■千百五十年前の山鉾巡行基点
祇園祭の興隆と喧騒から季節外れにこそその源流を辿りたい、そんな趣にて参拝といいたいところですが、少しの余暇に堀川通りをちょっと寄り道してみました。
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梛神社/隼神社、京都は中京区の阪急大宮駅から少しだけ西へ、四条通に面した小さな社殿が並ぶ不思議な神域があります。祇園祭、京都に夏を知らせる伝統行事ですが、その神事と祭事を徒歩で辿ってゆきますと八坂神社を徒歩で一時間ほど隔てた此処に至るのです。
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隼神社と梛神社、社殿の名を詠みますと梛の木々に隼が舞う、という風情ある情景が思い浮かぶところですが京都市の中心部も中心部で阪急と嵐電から指呼の距離ですが、社殿の前に詣で額づくべく歩みを進めますと、成程二つの拝殿が並ぶ光景に歴史の深みを感じる。
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梛神社は祭神を素盞嗚尊として配祀に宇賀御魂命と伊弉冉命と誉田別尊とを祀ります。並ぶ隼神社は建甕槌神を祭神として配祀に経津主神を祀ります。四条通に面していまして市バスのバス停前に鳥居と小さな神域の森が広がる、時折近くの嵐電より電車の駆動音響く。
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貞観年間の西暦969年、京都には疫病が流行します。平安朝末期の疫病は水害と栄養失調が助長させるものですが、貞観年間には古富士噴火という歴史上最大の富士噴火、貞観三陸沖地震という所謂千年前の東日本大震災が発災、徴税もままならない中に万の災厄集う。
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清和天皇は洛中数多の祈祷も実らず更なる神威に頼るほかないとしまして、播磨国広峰より牛頭天王の神霊を勧請します。実はこの由縁は八坂神社の歴史として広く知られるところなのですが、清和天皇治世下に勧請した社殿が元々この地に在った、という事なのです。
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素戔嗚としても知られる牛頭天王、播磨国広峰とは現在は姫路と呼ばれる。当時に鎮疫祭の神事を開きましたこの地は梛の木数万本という木々に囲まれており、これが梛神社と呼ばれる事となりました由来です。そして祇園祭はこの神事なのですが、この起源とは何か。
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山鉾巡行が祇園祭の象徴的な神事ではあります、いや山鉾とは現在のような華美な装いを整えるには町民文化の興隆、つまり江戸時代を待たねばなりませんが、この梛神社での鎮疫祭が山鉾巡行の姿とは如何に想像しても重なりません。ここの歴史を辿りますと面白い。
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八坂神社への遷座、牛頭天王が現在の地に四条通を東へ進む際、梛神社氏子衆は神霊との別れを惜しみ、思い思いの花々で飾った風流傘を数多仕立て華美な鉾を振ってお囃子を奏でつつ神輿の御輿を八坂神社へと遷座しました。これが洛中に強い印象を残したと伝わる。
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祇園会、山鉾巡行を毎年暦と共に伝える祇園祭は、源流を辿りに辿ればこの八坂神社への遷座へと至るものでして、成程風流傘は花笠巡行の心象印象も強いものではあるのですが、洛中を巡幸する、という祇園祭の象徴的な神事は此処から始まった、といえるのですね。
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元祇園社、梛神社はこう呼ばれていまして、八坂神社はじまりの地、という縁から親しみを込めて冠せられました。ただ、実に千百五十年の歴史、明治初期の頃には遷座から千年を経た事もあり神域の多くは転用され小さな祠が残るのみとなっていました。そして明治時代1874年、再興され新たに拝殿などが建てられた。
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隼神社は大正時代1917年にこの地に遷座しまして、梛神社と社殿を並べる事となりました。もともとは蛸薬師坊城というもう少し北に鎮座していました神社です。創建は梛神社と同時代の貞観年間968年、神社の格を示す延喜式神明帳によれば大社として列せられています。二つの神社が一つとなりましてから更に半世紀後、昭和期1929年に境内に二つの拝殿が並び整備される。
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隼神社、隼がこの地に営巣したわけではなく瘡神即ちくさのかみとの読みを隼と読み社殿に記したもので、思えば天然痘を思わせる瘡の名からも読み取れるもの。この界隈は壬生といい、幕末史では一際関心を集めるところです。その散策に併せ参拝は如何でしょう。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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祇園祭の興隆と喧騒から季節外れにこそその源流を辿りたい、そんな趣にて参拝といいたいところですが、少しの余暇に堀川通りをちょっと寄り道してみました。
