■幕府の威光と豪商の美徳
山鉾のタペストリーを歴史で辿りますと行き着きましたのは徳川家康という驚きの歴史がありましたのは前回の話題です。
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徳川家康の秘仏を護るように掲げられたタペストリー、ただ惜しまれるのは明治44年に火災で失われたという。残る四枚も幕府が持っていたのではないかと考えられているのですが、石川県、そしてあとはこの探し始めた鯉山と祇園祭祇園會が、保存しているという。
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オランダから日本に送られたものではないかという。実際、この鎖国の時代、唯一オランダが日本と交易を結んでいました。タペストリーはベルギーのものであり、オランダの隣国でして、そのハーグ国立公文書館に200年以上の交易の記録が残されているのですが。
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ハーグ国立公文書館、当時の帳簿をみますと徳川幕府への献上品のリストが記されており、将軍や幕府に献上されたものにタペストリーが含まれていたという。世界中の銀の三分の一を産出していた江戸時代の日本、ここと交易関係を維持するには献上品が必要だった。
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徳川幕府への献上品、しかしタペストリーと有るだけで当時の記録には作者などの正確な情報も残っていません、いや、目録が在っただけでも驚きなのですが、他にも説が。仙台藩主支倉常永による欧州使節団からのものではないか、という推測も成り立つようです。
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オランダからの献上品という説のほかに、いろいろ考えてみますと、禁教令前のイエズス会による献上品、という可能性もあるようですが、まだまだ知られていないことは多いのですね。もっとも、増上寺の一件からオランダの献上説がもっとも説得力がありますがね。
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将軍への献上品、もうひとつ鯉山のタペストリーは鶏鉾にも連作の一つが用いられていまして、ここには不自然な部分があるという、それは補修のあとが数多あり、実際色彩も異なるという、ならば一枚のものを補修したのではないか、と。すると探せばみつかるもの。
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一枚もののタペストリーを山鉾に掲げる為に切り上げたのは、まあ、今の視点からはかなり勇気のいる事なのですが、失われた部分について、記録が残らないために不明ですが、切断された部分は調査により滋賀県長浜にあった、という。新快速が結ぶ長浜城のところ。
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長浜も古い町並みで400年前から山車を引く長浜曳山祭がおこなわれています、その山車に用いられているのですね。長浜のタペストリーを電子的に組み合わせますと図柄はうまく重なるという。長浜には四条通り新町の呉服商藤倉屋から250両で売ったという記録が。
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松坂屋。呉服商藤倉屋というのは、いまの松坂屋にあたる豪商でして、要するに松坂屋で買って山車に掲げた、松坂屋から買った、という何か所帯じみたというか、親近感がわくところではあります、しかし、新しい謎が、松坂屋はどこから仕入れたのでしょうか。
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幕府の宝がなぜ松坂屋に、これも不思議ですが江戸時代、名古屋城で宴があり、ここに幕府へ献金をおおくしていました豪商が呼ばれ、尾張藩から伊藤次郎左衛門の藤倉屋にわたされたという。すると、豪商と祇園祭という、江戸時代の庶民文化故の歴史があります。
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三井本店。滋賀県大津にもうひとつある完全な連作のタペストリーも豪商からといい、三井本店から銀八貫で買ったという、四条烏丸に在る三井のおおもとですね、そしてのちに三井財閥となってゆくのですが、呉服と両替で京都の本店は大きく育ち、存在感を強めましたもの。
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三井本店も、大名や幕府へ貸し付けも多かったという。なかでも紀州徳川家へは34万両、今で言う200億円を貸し付けていたと言いまして、この縁があったといえる。祇園祭では新町通りに三井本店と松坂屋が向かい合っていたというのですが見栄もあったでしょうか。
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松坂屋や三井本店、そこからタペストリーが町にわたったのだろう、と。しかし、当時かなり貴重ではあるものの記録が少ないのがおもしろい部分でして、この記録が残っていないものには、祇園理事会の研究として、松坂屋や三井本店は日本の美学と言うのがあった。
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豪商の美徳と云いますか美徳と云いますか、武家に大量のお金を貸し付けたことを知られては迷惑をかけるという認識があり、迷惑をかねないように記録をあえて残さず、そして三井本店も松坂屋も権勢を誇ることなく、まあ、敵を造らない様に静かにというものです。
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貴重なタペストリーですが、これを秘蔵することもなく、広く一般に供したのはまた行きと云いますか風流と云いますか、それもいちばんの晴れの舞台といえる祇園祭にその美術品を託したのではないか、そここそ豪商の美学であった、と研究する方もいますほどで。
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年に一度、祇園祭で多くの人々に示すために。もちろん、伊達や酔狂で高いタペストリーを並べたのではなく、三井本店も松坂屋も共通するのは呉服商であったという事です、当時は有名ブランドなどありませんので、呉服商自身がブランド力を高めねばなりません。このためのおひろめでした。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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山鉾のタペストリーを歴史で辿りますと行き着きましたのは徳川家康という驚きの歴史がありましたのは前回の話題です。
