■桓武天皇の軍事と造作
京都には秘密がある、その秘密を紐解きますと日本の在り方というものがおぼろげながらみえてくるのです。
清水寺、ここは音羽山という東山の美しい高台で東山区清水はこの当たりを示す。宝亀9年こと西暦778年、延鎮により開山となりました十一面千手観世音菩薩を奉じる寺院です。京都観光の定番とも言い、かの坂上田村麻呂が帰依した事で壮大伽藍を有するに至ります。
京都は京都であったのか、この素朴な疑問は日本の歴史を見てゆきますと実は偶然が重なって武家政治や天皇制の今日に至る歴史、律令制度や摂関政治さえ必然ではなく、日本特殊論的な経緯を辿っています、そしてこの京都というものも今に至るのは奇跡が在った。
清水寺というのは、昨今歴史を考えるなかで京都が京都たりえた一つの分水嶺にあるようにも思える為でした。そもそも平安遷都、京都が京都たり得るのはこの延暦13年こと西暦794年、時の桓武天皇が和気清麻呂と藤原小黒麻呂の助言を受けての遷都が背景に在ります。
奈良から京都そして東京へ。日本の首都は簡単に言えばこう説明されるのですが、これは簡略化しすぎたものというべきでして、日本の首都は何度も遷都を重ねています、聖武天皇は朝鮮の白村江の戦いに敗北すると一時的に防御の堅い大津京に遷都した程なのだから。
藤原京に平城京と長岡京を経て平安京、桓武天皇の時代にはこれだけ遷都を重ねています、そしてこのころの皇統は揺動期にあるのですね、天武天皇流と天智天皇流の皇統がありましたし、奈良仏教は影響力が増大しており、逃げ回るように何度も遷都を重ねていました。
秦氏が造営したという藤原京は山城の山間部にありまして首都には適していませんでしたが、元々の首都である平城京には仏教勢力が強く政治介入も頻発、そこで藤原京に見切りをつけて延暦3年こと西暦784年に長岡京を造営します、阪急京都線や東海道線沿いの。
長岡京ですが、いまでこそ美しい長岡天神と落ち着いた街並みは広がるのですが、それは治水事業の成功ゆえであり奈良時代の長岡は湿地帯、夏は蒸し暑く奈良仏教といいますか寺院は無かったかもしれませんが人が住める立地も無かったところにまた遷都した訳です。
揺動期の天皇制といますが、上記の通り天武天皇流と天智天皇流の皇統に揺れ動いていましたので、偶然が重なれば断絶や分裂の可能性は充分有りました、そして桓武天皇は聖武天皇や天智天皇の系譜に在りながら、一時崩壊していた律令国家の再建を図るのですが。
大陸型中央集権国家の造営、桓武天皇は渡来系氏族を重用し百済との関係を強化しつつ、百済王を外戚扱いするなど、日本版中華思想という施策を進め、大国を目指します。しかしそれは聖武天皇治世との決別で、中堅国家から新興国家へ不安定な転換期を意味します。
軍事と造作、この二つの施策は桓武天皇の基本施策でもありましたが。軍事とは蝦夷討伐、造作とは首都造営を意味します。律令国家体制という原初の日本中央集権体制は奈良時代の天然痘流行などにより後退期を迎えているのですが、この再興に軍事と造作をかかげた。
中華思想的な施策ともいえるのですが、問題は蝦夷討伐について膨大な軍事費を必要とします、いまほど東北地方は近い所ではなく、紀古佐美を征東大使とした延暦8年こと西暦789年の討伐は惨敗、延暦13年征夷大将軍大伴弟麻呂遠征軍もまたしても惨敗を喫します。
国民負担、繰り返される首都造営も蝦夷討伐も巨大な予算を投じる国家事業ですが、体制強化を目指す施策ではあるものの当時の日本国家財政は安泰ではなく、巨大な負担である事は云うまでもありません、誰かが終止符を打たねば日本はどうなるか分らないほどです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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京都には秘密がある、その秘密を紐解きますと日本の在り方というものがおぼろげながらみえてくるのです。
