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【京都幕間旅情】伏見稲荷大社,伊奈利-平安遷都の遥か前は山城国風土記にみる信仰の始まり

2021-09-15 20:00:43 | 写真
■真夜中の伏見稲荷に詣でる
 情勢厳しいCOVID-19コロナまん延続く昨今ではありますが、人と会わない散策は心の清涼として日々を耐えるから愉しむに昇華させる必須と思う。

 伏見稲荷大社、ここは京都市伏見区深草藪之内町にあります壮大社殿で稲荷山を御神体とする式内社の名神大社、そして二十二社は上七社の一社であり旧社格は官幣大社という。現在は単立神社となっていますが、その荘厳で厳粛な風景は静寂の夜に一層引き立ちます。

 東山三十六峰ではその最南端の稲荷山に鎮座する稲荷信仰の御本社、伏見稲荷大社は夜の参拝も広く迎え入れてくれる静寂の聖地です。一万にも上るという鳥居は稲荷山の山頂まで至り、夜の参拝には昼には雑音の如くの視覚情報が一本の道として本殿へ山頂へと至る。

 伏見の大社、今でこそ地名として定着していまして、龍谷大学も程近く、なにしろ京阪線でもJR奈良線でも身近ですので、あの東山の峰々の南端に伏見稲荷大社が在るのだ、と親しみと共に思い浮かべるのですが、実際のところこの地に社殿が造営された歴史は古い。

 千本鳥居が印象深い伏見稲荷大社は、平安遷都よりも遥か前、和銅年間の西暦708年から715年の頃に創建されたとされています。それ程歴史があるのですから、夜の帷の先に参拝へと巡っていましても、それはもう安心、というところでしょうか。歩み進めてゆこう。

 山城国風土記、この日本の古代を示す風土記に伏見稲荷大社に関する記述が出てくるものでして、秦氏族である秦伊侶具がこの当たりの稲作を一手に担う一大勢力を構成した豪族でした。平野部で水利に恵まれており今では酒造の聖地ですが当時は稲作の拠点であった。

 秦伊侶具は或る時、餅を弓矢の的として遊興する事が在ったのですが、山城国風土記によれば大きな餅に矢を放ったところ、矢が命中する直前に餅が白鳥に代わって飛び去ってしまった、という。そしてその白鳥が今の稲荷山の山頂、当時無名の山頂に降り立った、と。

 伊奈利、山頂がこう呼ばれますようになったのは、白鳥が降り立った山頂に稲の穂が実るようになり、しかし秦伊侶具の田畑には逆に稲穂が実らなくなってしまい没落する事となった、後世秦伊侶具の子孫は餅を粗末に扱った事を悔いてその山頂に社を築いた、という。

 稲荷山の由来はもう一つ、秦伊侶具の子孫がこの山頂界隈の木々を引抜いて大切に育てたところ、邸宅に木々が根付けば家は繁栄し、そうでは無い所は没落した、と山城国風土記には記されていまして、説話とともに伏見稲荷大社信仰の始りを、記している構図ですね。

 鳥野辺、この秦伊侶具が餅を射た、つまり本邸の在った場所を山城国風土記の室町時代における研究書河海抄では鳥野辺と記していまして、田畑には逆に稲穂が実らなくなってしまい没落したということは、鳥野辺は室町時代にはあれですので、つまりそういう事です。

 秦大津父。上記の秦伊侶具では説話的な残念な最期となっていますが、しかし秦氏と稲荷山の説話を見ますと、深草から伊勢へ向かう秦氏の秦大津父が猟師に追われていた狼二頭を護ったところ、狼たちに導かれ稲穂の実る山頂を教えられ、繁栄したというものもある。

 狼といいますと、香辛料、ではなく、農耕を食害から守る象徴の一つでもあり、考えてみますと稲荷信仰は御使いが狐様となっていますが、重なるところはありまして、ともあれ稲荷山は豊穣に繋がる地としまして、崇敬されるようになりました点は、共通しています。

 狐は神使の御狐、もっとも昨今は伏見稲荷大社には猫さんが多いようでして、狼に狐ときましたので順番からすればワンコ殿が参拝者を案内して然るべきとも思うのですが、稲荷山の参拝は夜には独特の雰囲気と共に歩み進める事が出来まして、趣き深いものなのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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