール安倍体制のスタートは2006年総裁選と似ていて、結末への興味をそそる

2015-09-09 12:03:55 | 政治



      「生活の党と山本太郎となかまたち」

      《9月8日 小沢代表・山本代表記者会見動画 党HP掲載ご案内》   

     小沢代表、山本代表は9月8日、国会内で定例記者会見を行い、統幕長発言問題、安保法案審議、自
     民総裁無投票再選、岩手県議選などに関する質問に答えました。記者会見動画をホームページに掲載
     しました。是非ご覧ください。

 2015年9月8日告示の自民党総裁選への立候補届は安倍晋三一人のみで、無投票再選が決まった。月内に開かれる党両院議員総会で了承されるそうだ。2012年12月26日の総選挙で自民党を大勝させ、その後の2013年7月28日の参院選、2014年12月14日の再びの総選挙で引き続いて大勝の1票を投じたそれぞれの国民の力のお陰である。

 立候補を目指していた野田聖子議員は立候補資格に必要とする20人の推薦人を集めることができずに立候補を断念した。但し20人の推薦人集めはかなりいいところまでいったようだが、推薦人になることを思いとどまらせる様々な圧力があったようだ。「産経ニュース」はその圧力を、〈首相周辺が野田氏の行動を先読みし、女性議員を首相の推薦人に「一本釣り」して囲い込んだとされる。別の議員は推薦人依頼を断った際、「次の選挙が大変なことになる」と圧力をかけられたともいい、野田氏は焦りも募らせているようだ。〉と解説している。 

 野田聖子自身が9月8日午後の立候補断念の記者会見で推薦人の数を「ゼロから始め、派閥もグループも持たない中、奇跡的な数字をいただいた」(毎日jp)と表現したのは、推薦人降ろしの圧力に曝されてもこれだけ集まった、あと一歩届かなかったという思いがあったからだろう。
 

 安倍晋三の側は安倍晋三親分を初め、圧力をかけるのはお手のものである。NHK会長に自身の息のかかった者を据え付け、2014年の総選挙前には自身の側近を使って自民党の要請として在京テレビ局に選挙報道の公平性確保の口実で文書を送り、暗に自分たちに不利となる報道を控える圧力をかけている。

 自分たちに不利となると見做している報道が事実に基づいていないなら、その要請は正当性を持つことになるが、事実に基づいていた場合の不利となる報道を控えさせることは報道を歪めることを求める要請となる。

 安倍晋三は同じく2014年の総選挙前に民放テレビに出演して、番組が「アベノミクスの効果」について街の声を聞いたところ、否定的声が殆どであったのに対して「街の声ですから、皆さん選んでおられる」と、各マスコミの世論調査でも現れているアベノミクスに対する否定的事実を自分たちに不利となる事実に基づかない報道と見做して批判した。

 在京テレビ局に対して選挙報道の公平性確保の要請文を出したのはこの安倍発言の2日後である。事実を曲げてでも自分たちの不利を正そうと報道に働きかけるのは言論の自由に対する侵害以外の何ものでもないのだが、本人たちは侵害だとは思ってもいない。

 このように安倍一派はそれが事実に基づこうと基づかなかろうと、自分たちに不利となることに差別なく圧力をかける危険な体質を有している。野田聖子の推薦人になろうとした議員に圧力をかけたとしても驚きはない。

 また、例え野田聖子が20人の推薦人を得て立候補できたとしても、安倍晋三が圧倒的多数の得票を得て一方的な勝利を収める結果は目に見えていた。党内7派閥すべてが安倍支持で固まり、安倍一頭体制を形成していたからだ。

 安倍晋三は9月8日、無投票再選が決まると、首相官邸で記者会見を開いている。

 安倍晋三「9か月前、われわれは『景気回復、この道しかない』との考え方のもとに総選挙を行い、国民から大きな支持をいただき、大勝した。党内には『この国民の意思に対して、一丸となって責任を果たしていくべきで、継続は力であり、次の任期を務めよ』という議員の方が大勢だったと思う。

 アベノミクスは道半ばであり、全国津々浦々に、景気回復の好循環を届け、地方創生を進めていく。さらには、震災からの復興をさらに加速していく。さまざまな課題に取り組み、結果を出していくことで責任を果たしていきたい」(NHK NEWS WEB

 なかなか巧妙な発言となっている。アベノミクスで国民の支持を得て、選挙を勝ち抜いてきた。ここに来て安保法制の憲法違反の疑いと強引な進め方で支持率低下を招いている。

 その低下を補うために支持率獲得の源であるアベノミクスを改めて持ち出して、新総裁としての再スタート時の安保法制成立以降、再び支持率を高めようという巧妙な魂胆が見える。

 但し、安倍晋三はアベノミクスを経済再生の打ち出の小槌みたいに振り回しているが、アベノミクス自体が満足に機能していないと否定的に見る記事がある。

 〈民間シンクタンク15社を対象に行った緊急調査の結果として、市場関係者が求めている政策と予想される現実に大きな乖離があることが分かった〉と、《ロイター調査:安倍政権への要望と現実に「大きなかい離」》ロイター/2015年 09月 7日 14:43)と題して伝えている。  

 市場関係者が求めている実行すべき政策

 「労働市場の規制緩和+社会保障制度の改革」11ポイント
 「医療分野の規制緩和」4ポイント、
 「財政再建の推進」+「農業分野の規制緩和」2ポイント
 「追加金融緩和」1ポイント
 「補正予算」1ポイント
 「憲法改正」0ポイント

 市場関係者が求めていない実行しそうな政策

 「補正予算」14ポイント
 「追加金融緩和」8ポイント
 「労働市場の規制緩和」2ポイント
 「農業分野の規制緩和」2ポイント
 「医療分野の規制緩和と社会保障制度の改革」1ポイント
 「憲法改正」1ポイント
 「財政再建の推進」0ポイント

 要するに「市場関係者が求めている実行すべき政策」「市場関係者が求めていない実行しそうな政策」がほぼ逆転の乖離を見せている。

 この結果について記事は、〈潜在成長力を引き上げるアベノミクスの第3の矢は、実行されないとの「冷ややかな目」が安倍政権に注がれていると言えそうだ。〉と解説している。

 そしてこのような結果が出たことについての市場関係者の声を伝えている。

 森田京平バークレイズ証券・チーフエコノミスト「円安になっても、製造業を中心に設備投資が伸びていない。これは設備投資の説明変数として、将来への成長期待が不十分であることを示唆し、規制緩和の必要性につながる。

 日銀の目指す物価安定の目標は、実質賃金の増加を伴う形で実現する必要があるが、実質賃金は労働生産性に規定される。労働生産性を高めるうえで、労働市場改革は不可欠」

 小玉祐一明治安田生命・チーフエコノミスト「アベノミクスの第1と第2の矢は共に限界。日本経済の根本的な問題は潜在成長率の低下であり、成長戦略を着実に進めるしかない。財政再建も喫緊の課題」

 ところが平成28年度予算案概算要求の一般会計の総額が102兆円を超えて過去最大規模となっていて、財政再建の姿勢が見えないということなのだろう。

 青木大樹UBS証券・シニアエコノミスト「輸出数量が拡大しにくい状況では、金融緩和による円安も効果が薄い可能性がある。より進めるべきは、生産性向上につながる労働や医療の分野での規制改革だ」

 南武志農林中金総合研究所・主任研究員「成長なくして財政再建なしにとって、ネックは労働供給政策と社会保障制度の抜本改革である」

 市場関係者が上げる実行すべきとしている政策が実行されそうもない。トドメの発言を紹介している。

 国内銀行関係者「海外投資家がアベノミクスのパワーに関し、2年前のような期待感を失っている。国内勢も懐疑的になっており、日本株の積極的な買い手が減っている」

 ここだけ名前を伏せている。それが事実の情報発信であったとしても、安倍晋三一派が不利となる情報の発信者に対して圧力をかける恐れがあることから、オフレコ発言としたのだろか。
 
 但し民間シンクタンク15社は、〈2018年の安倍首相の自民党総裁任期まで安倍政権が存続することを望むのか、という質問に対しては「はい」が12社、「いいえ」が1社〉となったと伝えている。アベノミクスに否定的であっても、いわば格差や規制緩和の不徹底、あるいは財政再建の不徹底といった矛盾を抱えているにしても、現在の景気を構成している為替水準や株価を守らなければならないという意味で任期存続に肯定的な解答を出したのだろうか。

 と言うことなら、今後の実際の成り行きが問題となる。いくら今の景気状況の存続を望もうと、安倍晋三が自信を見せているようにアベノミクスが景気回復の打ち出の小槌となるのか、市場関係者が危ぶんでいる不安が的中して、不安通りの姿を取ってしまうのかである。

 今回の自民党総裁選・無投票再選のような安倍一頭体制の現象は安倍晋三が初めて首相への道を開いた2006年9月20日の自民党総裁選でも、無投票ではなく、対抗馬が存在していたものの、オール安倍体制であったという点で共通点を指摘できる。

 当時他の立候補派閥以外は安倍晋三支持に雪崩を打ち、「勝ち馬に乗る」、「雪崩現象」、「相乗り現象」といったキーワードが飛び交かい、次の自民党の顔として安倍一色となった。

 麻生太郎と谷垣禎一の他の候補は総裁選を成立させるためのコマに過ぎなかった。投票結果を見れば理解できる。

       得票数    議員票    党員票
 安倍晋三  464票    267票   197票
 麻生太郎  136票    69票    67票
 谷垣禎一  102票    66票    36票

 2位麻生太郎に総得票数で300票以上、議員票で約200票引き離す圧倒的強さと圧倒的人気を示した。だが、第1次安倍内閣(2006年9月26日~2007年9月26日)の末路は散々であった。

