北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】熊野若王子神社,京都三熊野最北の神社は権威再興期した後白河法皇の社殿

2021-10-20 20:21:40 | 写真
■哲学の道,散策のその先に
 ゆったりと物事を考え読書の友とするには喫茶店では珈琲を頼むべきか紅茶を嗜むべきか。そう過ごしていると日が沈むのは早い季節となりましたね。

 若王子神社、正しくは熊野若王子神社と称しますこの神社は、哲学の道その南端、京都市左京区若王子町という殆ど山手と云いますか山麓に位置します立地に鎮座しています。ここは参拝に赴くといいますか、何かこう呼び寄せられる、若しくは至ってしまう御縁が。

 哲学の道、琵琶湖疏水に沿った琵琶湖疏水と共に築かれた歩道でして、元々は文学者や作家が好んでこの界隈に住んだ事から文人の道と呼ばれていましたが、第三高等学校こと京都大学開学とともに西田幾多郎や田辺元といった哲学者が散策に訪れ、この名となります。

 京都三熊野、熊野若王子神社という名の通り京都には幾つかの熊野があります、東福寺と泉涌寺近くの新熊野神社は熊野本宮大社、聖護院の熊野神社は熊野速玉大社、熊野若王子神社は熊野那智大社と実は熊野三山に併せた霊地となっていまして、これも歴史はふるい。

 熊野との繋がり。熊野詣として遠い熊野へ門出するにあたりまして、修験者はまず熊野若王子神社で身を浄めたといいます。一方、京都三熊野は特急くろしお号もオーシャンアローさえも無かった中世の時代に遠い熊野へ参詣は簡単でなく、三社を巡り熊野詣に代えた。

 永暦元年こと西暦1160年、当時の後白河法皇が禅林寺の鎮守社として熊野権現を勧請したのがこの若王子神社のはじまりといいまして、その名は天照皇大神の別名であります若王子が由来するという。そして後白河法皇の時代というのは日本の一つの転換点でも、ある。

 後白河天皇と鳥羽天皇に白河天皇の御世、この御三方は特に長寿で在られまして、堀河天皇や崇徳天皇に鳥羽天皇と近衛天皇の御世でもあったのですが、この頃に日本内政は院政による、御所と院の御所による二重権力時代を迎え、期せずして混乱期に入ってゆきます。

 藤原摂関家から距離を置く後三条天皇の即位が治暦4年こと1068年、貴族政治から距離を置くべく後三条天皇は荘園整理令の詔勅を出しましたが、この施策は国の財政再建というよりも律令国家の再来を期した強権的な天皇制再興に他ならず、現実との乖離をうみます。

 白河天皇へと継がれますと勅撰和歌集のような文化への威光は別として、国分寺の再来というべき白河法勝寺など官寺造営や鳥羽殿造営など、権威づけが箱モノ建設で具現化した為に経済混乱は悪化し、そして権限強化へ堀河天皇へ譲位した後に院政を始めるのですね。

 院政は余り好い言葉と考えられない今日ではありますが、朝廷とは別に院の御所を造営する為に、それまで活躍の機会が無かった文人官僚の再登用や中級貴族の実力者を柵なく集める事とはなりました、そして権威的箱モノ建設や院政は当然二重権力の反発を生みます。

 後白河法皇の時代には、この構造と反発の構造がある程度定着しつつありまして、権力闘争は根回し的解決ではなく新興勢力である武士階級による対抗勢力への牽制という選択肢が執られるようなりまして、後に続く武家政治700年の入り口を期せずして構築しました。

 若王子神社の造営はこの一環でありました。そして院の御所を支えた武士階級は当社をこうした歴史的経緯から長らく奉じる事となり、足利尊氏や足利義政による祭事、この波及効果で応仁の乱では荒廃しますが豊臣秀吉により再興されています。まさに分岐点という。

 本殿はもともと本宮、新宮、那智、若宮という四社が並んでいましたが1979年には現在の一社相殿の本殿となりました。従って建物の古さは余り語るものはないのですが、流れ流れて武家社会時代へ至る最初の分岐点に当地があるのだなと考えますと、感慨深いものだ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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