■平和的生存権とは
子供の日に憲法の日という二日前の話題を繰り返すのも不思議な印象があるのですが、憲法と安全保障という問題は子供の将来にもかかわる問題と云う事で少し考えてみましょう。
憲法の問題、戦争をしたいのですかと反論されてしまうのかもしれませんが、定番の反論の、戦争をしないための軍事力です、といういわばリアリズム的な視点もありますし、なによりもう一つ付け加えたいのは戦争を回避するための自衛隊による戦闘でも後方支援でもない選択肢というものから、現行憲法が制約してしまうという現実があるということ。
戦争回避の選択肢までは憲法が制限する状況はどうなのだろう、これが一つの視点です。そして戦争回避といいますと、従来は侵略が起きそうな祭に動員令をかけ戦車部隊を国境に集める、というような見た目にわかりやすい選択肢というものが考えられたのですが、脅威が国境で顕在化するまで放置するというのも、間違っているのではと考えるのですね。
戦争を起こしにくい雰囲気を集会などで誇示するという選択肢もとることは自由なのですが、日本は90年近く前に戦争を事変といい、ロシアはいま戦争を特別軍事作戦と言い換えています、戦争は反対だが特別軍事作戦は仕方ない、こうした考えではそもそも憲法の精神とは合致しないようにも思うのですね。憲法の精神とはどういうものかもかんがえたい。
戦争を遠ざける、理念として憲法が掲げる平和的生存権に一番ちかい理念はこちらではないかと思い、少なくとも憲法に明示された平和主義は結果としての平和を享受するものであり、戦争を国家がしないためには国民は財産が爆撃されても人命が虐殺されても、平和が大事だから受け入れよう、という認識ではないように解釈するのです。つまるところは。
遠ざける、こう認識するのは周辺事態まで我慢するという消極的なものではなく、世界政治における選択肢として戦争を選択肢に含める国への圧力を加えることで、周辺事態そのものが成立しにくい世界政治を醸成するという選択肢が理想であるとし、そのためには集団安全保障機構や枠組みが寄与する分野があると考えます。しかしながらここに制約が。
憲法について再認識すべきと考える背景には、現行憲法に依拠した自衛隊法では、こうした枠組みにも参加することは集団的自衛権公使への制約という部分で難しく、日本の安全保障政策への選択肢を非常に狭めている現実があるためです。解釈次第という反論があるかもしれませんが、現在の自衛隊法が既に解釈の上限となっていないか、ということです。
自衛隊の協力として戦争に参戦背っず軍事力による恫喝というような構造以外の選択肢といいますと、例えば航空自衛隊のE-767早期警戒管制機、E-2C早期警戒機、海上自衛隊のEP-3電子情報収集機、OP-3画像情報収集機、いずれも虎の子で一騎当千の情報収集機ですが、こうした装備による戦闘地域域外での情報収集が挙げられるでしょう。意味はある。
情報、現代特に2020年代はレーダー情報や通信傍受による情報収集と情報解析は軍事行動を左右するほどの重要性を持ちます、その重要度は2003年のイラク戦争と比べても、2022年のウクライナ戦争において参戦しない諸国による情報収集と情報分析は死活的重要性を有するに至りました、そしてそれは参戦国以外により行われていた場合でも効果的です。
軍事行動によるリスクが耐え難いもの、軍事的損害と経済的損害と金融的損失から文化的損害まで含めて、これが分水嶺をこえますと軍事行動という選択肢はとることが事実上できなくなるのでしょう、そして、この分野において、たとえば参戦しないまでも早期警戒機や電子情報収集機などで域外から警戒監視を行う事には、強烈な圧力となるのですね。
情報くらいはとられても相手は別に、こう思われるかもしれませんが、完全に中立ではなく、少なくとも侵攻した側を支持しないという姿勢での情報収集は、たとえば早期警戒機ならば航空作戦における死活的に重要な航空情報を、電子情報収集機ならば指揮所位置や部隊展開状況などを標定することができ、この情報提供は大きな意味を持ちます。更に。
