■日本はアメリカはどう変わった
同時多発テロ20年、今回は対テロ戦争を今年遂に終えたアメリカの変容と同時多発テロ後の情勢変化が分岐点となった日本の安全保障政策を考えたい。

2021年は同時多発テロから20年を迎えた特別な年であるとともに、アフガニスタンからの米軍撤退により20年間に及ぶテロとの戦いが終戦を迎えたポスト対テロ戦争時代元年でもあります。結果論ですが、ブッシュ大統領、オバマ大統領、トランプ大統領、三人のアメリカ大統領により、アルカイダとISILという二つのテロ勢力はほぼ鎮圧されたといえる。

しかし、影響は実のところ多面的であるといえるのかもしれません。アフガニスタン戦費は邦貨換算すれば20年間で200兆円、ニミッツ級原子力空母に換算すれば500隻分という膨大な数です、そしてアフガニスタンと共に影響は2003年イラク戦争に、考えれば社会主義革命により誕生した独裁国家とイスラム原理主義は元々真逆ですが、開戦に影響します。

イラク戦争、そのものは第3機械化歩兵師団を中心とする緒戦のバクダッド攻略、イラク政府崩壊までは極めて短期間で進められ、軍事技術の進歩に驚かされたものではありますが、その後のイラク治安作戦は長期化し泥沼化、アメリカ政権交代の後に撤退が実現しますが、これが逆に不安定情勢がISILイスラム国武装勢力の台頭を招いたのはご承知の通り。

20年間にも及ぶテロとの戦い、これにより何が変わったのかという影響を列挙しますと簡略に記しても辞典が出来上がりますが、アメリカ軍にかんしては装備体系がテロとの戦いを過度に意識した、ストライカー装甲車やインディペンデンス級沿海域戦闘艦など若干の佳作を除き、従来型重戦力の旧式化と縮小を強いた不均衡な装備が完成した構図でしょう。

テロとの戦いはその全戦費が邦貨換算で500兆円に達するとの試算もあり、最早日本の国内総生産一年分に並ぶ戦費です。この価値観の判断はこの場ではあえて避けますが、結果的にこの大量の戦費が、本来アメリカが導入すべきであった装備体系を根本から見直し、歩兵用個人装備や耐爆車両の費用に転換されていった、影響は重大と云わざるを得ません。

大洋での海上作戦を根本から転換するズムウォルト級駆逐艦量産計画、戦車から装甲戦闘車まで戦術輸送機により搭載可能な軽量装備で揃えるFCS計画、海兵隊両用作戦能力を飛躍的に高速化するEFV計画、100km先を行進間射撃により痛撃し続けるクルセイダー自走榴弾砲計画、ステルスにより敵領域奥深くに浸透攻撃するRAH-66計画、全て中止です。

中国の台頭。これは2001年の時点では中国海軍の戦力一つとっても横須賀基地の米軍艦艇だけで圧倒できる水準でしたが、20年を経て大きく変わりました、アメリカ軍が全ての装備体系をテロとの戦いに優先度を集中した結果、従来型の装備開発が上記の通り置き去りとなり、中国はこうした中で従来型重戦力の強化を経済成長と共に実施、結果現状に至る。

ロシアとの対立も、始まりはイラク戦争と大量破壊兵器問題と共に明確に核開発の意志を示している隣国イランへの警戒から、欧州の同盟国を防衛する為に配備したミサイル防衛システムが米ロ関係の深刻な対立を招き、クリミア併合やウクライナ東部戦争という問題で顕在化しました、そのロシアは軍事技術では先進的であり各種新装備開発を進めている。

アメリカはテロとの戦いを、特にバイデン大統領が中途半端な形、それは有志連合として絶対に捨ててはならない、自由と公正、その旗手としての立場を打ち捨てる様にアフガニスタンから撤退したのは、中国の台頭へ国防資源を集中させる事が目的であると公言しています、しかし現在のアメリカ軍装備はどれも古くなりつつあり、問題は山積しています。

20年間本職を留守に、とは言い過ぎではありますが、上記の通り中止された装備は多すぎ、一方で対テロ戦争用の高度な個人装備は中国との島嶼部戦やロシアとの機甲戦闘ではそれ程役立ちません、非常に高価であった大量のMRAP耐爆車両も同様で、また無人航空機がドローンの語源が標的機であったように、正規軍同士の全面戦争では用途に限界がある。