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梛神社/隼神社、京都は中京区の阪急大宮駅から少しだけ西へ、四条通に面した小さな社殿が並ぶ不思議な神域があります。祇園祭、京都に夏を知らせる伝統行事ですが、その神事と祭事を徒歩で辿ってゆきますと八坂神社を徒歩で一時間ほど隔てた此処に至るのです。
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隼神社と梛神社、社殿の名を詠みますと梛の木々に隼が舞う、という風情ある情景が思い浮かぶところですが京都市の中心部も中心部で阪急と嵐電から指呼の距離ですが、社殿の前に詣で額づくべく歩みを進めますと、成程二つの拝殿が並ぶ光景に歴史の深みを感じる。
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梛神社は祭神を素盞嗚尊として配祀に宇賀御魂命と伊弉冉命と誉田別尊とを祀ります。並ぶ隼神社は建甕槌神を祭神として配祀に経津主神を祀ります。四条通に面していまして市バスのバス停前に鳥居と小さな神域の森が広がる、時折近くの嵐電より電車の駆動音響く。
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貞観年間の西暦969年、京都には疫病が流行します。平安朝末期の疫病は水害と栄養失調が助長させるものですが、貞観年間には古富士噴火という歴史上最大の富士噴火、貞観三陸沖地震という所謂千年前の東日本大震災が発災、徴税もままならない中に万の災厄集う。
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清和天皇は洛中数多の祈祷も実らず更なる神威に頼るほかないとしまして、播磨国広峰より牛頭天王の神霊を勧請します。実はこの由縁は八坂神社の歴史として広く知られるところなのですが、清和天皇治世下に勧請した社殿が元々この地に在った、という事なのです。
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素戔嗚としても知られる牛頭天王、播磨国広峰とは現在は姫路と呼ばれる。当時に鎮疫祭の神事を開きましたこの地は梛の木数万本という木々に囲まれており、これが梛神社と呼ばれる事となりました由来です。そして祇園祭はこの神事なのですが、この起源とは何か。
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山鉾巡行が祇園祭の象徴的な神事ではあります、いや山鉾とは現在のような華美な装いを整えるには町民文化の興隆、つまり江戸時代を待たねばなりませんが、この梛神社での鎮疫祭が山鉾巡行の姿とは如何に想像しても重なりません。ここの歴史を辿りますと面白い。
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八坂神社への遷座、牛頭天王が現在の地に四条通を東へ進む際、梛神社氏子衆は神霊との別れを惜しみ、思い思いの花々で飾った風流傘を数多仕立て華美な鉾を振ってお囃子を奏でつつ神輿の御輿を八坂神社へと遷座しました。これが洛中に強い印象を残したと伝わる。
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祇園会、山鉾巡行を毎年暦と共に伝える祇園祭は、源流を辿りに辿ればこの八坂神社への遷座へと至るものでして、成程風流傘は花笠巡行の心象印象も強いものではあるのですが、洛中を巡幸する、という祇園祭の象徴的な神事は此処から始まった、といえるのですね。
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元祇園社、梛神社はこう呼ばれていまして、八坂神社はじまりの地、という縁から親しみを込めて冠せられました。ただ、実に千百五十年の歴史、明治初期の頃には遷座から千年を経た事もあり神域の多くは転用され小さな祠が残るのみとなっていました。そして明治時代1874年、再興され新たに拝殿などが建てられた。
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隼神社は大正時代1917年にこの地に遷座しまして、梛神社と社殿を並べる事となりました。もともとは蛸薬師坊城というもう少し北に鎮座していました神社です。創建は梛神社と同時代の貞観年間968年、神社の格を示す延喜式神明帳によれば大社として列せられています。二つの神社が一つとなりましてから更に半世紀後、昭和期1929年に境内に二つの拝殿が並び整備される。
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隼神社、隼がこの地に営巣したわけではなく瘡神即ちくさのかみとの読みを隼と読み社殿に記したもので、思えば天然痘を思わせる瘡の名からも読み取れるもの。この界隈は壬生といい、幕末史では一際関心を集めるところです。その散策に併せ参拝は如何でしょう。
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