 以下「Wikipedia」から見てみる。

 首相の諮問機関である政府税制調査会の会長本間正明が公務員官舎の同居人名義を妻の名前にしつつ、愛人と同棲していた不祥事。

 内閣府特命担当大臣(規制改革担当)佐田玄一郎が事実上存在しない事務所に対して1990年~ 2000年までの10年間もの間、光熱費や事務所費など計7,800万円の経費を支出したとする虚偽の政治資金収支報告書を提出していた政治資金規正法違反の不祥事。

 厚生労働大臣柳澤伯夫が「15~ 50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張って貰うしかない」と女性は生む機械だとした女性蔑視発言。

 安倍晋三の盟友松岡農水大臣の資金管理団体が光熱水費が無料の議員会館に事務所を置いているのに500万円の光熱水費を計上していたことが発覚、衆参両院で厳しく追及を受け、答弁がその時々て変わり、追及をかわし切れずに東京・赤坂の議員宿舎自室で自殺した不祥事。 

 松岡の後任の農林水産大臣赤城徳彦の政治団体「赤城徳彦後援会」が事務所としての実態がない茨城県筑西市の両親の実家を「主たる事務所」としているにも関わらず、1996年から2005年までの間に約9045万円も経費計上していた政治資金規正法違反疑惑の不祥事。

 事務所費を巡る別の疑惑も浮上、赤城は辞表を提出し受理され、辞任することになったが、実際には安倍晋三が因果を含めた解任だと言われている。

 そして社会保険庁の年金記録のズサンな管理によって生じた消えた年金問題が致命的となり、持病の再発もあって、安倍晋三は1年で首相職を投げ出すことになった。

 洋々たる前途を約束するかのような自民党総裁選での圧倒的人気と圧倒的支持で自民党の頂点に立ち、国家の舵を握るバラ色のスタートでありながら、そのバラ色は1年も持たず、結末はスタートのバラ色とは正反対の灰色一色に包まれていた。

 今回もバラ色のスタートとなっている。安倍晋三を前にして総裁候補と目されていた有力議員が誰もが対抗馬に名乗りを上げる気力を示すことができず、一人が対抗馬に名乗りを上げても推薦人の20人を、立候補降ろしの圧力を跳ね除けでも集めるだけの力を持つことができなかった、誰も怖い者がいないオール安倍体制と言ってもいい前途洋々を約束するような船出を見せた。

 今回のこのような船出がスタートの情景はごくごく似ていても、前回と同じ末路を辿るとは限らない。

 だが、辿らないという保証もない。内外の投資家がアベノミクスに対して以前程の期待感は失っているという指摘に既に触れた。アベノミクスを以てしても個人消費と輸出が力強さを一向に回復できない現状を前門の虎とすると、中国の景気減速が後門の狼となってその姿を現さない危険性は誰も否定できない。

 幸先良ければ全て良しではないことを安倍晋三自身が2006年9月20日の自民党総裁選で証明した。一度あることは二度あると言う。今回の幸先――バラ色のスタートが前回と同じ経緯を取るのか、スタートで先頭を切って飛び出した競走馬が痩せ馬の先走りとならずにそのまま先頭を維持してゴールに駆け込むのか、結末に興味をそそる。

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安倍晋三の「戦後70年談話」をウソにする欧州大量難民流入問題に距離を置く安倍政権の姿勢

2015-09-08 08:56:30 | Weblog


 
 欧州が難民問題で揺れている。中東や北アフリカ情勢の不安定化に伴って難民や不法移民が大量に欧州に押し寄せ、その処置に混乱を来たしている。

 各マスコミ記事から、経緯を振返ってみる。

 昨年は22万人が流入し、今年は8月までに30万人に達しているとマスコミは伝えている。特に今回ハンガリーで話題となった大量の難民流入問題はハンガリーが地中海を渡って欧州連合へと向かう玄関口となっていることから、内戦や治安悪化を逃れたシリアやイラクなどから今年に入って16万人以上が流入、ナチス時代のユダヤ人迫害への反省から寛大な難民受け入れ政策を取ってきた歴史を抱えていて、経済的に豊かで安定しているドイツに向かうべく、主としてハンガリーに集中したようだ。

 その結果、列車でドイツに向けて移動しようとした難民が首都ブダペストの西欧行き直行列車が発着する駅舎に向けて行列をなすこととなった。

 ハンガリー政府は駅舎を一時封鎖したり、西欧行き直行列車を停めたりする対策を取ったが、9月3日、難民や移民の駅への立ち入り制限を解除、多くの難民が一斉に列車に飛び乗り、大移動を開始した。

 あるいはドイツとハンガリーの両国に挟まれたオーストリアに歩いて移動を開始していた難民をハンガリー政府はバスを仕立てて数千人をオーストリア国境に運ぶなどの対策を取ったという。

 その多くがオーストラリアを横断して、ドイツに向かに違いない。老若男女様々に果たして受け入れてくれるのだろうかという不安と疲労と空腹を抱えて。

 9月6日付のドイツ紙が欧州連合(EU)欧州委員会の9月9日発表の難民計12万人の加盟国分担案でドイツが最も多い3万1443人を受け入れる内容になっていると報じたと「時事ドットコム」が伝えている。 
 
 フランス2万4031人、スペイン1万4921人。最も少ないのは地中海のマルタの133人。分担の対象はギリシャやイタリア、ハンガリーに押し寄せている難民。

 まだ決まったわけではなく、〈東欧諸国の一部は受け入れの義務化を嫌っており、加盟国全体で合意が得られるかは不透明だ。〉と解説している

 9月6日時点で難民は既にドイツ南部ミュンヘンに到着しているという。ドイツ人男性の一人は「難民を受け入れて多様性が深まれば、ドイツの力になる」(時事ドットコム)と強調したという。 

 ドイツの産業界も高齢化と出生率の低下による生産年齢人口減少を受けた人材確保の面からも、難民の受入れに前向きだという。

 このように歓迎する一方で、ドイツ政府が今回の措置は1回限リだと強調しているものの、ドイツの積極的な受入れ策が難民流入の誘い水になることへの警戒から国内外で反発の声が上がっていると、「The Wall Street Journal」が伝えている。 

 〈ハンガリーのオールバン首相は先週、難民に優しいドイツの移民政策と福祉制度のせいで、西欧に向かう難民が増加していると批判し、欧州の難民問題は「ドイツの問題だ」と言い切った。〉

 〈最近設立されたドイツ野党のAlfaの報道官は、「難民歓迎はナイーブな考え方だ。われわれは現実主義で平衡感覚を持つ必要がある」と訴え、「難民申請者には、食料や収容施設など生活の基盤以上のものを提供すべきではない。そうでなければ、さらに難民が流入する」と警告した。〉

 〈フランスでは極右政党・国民戦線(FN)のルペン党首が6日マルセイユで開いた年次党集会で、「ドイツは難民流入の危機に対し欧州連合(EU)レベルで受動的な対応をするように煽(あお)っている。ドイツはおそらく人口減少に考慮して、大量の難民を受け入れて奴隷にしたいのだろう」と皮肉った。〉等々の反移民の声を紹介している。

 今朝のNHKニュースが、フランスとイギリスの政府がそれぞれ2万人規模で難民を受け入れる考えを表明したと伝えていた。

 例えドイツの産業界が人材不足の面から難民の雇用を考えていたとしても、基本的にはこれは人権問題である。

 この人権問題に日本政府はどういった姿勢を見せているのだろうか。9月4日午後の官房長官の記者会見。

 菅義偉「差別、偏見、迫害を受けている人に対し、国際社会の一員として適切に対応する必要がある。難民が出ないよう協力したい」(産経ニュース) 

 「差別、偏見、迫害を受けている人」だと人権問題であるとしながら、「難民が出ないよう協力したい」と、既に難民が大量流出している事態に目を向けずに治安や政情が不安定化している中東や北アフリカといった地域の出来事に限定する問題の矮小化を平気で謀っている。

 9月7日の記者会見。

 菅義偉「現時点で具体的な政策を追加することは考えていないが、国際社会としっかり連携して取り組みたい。欧州に難民が押し寄せる状況について認識している。難民対策は極めて重要だと思っている」(日経電子版

 まるで他人事のような発言となっている。「国際社会としっかり連携して取り組みたい」と言っているが、どう連携するのかは明らかにしていない。

 「現時点で具体的な政策を追加することは考えていない」と発言していることからして、国際社会との連携は現時点では取り立てて考えていないということなのだろう。

 また現在行っている難民に関わる「具体的な政策」とは、安倍晋三今年2015年1月17日にエジプトのカイロで行った中東政策スピーチで述べた金銭的支援のことを主として指すのだろう。

 安倍晋三「中東の安定を、私たちがどんな気持ちで大切に思い、そのため力を尽くしたいと念じているか、意欲をお汲み取りください。

 2年前、私の政府はこの考えに立って、中東全体に向けた22億ドルの支援を約束し、これまでにすべて、実行に移しました。本日この場で皆様にご報告できることは、私にとって大きな喜びです。

 ・・・・・・・・・・・

 イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと戦う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します」――

 この発言が「イスラム国」(ISIL)を刺激し、「イスラム国」はシリアで拘束していた2邦人の人質解放の身代金として安倍政権に対してイラク、シリアの難民・避難民支援2億ドルと同額の、一人当たり1億ドルずつ計2億ドルを要求、安倍政権が無視したために2邦人共殺害し、その死体の映像をインターネットに投稿した。

