■ひえい,先代の高速戦艦比叡
比叡山は京都市から見上げる美しい峰で常にそこに在りますが、日本には比叡山の名を冠した装甲艦や戦艦と護衛艦が。その戦艦比叡が発見とNHK報道が今朝ありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/da/58a413acf8441ae91ebac313f79072d3.jpg)
ひえい先代の戦艦比叡が鉄底海峡として恐れられたソロモンの海、水深985mの海底で発見されました、金剛型戦艦二番艦として1914年に竣工し、建造時は巡洋戦艦として、戦間期には練習戦艦として活躍し、高速戦艦に改造、真珠湾攻撃、ポートダーウィン強襲、インド洋作戦、ミッドウェー海戦などに参加、第三次ソロモン海戦により沈没しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/d6/ec097acb96a627d33d91d46a624c3651.jpg)
比叡を発見したのは故ポール-アレン氏が創設した探索チームです。ポール-アレン氏はMicrosoft社創設者の一人で、多額の資産を文化事業や慈善事業へ供し、戦没艦艇位置の探索では大きな功績を残しています。20世紀一杯で発見不能であった戦艦武蔵をフィリピンシブヤン海で発見、世界最大の空母決戦、マリアナ沖海戦戦没艦調査中に亡くなりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/f9/5a4b511d7248c34da9e0cfafdd35b432.jpg)
金剛型戦艦は日本海軍が日露戦争後の急速な戦艦打撃力の技術革新へ対応するべくイギリスのヴィッカース社、現在のBAE社へ建造を依頼した巡洋戦艦で、当時世界最強の14インチ艦砲を八門搭載する速度重視の設計を採っています。金剛、比叡、榛名、霧島、この四隻は近代化改装により防御力と速力を高め、高速戦艦となり太平洋戦争へ臨んでいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/72/3428b3e23cbb5c56bba05cbf6eb393bc.jpg)
昭和天皇のお召艦としても活躍しました。これはワシントン海軍軍縮条約により戦艦一隻を練習戦艦とする必要があり、比叡が練習戦艦となった際に一部艦砲等を撤去、ここに貴賓室や供奉室を増設する余裕が生まれた為でした。練習戦艦から高速戦艦へ復帰する際には艦橋の大規模工事が実施、日本の新戦艦、大和型戦艦建造の試験艦的役割も担いました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/1f/d793b5292a99ebce94cea832180d8537.jpg)
榛名を除く金剛型戦艦は全て戦没しましたが、これは巡洋戦艦として設計された金剛型戦艦が続いて建造された扶桑型戦艦や伊勢型戦艦、長門型戦艦よりも打撃力や防御力で劣りつつ速度で優秀であり、この高速度は戦艦に代わる新しい海戦の主役、航空母艦を護衛する際に唯一対応できるというものでした。上記の通り、戦艦比叡は空母戦への参加が多い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/07/a41a37994a7fdd1a3f041c233444681d.jpg)
赤城、加賀、多くの航空母艦と共に、空母部隊は戦艦との遭遇を警戒しています。欧州海戦史を俯瞰すれば戦艦に捕捉された空母が撃沈された事例もある。この為、日米ともに戦艦を空母部隊に随伴させ、空母部隊が戦艦へ捕捉された際の艦隊決戦を志向していました。金剛型戦艦は、こうした経緯もあり、太平洋戦争時は最古参でありながら活用されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/30/3b7f8b146a984355d6b09b6873a20c89.jpg)
第三次ソロモン海戦はアメリカとオーストラリアを結ぶ海上交通路遮断を期した米豪遮断作戦の要衝、ガダルカナル島等ソロモン海の島々を巡る戦いで、1942年ミッドウェー海戦の敗北により日米講和の端緒を逃した日本には次の講和への端緒を期した巨大な戦闘でした。太平洋戦争上日本海軍にとり最も過酷な艦船の消耗戦、その中でも大規模な海戦です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/7e/e88106f611e520a821ce125e817885c3.jpg)
