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【京都発幕間旅情】名古屋城,1959年落成復興天守閣の木造天守閣化に伴う文化財破壊危機

2017-09-13 22:36:54 | 旅行記
■名古屋,戦災復興文化財の軽視
 名古屋城は1959年落成の復興天守閣が、尾張名古屋は城でもつ、との言葉を体現するほどの威容を誇っています。

 名古屋城、木造天守閣立替に付き年内にも取り壊しへ立ち入り制限が始まる、衝撃の方に接し、急遽足を運ぶこととました。名古屋城の木造天守閣復元という施策ですが、戦災からの復興天守閣という歴史上の史跡を理解しない非文化的な愚行といわざるを得ません。

 復興天守閣はバブル期に乱立した復元天守閣とは根本的に意味が異なる第二次世界大戦からの復興を祈念したまだまだ日本が貧しい時代の国家再興を念じた、それ自体が史跡であるのです。そして現状では鉄筋コンクリートの耐震補強という選択肢もあったということ。

 復興天守閣を経済的に余裕があるとの理由から安易に木造天守閣に建て替えることは、あたかも古刹の伽藍を近代的な建物に建て替え満足するような見識不足を後世に残すこととなるでしょう。ただ、名古屋にはよい意味含め浅い文化的価値観があるのかもしれません。

 万松寺、一例として織田家菩提寺として名古屋市内に歴史を誇る寺院で1540年に建立されました、那古野城に隣接し造営された寺院で移転を経て現在位置に遷座しましたが、この本堂建て替えのさい、驚くべきことに近代的鉄筋コンクリートビルに建て変わったのです、檀家一同がこの建て替えを認めたのはちょっと文化財の多い街では考えられない。

 名古屋城については確かに木造復元という大義名分を理解する余地はあるのでしょうが、現状天守閣が第二次世界大戦の戦災により焼失した天守閣を復興の象徴として、市民の献金、今では考えられぬ程に日本が復興途上の最中、献金で再建された天守閣である訳です。

 鉄筋コンクリートの天守閣こそが再建ではなく、始祖の復興天守閣であることを忘れて、取り壊されようとしているのは非常に悲しい事です。そして名古屋市もこの視点については、より古い1936年落成の市役所施設等は建て替えを行わず維持する方針を示しています、しかし1959年落成の天守閣は、と。

 名古屋城だけ何故取り壊すのか、歴史的価値では戦災復興への復興天守閣の地位は低くは無く、名古屋市役所や愛知県庁、帝冠様式の建築物を老朽化したさいには耐震工事と補強工事を実施しているのに対し、安易に古くなったので天守閣再建、は二重基準でしょう。

 木造天守閣を再建したとして維持できるかという事も大いに疑問です。二条城や大阪城の美麗な石垣をみた上で名古屋城の石垣をみますと、草に覆われ、郭と櫓の一部には老朽化の破損さえ散見できます。石垣の除草は費用と労力が大きいだけに美観への姿勢が表れる。

 石垣は江戸時代の造営時を遺構として今に伝え、明治維新や陸軍進駐に戦災からも生き延びた文化財ですが、名古屋城石垣はどうか、言い方は悪いですが、熊本地震被災から一年を経た熊本城の石垣の方が、手入れという部分では良好な環境を保っているとさえいえる。

 名古屋市は石垣さえ維持できない状況下で木造天守閣を新造しようとしている訳ですが、これで天守閣を維持できるのかという視点が残ります。逆説的に木造天守閣よりも石垣の保全にまず予算を投入し、城郭の基礎というべき今ある石垣と櫓保全の方が優先度は高い。

 城郭は基礎工事が重要です、逆に熊本城等は徹底したおかげで熊本地震に耐えましたが、名古屋市はどうか。こうして初めて、これから新しい天守閣を再建するというものがせめてもの順番であり、木造天守閣だけを求める姿はある種、非文化的で滑稽とさえいえます。

 現状は差し迫った納期前に設備新調を行い生産性向上に着手しようとしている斜陽工場と違いがありません。復興天守閣という歴史的財産の位置を明確に理解し、同時に今必要な石垣と櫓や郭の補修を先行、その上で復興天守閣を壊すのかを問うべき、順番が違います。

北大路機関:はるな くらま
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