同時多発テロを契機として開戦となったテロとの戦いは、20年間の米軍重装備近代化停滞という厳しい課題を現代に突き付けており、次期戦闘機や将来ステルス爆撃機の開発、新型ミサイルフリゲイトや地対艦ミサイルといった新装備の開発は進められていますが、将来戦を定型化したような見通しの装備開発は、却って裏目に出ないか、不安は拭えません。

日本もまた、大きく変わりました。アメリカはテロとの戦いに有志連合を組み挑みましたが、我が国も早々と護衛艦くらま以下の艦隊をアラビア海へ派遣し、テロリストのアジア中東間の海上移動を阻止する海上阻止行動へ給油支援を実施しています。今から考えれば驚かれるかもしれませんが、当時は有事法制もなにも未整備の時代、安全保障は超法規時代です。

自衛隊の装備一つとっても大きく転換しました、ただ、日本は対テロ戦争への関与はアラビア海給油支援やイラク復興人道支援任務等に限られ、対テロ装備という部分での強化は限定的でした、しかし、ひゅうが、いせ、いずも、かが、全通飛行甲板型護衛艦整備、ミサイル防衛等、防衛というものへの優先度が高まり、踏み込んだ転換が在ったのは事実だ。

防衛というものへの受け止め方の変容は、装備面を例示しましたが、特に法律面の整備が大幅に進んでおり、従来であれば危機に際し緊急立法措置を行うか超法規措置で対応するという、現実を無視した、これはCOVID-19感染対策を視れば危機に対応する緊急立法措置の難しさが理解できる、そうした施策が行われていたものを土台から転換した構図です。

邦人救出や周辺事態や重要影響事態は勿論本土への武力攻撃事態についてさえ、今でこそ法整備は為されていますが、当時は必要性の議論さえ憲法上の禁忌と解釈されるとともに、戦争というものへの非現実感が否めない世論があり、必要性は理解されつつも原則論と理想論と現実論の折衷案が、結果的に意味の分からない法整備に終始していた、時代だった。

同時多発テロと共に、横須賀基地や佐世保基地の警戒態勢は最高度に高まり、しかし奇遇にも当日佐世保をロシア艦隊が訪問し、泥酔したロシア兵が厳戒態勢の米兵に悪戯試み一触即発となり佐世保地方隊が酔っ払い対応に右往左往するなど、当時の緊張度は度を越したものであり、戦争というもの、現実というもの、これが重なった戦後史の転換点でした。

現実としての戦争、日本では思い起こせば1950年朝鮮戦争では朝鮮半島へ航空攻撃を行う国連軍最前線基地となり、1964年東京五輪の直前に中国と台湾が国共内戦では久々の海戦を戦い、1976年には函館空港にマッハ3を出す世界最速のソ連製戦闘機MiG-25が亡命、1986年のイランイラク戦争では邦人救出、1995年のオウム事件、考える機会はあったが。

同時多発テロはアメリカが有志連合、国際協調を待たず合意形成よりもテロリズムと戦う志を共有する諸国同士で事に臨むという過去の国連軍編成のような手続きを執らず対応したため、テロリズムを淘汰する側かテロリズムを支援する側か、この旗幟を示す必要から前者を日本は選び、日本式の曖昧さに一線を画した事、現実感情勢に影響したのでしょう。

日本の安全保障関連法整備は、先ず一丁目一番地の憲法、平和主義を目的ではなく手段として用い結果の平和ではなく手段の平和を堅持する施策が未だ不変である為に土台が脆弱ですが、同時多発テロ前とは比較にならない程に整備された事は確かです。同時多発テロを契機に安全保障という問題領域が現実味を持つ政治へ要求が増大した事に他なりません。

イギリス、オーストラリア、フランス、2010年代以降の多国間防衛協力も進み、戦後史を考えれば、日本にとり防衛政策と防衛法整備をいずれか転換点に際し現実的措置を執る必要はあった為、訪れた転換点といえる。こうした意味でも、20年前の同時多発テロは、日本の戦後史の転換点となった事は確かです。次はどう転換するのか、見守りたいものです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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同時多発テロ20年、今回は対テロ戦争を今年遂に終えたアメリカの変容と同時多発テロ後の情勢変化が分岐点となった日本の安全保障政策を考えたい。