 この難民・避難民支援の2億ドル以外、「現時点で具体的な政策を追加することは考えていない」ということを意味しているはずだ。

 要するにヨーロパで現在進行形の難民大量流入問題には関わる意思はないことの表明に過ぎない。

 安倍晋三は8月14日に「戦後70年談話」を発表したばかりである。 

 安倍晋三「私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、『積極的平和主義』の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります」――

 「自由、民主主義」の基本的価値のみならず、「人権」という基本的価値を揺るがずに「堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、『積極的平和主義』の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してい」き、「国際秩序」の守護者の一国となることの誓いとなっている。

 何という気高く高邁な理想なのだろうか。

 安倍晋三は「戦後70年談話」で掲げたこの理想の実現を基本的価値を共有する国々と手を携えて現在ヨーロパで進行している難民大量流入問題で試してみる気はサラサラ持っていないようだ。

 それなら、それでいいのだが、「安倍晋三戦後70年談話」を自らウソにすることになる。

 尤も2013年の日本の難民認定数は難民認定申請者3,260人に対してたったの6人であり、2014年の難民認定者数は申請者数5,000人に対して11人に過ぎないことからも、今回のヨーロッパでの難民問題での安倍内閣の対応は、特に安倍晋三自身が、その熱烈な天皇主義者であることが証明することになっている日本民族優越主義者であることからも、最初から見通していなければならなかったのかもしれない。

 テロや政情不安とそれらの被害者という立場で大量に発生している難民とその自国からの移動が人権問題のみにとどまらず、国際秩序を脅かそうとしている。

 安倍内閣は「70年談話」に掲げた理想をウソにして難民問題から距離を置こうとしている。

 いや、元々ウソで積み上げた談話に過ぎなかったということなのだろう。

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麻生太郎の「軽減税率面倒臭い」の国民目線をおっぽり出した国家目線・高額所得者目線に見える

2015-09-07 09:48:22 | 政治


 自民党の副総裁、安倍内閣の財務相麻生太郎がB20(主要20カ国・地域財務相・中央銀行総裁会議)出席のためにトルコのアンカラを訪問中、記者団に2017年4月の消費税10%増税時の軽減税率導入案に代わって給付金配布案を財務省が検討していると報じられたことについて問われて、答えている。

 麻生太郎「複数の税率を入れるのは面倒くさい。面倒くさくしないようにするところが手口だ」(毎日jp)  

 記事は税率が複数になると経理事務が複雑になることを懸念している経済界へ配慮を滲ませた発言だと解説している。

 消費税への軽減税率導入は消費税が家計に占める生活必需品等の購入割合が高い低所得者程その負担が大きくなる逆進性に対する緩和策とされている。

 要するに低所得者程、娯楽だ、レジャーだ、国内旅行だ、海外旅行だ、あるいは高級家具だ、高級車だといった贅沢な消費で余裕ある生活を成り立たせている高額所得者とは正反対に、それがなければ生活が成り立たない生活必需品の消費のみで手一杯の余裕のない生活状況にあるために消費税が上がる程に逆に生活を蝕み、その負担が大きくのしかかることになるから、その救済策としての軽減税率というわけである。

 中には最低限の光熱費と最小限の食費のみの支出で収入の殆どを占める低所得者にとっては消費税は生活をなおさらに苦しめる害悪以外の何ものでもないに違いない。

 9月5日付のマスコミ記事は財務省が酒類を除くすべての飲料と食料品を対象に税負担の軽減策の導入を検討していると報じていたが、さはあれども、軽減税率導入には様々な問題点が指摘されている。

 先の記事の解説にあった経理事務の複雑化や、特にスーパーなどの生鮮食品の場合、その日によって仕入れ価格が異なって、そのことによって小売価格が変わってくることからのレジの単価設定の日々の煩雑化が指摘されている。

 だがである。いくら経理事務の複雑化を挙げようと、日々のレジの単価設定の煩雑化を挙げようと、欧州各国ができて日本ができないというのは説得力がない。

 スーパーは各商品に貼り付けてある、あるいは印刷してあるバーコードをレジ備え付けのバーコードリーダーで読み取るだけで単価を打ち出すことができる。日々単価の変わる生鮮食品のパソコンを使ったバーコードの作成は現在も行っているはずだし、各商品ごとに異なる税率を前以て設定しておけば、自動的に価格を弾き出すことになるはずだ。

 大体がそういったことが自動的にできるパソコンソフトはソフト会社が新しく作成・販売するはずだし、経理事務の複雑化にしても、売上の書類、あるいは得意先会社に提出する請求書、さらに税務署に提出する書類等々も、それぞれに応じたソフトを購入しさえすれば、今までと同様の、あるいは今までとさして変わらないキーボード操作で書類作成は可能となるはずだ。

 軽減税率導入の最大の問題点、デメリットは、高額所得者になる程に軽減税率の対象となる食料品に対する消費が低所得者の消費よりも高額であり、軽減税率導入によって高額所得者になる程、より利益を得て、その層を優遇することになり、その分国庫収入となる税収が減るという点であろう。

 欧州各国が実施しているにも関わらず、日本が軽減税率導入をできないと上げている様々な理由は税収が減ることを避ける口実に見えてくる。

 となると、麻生太郎が言っている「複数の税率を入れるのは面倒くさい。面倒くさくしないようにするところが手口だ」は、いくら低所得層に軽減税率に代えて給付金を給付しようとも、国民目線に立った発言ではなく、国家目線からの発言ということになる。

 なぜなら、酒類を除くすべての飲料と食料品に消費した金額が全て給付金として給付されるか分からないし、中には消費金額よりも多くの金額が給付される場合が生じて、軽減税率よりも平等性を確保できないことに対して国庫収入はしっかりと確保できるて、より国家に有利となる給付金制度となるからだ。

 酒類を除くすべての飲料と食料品に対する軽減税率導入によってそれらに対する高額所得者の消費金額をより大きく軽減することになったとしても、その分、所得税の累進課税率を上げて、軽減税率導入で目減りする国庫収入を可能な限り補うことできるはずだ。

 また、そうすることで軽減税率導入による低所得層の平等性も確保できるはずだが、そうしないことによって逆に高額所得者の所得の保証をすることになる。

 麻生太郎の「複数の税率を入れるのは面倒くさい」は国民目線をおっぽり出した国家目線からの発言であると同時に高額所得者目線からの発言に見えて仕方がない。

 元々安倍内閣は安倍晋三を筆頭に国民よりも国家を優先させる国家主義者の閣僚が優勢を占めている国家主義者集団でもある。国家目線・高額所得者目線は当り前の形勢なのかもしれない。

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砂川最高裁判決は自衛隊を9条2項の保持禁止戦力と規定、これは同時に集団的自衛権の行使禁止を意味する

2015-09-06 07:59:01 | 政治


 山口繁・元最高裁長官(82)が9月1日、朝日新聞のインタビューを受けている。

 山口繁・元最高裁長官(安保法案を「違憲」と考える理由について)「長年の慣習が人々の行動規範になり、それに反したら制裁を受けるという法的確信を持つようになると、これは慣習法になる。それと同じように、憲法9条についての従来の政府解釈は単なる解釈ではなく、規範へと昇格しているのではないか。9条の骨肉と化している解釈を変えて、集団的自衛権を行使したいのなら、9条を改正するのが筋であり、正攻法でしょう」

    ・・・・・・・・

 (安倍内閣と自民党が米軍駐留の合憲性を争った1959年の砂川事件最高裁判決が法案合憲性の根拠になると主張しているのに対して)当時の最高裁が集団的自衛権を意識していたとは到底考えられないし、(憲法で)集団的自衛権や個別的自衛権の行使が認められるかを判断する必要もなかった」――
    
 要するに1959年の砂川事件最高裁判決はどう憲法解釈を施そうと集団的自衛権行使合憲の根拠とはならないし、集団的自衛権の行使を考えているなら、9条を改正するしかないと言っている。

 9月4日、砂川事件最高裁の弁護団が集会を開き、「この判決を根拠に集団的自衛権の行使は憲法に違反しないという政府の主張は誤った法律論だ」と批判したと「NHK NEWS WEB」記事が伝えている。

 但し記事は、〈最高裁判所は昭和34年に「戦力の保持を禁じた憲法9条の下でも、主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されない」と判断しています。〉と、さも9条が自衛権を認めているように解説しているが、最高裁のこの判断には前段があり、9条は「いわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしも ちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである」との文言で、一般論として主権国家である以上、固有の自衛権は何ら否定されていないとしているのみで、9条が戦争を放棄し、戦力の保持を禁止していることに解釈変更の手を加えているわけではない。

 色々と当方のブログに砂川最高裁判決が集団的自衛権行使の根拠足り得ないことを書いてきたが、上記二つの記事に刺激を受けて、改めて別の角度から砂川最高裁判決が現憲法下でも集団的自衛権の行使が可能であると判断を下したものではないことを書いてみることにした。

 砂川事件最高裁判所の田中耕太郎裁判長は判決文の後に補足意見を述べている。「およそ国家がその存立のために自衛権をもっていることは、一般に承認されているところである」等々、国家としての一般的防衛論を指摘した後、最後は次のとおりになっている。

 「以上の理由からして、私は本判決理由が、アメリカ合衆国軍隊の駐留を憲法9条2項前段に違反し許すべからざるものと判断した原判決を、同条項および憲法前文の解釈を誤ったものと認めたことは正当であると考える」・・・・・・

 要するに砂川事件の裁判は現憲法下での集団的自衛権行使の可否を争ったものではなく、米軍の日本国駐留が現憲法に違反しているかどうかを争った裁判だということであって、当然、安倍晋三を筆頭にその内閣、与党が集団的自衛権行使を砂川裁判判決に求めるのは何ら根拠がないということである。