日本はまだ保有していませんが、E-8地上監視機であれば400km以遠の地上部隊展開情報を識別可能です。こうした航空機などを展開させ、侵略を行う側に対して、手の内は見えているという姿勢を誇示し、また侵略を受ける側にたいして情報提供を行う可能性の示唆だけでも、侵略という選択肢をとりにくいものとさせることができる効果が、ある。
異次元からの防衛協力、このように現在ウクライナ周辺で行われているNATOなど各国の情報収集機による協力を表現しているのですが、これは実際に効果があります、参戦国とは次元の違う異次元に飛行している航空機は、攻撃できません、攻撃すると相手に自衛権を発動させる口実を与えてしまいますからね。そしてその情報が持ちます意義は大きい。
しかし、情報共有や、その際における不測の事態への対処を考えますと、憲法上の集団的自衛権公使への制約があっては、必要な法改正も行えません。また、自衛隊は違憲ではない、と主張する団体や政党であっても、自衛隊法は違憲だという主張があります、するとできることとできないことのうち、必要なことが後者に含まれてしまう現状が問題と思う。
視点を変えますともう一つ、日本から憲法をみるだけではなく世界が日本をどのようにみるのか、ということです。なぜ戦争反対なのか、ととわれて憲法で禁止されていると答えますと、ならば憲法改正されればみんなが戦争賛成になって戦争に走ってゆくのか、と解釈されかねません。考えるに憲法を理由に思考を停止するべきではないと信じるのです。
戦争は市民が犠牲になるから反対だ、こう返しますとそれではなぜ戦争の拡大を防止する取り組みに日本は参加しないのか、という問いで戻ってきます、だって憲法があるから、こう帰結することが思考停止と呼ぶのです。戦争がだめであるならば戦争を回避する選択肢を憲法が阻害する現状は、どうなのだろう、考えるべきだ、こう思ってしまうのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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子供の日に憲法の日という二日前の話題を繰り返すのも不思議な印象があるのですが、憲法と安全保障という問題は子供の将来にもかかわる問題と云う事で少し考えてみましょう。
憲法の問題、戦争をしたいのですかと反論されてしまうのかもしれませんが、定番の反論の、戦争をしないための軍事力です、といういわばリアリズム的な視点もありますし、なによりもう一つ付け加えたいのは戦争を回避するための自衛隊による戦闘でも後方支援でもない選択肢というものから、現行憲法が制約してしまうという現実があるということ。
戦争回避の選択肢までは憲法が制限する状況はどうなのだろう、これが一つの視点です。そして戦争回避といいますと、従来は侵略が起きそうな祭に動員令をかけ戦車部隊を国境に集める、というような見た目にわかりやすい選択肢というものが考えられたのですが、脅威が国境で顕在化するまで放置するというのも、間違っているのではと考えるのですね。
戦争を起こしにくい雰囲気を集会などで誇示するという選択肢もとることは自由なのですが、日本は90年近く前に戦争を事変といい、ロシアはいま戦争を特別軍事作戦と言い換えています、戦争は反対だが特別軍事作戦は仕方ない、こうした考えではそもそも憲法の精神とは合致しないようにも思うのですね。憲法の精神とはどういうものかもかんがえたい。
戦争を遠ざける、理念として憲法が掲げる平和的生存権に一番ちかい理念はこちらではないかと思い、少なくとも憲法に明示された平和主義は結果としての平和を享受するものであり、戦争を国家がしないためには国民は財産が爆撃されても人命が虐殺されても、平和が大事だから受け入れよう、という認識ではないように解釈するのです。つまるところは。
遠ざける、こう認識するのは周辺事態まで我慢するという消極的なものではなく、世界政治における選択肢として戦争を選択肢に含める国への圧力を加えることで、周辺事態そのものが成立しにくい世界政治を醸成するという選択肢が理想であるとし、そのためには集団安全保障機構や枠組みが寄与する分野があると考えます。しかしながらここに制約が。