日米豪が入り乱れた第三次ソロモン海戦は、海域制空権を左右するアメリカ海軍飛行場へ戦艦艦砲射撃による無力化と地上部隊輸送を試みた最中に発生し、日本海軍はこの海戦に比叡と霧島の戦艦2隻、空母1隻、巡洋艦8隻、駆逐艦16隻を投入、米豪連合軍は戦艦ワシントンとサウスダコダの2隻、空母1隻、巡洋艦5隻、駆逐艦12隻にて迎え撃ちました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/81/0d375e3c19cee916e070980f63f0fe60.jpg)
阿部弘毅中将率いる第11戦隊、戦艦比叡は戦艦霧島と共にこの陣容で海戦に臨んでいます。1942年11月12日、ガダルカナル島米軍飛行場砲撃へ向かった第11戦隊はスコールにより視程不良の為に突入時機を狙う最中、ソロモン海サボ島北方にてダニエル-キャラハン少将隷下の巡洋艦5隻を含む第67.4任務群と遭遇する。錯綜海域と悪天候、運不運が重なる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/ee/934b9911fcdf25bc6e19d29713c6fbef.jpg)
ガダルカナル島米軍飛行場艦砲射撃を任務として展開した第11戦隊、戦艦比叡、霧島は対艦用の徹甲弾ではなく地上に並ぶ航空機に有効な対空焼散弾を主砲に装填しており、対艦戦闘に不利な状況でした。しかし、飛行場艦砲射撃は、一ヶ月前の10月13日に栗田健男少将率いる戦艦金剛、榛名が成功、翌14日と15日にも重巡洋艦が攻撃を成功させている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/35/be45b7ed2092ccfd48886f7da88125a8.jpg)
ダニエル-キャラハン少将は不期遭遇という状況下で先ず先頭を往く軽巡洋艦アトランタが比叡艦砲により大破し、次席指揮官のノーマン-スコット少将が戦死します。ただ、第11戦隊も夜間でしかも悪天候下の錯綜地形にて先頭艦の駆逐艦春雨と夕立よりも比叡が先頭に出てしまい、第67.4任務群より集中攻撃を受け、203mm砲弾等50発以上が命中しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/36/22abe1b030e6ba0297db86023a61f52e.jpg)
西田正雄大佐、比叡艦長の戦闘記録によれば40分間で85発が命中したという。夜間の混戦は日米が共に友軍誤射という混乱となり、アメリカ海軍の旗艦サンフランシスコが緒戦で炎上するアトランタを砲撃、日本も駆逐艦五月雨が比叡を誤射という状況下、ダニエル-キャラハン少将はサンフランシスコ艦上で戦死し、アメリカはこの日提督3名が戦死する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/27/3e4757c6f5a6fbdd066183fcbd3e4115.jpg)
戦艦比叡は、しかし上部構造物に多数の命中弾を受けており大火災が発生、黎明までに鎮火に成功するものの、続いてアメリカ航空部隊攻撃、日本も空母や水上機母艦と航空基地から制空部隊を増派、満身創痍の比叡上空で航空戦が展開されます。止めとなったのは別任務で飛行中であった空母エンタープライズ飛行隊が転進、雷撃が比叡に命中した事です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/b7/5ef4ed2c4ddba4fe4558125af1776a45.jpg)
エンタープライズ飛行隊の攻撃により舵故障と浸水が始まる。西田艦長は比叡を沈没から守るべく浅瀬へ座礁を試みますが舵故障で思うよう行かず、しかも第67.4任務群との戦闘により廃墟然の上部構造物は艦内電話不通、ここに機関部全滅の誤報が艦長へ。既に第11戦隊指揮官阿部少将は駆逐艦雪風へ移乗した後、西田艦長は自沈を決断、海へ消えました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/34/e54e10de4210e660bddb8d520b7b5dea.jpg)
日露戦争から37年、戦艦比叡沈没は日本海軍が37年ぶりに戦闘で失った戦艦となりました。しかし、第3次ソロモン海戦は続く。二日後の11月14日、攻撃再興を図る日本海軍はアメリカの新戦艦、ワシントン海軍軍縮条約失効後に建造された最新鋭戦艦サウスダコダ、ワシントンとサボ島沖で遭遇、サウスダコダを大破させるも霧島もまた撃沈されます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/49/01defe9640d680524c80b87c81d18445.jpg)