 勿論、主文でも米軍の日本駐留が日本国憲法違反ではないことを述べている。

 文飾は当方。
 
 「憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。

 従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうも のであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである」

 要するに米軍が日本に駐留しても、その戦力は日本国憲法「第2章 第9条 2項」が、「前項(9条1項)の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定している「戦力」に当たらないとの理由づけで米軍の日本駐留の合憲性を示したに過ぎない。

 では、第9条2項が保持することを禁止している「戦力」についてはどのように判断しているのか、上記判断から抽出してみると、第9条2項が「保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指」すと、「わが国自体の戦力」である自衛隊を日本国憲法が定める保持禁止戦力としている。

 その根拠を「わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力」であるところに置いている。

 繰返し言うと、第9条2項規定の保持禁止戦力とは「わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権」を行使できる戦力であって、自衛隊に他ならないことになる。

 砂川最高裁判決はアメリカ軍の日本駐留を日本国憲法に違反しないとした代わりに自衛隊を違憲とし、日本に駐留する米軍に自衛権の代行を委託したのである。

 自衛隊を違憲としないためには自衛隊の「指揮権、管理権」を日本政府からアメリカ政府に委ね、日本国駐留のアメリカ軍の指揮下に置く以外にないことになる。       

 日本政府が主体となって自衛隊に対して指揮権、管理権を行使することが憲法に違反する「戦力」になると言うことなら、当然、新3要件を設けようが設けまいが、個別的自衛権にしても集団的自衛権にしても行使したら憲法違反となって、行使できないことになる。

 断るまでもなく、自衛隊という戦力を用いて個別的・集団的自衛権のいずれを行使するにしても、日本政府が主体となって自衛隊に対して指揮権・管理権を行使することになるからであり、そうなった場合、自衛隊はたちまち9条2項が保持を禁止する「戦力」に早変わりすることになるからである。

 安倍晋三も内閣も自民党も公明党も、砂川事件最高裁判決を集団的自衛権行使の根拠とするマヤカシは直ちにやめた方がいい。

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TVドラマ「SP八剱貴志」登場悪徳国会議員の胸のバッジは表現の自由と見るべきか、そうでないとすべきか

2015-09-05 11:20:07 | 政治




      「生活の党と山本太郎となかまたち」

      《9月6日(日)山本太郎代表のテレビ出演ご案内》    
     
     こんにちは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
     山本太郎代表がNHK『日曜討論』に出演します。
     「安保関連法案をめぐる審議について」をテーマに議論します。是非ご覧ください!

     ◆番組名:NHK『日曜討論』
     ◆日  時:平成27年9月6日(日)午前9:00~10:25
     ◆内 容:安保法案に対する国民の理解は
            集団的自衛権について
            外国軍隊への後方支援について

 8月31日放送のTBS月曜ゴールデン 「SP八剱貴志(やつるぎたかし)」登場の悪徳国会議員が北朝鮮拉致被害者救出を祈るシンボルのブルーリボンバッジをつけていたということでちょっとした波紋を広げているのをマスコミ記事で知った。

 私も録画しておいて、暇を見つけて見たが、全然気づかなかった。マスコミやネットで誰か個人が情報を提供し、それが広がることで、逆に気づいていなかった事実を多くの人間が知ることになるケースに当たる。

 ストーリーは、単に展開を追っただけの鑑賞に過ぎなかったから、細部は早くも記憶から薄れていて詳しくは思い出せないのだが、八剱貴志警護のもと、萬田久子の都知事が何とかの会合に出席して、そこでライフル銃の狙撃に遭うが弾は逸れ、八剱貴志が都知事を庇う形でその身体を地面に伏せさせたところへ、都知事は自分の幼い娘が駆け寄ってきたために娘を庇おうとして立ち上がろうとするが、八剱貴志がそれを許さない形で保護対象者として都知事の身体を押さえつけている間に娘は銃弾に当たって死んでしまうとう悲劇と都知事の八剱貴志に対するSPの役割に余りにも頑なな人間性への不信感という前置きがある。

 4年間のブランクの後に返り咲いた女性都知事が前任者が打ち出していた新都庁建設を白紙撤回(昨今白紙撤回流行(ばや)りだが)、当てにしていた利益を失うことになる受注建設会社の社長なのか、建設団体の理事長なのか、悪徳国会議員に手を回して1億円を渡し、撤回工作を依頼する一方、ネットで探したのか、若い男に都知事を脅迫するよう頼み、男が都庁建設中止を撤回しなければ殺すという脅迫状を送ったことから、SPに加えて貰えなかった八剱貴志がその一員に加わることになる。

 男が狂気的性格を持ち、社長か理事長の命令を無視、自身が意図したことは全て成し遂げることができることを証明するという意味でか、都知事を殺して自分は神になると暴走。

 都知事は建設団体の懇親パーティ会場にいわば敵地に乗り込む形で都庁建設中止白紙撤回は決してないと説明するために赴く。男がウエイターを殺して、その制服を着用したウエイター姿で会場に現れ、拳銃を出し、都知事を狙い発砲するが、間一髪のところで館ひろし演じる八剱貴志が咄嗟にジャンピングして萬田久子の都知事の身体に飛びかかって覆いかぶさる形でその身体を床に伏せさせるが、八剱貴志が都知事の代わりに銃弾を受けてしまう。

 男は逮捕され、都知事も無事、八剱貴志もどの程度か分からないが、怪我で済み、メデタシ、メデタシの一巻の終わりとなった。

 ところが、寺田農演じる悪徳国会議員が胸に北朝鮮拉致被害者救出を祈るブルーリボンバッジをつけていたということで、メデタシ、メデタシの一巻の終わりとはならなかった。

 ストーリーの点では特に印象に残ったところはなかったが、番組スタッフがバッジを付けさせたことで批判を受けたという点で今後印象に残るに違いない

 批判の代表者といった次の記事、《印象操作か? 拉致解決のブルーリボン TBSドラマで悪徳代議士に着用》産経ニュース/2015.9.3 18:34)から、どう批判されているのか見てみる。

 題名からして、「印象操作」の面から見ている。

 記事は、〈TBS広報部は「他意はなかった」と説明するが、被害者家族らは救出運動に対して悪印象を持たれかねないことを懸念し、改善を求めている。〉と解説している。

 テレビドラマの中で悪徳国会議員が胸につけていたからといって、なぜ拉致被害者の救出運動が悪印象を持たれることになると考えるのか、不思議でならない。

 先ずテレビドラマは悪徳国会議員を国会議員全体の問題として扱っていたわけではない。

 もしテレビや映画の中で胸に国会議員のバッジをつけた国会議員が悪徳行為を働いたとしたら、現実の国会議員に悪影響を与えると考えるだろうか。

 現実の国会議員が国会議員のバッジを胸につけて実際に悪徳行為を働いたとしても、国会議員のバッジを胸につけている他の国会議員全てを同じように悪徳行為を働く人間だと見るだろうか。

 確かにテレビで取り上げたこの手の悪徳国会議員は現実にも何人かは存在するかもしれないが、あくまでも国会議員全体の中の一人の個別的な国会議員としてドラマに登場させただけのことで、全体の国会議員の悪徳問題としていたわけではない。

 個別的と全体的を区別することによって、胸につけていたバッジから受ける印象の解釈も異なってくる。

 記事は拉致被害者増元るみ子さん(61)=拉致当時(24)=の弟、増元照明さんと碓井広義上智大教授(メディア論)の発言を伝えている。

 増元照明さん「ブルーリボンは北朝鮮に対する圧力で、多くの人が付けることで『日本人は拉致被害者を忘れていない』という無言の意思表示だと思っている。

 (ドラマでの使用によって視聴者の被害者救出運動やブルーリボンに対する印象が悪くなる恐れもあるとして)イメージダウンにつながるようなことはやめてほしい」――

 バッジを「無言の意思表示」とすることは構わないが、増元照明さんはテレビドラマの登場人物である悪徳国会議員がブルーリボンをつけていたことを以って視聴者が被害者救出運動とはその程度かと考える恐れがあると受け止め、ブルーリボンそのもののイメージダウンに繋がっていくと感じ取っていることになる。

 果たして正当な見識だと言えるだろうか。

 暴力団の組長がグッチの財布を(なるものがあるかどうか知らないが、あるとして)出してカネを払ったところをニュースの一場面として写し出したテレビ会社はグッチのイメージをダウンさせたと批判を受けることになるのだろうか。

 批判を可能とした場合、所有者の人格を財布にそのまま反映したことになって、財布は所有者の人格を常に表現していることになる。 

 例え悪徳国会議員がそのバッジを胸につけていたとしても、拉致被害者の救出活動を利用して悪徳行為を働いたわけではない。都の公共事業に絡んで働いた悪徳行為であり、バッジが悪徳国会議員の人格をそのまま表現しているわけではない。

 バッジを悪用して、悪徳行為を働いたとしても、バッジがその人格を反映しているわけでも、表現しているわけでもない。

 にも関わらず、視聴者が胸つけていたバッジ一つに後者の悪徳行為を以って悪徳国会議員の人格を反映・表現したことになると見て、被害者救出運動とはその程度かと考えるに違いないと判断したとしたら、視聴者に対して個別的と全体的を区別するだけの合理的な判断能力を持っていないと見ていることになって、逆に視聴者をバカにしていることになる。

 もし視聴者の中には個別的と全体的を区別する判断能力を持たない者もいると考えるなら、「視聴者は個別的と全体的を区別する良識ある判断をお持ちだろうから、胸にブルーリボンのバッチをつけていたとしても、バッチが悪徳国会議員の人格を反映するわけでもないから、何も問題ではないと考えている」と言えば、個別的と全体的を区別せよとする一種の牽制、あるいは警告となる。