憲法について再認識すべきと考える背景には、現行憲法に依拠した自衛隊法では、こうした枠組みにも参加することは集団的自衛権公使への制約という部分で難しく、日本の安全保障政策への選択肢を非常に狭めている現実があるためです。解釈次第という反論があるかもしれませんが、現在の自衛隊法が既に解釈の上限となっていないか、ということです。
自衛隊の協力として戦争に参戦背っず軍事力による恫喝というような構造以外の選択肢といいますと、例えば航空自衛隊のE-767早期警戒管制機、E-2C早期警戒機、海上自衛隊のEP-3電子情報収集機、OP-3画像情報収集機、いずれも虎の子で一騎当千の情報収集機ですが、こうした装備による戦闘地域域外での情報収集が挙げられるでしょう。意味はある。
情報、現代特に2020年代はレーダー情報や通信傍受による情報収集と情報解析は軍事行動を左右するほどの重要性を持ちます、その重要度は2003年のイラク戦争と比べても、2022年のウクライナ戦争において参戦しない諸国による情報収集と情報分析は死活的重要性を有するに至りました、そしてそれは参戦国以外により行われていた場合でも効果的です。
軍事行動によるリスクが耐え難いもの、軍事的損害と経済的損害と金融的損失から文化的損害まで含めて、これが分水嶺をこえますと軍事行動という選択肢はとることが事実上できなくなるのでしょう、そして、この分野において、たとえば参戦しないまでも早期警戒機や電子情報収集機などで域外から警戒監視を行う事には、強烈な圧力となるのですね。
情報くらいはとられても相手は別に、こう思われるかもしれませんが、完全に中立ではなく、少なくとも侵攻した側を支持しないという姿勢での情報収集は、たとえば早期警戒機ならば航空作戦における死活的に重要な航空情報を、電子情報収集機ならば指揮所位置や部隊展開状況などを標定することができ、この情報提供は大きな意味を持ちます。更に。
日本はまだ保有していませんが、E-8地上監視機であれば400km以遠の地上部隊展開情報を識別可能です。こうした航空機などを展開させ、侵略を行う側に対して、手の内は見えているという姿勢を誇示し、また侵略を受ける側にたいして情報提供を行う可能性の示唆だけでも、侵略という選択肢をとりにくいものとさせることができる効果が、ある。
異次元からの防衛協力、このように現在ウクライナ周辺で行われているNATOなど各国の情報収集機による協力を表現しているのですが、これは実際に効果があります、参戦国とは次元の違う異次元に飛行している航空機は、攻撃できません、攻撃すると相手に自衛権を発動させる口実を与えてしまいますからね。そしてその情報が持ちます意義は大きい。
しかし、情報共有や、その際における不測の事態への対処を考えますと、憲法上の集団的自衛権公使への制約があっては、必要な法改正も行えません。また、自衛隊は違憲ではない、と主張する団体や政党であっても、自衛隊法は違憲だという主張があります、するとできることとできないことのうち、必要なことが後者に含まれてしまう現状が問題と思う。
視点を変えますともう一つ、日本から憲法をみるだけではなく世界が日本をどのようにみるのか、ということです。なぜ戦争反対なのか、ととわれて憲法で禁止されていると答えますと、ならば憲法改正されればみんなが戦争賛成になって戦争に走ってゆくのか、と解釈されかねません。考えるに憲法を理由に思考を停止するべきではないと信じるのです。
戦争は市民が犠牲になるから反対だ、こう返しますとそれではなぜ戦争の拡大を防止する取り組みに日本は参加しないのか、という問いで戻ってきます、だって憲法があるから、こう帰結することが思考停止と呼ぶのです。戦争がだめであるならば戦争を回避する選択肢を憲法が阻害する現状は、どうなのだろう、考えるべきだ、こう思ってしまうのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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