第三次ソロモン海戦は日本海軍が戦艦比叡、霧島など、戦艦2隻と巡洋艦1隻及び駆逐艦3隻を失い、アメリカ海軍も巡洋艦2隻と駆逐艦7隻を失いました。日本側戦死者は1900名に昇り、アメリカも1700名が戦死しています。日本側は飛行場砲撃と失敗、地上部隊は2000名と数日分の兵站物資を揚陸したのみで事実上失敗、戦史上の分岐点となりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/e9/13a2c60c1f9d8707b02f0e8445280714.jpg)
鉄底海峡、ソロモンの海がこう恐れられているのは、日米筆頭に多数の水上戦闘艦や潜水艦、輸送船がこの海域に沈められ航空機も多数墜落、その船舶の鉄製船体により航行中の羅針盤が狂うといわれた為で、その海底には多くの艦艇と航空機と共に乗員たちもまた眠っています。消耗戦は1943年2月のガダルカナル撤退、その後のラバウル放棄まで続く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/23/02dd39fd6b7deecb0295952ff58270fc.jpg)
比叡は昨年1月29日に我が国NPO法人“アジア太平洋英霊顕彰会”にてソナー探索から比叡と思われる海底形状を発見しています。この情報が活かされたのかについては不詳ですが、今回海底の映像に撮影成功しています。船体は大きく破損しており、自沈後に機関部の水蒸気爆発か艦砲弾薬庫が爆発した可能性もあります。今後調査研究がありましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/bb/fa06e1dc1b4de8f70f5482d780c40e72.jpg)
ポール-アレン氏の遺言により実施されている戦没艦艇の調査、これは学術研究と共に慰霊の目的がある旨の発言が生前に在りました。比叡はじめ海の墓標は多い。戦史の研究と戦場の錯誤や戦術の研究に資すると共に、海底に大きく戦隊を破損させ横たわる数多の艨艟、ここに新たな海の墓標を増やさぬよう努力する為の礎へできるよう知力の集約も、また必要でしょう。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
比叡山は京都市から見上げる美しい峰で常にそこに在りますが、日本には比叡山の名を冠した装甲艦や戦艦と護衛艦が。その戦艦比叡が発見とNHK報道が今朝ありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/da/58a413acf8441ae91ebac313f79072d3.jpg)
ひえい先代の戦艦比叡が鉄底海峡として恐れられたソロモンの海、水深985mの海底で発見されました、金剛型戦艦二番艦として1914年に竣工し、建造時は巡洋戦艦として、戦間期には練習戦艦として活躍し、高速戦艦に改造、真珠湾攻撃、ポートダーウィン強襲、インド洋作戦、ミッドウェー海戦などに参加、第三次ソロモン海戦により沈没しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/d6/ec097acb96a627d33d91d46a624c3651.jpg)
比叡を発見したのは故ポール-アレン氏が創設した探索チームです。ポール-アレン氏はMicrosoft社創設者の一人で、多額の資産を文化事業や慈善事業へ供し、戦没艦艇位置の探索では大きな功績を残しています。20世紀一杯で発見不能であった戦艦武蔵をフィリピンシブヤン海で発見、世界最大の空母決戦、マリアナ沖海戦戦没艦調査中に亡くなりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/f9/5a4b511d7248c34da9e0cfafdd35b432.jpg)
金剛型戦艦は日本海軍が日露戦争後の急速な戦艦打撃力の技術革新へ対応するべくイギリスのヴィッカース社、現在のBAE社へ建造を依頼した巡洋戦艦で、当時世界最強の14インチ艦砲を八門搭載する速度重視の設計を採っています。金剛、比叡、榛名、霧島、この四隻は近代化改装により防御力と速力を高め、高速戦艦となり太平洋戦争へ臨んでいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/72/3428b3e23cbb5c56bba05cbf6eb393bc.jpg)