2021年は同時多発テロから20年を迎えた特別な年であるとともに、アフガニスタンからの米軍撤退により20年間に及ぶテロとの戦いが終戦を迎えたポスト対テロ戦争時代元年でもあります。結果論ですが、ブッシュ大統領、オバマ大統領、トランプ大統領、三人のアメリカ大統領により、アルカイダとISILという二つのテロ勢力はほぼ鎮圧されたといえる。

しかし、影響は実のところ多面的であるといえるのかもしれません。アフガニスタン戦費は邦貨換算すれば20年間で200兆円、ニミッツ級原子力空母に換算すれば500隻分という膨大な数です、そしてアフガニスタンと共に影響は2003年イラク戦争に、考えれば社会主義革命により誕生した独裁国家とイスラム原理主義は元々真逆ですが、開戦に影響します。

イラク戦争、そのものは第3機械化歩兵師団を中心とする緒戦のバクダッド攻略、イラク政府崩壊までは極めて短期間で進められ、軍事技術の進歩に驚かされたものではありますが、その後のイラク治安作戦は長期化し泥沼化、アメリカ政権交代の後に撤退が実現しますが、これが逆に不安定情勢がISILイスラム国武装勢力の台頭を招いたのはご承知の通り。

20年間にも及ぶテロとの戦い、これにより何が変わったのかという影響を列挙しますと簡略に記しても辞典が出来上がりますが、アメリカ軍にかんしては装備体系がテロとの戦いを過度に意識した、ストライカー装甲車やインディペンデンス級沿海域戦闘艦など若干の佳作を除き、従来型重戦力の旧式化と縮小を強いた不均衡な装備が完成した構図でしょう。

テロとの戦いはその全戦費が邦貨換算で500兆円に達するとの試算もあり、最早日本の国内総生産一年分に並ぶ戦費です。この価値観の判断はこの場ではあえて避けますが、結果的にこの大量の戦費が、本来アメリカが導入すべきであった装備体系を根本から見直し、歩兵用個人装備や耐爆車両の費用に転換されていった、影響は重大と云わざるを得ません。

大洋での海上作戦を根本から転換するズムウォルト級駆逐艦量産計画、戦車から装甲戦闘車まで戦術輸送機により搭載可能な軽量装備で揃えるFCS計画、海兵隊両用作戦能力を飛躍的に高速化するEFV計画、100km先を行進間射撃により痛撃し続けるクルセイダー自走榴弾砲計画、ステルスにより敵領域奥深くに浸透攻撃するRAH-66計画、全て中止です。

中国の台頭。これは2001年の時点では中国海軍の戦力一つとっても横須賀基地の米軍艦艇だけで圧倒できる水準でしたが、20年を経て大きく変わりました、アメリカ軍が全ての装備体系をテロとの戦いに優先度を集中した結果、従来型の装備開発が上記の通り置き去りとなり、中国はこうした中で従来型重戦力の強化を経済成長と共に実施、結果現状に至る。

ロシアとの対立も、始まりはイラク戦争と大量破壊兵器問題と共に明確に核開発の意志を示している隣国イランへの警戒から、欧州の同盟国を防衛する為に配備したミサイル防衛システムが米ロ関係の深刻な対立を招き、クリミア併合やウクライナ東部戦争という問題で顕在化しました、そのロシアは軍事技術では先進的であり各種新装備開発を進めている。

アメリカはテロとの戦いを、特にバイデン大統領が中途半端な形、それは有志連合として絶対に捨ててはならない、自由と公正、その旗手としての立場を打ち捨てる様にアフガニスタンから撤退したのは、中国の台頭へ国防資源を集中させる事が目的であると公言しています、しかし現在のアメリカ軍装備はどれも古くなりつつあり、問題は山積しています。

20年間本職を留守に、とは言い過ぎではありますが、上記の通り中止された装備は多すぎ、一方で対テロ戦争用の高度な個人装備は中国との島嶼部戦やロシアとの機甲戦闘ではそれ程役立ちません、非常に高価であった大量のMRAP耐爆車両も同様で、また無人航空機がドローンの語源が標的機であったように、正規軍同士の全面戦争では用途に限界がある。