 それだけで十分であるはずである。

 碓井広義上智大教授「北朝鮮による拉致問題が政治的、外交的に大きな問題として取り上げられる中、単なる小道具としてバッジを扱ったのであれば、あまりに無神経な振る舞い。

 仮にバッジを付けることで、いい人を装う悪役との設定であったとしても、そのバッジが付けている人間の人格を反映するわけではないのは同じであるし、実際に必死な思いで活動している人たちがいる中では小道具一つも細心の注意を払って用いるべきだ」――

 例え実際には悪徳国会議員でありながら、「いい人を装う」小道具としてバッジを胸につけていたとしても、バッジが付けている人間の人格を反映するわけではないことは同じであって、そのような国会議員がこの世に何人か存在していたとしても、その企み自体、それぞれの個別的問題であって、全体的問題ではない。

 個別的問題を全体的問題と把える思考性、バッジがさも所有者の人格を反映・表現すると見る考えは人殺しの父親の人格をさもその子どもまでが反映・表現していると見て、「人殺しの子だ」と批判する行為に似ている。

 拉致被害者の救出活動を利用した悪徳行為にコロッと騙されてその活動が支障を来したといったことではなく、都の公共事業に絡んで働いた悪徳行為に過ぎない個別的問題でありながら、胸につけていたバッジによって「必死な思いで活動している人たち」のイメージを損なう、あるいはそれが「無神経な振舞い」となって悪影響を受ける拉致被害者の救出運動とは、どの程度の運動なのだろうか。

 その程度の運動ということにならないだろうか。

 その程度の運動ではないはずだ。

 だとしたら、増元照明さんはにしても、碓井教授にしても、個別性をさも全体性であるかのように塗り替えて、その悪影響が決して小さくないことの警告を発していることになって、過剰反応しているとしか見えない。

 こういった過剰反応は往々にして自己の活動や自己の立場を絶対としていることによって起きる。絶対としているから、個別的と全体的を区別もせずにちょっとした些細なことも許さない度量の狭い反応を示すことになる。

 今回のことがそうだとしたら、表現の自由の観点から、危険なサインだと見ないわけにはいかない。

 具体的には個別的問題を全体的問題として把えた批判が罷り通ると、個別的問題である間は許される表現の多くが全体的問題に関わる表現ということにされて許されなくなり、自由であるべき表現の幅を狭める恐れが出てくる危険なサイン、あるいは表現の萎縮に発展しかねない恐れが出てくる危険なサインとならないかという危惧を持たざるを得ない。

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官房長官菅義偉の中国「抗日戦争勝利70年」記念式典・軍事パレードに事寄せて「未来志向」を言うマヤカシ

2015-09-04 09:31:26 | 政治



      「生活の党と山本太郎となかまたち」

     《9月1日小沢一郎代表記者会見要旨党HP掲載ご案内》

     こんばんは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
     9月1日に行われた小沢一郎代表の定例記者会見要旨を党ホームページに掲載しました。ぜひご一
     読ください。

     【質疑要旨】
     ○維新の党分裂問題の野党共闘への影響について 
     ○8.30国会10万人集会への参加について    
     ○五輪エンブレムの使用中止について                           
     ○日中、日韓の間の首脳会談が行われていないことについて 
     ○山本共同代表の質問について 
     ○USJ調査費の予算計上について

 中国は対日戦勝記念日を日本がポツダム宣言による降伏文書に調印した1945年9月2日の翌9月3日としていて、今年のこの日、盛大なと言っていいのか、盛大過ぎると言うべきか、「抗日戦争勝利70年」と銘打った記念式典と軍事パレードを北京の天安門広場周辺で行った。軍事パレードではアメリカ本土も射程に入るとされる最新鋭の大陸間弾道ミサイルや、最新鋭の艦載機「殲15」、海上での作戦に当たる早期警戒管制機などが、どうだ、凄いだろうとばかりに威風堂々と披露された。

 別に中国の肩を持っているわけではない。テレビのニュースで見たときの率直な感想に過ぎない。

 中国政府が今年を「抗日戦争と反ファシズム戦争の勝利70年」と位置づけて、「抗日戦争の勝利を記念する」とした軍事パレードを行うのは初めてだそうで、その最大の集大成が軍事パレードということなのだろう。

 中国は欧米各国首脳を式典に招いたが、アメリカを初め、ドイツ、イギリス、フランス等が中国の軍拡への懸念等の理由で出席を見合わせたという。

 我が日本の安倍晋三も、招待を受けながら、出席を中止した。欧米各国首脳と足並みを揃えたことと、「抗日」と日本を直接対象とした式典と軍事パレードに反日の性格を読み取ったからなのだろう。

 安倍晋三が習近平国家主席の横に立って、中国軍の軍事パレードに向かってナチス式の敬礼を見せたなら、素晴らしい絵になったはずだが、出席中止は残念な限りである。

 少なくとも安倍晋三にははそういった敬礼との近親性を感じさせる何かがある。

 ロシアのプーチンの出席は当然過ぎるが、特に注目を集めた出席者は韓国のパク・クネ大統領の出席だろう。アメリカの出席見合わせの要請を無視して民主国家の首脳として唯一出席し、習近平からプーチンに次いでナンバー2の位置に立った。

 韓国内には朝鮮戦争で敵国として戦った中国軍の軍事パレードに参加したことに批判する声が上がっているというが、日本もアメリカと戦争しながら、今では米国ベッタリの同盟国となっているから、この比較から言うと、韓国が中国ベッタリの同盟国になるまでが許容範囲と見なければならない。

 官房長官の菅義偉が9月3日午前の記者会見で中国の軍事パレードについて発言している。

 菅義偉「日本政府としては、戦後70年に際し、過去の不幸な歴史に過度に焦点を当てるのではなく、国際社会が直面する共通の課題に未来志向で取り組む姿勢を示すことが重要であると考えており、こうした観点から行事を注視してきた。

 日中間には国交正常化以来の日中友好の歴史があり、日中関係は改善基調にあると思っている。中国側には『行事をいわゆる反日的なものではなく、日中間の和解の要素を含むものとしてほしい』と伝えてきたが、今回の習近平国家主席のスピーチにはそうした要素は見られず非常に残念だ」(NHK NEWS WEB)  
 
 好き勝手なことを言っている。「行事をいわゆる反日的なものではなく、日中間の和解の要素を含むものとしてほしい」と注文をつけたが、そうはなっていなかったと批判している。

 だが、安倍内閣は中国の歴史認識に逆らう歴史認識を取り、現在も同じ歴史認識を取っている。そのことに対する反動でもある「抗日戦争勝利70年」の記念式典であり、軍事パレードでもあるはずだ。

 パク・クネ韓国大統領を出席に向かわせたのも、安倍内閣が対中国と同様の韓国の歴史認識に逆らう歴史認識を取っていることも一つの原因となっていたはずだ。

 人間は相手に応じる。相手もまた、その相手に応じる。そのような相互対応を人間関係のメカニズムとしている。国に於いても然り。

 菅義偉はこのような関係性無視し、自分たちの歴史認識が表すことになっている反中国の姿勢を棚に上げて中国にのみ反日ではないことを求めたに過ぎない。

 このことは日中関係の未来志向を求めた言葉にも現れている。

 「戦後70年に際し、過去の不幸な歴史に過度に焦点を当てるのではなく、国際社会が直面する共通の課題に未来志向で取り組む姿勢を示すことが重要である」・・・・・

 未来志向は過去のどこを出発点とした未来志向なのかが重要な意味を持つ。なぜなら、未来志向とは過去とは異なる将来的な生き方を示す言葉だからであり、過去の歴史のどこを出発点としているかによって、将来的な生き方の目標や内容が違ってくるからだ。

 ドイツは明らかにナチス・ドイツの歴史を未来志向の出発点としている。

 安倍晋三、あるいは安倍内閣は未来志向の主発点を日本の過去の歴史のどこに置いているのだろうか。

 安倍晋三の歴史認識からして、安倍晋三が未来志向の出発点を日本の侵略戦争や植民地支配の歴史に置いていないことは火を見るより確かなことである。8月14日発表の「安倍晋三70年談話」にも現れている歴史認識である。

 安倍晋三自身は日本の戦争を侵略戦争だとも、植民地支配の戦争だとも認めていない。日本の敗戦の事実だけを認めて、その過去とは異なる将来的な生き方――いわば平和な歩みを示す未来志向は果たして許されるだろうか。

 敗戦の事実だけを認めるということは戦争の性格そのものを認めず、戦争の性格を置き去りにする歴史認識に過ぎない。そのような歴史認識で把えた敗戦を出発点とした未来志向は、いくら口では立派な未来を語ったとしても、口先だけとなる。

 但し安倍晋三が敗戦の事実を未来志向の出発点としているわけではないことは2012年4月28日の自民党主催「主権回復の日」に寄せた安倍晋三のビデオメッセージでの発言が証明している。

 安倍晋三「皆さんこんにちは。安倍晋三です。主権回復の日とは何か。これは50年前の今日、7年に亘る長い占領期間を終えて、日本が主権を回復した日です。

 しかし当時の日本はこの日を独立の日として国民と共にお祝いすることはしませんでした。本来であれば、この日を以って日本は独立を回復した日でありますから、占領時代に占領軍によって行われたこと、日本はどのように改造されたのか、日本人の精神にどのような影響を及ぼしたのか、もう一度検証し、そしてきっちりと区切りをつけて、日本は新しいスタートを切るべきでした。