昭和天皇のお召艦としても活躍しました。これはワシントン海軍軍縮条約により戦艦一隻を練習戦艦とする必要があり、比叡が練習戦艦となった際に一部艦砲等を撤去、ここに貴賓室や供奉室を増設する余裕が生まれた為でした。練習戦艦から高速戦艦へ復帰する際には艦橋の大規模工事が実施、日本の新戦艦、大和型戦艦建造の試験艦的役割も担いました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/1f/d793b5292a99ebce94cea832180d8537.jpg)
榛名を除く金剛型戦艦は全て戦没しましたが、これは巡洋戦艦として設計された金剛型戦艦が続いて建造された扶桑型戦艦や伊勢型戦艦、長門型戦艦よりも打撃力や防御力で劣りつつ速度で優秀であり、この高速度は戦艦に代わる新しい海戦の主役、航空母艦を護衛する際に唯一対応できるというものでした。上記の通り、戦艦比叡は空母戦への参加が多い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/07/a41a37994a7fdd1a3f041c233444681d.jpg)
赤城、加賀、多くの航空母艦と共に、空母部隊は戦艦との遭遇を警戒しています。欧州海戦史を俯瞰すれば戦艦に捕捉された空母が撃沈された事例もある。この為、日米ともに戦艦を空母部隊に随伴させ、空母部隊が戦艦へ捕捉された際の艦隊決戦を志向していました。金剛型戦艦は、こうした経緯もあり、太平洋戦争時は最古参でありながら活用されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/30/3b7f8b146a984355d6b09b6873a20c89.jpg)
第三次ソロモン海戦はアメリカとオーストラリアを結ぶ海上交通路遮断を期した米豪遮断作戦の要衝、ガダルカナル島等ソロモン海の島々を巡る戦いで、1942年ミッドウェー海戦の敗北により日米講和の端緒を逃した日本には次の講和への端緒を期した巨大な戦闘でした。太平洋戦争上日本海軍にとり最も過酷な艦船の消耗戦、その中でも大規模な海戦です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/7e/e88106f611e520a821ce125e817885c3.jpg)
日米豪が入り乱れた第三次ソロモン海戦は、海域制空権を左右するアメリカ海軍飛行場へ戦艦艦砲射撃による無力化と地上部隊輸送を試みた最中に発生し、日本海軍はこの海戦に比叡と霧島の戦艦2隻、空母1隻、巡洋艦8隻、駆逐艦16隻を投入、米豪連合軍は戦艦ワシントンとサウスダコダの2隻、空母1隻、巡洋艦5隻、駆逐艦12隻にて迎え撃ちました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/81/0d375e3c19cee916e070980f63f0fe60.jpg)
阿部弘毅中将率いる第11戦隊、戦艦比叡は戦艦霧島と共にこの陣容で海戦に臨んでいます。1942年11月12日、ガダルカナル島米軍飛行場砲撃へ向かった第11戦隊はスコールにより視程不良の為に突入時機を狙う最中、ソロモン海サボ島北方にてダニエル-キャラハン少将隷下の巡洋艦5隻を含む第67.4任務群と遭遇する。錯綜海域と悪天候、運不運が重なる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/ee/934b9911fcdf25bc6e19d29713c6fbef.jpg)
ガダルカナル島米軍飛行場艦砲射撃を任務として展開した第11戦隊、戦艦比叡、霧島は対艦用の徹甲弾ではなく地上に並ぶ航空機に有効な対空焼散弾を主砲に装填しており、対艦戦闘に不利な状況でした。しかし、飛行場艦砲射撃は、一ヶ月前の10月13日に栗田健男少将率いる戦艦金剛、榛名が成功、翌14日と15日にも重巡洋艦が攻撃を成功させている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/35/be45b7ed2092ccfd48886f7da88125a8.jpg)
ダニエル-キャラハン少将は不期遭遇という状況下で先ず先頭を往く軽巡洋艦アトランタが比叡艦砲により大破し、次席指揮官のノーマン-スコット少将が戦死します。ただ、第11戦隊も夜間でしかも悪天候下の錯綜地形にて先頭艦の駆逐艦春雨と夕立よりも比叡が先頭に出てしまい、第67.4任務群より集中攻撃を受け、203mm砲弾等50発以上が命中しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/36/22abe1b030e6ba0297db86023a61f52e.jpg)