同時多発テロを契機として開戦となったテロとの戦いは、20年間の米軍重装備近代化停滞という厳しい課題を現代に突き付けており、次期戦闘機や将来ステルス爆撃機の開発、新型ミサイルフリゲイトや地対艦ミサイルといった新装備の開発は進められていますが、将来戦を定型化したような見通しの装備開発は、却って裏目に出ないか、不安は拭えません。

日本もまた、大きく変わりました。アメリカはテロとの戦いに有志連合を組み挑みましたが、我が国も早々と護衛艦くらま以下の艦隊をアラビア海へ派遣し、テロリストのアジア中東間の海上移動を阻止する海上阻止行動へ給油支援を実施しています。今から考えれば驚かれるかもしれませんが、当時は有事法制もなにも未整備の時代、安全保障は超法規時代です。

自衛隊の装備一つとっても大きく転換しました、ただ、日本は対テロ戦争への関与はアラビア海給油支援やイラク復興人道支援任務等に限られ、対テロ装備という部分での強化は限定的でした、しかし、ひゅうが、いせ、いずも、かが、全通飛行甲板型護衛艦整備、ミサイル防衛等、防衛というものへの優先度が高まり、踏み込んだ転換が在ったのは事実だ。

防衛というものへの受け止め方の変容は、装備面を例示しましたが、特に法律面の整備が大幅に進んでおり、従来であれば危機に際し緊急立法措置を行うか超法規措置で対応するという、現実を無視した、これはCOVID-19感染対策を視れば危機に対応する緊急立法措置の難しさが理解できる、そうした施策が行われていたものを土台から転換した構図です。

邦人救出や周辺事態や重要影響事態は勿論本土への武力攻撃事態についてさえ、今でこそ法整備は為されていますが、当時は必要性の議論さえ憲法上の禁忌と解釈されるとともに、戦争というものへの非現実感が否めない世論があり、必要性は理解されつつも原則論と理想論と現実論の折衷案が、結果的に意味の分からない法整備に終始していた、時代だった。

同時多発テロと共に、横須賀基地や佐世保基地の警戒態勢は最高度に高まり、しかし奇遇にも当日佐世保をロシア艦隊が訪問し、泥酔したロシア兵が厳戒態勢の米兵に悪戯試み一触即発となり佐世保地方隊が酔っ払い対応に右往左往するなど、当時の緊張度は度を越したものであり、戦争というもの、現実というもの、これが重なった戦後史の転換点でした。

現実としての戦争、日本では思い起こせば1950年朝鮮戦争では朝鮮半島へ航空攻撃を行う国連軍最前線基地となり、1964年東京五輪の直前に中国と台湾が国共内戦では久々の海戦を戦い、1976年には函館空港にマッハ3を出す世界最速のソ連製戦闘機MiG-25が亡命、1986年のイランイラク戦争では邦人救出、1995年のオウム事件、考える機会はあったが。

同時多発テロはアメリカが有志連合、国際協調を待たず合意形成よりもテロリズムと戦う志を共有する諸国同士で事に臨むという過去の国連軍編成のような手続きを執らず対応したため、テロリズムを淘汰する側かテロリズムを支援する側か、この旗幟を示す必要から前者を日本は選び、日本式の曖昧さに一線を画した事、現実感情勢に影響したのでしょう。

日本の安全保障関連法整備は、先ず一丁目一番地の憲法、平和主義を目的ではなく手段として用い結果の平和ではなく手段の平和を堅持する施策が未だ不変である為に土台が脆弱ですが、同時多発テロ前とは比較にならない程に整備された事は確かです。同時多発テロを契機に安全保障という問題領域が現実味を持つ政治へ要求が増大した事に他なりません。

イギリス、オーストラリア、フランス、2010年代以降の多国間防衛協力も進み、戦後史を考えれば、日本にとり防衛政策と防衛法整備をいずれか転換点に際し現実的措置を執る必要はあった為、訪れた転換点といえる。こうした意味でも、20年前の同時多発テロは、日本の戦後史の転換点となった事は確かです。次はどう転換するのか、見守りたいものです。
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