 それをやっていなかったことは今日、おーきな禍根を残しています。戦後体制の脱却、戦後レジームからの脱却とは、占領期間に作られた、占領軍によって作られた憲法やあるいは教育基本法、様々な仕組みをもう一度見直しをして、その上に培われてきた精神を見直して、そして真の独立を、真の独立の精神を(右手を拳を握りしめて、胸のところで一振りする)取り戻すことであります」・・・・・・

 「日本はどのように改造されたのか、日本人の精神にどのような影響を及ぼしたのか」と占領政策を否定し、占領軍によって制定されたとして、日本国憲法や教育基本法を土台として築き上げた戦後体制を否定、そこからの脱却を目指すことを政治家としての自身の使命としている。

 いわば安倍晋三は1945年8月の日本の敗戦からサンフランシスコ講和条約が1952年(昭和27年)4月28日に発効して国家主権を回復するまでの約7年近くの占領時代を未来志向の出発点とし、占領政策からの脱却を――そのアカを綺麗サッパリと落とすことを未来志向の内容としたのである。

 首相がそうであるのに、官房長官の菅義偉が未来志向をどう言おうと、それが「国際社会が直面する共通の課題に未来志向で取り組む姿勢」の必要性からの要請であったとしても、日本の過去の戦争を出発点に置いていない未来志向は中国や韓国に信用が置けないものとして通じるはずはないことになる。

 安倍晋三が日本の戦争を侵略戦争とも植民地支配の戦争とも認めていないのだから、当然であり、敗戦も単に日本がアメリカよりも軍事力や戦争をするための諸々の資源が劣っていたからだとしか見ていないのかもしれない。

 にも関わらず、安倍晋三も菅義偉も日本の戦争という過去の歴史を出発点とした「未来志向」であるかのようにその言葉を使う。

 胡散臭いばかりのマヤカシと言うしかない。

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安倍晋三のWAW!での挨拶“女性が輝く社会の実現”は夫婦別姓制度を試金石としなければならない

2015-09-03 09:49:52 | 政治


 安倍晋三が8月28日、都内開催の「女性が輝く社会に向けた国際シンポジウム」(World Assembly for Women in Tokyoー略称WAW! Tokyo 2015)に出席、挨拶している。

 安倍晋三「皆さん、こんばんは。ようこそ、WAW!へ。ようこそ、日本へ。

WAW!は今回で2回目になりますが、昨年に比べて相当パワーアップをいたしました。私がスピーチをした会場も、3倍ぐらいになりました。

今日、私がスピーチをした場所は、大変懐かしい場所でありまして、28年前、私が妻と結婚式をした場所でありまして、まさか2人で女性が輝く社会に向けて力を合わせることになるとは思ってもみませんでした。

 女性が輝く社会づくりに向けて、私も学ぶことがたくさんありました。それは、物事を決めていくときに、女性が参加をすれば間違いなく、良い結果が出てくるということでありまして、それは、私の家庭においてもそうですし、我が党においてもそうですし、また、内閣においてもそうですし、おそらく企業においてもそうなんだろうと思います。

 今回のWAW!には、正に世界を変えていくために、大きな役割を担ってきた皆様にお集まりをいただきました。

 皆さんがこうして一堂に会していただくことによって、一つの大きな変革への力を感じることができます。さまざまな分野で活躍する女性の皆さんに集まっていただきました。

 明日は今年のテーマ『WAW! for All』。すなわち、男性も女性もみんなが輝く社会の実現に向けてであります。

 産業界、学界、開発・福祉など様々な角度から議論が行われます。私も各セッションを聞かせていただきたいと思います。

 皆さん、世界をより良い世界にしていくために、女性が輝く社会を実現しようではありませんか」(首相官邸HP

 要するに“女性が輝く社会の実現”に向けて粉骨砕身すべきだと訴えている。

 裏を返すと、一般的には「女性が輝く社会」とはなっていないことを示している。

 なっていないから、「女性が輝く社会に向けた国際シンポジウム」を開かなければならない。

 と言っても、国によって輝きに差があるはずだ。女性管理職が占める日本の比率は国際比較では、現在は数値目標を与えて尻を叩いているから、少しは増えているだろうが、2012年でトップを占めるフィリピン(47.6%)2位アメリカ(43.7%)の4分の1以下の11.1%に過ぎない。

 尤も安倍晋三は“女性が輝く社会の実現”を訴えるだけで、実現の道筋を示しているわけではない。

 翌8月29日、同じシンポジウムの昼食会に出席して、再び挨拶をしている。このことはマスコミ記事で知ったが、この挨拶は首相官邸HPには載っていない。

 安倍晋三「女性の輝く社会実現のためには、制度設計のみならず男性を含む社会全体の意識の変革が必要だ。(シンポジウムの)成果を共有した我々がそれぞれの国、地域に戻って意識改革に取り組んでいこう」(時事ドットコム)   

 ここで「男性を含む社会全体の意識の変革が必要だ」と一つの実現の道筋を示した。

 但し、では、どう意識の変革を行うのかの方法論を述べたわけではない。単にその言葉を口にした過ぎない。

 安倍晋三は変革を必要とする「男性を含む社会全体の意識」が今以て日本社会に色濃く残っている男尊女卑の権威主義的な社会的風潮、あるいは男性上位・女性下位の権威主義的な社会的風潮だと気づいているのだろうか。

 ここでの権威主義とは男性を女性の上の者に位置させて、男性が女性を従わせ、女性が上に位置させた男性に従う思考様式・行動様式を言う。

 昔程ではないが、現在、男女平等の社会と言いながら、日本人の意識の中にその痕跡が明らかに残っている。だから都議会であったように、地方議会でも同じだが、男性議員から女性議員に対して女性蔑視のヤジを飛ばすことができる。男なら許されるという男を女性の上に位置させた意識がヤジやセクハラを許す。

 マイケル・ダグラス主演の米映画『ディスクロージャー』でマイケル・ダグラスが女性上司に性行為を強要され、最後には撥ね退けると、女性上司は許せない気持からの腹癒せにマイケル・ダグラスにセクハラを受けたと会社に訴えた。マイケル・ダグラスはセクハラは女性上司からだと訴えたが、女がセクハラをするはずはないと誰も信用しなかった。セクハラは権威主義的な考え方から、男から女に行うものだと思われていた。

 マイケル・ダグラスの弁護を担当した女性弁護士が「セクハラは性(男性か、女性か)の問題ではなく、権力の問題なのよ」と言い放つ。

 ある女性が特定の男性に対して権力を持ち、権威主義的にその男性の上の位置についた場合、その権力を以てして女性側からも男性に対してもセクハラは行われ得ることを言った。

 多くの場合、セクハラが男性側から女性側に対する性的厭がらせとなっていて、そのように認知されているのは、男性側が男という存在を女性の上に位置させている権威主義的関係を社会的常識としているからに他ならない。

 権力は権威主義と深く関わっている。

 権力とは「他人を支配し、服従させる力」のことを言い、権威主義が構造的要素としている上下の位置関係・上下の力関係なくして成り立たないからである。

 権力に於ける権威主義の側面が強くなると、民主的な性格が薄まり、強権的性格を帯びることになる。

 当然、“女性が輝く社会の実現”は現在もなお日本の社会に巣食う、特に男性の意識に巣食っている男尊女卑、あるいは男性上位・女性下位の権威主義的風潮の払拭から始めなければ、自民党は2012年衆院選公約に「社会のあらゆる分野で2020年までに指導的地位に女性が占める割合を30% 以上とする目標の達成に向け努力します」と数値目標を掲げたが、単に表面的に数をこなす努力へと進み、男女の存在を基準とした男尊女卑もない、上下関係もない、真に男女平等からの女性の社会進出、いわば真に“女性が輝く社会の実現”は難しいだろう。

 そこで試金石となるのは選択的夫婦別姓に対する考え方である。

 先ず第一に選択的夫婦別姓は男女平等の思想を根拠とする考え方だから、男尊女卑や男性上位・女性下位の権威主義的な社会的意識排除の一歩となり得る。いわば意識変革の一つの方法論となるということである。

 そもそもからして現在の安倍内閣には現在3人の女性閣僚が存在しているが、高市早苗にしても山谷えり子にしても有村治子にしても、選択的夫婦別姓に反対している。安倍晋三が「女性の仕事と家庭の両立支援」を掲げ、女性の力の活用を言い、2020年女性の指導的立場3割を公約とし、“女性が輝く社会の実現”を言いながら、3人の女性閣僚全てが選択的夫婦別姓に反対だということは安倍晋三自身が選択的夫婦別姓に反対していることの反映と見なければならない。

 賛成していたなら、いくら女性の活躍を掲げていたとしても反対の女性議員を閣僚に迎えることはできないはずだ。

 2015年12月内閣府は《家族の法制に関する世論調査》は「選択的夫婦別氏制度」に関する世論を調査している。  

 質問「現行制度と同じように夫婦が同じ名字(姓)を名乗ることのほか,夫婦が希望する場合には,同じ名字(姓)ではなく,それぞれの婚姻前の名字(姓)を名乗ることができるように法律を改めた方がよい」

 「婚姻をする以上,夫婦は必ず同じ名字(姓)を名乗るべきであり,現在の法律を改める必要はない」36.4%
 「夫婦が婚姻前の名字(姓)を名乗ることを希望している場合には,夫婦がそれぞれ婚姻前の名字(姓)を名乗ることができるように法律を改めてもかまわない」35.5%
 「夫婦が婚姻前の名字(姓)を名乗ることを希望していても,夫婦は必ず同じ名字(姓)を名乗るべきだが,婚姻によって名字(姓)を改めた人が婚姻前の名字(姓)を通称としてどこでも使えるように法律を改めることについては,かまわない」24.0%