西田正雄大佐、比叡艦長の戦闘記録によれば40分間で85発が命中したという。夜間の混戦は日米が共に友軍誤射という混乱となり、アメリカ海軍の旗艦サンフランシスコが緒戦で炎上するアトランタを砲撃、日本も駆逐艦五月雨が比叡を誤射という状況下、ダニエル-キャラハン少将はサンフランシスコ艦上で戦死し、アメリカはこの日提督3名が戦死する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/27/3e4757c6f5a6fbdd066183fcbd3e4115.jpg)
戦艦比叡は、しかし上部構造物に多数の命中弾を受けており大火災が発生、黎明までに鎮火に成功するものの、続いてアメリカ航空部隊攻撃、日本も空母や水上機母艦と航空基地から制空部隊を増派、満身創痍の比叡上空で航空戦が展開されます。止めとなったのは別任務で飛行中であった空母エンタープライズ飛行隊が転進、雷撃が比叡に命中した事です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/b7/5ef4ed2c4ddba4fe4558125af1776a45.jpg)
エンタープライズ飛行隊の攻撃により舵故障と浸水が始まる。西田艦長は比叡を沈没から守るべく浅瀬へ座礁を試みますが舵故障で思うよう行かず、しかも第67.4任務群との戦闘により廃墟然の上部構造物は艦内電話不通、ここに機関部全滅の誤報が艦長へ。既に第11戦隊指揮官阿部少将は駆逐艦雪風へ移乗した後、西田艦長は自沈を決断、海へ消えました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/34/e54e10de4210e660bddb8d520b7b5dea.jpg)
日露戦争から37年、戦艦比叡沈没は日本海軍が37年ぶりに戦闘で失った戦艦となりました。しかし、第3次ソロモン海戦は続く。二日後の11月14日、攻撃再興を図る日本海軍はアメリカの新戦艦、ワシントン海軍軍縮条約失効後に建造された最新鋭戦艦サウスダコダ、ワシントンとサボ島沖で遭遇、サウスダコダを大破させるも霧島もまた撃沈されます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/49/01defe9640d680524c80b87c81d18445.jpg)
第三次ソロモン海戦は日本海軍が戦艦比叡、霧島など、戦艦2隻と巡洋艦1隻及び駆逐艦3隻を失い、アメリカ海軍も巡洋艦2隻と駆逐艦7隻を失いました。日本側戦死者は1900名に昇り、アメリカも1700名が戦死しています。日本側は飛行場砲撃と失敗、地上部隊は2000名と数日分の兵站物資を揚陸したのみで事実上失敗、戦史上の分岐点となりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/e9/13a2c60c1f9d8707b02f0e8445280714.jpg)
鉄底海峡、ソロモンの海がこう恐れられているのは、日米筆頭に多数の水上戦闘艦や潜水艦、輸送船がこの海域に沈められ航空機も多数墜落、その船舶の鉄製船体により航行中の羅針盤が狂うといわれた為で、その海底には多くの艦艇と航空機と共に乗員たちもまた眠っています。消耗戦は1943年2月のガダルカナル撤退、その後のラバウル放棄まで続く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/23/02dd39fd6b7deecb0295952ff58270fc.jpg)
比叡は昨年1月29日に我が国NPO法人“アジア太平洋英霊顕彰会”にてソナー探索から比叡と思われる海底形状を発見しています。この情報が活かされたのかについては不詳ですが、今回海底の映像に撮影成功しています。船体は大きく破損しており、自沈後に機関部の水蒸気爆発か艦砲弾薬庫が爆発した可能性もあります。今後調査研究がありましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/bb/fa06e1dc1b4de8f70f5482d780c40e72.jpg)
ポール-アレン氏の遺言により実施されている戦没艦艇の調査、これは学術研究と共に慰霊の目的がある旨の発言が生前に在りました。比叡はじめ海の墓標は多い。戦史の研究と戦場の錯誤や戦術の研究に資すると共に、海底に大きく戦隊を破損させ横たわる数多の艨艟、ここに新たな海の墓標を増やさぬよう努力する為の礎へできるよう知力の集約も、また必要でしょう。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)