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【京都発幕間旅情】清瀧寺徳源院(滋賀米原)三重塔が迎える太平記は京極高氏ゆかりの寺院

2020-10-28 20:10:13 | 旅行記
■青椛迎える霊通山清瀧寺徳源院
 京極氏の菩提寺が米原にある、米原といえば東海道新幹線とJR西日本223系からJR東海313系が交差するという印象の街です。

 清瀧寺徳源院。ここは滋賀県米原市清滝に所在しています寺院で東海道本線柏原駅から少し歩み進めたところに位置する寺院です。米原、滋賀県と云いますと大津と彦根に長浜、と寺社仏閣が集まる印象がありますが、京に隣接する近江国と云いますともう歴史が長い。

 京極氏の菩提寺が米原にある、こういうお話を頂き、鎌倉幕府の評定衆を務めた京極氏信からはじまる京極氏は足利尊氏に仕えた佐々木道誉こと京極高氏としてかの楠木正成と尊氏の間を取り持った風流な武人といわれまして、俄然興味がわきました故歩み進めました。

 天台宗寺院である清瀧寺は山号を霊通山といい、山手に伽藍を開いています。ここには寛文12年こと西暦1672年に建立されました三重塔が現存していまして、青椛の中に不思議な静寂を響かせるとともに庭園なども、昨今諸般事情から非公開ですが維持されています。

 京極高氏、私が記憶に残る最初の印象的な大河ドラマ“太平記”では陣内孝則が演じました武人でして、奇しくもこの太平記は2020年にNHK-BSにて再放送されているのですね。こう思い立ちまして清瀧寺、その伽藍には17世紀に造営しました三重塔が聳えています。

 近江清瀧寺。歴史を紐解きますと京極氏の初代当主京極氏信は近江守即ち地頭を弘安6年の西暦1283年に任じられまして、江北高島郡と伊香郡に浅井郡と坂田郡と犬上郡及び愛智郡を京極氏の本拠地としていました、その頃弘安9年の1286年に清瀧寺は創建されました。

 足利尊氏との親しい関係を保ち、結果的に悲劇の英雄の道を辿る尊氏の分岐点、幕府の後醍醐天皇追討令に背き鎌倉幕府討幕を決意した尊氏にこの関ヶ原近くの関所で対峙した京極高氏は恭順の意を示し一路上京し六波羅探題占領、室町幕府立役者の一人となりました。

 湖北名刹札所23番として数えられる清瀧寺、しかし実は近江清瀧寺とは別の立地でもあります。実はこれにも不思議な歴史がありまして、京極氏は出雲守護に隠岐守護と飛騨の守護とを務め幕府の要職四職を担いましたが、後に応仁の乱により没落してしまうのですね。

 浅井氏の台頭。近江の実力者と云えばかの織田信長と最後まで上洛を巡り覇を競った浅井氏を思い出される事でしょう、戦国時代に京極氏は浅井氏の下剋上により没落していましたが京極高次、永禄6年の1563年に生まれた京極高次により再興の機会を迎えてゆく。

 京極高次は織田信長と豊臣秀吉に仕え、続いて徳川家康のもとに。そして大津城主としての地位を得まして関ヶ原の戦いでは東軍に就き大津城にて遅滞戦闘を展開し、西軍支隊の関ヶ原合流を阻止、この勲功を受け江戸時代に若狭藩主、弟は丹後宮津藩主となります。

 近江との所縁を尊ぶ京極氏は丸亀藩移封となりまして、藩主京極高豊治世下の寛文12年こと1672年、幕府に近江蒲生郡内1400石加増を受けた際に請願し鎌倉末期、京極高氏が陣屋を敷いたこの地を得ました。こうしてここに菩提寺清瀧寺を再興するに至ったのですね。

 三重塔、西暦1672年に建立されました三重塔はこの時に造営されたものでして、寺院再興に際して京極氏の墓標は散逸していましたが、集めれば全て揃ったといい、国の史跡となりました数えれば応仁の乱から実に二百年以上を経て帰参した、というところでしょうか。

 徳源院、ここは東海道本線近江長岡駅から柏原駅へ、こう列車が伊吹山を借景に隣接する東海道新幹線が見えるよう大きく曲がる線形となっています山手にありまして、参道も広く整備されています。柏原には旧東海道宿場町の風情も保たれており不思議な情感です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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