 「法律を改めてもかまわない」の回答者35.5%に対して。

 質問「希望すれば,夫婦がそれぞれの婚姻前の名字(姓)を名乗れるように法律が変わった場合,夫婦でそれぞれの婚姻前の名字(姓)を名乗ることを希望するか」

 「希望する」23.5%
 「希望しない」49.0%
 「どちらともいえない」27.2%

 「現在の法律を変えるべきではない」の36.4%に対して選択的夫婦別姓が可能とできるよう「法律を変えるべきだ」が、35.5%。法律が変わっても、別姓を「希望する」が23.5%に対して「希望しない」49.0%。

 いずれも夫婦同姓派が上回っているが、特に法律が変わった場合、夫婦別姓を「希望する」23.5%と、約4分の1を占める。

 “女性が輝く社会の実現”にしても、「指導的地位に女性が占める割合30%」にしても、「女性の社会進出」、あるいは「女性の活躍」にしても、男性及び日本の社会が自らに巣食わせている権威主義性に対する意識改革を前提としなければならないが、全ては女性の生き方の多様化・女性の価値観の多様化という可能性の問題に突き当たる。

 だとしたら、選択的夫婦別姓にしても、女性の生き方の多様化・女性の価値観の多様化の一環として把えるべきでである。

 女性の生き方の多様化・女性の価値観の多様化が進めば進む程、それは女性の社会参加の拡大を意味するが、同時に男尊女卑や男性上位・女性下位の権威主義的な社会的風潮に対する切り崩しをも意味する。

 夫婦別姓が法律で認められたなら、約4分の1近くの23.5%の女性たちが自らの生き方の多様化・価値観の多様化へと真の意味で自らを解放することになる。そのことが彼女たちの“女性が輝く社会の実現”へとつながっていく。彼女たちの「女性の社会進出」や「女性の活躍」へのより確かな足取りへとつながっていき、このことはまた日本の社会の権威主義の変革へとつながっていく。

 あるいは事実婚がある程度の広がりを見せいている現状に鑑みて、フランスのように例え事実婚であっても、税制、社会保障面等で法律婚と同様の権利を認める制度を設けて、男女はそれぞれの姓を名乗り、夫婦別姓の場合は父親、あるいは母親と異なる姓を名乗る子どもへの悪影響を反対の理由に上げる者がいるが、子どもがどちらかの姓を名乗ることが社会的に一般化すれば、人と違う特異なことではなくなって、悪影響は排除されるし、子どものそう言った姓の名乗り方も子どもたちの生き方の多様化・価値観の多様化の一つに入れることができるようになる。

 もしこのような女性の生き方の多様化・価値観の多様化、あるいはそのことへの希求に抗ってでも、安倍晋三や有村治子、高市早苗、山谷えり子等の保守的国家主義者が国家の立場から伝統的家族制度をどうしても守りたい、守るために選択的夫婦別姓を認めない、事実婚と法律婚の社会的権利の平等化にも反対だと言うなら、少なくない一部の女性の生き方の多様化・価値観の多様化を排除することになって、“女性が輝く社会の実現”を口にする資格はないことになる。

 夫婦別姓の面からの権威主主義の変革に関してもさしたる期待は持てないことになる。その変革が期待できないということは、安倍晋三が8月29日の「女性が輝く社会に向けた国際シンポジウム」昼食会の挨拶で言っていた、「男性を含む社会全体の意識の変革」も期待できないということになる。

 結果、「男性を含む社会全体の意識の変革」を置き去りにして、最初に触れたように数値目標を与えて尻を叩いて数値だけ改善していく現状維持で推移することになりかねない。

 以上見てきたように“女性が輝く社会の実現”は、男性の意識や日本社会に巣食っている男尊女卑や男性上位・女性下位の権威主義的な社会的風潮を変革する一石二鳥とするためにも選択的夫婦別姓を法律で認めるかどうかを試金石とすべきだろう。

 事実婚の法律婚との権利の平等化を加えたなら、なお女性の社会的可能性は広がるはずだ。

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五輪担当相遠藤の「金30個取れなかったら、クビになる人が出る」の余りにも卑しい小役人的な保身的発想

2015-09-02 09:21:20 | 政治

 


      「生活の党と山本太郎となかまたち」

      《9月1日「生活」機関紙第27号(電子版)発行のご案内》  
     こんにちは、生活の党と山本太郎となかまたちです。

     【今号の主な内容】
     ◆8.30国会10万人集会で小沢一郎代表がスピーチ
      安保法案を阻止し、安倍内閣を退陣に追い込もう!
     ◆山本太郎代表 国会スペシャルレポート
     ◆第189回国会活動報告
     ◆玉城デニー幹事長 沖縄レポート
     ◆小沢一郎代表談話が英文オンライン誌「ザ・ディプロマット」に掲載される
     ◆談話:川内原発1号機再稼働を受けて

      《9月1日小沢代表記者会見動画党HP掲載ご案内》    

     小沢一郎代表は9月1日、国会内で記者会見を行い、8・30国会10万人集会、日中・日韓関係
     、維新の党、野党再編、五輪エンブレム中止などに関する質問に答えました。記者会見動画を
     ホームページに掲載しました。ぜひご覧ください。

 昨日、9月1日午後、到頭佐野研二郎氏デザインの東京五輪エンブレムの使用中止が決まり、新しくデザインを募集することになった。

 佐野研二郎氏の五輪エンブレムを含めて他のデザインの幾つかがこうまでも他者のデザインに似ていると指摘され、それらのデザインがインターネット上に出回って模倣疑惑・盗用疑惑が持ち上がるようでは、いくら本人が五輪エンブレムの模倣を否定しても、少なくとも灰色の膜で覆われることから免れることはできまい。

 組織委も他の五輪関係者も、模倣疑惑・盗用疑惑が渦巻く中、このデザインでいくと言っていたにも関わらず、急転直下の白紙撤回へと至ったのは、原案が他の商標登録されたデザインと似ていたことから、似ていることが偶然なのか、模倣なのか検証が必要だったと思うのだが、修正して完成した作品の使用例の羽田空港ロビーと渋谷駅前スクランブル交差点から振り返った周辺のビルの壁にエンブレムを飾った写真を8月28日の佐野デザインはオリジナルだと証明するための記者会見を開いたときに公表、その二つの写真ともインターネットに公表してあった他者写真をそのまま使用していることがネット上で元となる写真付きで指摘されて、佐野氏本人も無断使用であることを認め、そのことがどうも致命的になったようだ。

 使用例の写真提示は、「このように使用すれば、生えますよ」と自身のデザインをアピールする道具立てであるはずだが、その道具立てに他者写真を無断使用する。ちょっと悪質な気がする。

 新国立競技場建設で迷走し、今度は五輪エンブレムで迷走することになった。どうもケチがついているようだ。新国立競技場の整備計画見直しに至る経緯検証の文部科学省第三者委員会が現在開かれているが、五輪エンブレムでもその責任を問う第三者委員会を設置すべきだろう。

 ケチがついているせいか、その続きであるかのように安倍内閣閣僚からオリンピックを貶めるような発言が飛び出した。

 五輪担当相の遠藤利明が山形市の自民党山形県連会合で講演でもしたのか、「金30個取れなければクビになる人が出る」と発言したと、8月30日付の「asahi.com」記事が伝えていた。 

 遠藤利明「新国立競技場は、積み上げていって1640億円まできた。前日に総理の所に行って『1640億円、どうでしょうか』、(首相が)『もう一声ないか』。バナナのたたき売りじゃないが、1500億円台だと、何とか皆さんに納得して頂けそうだと。
 私は(金メダルを)30個取れと厳命している。取れなかったらクビになる人が出ると思っているが、そのくらいの気持がないと。どこかの政党じゃないが『2番でいい』なんて言っていたらダメだ。10月にはスポーツ庁もできる。長官(人事)の話は大体頭にあるが、言うと書かれるので今日は黙っているが、大体この人がいいな、と今思っている」――

 安倍晋三が「もう一声ないか」と1640億円よりも少ない見積り予算を要求した理由・根拠は一体どういったものなのだろうか。まるでカネ(=予算)が先にありきで、施設の使い勝手や見映え(全体の景色)が後回しになっている。

 新国立競技場を使うことになる関係各団体から必要最小限の要望を聞いて検討、必要限度ぎりぎりの使い勝手を持たせた施設を先ずおおまかにデッサンして関係各団体に示して了承を得てから、そのデッサンに基づいて全景を含めたデザインを募集、そのデザインで建設費がいくらかと計算するのが手順だと思うのだが、それが逆になっているし、予算額の理由・根拠の説明もなく、金額のみを国民が納得する基準としている。

 しかも予算を削っていくことをバナナの叩き売りでもあるが如くに譬える。いやしくもオリンピックの舞台となる競技場建設である。アスリートたちが長い持間の積み重ねと苦しい練習の積み重ねを経て世界を相手に勝負に挑む神聖な広野である。

 そのような場の建設に関わっているという意識が遠藤利明にはあるのだろうか。

 そういった意識がサラサラないことは次の発言が証明することになる。

 「私は(金メダルを)30個取れと厳命している。取れなかったらクビになる人が出ると思っているが、そのくらいの気持がないと」と言っている。

 「そのくらいの気持がないと」という言い方で「気持」の向けどころとした対象は金メダルを「30個」取るということではなく、「クビになる人が出る」ということであろう。

 なぜなら、金メダルは「30個取れと厳命して」、既に目標とさせているのだから、「それくらいの気持」としていることとは明らかに異なる。

 オリムピックは金メダルを獲るために存在するのではなく、個々のアスリートが金メダルを目指すために存在するはずである。獲ると目指すのでは似て非なるものである。個々の選手が金メダルを目指すためにオリンピックは存在するから、目指す一つ一つの過程がより重要となる。