清水寺、ここは音羽山という東山の美しい高台で東山区清水はこの当たりを示す。宝亀9年こと西暦778年、延鎮により開山となりました十一面千手観世音菩薩を奉じる寺院です。京都観光の定番とも言い、かの坂上田村麻呂が帰依した事で壮大伽藍を有するに至ります。
京都は京都であったのか、この素朴な疑問は日本の歴史を見てゆきますと実は偶然が重なって武家政治や天皇制の今日に至る歴史、律令制度や摂関政治さえ必然ではなく、日本特殊論的な経緯を辿っています、そしてこの京都というものも今に至るのは奇跡が在った。
清水寺というのは、昨今歴史を考えるなかで京都が京都たりえた一つの分水嶺にあるようにも思える為でした。そもそも平安遷都、京都が京都たり得るのはこの延暦13年こと西暦794年、時の桓武天皇が和気清麻呂と藤原小黒麻呂の助言を受けての遷都が背景に在ります。
奈良から京都そして東京へ。日本の首都は簡単に言えばこう説明されるのですが、これは簡略化しすぎたものというべきでして、日本の首都は何度も遷都を重ねています、聖武天皇は朝鮮の白村江の戦いに敗北すると一時的に防御の堅い大津京に遷都した程なのだから。
藤原京に平城京と長岡京を経て平安京、桓武天皇の時代にはこれだけ遷都を重ねています、そしてこのころの皇統は揺動期にあるのですね、天武天皇流と天智天皇流の皇統がありましたし、奈良仏教は影響力が増大しており、逃げ回るように何度も遷都を重ねていました。
秦氏が造営したという藤原京は山城の山間部にありまして首都には適していませんでしたが、元々の首都である平城京には仏教勢力が強く政治介入も頻発、そこで藤原京に見切りをつけて延暦3年こと西暦784年に長岡京を造営します、阪急京都線や東海道線沿いの。
長岡京ですが、いまでこそ美しい長岡天神と落ち着いた街並みは広がるのですが、それは治水事業の成功ゆえであり奈良時代の長岡は湿地帯、夏は蒸し暑く奈良仏教といいますか寺院は無かったかもしれませんが人が住める立地も無かったところにまた遷都した訳です。
揺動期の天皇制といますが、上記の通り天武天皇流と天智天皇流の皇統に揺れ動いていましたので、偶然が重なれば断絶や分裂の可能性は充分有りました、そして桓武天皇は聖武天皇や天智天皇の系譜に在りながら、一時崩壊していた律令国家の再建を図るのですが。
大陸型中央集権国家の造営、桓武天皇は渡来系氏族を重用し百済との関係を強化しつつ、百済王を外戚扱いするなど、日本版中華思想という施策を進め、大国を目指します。しかしそれは聖武天皇治世との決別で、中堅国家から新興国家へ不安定な転換期を意味します。
軍事と造作、この二つの施策は桓武天皇の基本施策でもありましたが。軍事とは蝦夷討伐、造作とは首都造営を意味します。律令国家体制という原初の日本中央集権体制は奈良時代の天然痘流行などにより後退期を迎えているのですが、この再興に軍事と造作をかかげた。
中華思想的な施策ともいえるのですが、問題は蝦夷討伐について膨大な軍事費を必要とします、いまほど東北地方は近い所ではなく、紀古佐美を征東大使とした延暦8年こと西暦789年の討伐は惨敗、延暦13年征夷大将軍大伴弟麻呂遠征軍もまたしても惨敗を喫します。
国民負担、繰り返される首都造営も蝦夷討伐も巨大な予算を投じる国家事業ですが、体制強化を目指す施策ではあるものの当時の日本国家財政は安泰ではなく、巨大な負担である事は云うまでもありません、誰かが終止符を打たねば日本はどうなるか分らないほどです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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