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徳川家康の秘仏を護るように掲げられたタペストリー、ただ惜しまれるのは明治44年に火災で失われたという。残る四枚も幕府が持っていたのではないかと考えられているのですが、石川県、そしてあとはこの探し始めた鯉山と祇園祭祇園會が、保存しているという。
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オランダから日本に送られたものではないかという。実際、この鎖国の時代、唯一オランダが日本と交易を結んでいました。タペストリーはベルギーのものであり、オランダの隣国でして、そのハーグ国立公文書館に200年以上の交易の記録が残されているのですが。
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ハーグ国立公文書館、当時の帳簿をみますと徳川幕府への献上品のリストが記されており、将軍や幕府に献上されたものにタペストリーが含まれていたという。世界中の銀の三分の一を産出していた江戸時代の日本、ここと交易関係を維持するには献上品が必要だった。
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徳川幕府への献上品、しかしタペストリーと有るだけで当時の記録には作者などの正確な情報も残っていません、いや、目録が在っただけでも驚きなのですが、他にも説が。仙台藩主支倉常永による欧州使節団からのものではないか、という推測も成り立つようです。
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オランダからの献上品という説のほかに、いろいろ考えてみますと、禁教令前のイエズス会による献上品、という可能性もあるようですが、まだまだ知られていないことは多いのですね。もっとも、増上寺の一件からオランダの献上説がもっとも説得力がありますがね。
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将軍への献上品、もうひとつ鯉山のタペストリーは鶏鉾にも連作の一つが用いられていまして、ここには不自然な部分があるという、それは補修のあとが数多あり、実際色彩も異なるという、ならば一枚のものを補修したのではないか、と。すると探せばみつかるもの。
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一枚もののタペストリーを山鉾に掲げる為に切り上げたのは、まあ、今の視点からはかなり勇気のいる事なのですが、失われた部分について、記録が残らないために不明ですが、切断された部分は調査により滋賀県長浜にあった、という。新快速が結ぶ長浜城のところ。
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長浜も古い町並みで400年前から山車を引く長浜曳山祭がおこなわれています、その山車に用いられているのですね。長浜のタペストリーを電子的に組み合わせますと図柄はうまく重なるという。長浜には四条通り新町の呉服商藤倉屋から250両で売ったという記録が。
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松坂屋。呉服商藤倉屋というのは、いまの松坂屋にあたる豪商でして、要するに松坂屋で買って山車に掲げた、松坂屋から買った、という何か所帯じみたというか、親近感がわくところではあります、しかし、新しい謎が、松坂屋はどこから仕入れたのでしょうか。
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幕府の宝がなぜ松坂屋に、これも不思議ですが江戸時代、名古屋城で宴があり、ここに幕府へ献金をおおくしていました豪商が呼ばれ、尾張藩から伊藤次郎左衛門の藤倉屋にわたされたという。すると、豪商と祇園祭という、江戸時代の庶民文化故の歴史があります。
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三井本店。滋賀県大津にもうひとつある完全な連作のタペストリーも豪商からといい、三井本店から銀八貫で買ったという、四条烏丸に在る三井のおおもとですね、そしてのちに三井財閥となってゆくのですが、呉服と両替で京都の本店は大きく育ち、存在感を強めましたもの。
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三井本店も、大名や幕府へ貸し付けも多かったという。なかでも紀州徳川家へは34万両、今で言う200億円を貸し付けていたと言いまして、この縁があったといえる。祇園祭では新町通りに三井本店と松坂屋が向かい合っていたというのですが見栄もあったでしょうか。
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松坂屋や三井本店、そこからタペストリーが町にわたったのだろう、と。しかし、当時かなり貴重ではあるものの記録が少ないのがおもしろい部分でして、この記録が残っていないものには、祇園理事会の研究として、松坂屋や三井本店は日本の美学と言うのがあった。
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豪商の美徳と云いますか美徳と云いますか、武家に大量のお金を貸し付けたことを知られては迷惑をかけるという認識があり、迷惑をかねないように記録をあえて残さず、そして三井本店も松坂屋も権勢を誇ることなく、まあ、敵を造らない様に静かにというものです。
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貴重なタペストリーですが、これを秘蔵することもなく、広く一般に供したのはまた行きと云いますか風流と云いますか、それもいちばんの晴れの舞台といえる祇園祭にその美術品を託したのではないか、そここそ豪商の美学であった、と研究する方もいますほどで。
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年に一度、祇園祭で多くの人々に示すために。もちろん、伊達や酔狂で高いタペストリーを並べたのではなく、三井本店も松坂屋も共通するのは呉服商であったという事です、当時は有名ブランドなどありませんので、呉服商自身がブランド力を高めねばなりません。このためのおひろめでした。
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