 もしオリンピックを金メダルを獲ることを動機づけとして存在させていたなら、そこに到達することにより重点を置くことになって、目指す一つ一つの過程を疎かにすることになるだろう。

 金メダルを獲ることに逸ると、往々にして目指す過程を疎かにして、手っ取り早くドーピングを使用したりすることになる。

 オリンピックを金メダルを目指すために存在させ、そのことを動機づけとしていたなら、個数は結果に過ぎない。最初から個数を幾つと決めると、ときにはそれが至上命令と化して選手にプレッシャーを与えることになり、プレッシャーに支配された選手活動ということになって、その活動のみならず、スポーツそのものを卑しくすることになる。

 遠藤利明は五輪担当相として東京オリンピック開催に関わっていながら、オリンピックを卑しめる発言を行った。

 また、「取れなかったらクビになる人が出ると思っている」と言っている「クビになる人」とは安倍晋三でもなく、その他の誰でもなく、自身のことであろう。なぜなら金メダルを「30個取れと厳命」したのは遠藤利明自身だからである。

 金メダルの個数と五輪担当相という自身の地位を結びつけている。つまり金メダルの個数を自身の地位上の成果にしようとしている。

 「取れなかったらクビになる人が出る」が、獲れたら、クビになる人は出ないということである。

 ここに保身的発想はないだろうか。金メダルを「30個取れと厳命」し、「取れなかったらクビになる人が出る」と自身の成果の守りにすると同時にその成果を自身の地位上の守りにしようとしている。

 だが、自分のことだけを考えたその保身が同時にアスリートたちへのプレッシャーとなる可能性について気づいていない。

 余りにも卑しく、小役人的で、保身的であり過ぎる。

 安倍晋三はこのような小者を大事な五輪担当相に任命した。人物を見る目があったからなのだろう。

 新国立競技場建設の見直しと言い、五輪エンブレムの見直しと言い、以上の遠藤利明の卑しい小役人的な保身的発想と言い、どこかが狂っているとしか見えない。

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橋下徹 ツイッター投稿の視野狭窄・不見識・無思慮なデモ論

2015-09-01 10:29:09 | 政治


 橋下徹が自身のツイッターに8月30日日曜日夜8時半からの安倍晋三の安全保障関連法案反対国会前デモを「ほぼ数字にならない」と投稿していると伝えている9月1日付「asahi.com」記事を読んで、橋下徹のツイッターにアクセスしてみた。 

 投稿は8月31日午後2時辺りのようで、投稿順に並べてみる。

 〈デモは否定しない。国民の政治活動として尊重されるのは当然。政治家も国民の政治的意思として十分耳を傾けなければならない。ただしデモで国家の意思が決定されるのは絶対にダメだ。しかも今回の国会前の安保反対のデモ。たったあれだけの人数で国家の意思が決まるなんて民主主義の否定だ。〉

 〈日本の有権者数は1億人。国会前のデモはそのうちの何パーセントなんだ?ほぼ数字にならないくらいだろう。こんな人数のデモで国家の意思が決定されるなら、サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ。〉

 「デモ・デモンストレーション」とは集団的示威行為、あるいは集団的示威行動を意味するが、同時に集団的な意思表示(自分の意思を相手に示すこと)をも意味する。

 デモに於ける意思表示には、断るまでもなく、反対の意思表示だけではなく、賛成・支持の意思表示も存在する。

 8月30日の国会前デモの場合は安倍政権を相手とした安保関連法案反対の意思表示であると同時に自分たち以外の国民を相手にした「私達は安倍内閣の安保関連法案に反対しています」という意思表示でもあるはずだ。

 当然、その「反対しています」という意思表示はデモを通してデモに参加していないが、賛成か反対か態度を決めかねているその他大勢の国民に反対への賛同を求めたり、あるいはデモに参加しなくても、既に反対の意思を持っているその他大勢の国民にその意思をより強固にすることを求める意思表示をも自ずと表現していることになる。

 参加者の人数だけで評価することはできないということになる。

 と言うことなら、国会前デモ参加者の人数だけを見て、「たったあれだけの人数」だとか、「日本の有権者数は1億人。国会前のデモはそのうちの何パーセントなんだ?ほぼ数字にならないくらいだろう」と、その価値を認めない低い評価を下すことは余りにも視野狭窄であり、不見識であり、無思慮だと言うしかない。

 どれを取っても政治家に不必要な資質でありながら、不必要な資質を抱えながら国政政党の代表を務めたり、大阪府知事を務めたり、現在大阪市長を務めていられる政治家の条件はどう説明したらいいのだろうか。

 今回の安保関連法案反対のデモに限って言うと、その参加者の人数のみで反対の政治意思を量ることができないのは各マスコミの世論調査を根拠とすることができる。

 8月7日から8月9日(2015年)の3日間行ったNHKの世論調査によると、〈集団的自衛権の行使容認を含む安全保障法制の整備を進めていることを、評価するかどうか聞いたところ、「大いに評価する」が7%、「ある程度評価する」が23%、「あまり評価しない」が32%、「まったく評価しない」が32%〉と、評価30%に対して評価しないは64%となっている。

 このNHKの世論調査で見せている安保法制の整備に対する、あるいは安保関連法案に対する国民の反対の意思表示の傾向と安倍内閣に対する支持率低下の傾向はNHKの世論調査だけではなく、他のマスコミのよう論調査でも同じ傾向が現れている。

 そうである以上、橋下徹はNHK世論調査の65%を、あるいは少なく見積もって半数以上の50%にプラスした確率を、当然、評価30%の確率も下げなければならないが、「日本の有権者数は1億人」に掛けて、それぞれの人数を計算すべきだろう。

 安倍晋三は安保法制整備を強引に進むに連動して内閣支持率を下げてきている。この内閣支持率低下も国民の安保関連法案反対の政治意志=意思表示が強く影響している一つの現れであるはずだが、視野狭窄の病に冒されているから、デモの人数のみにしか目が向かない。

 改めて言うが、国会前デモは安保関連法案に反対の強い政治意思を持たせた集団的示威行動であり、集団的な意思表示である。主流の国民の声となって現れている世論調査を味方にして、自らの政治意思に強い自信を持たせて反対デモに参加しているはずだ。

 もし世論調査で国民の大多数が安保法案に賛成していたなら、なかなか反対デモなどできないし、反対デモをしたとしても、国会前デモのように大規模化などできないだろう。殆の国民が賛成していることになるのだから、国民の声に乖離したデモだと批判されかねない。

 橋下徹は「こんな人数のデモで国家の意思が決定されるなら、サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ」と言っているが、サザン公演の観客・ファンが観客席で表現しようとしている、あるいは表現する意思表示と国会前デモの参加者が表現しようとしている意思表示が安倍内閣反対・安保関連政策反対の政治意志の点で非常に似通っているとしたら、後者の人数で国家意思の決定が許されるなら、前者の人数での決定も許されなければ、公平な民主主義とは言えなくなって、矛盾が生じる。

 もしその政治性が異質で、サザン観客・ファンの政治意志が明確な内閣反対・安保関連政策反対の意思表示にまで達していないものであるとしたら、そのような政治性を持たない人数で国家の意思決定を承諾していることになって、そこに別の矛盾が生じることになる。

 要するに正当性もない不見識・無思慮な情報をタレ流しているに過ぎない、その程度の政治家でしかない、あるいはその程度の頭しかないということである。

 橋下徹はまた、「デモは否定しない。国民の政治活動として尊重されるのは当然。政治家も国民の政治的意思として十分耳を傾けなければならない」と民主的行動を理解していることを見せてはいるが、「ただしデモで国家の意思が決定されるのは絶対にダメだ」と、逆に民主的行動を否定している。

 確かに国民の政治意志を示す選挙制度が民主国家には存在する。だが、国民の多くが反対する法律が成立してしまったなら、次の選挙でその内閣に対する反対の意思表示を示すには遅過ぎるという場合、特に現在のように次の総選挙を議席減少を回避するために4年の任期を全うするだろうことを考慮すると、2018年12月を予定しなければならなくなって、国民が頼ることができる反対の政治意思の表現は世論調査かデモに限定されることになる。

 もし世論調査で内閣とその内閣の政策に反対する確率が70%、80%にも達して、その世論の反対を受けて国会の周囲を内閣反対・政策反対のデモが20万人、30万人と取り囲み、そのために国会議員が国会に出席することもできなくなり、国会審議が完全にストップして、それがどれ程に長期化するか分からない状況に至ったなら、内閣はそれでも自らの保身を図るだろうか。

 それが暴力に走らない民主的なデモである限り、世論調査に現れている国民の政治意思を根拠にデモの力を以ってして国家の意思を決定することを意志し、それが成功した場合、決して民主主義には反しないはずで、「デモで国家の意思が決定されるのは絶対にダメだ」とは一概に言えないことになる。

 だが、「絶対にダメだ」と杓子定規に判断していいる。

 このような視野狭窄にして不見識な、あるいは無思慮な杓子定規な主張は自分の言っていることは常に正しい、あるいは自分の言っていることは正義だと思い込んでいることから起きる。

 正しい、正義だと頭から思い込んでいることによって、逆に自分の主張を疑って考えることを排除することになる。

 多分、自分は常に正しい、自分は正義だとする思い込みをベースにした達者な言葉の使い方、その早口に誤魔化されて、実際にも優れた政治家に見えて、多くの人気を得ることになっているのかもしれない。

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