■古都と称される京都
満開の桜を見上げますとこの東寺で観桜を見上げるようになりましたのはいつ頃からなのだろうと思い巡らせます。

東寺といえば五重塔、いや金堂の内部が異世界で素晴らしいのですが、京都駅からも一望できる五重塔は象徴的な建物です。いや、実はこの仏塔の建設、もともとお釈迦様の仏舎利を収めるための堂宇でして、深い意味は無いのですが、日本では多数が現存している。

桜の満開に包まれた風景が素晴らしい、こういうのも新緑と紅葉と、東寺は五重塔の立地が逆光となりますので、桜花に透ける陽光という情景、逆光が順光の様に構図が採れる季節と云うのは限られています、やはり、桜の開花時期というのは気分が高揚するものです。

日本にも東寺と同時代には大官大寺に、今は古寺で小寺となっていますが奈良時代には80m以上の五重塔があったといいますし、朝鮮は新羅の皇龍寺には90m近い九重塔があり、百済の弥勒寺も東寺ほどではないもののかなり高い九重塔があったとされ、考えると凄い。

五重塔、京都の木造建築物としてはもっとも高い高層建築物です。いま京都でもっとも高い建築物は東本願寺の御蝋燭こと京都タワーなのですが、室町時代にあっては107mの七重塔があったという、京都は遙か昔の時代から実は高層建築物の町だったということです。

古都と称される京都ですけれども、京都の輪郭というものは幾度も変容していまして、いうなれば平安遷都の頃の京都という面影は残っていません、しかし、御所を中心に貴族邸宅と官庁街だけの都市が長続きするわけがありません、変化を受け入れたのが京都だ。

寺院が多いという京都ですが、そのそも南都こと平城京から平安遷都となりました背景には南都における宗教勢力の政治介入が増大したからでして、このために官寺である西寺と東寺だけが京都に在りました寺院という。しかし、貴族の氏寺は別となっていました。

氏寺、興味深いのは京都の古刹といいますか歴史在る寺院の多くは始まりが氏寺という流れを伝えるところが多く、しかし氏寺を造営した貴族は大半が現代に歴史を紡いでいません、それは不思議なことに或る時期、時機というべきか、境に変容した寺院が多いのです。

信仰の寄る辺、いまに現存する古刹は氏寺から町衆の寄る辺へと転換を果たしました寺院だけが、栄えているのですね。これも変化なのだと思う。そしてもう一つ、平安遷都のころには禅寺はありません、それ以前の問題としてまだ地球上に禅宗が生まれていません。

京都を古都といわれてしまいますと、しかしその古都というのはどの時点と比較して古都というのか、というちょっとした苛立ちを感じるものでして、斯くあるべし、という一般論の根底は単純な論理の反論で一つ突つくと大いなる矛盾が萌芽し突き崩してしまう。

桓武天皇は軍事と造作と云う施策、首都造営と蝦夷討伐の繰り返しを行っていましたが、これはある意味で中国の影響から日本が小さな中国として地域覇権を確固たるものとしたい願いもあったのかもしれません、しかし、それでは今の日本、無かったのかもしれない。

徳政相論、桓武天皇は晩年に参議藤原緒嗣との間で徳政相論という軍事と造作の終了を決断します、すると日本は新しい国家像を模索することを強いられるのですが、この頃に一人の時代を変える人物が日本に帰国します、空海は桓武天皇崩御の年に大陸から帰国した。

弘法大師空海は嵯峨天皇からこの東寺を下賜されるわけですが、ここから、日本の首都は長安の模倣を脱して独自の国家を形成してゆくのですね。京都駅から見える此処東寺は、日本誕生といえば言い過ぎかもしれませんが、大和から日本への分岐点でもあったのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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満開の桜を見上げますとこの東寺で観桜を見上げるようになりましたのはいつ頃からなのだろうと思い巡らせます。

東寺といえば五重塔、いや金堂の内部が異世界で素晴らしいのですが、京都駅からも一望できる五重塔は象徴的な建物です。いや、実はこの仏塔の建設、もともとお釈迦様の仏舎利を収めるための堂宇でして、深い意味は無いのですが、日本では多数が現存している。

桜の満開に包まれた風景が素晴らしい、こういうのも新緑と紅葉と、東寺は五重塔の立地が逆光となりますので、桜花に透ける陽光という情景、逆光が順光の様に構図が採れる季節と云うのは限られています、やはり、桜の開花時期というのは気分が高揚するものです。

日本にも東寺と同時代には大官大寺に、今は古寺で小寺となっていますが奈良時代には80m以上の五重塔があったといいますし、朝鮮は新羅の皇龍寺には90m近い九重塔があり、百済の弥勒寺も東寺ほどではないもののかなり高い九重塔があったとされ、考えると凄い。

五重塔、京都の木造建築物としてはもっとも高い高層建築物です。いま京都でもっとも高い建築物は東本願寺の御蝋燭こと京都タワーなのですが、室町時代にあっては107mの七重塔があったという、京都は遙か昔の時代から実は高層建築物の町だったということです。

古都と称される京都ですけれども、京都の輪郭というものは幾度も変容していまして、いうなれば平安遷都の頃の京都という面影は残っていません、しかし、御所を中心に貴族邸宅と官庁街だけの都市が長続きするわけがありません、変化を受け入れたのが京都だ。

寺院が多いという京都ですが、そのそも南都こと平城京から平安遷都となりました背景には南都における宗教勢力の政治介入が増大したからでして、このために官寺である西寺と東寺だけが京都に在りました寺院という。しかし、貴族の氏寺は別となっていました。

氏寺、興味深いのは京都の古刹といいますか歴史在る寺院の多くは始まりが氏寺という流れを伝えるところが多く、しかし氏寺を造営した貴族は大半が現代に歴史を紡いでいません、それは不思議なことに或る時期、時機というべきか、境に変容した寺院が多いのです。

信仰の寄る辺、いまに現存する古刹は氏寺から町衆の寄る辺へと転換を果たしました寺院だけが、栄えているのですね。これも変化なのだと思う。そしてもう一つ、平安遷都のころには禅寺はありません、それ以前の問題としてまだ地球上に禅宗が生まれていません。

京都を古都といわれてしまいますと、しかしその古都というのはどの時点と比較して古都というのか、というちょっとした苛立ちを感じるものでして、斯くあるべし、という一般論の根底は単純な論理の反論で一つ突つくと大いなる矛盾が萌芽し突き崩してしまう。

桓武天皇は軍事と造作と云う施策、首都造営と蝦夷討伐の繰り返しを行っていましたが、これはある意味で中国の影響から日本が小さな中国として地域覇権を確固たるものとしたい願いもあったのかもしれません、しかし、それでは今の日本、無かったのかもしれない。

徳政相論、桓武天皇は晩年に参議藤原緒嗣との間で徳政相論という軍事と造作の終了を決断します、すると日本は新しい国家像を模索することを強いられるのですが、この頃に一人の時代を変える人物が日本に帰国します、空海は桓武天皇崩御の年に大陸から帰国した。

弘法大師空海は嵯峨天皇からこの東寺を下賜されるわけですが、ここから、日本の首都は長安の模倣を脱して独自の国家を形成してゆくのですね。京都駅から見える此処東寺は、日本誕生といえば言い過ぎかもしれませんが、大和から日本への分岐点でもあったのです。
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