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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】上賀茂神社(賀茂別雷神社) 賀茂祭の行列と奉幣使の巡幸-結局祭りが好きな文化

2022-05-18 20:20:39 | 写真
■平安遷都が葵祭をはぐくむ
 葵祭再開と続いて5月18日が御霊祭の巡幸という京都に祭事が戻ってきました今日この頃ですよ。

 上賀茂神社、日本の中世は平安遷都成った頃に確立していますので奈良時代は古代日本と云う時代に当る訳です。そして上賀茂神社の祭事であります葵祭は、賀茂祭という名ではあったのですが奈良時代初期にはかたちはちがうものの、既に確立していたようです。

 賀茂祭、いまでは歴史行列が京都御所を出発し上賀茂神社までの歴史行列が続く祭事となっています、ただ、歴史行列は古代の時代には当然今とは違う装いとなっていて、奈良時代初期にはいまの歴史行列の装いこそ近未来的なものとなりますので当然ではあるけれど。

 斎王を送る行列、いまの葵祭はその歴史行列を再現しているものなのですが、もともと葵祭という祭事が在ったものではなく、斎王を送る行列がこの経路で巡行していましたのをそのまま行列の無い年にも技術継承の観点から定例化したものが祭事となったのが正しい。

 奈良時代は古代日本、それではこの頃の賀茂祭はどのようなものかといいますと、流鏑馬など騎馬行列が武勇を誇示するという、武士階級が成立する前にも演武を奉納する貴族の神事というものであたようで、この時期には祭事以外の騎射が禁止されたともいわれます。

 第3師団祭が例年葵祭と同時期に行われますが、いまでは千僧駐屯地にて行われる自衛隊のパレード、しかしもし北大路通などを74式戦車が、第3戦車大隊は今年で廃止なのですけれど、軽装甲機動車やFH-70榴弾砲などが市中パレードを行う、感覚的にこれに近い。

 賀茂祭の行列というものは、当時の町民には文字通り文化の違う貴人たちの歴史行列ですし、いや貴人さえもここまで多く美しい和装や勇壮な騎馬行列を毎日見られるわけではありませんので見物していた、まるで福知山駐屯地の市街パレードと同じ構図がありました。

 奉幣使の巡幸、京都の祭事は平安遷都とともに御所が京都に遷りますと、天皇の使いが神社などに赴く奉幣使の巡幸が、神社の祭事ではあるのですが物珍しいものとしまして見物されたという、暦とともに行われますのでこうした行列の見物はある意味恒例化してゆく。

 葵祭では京都御所に有料席が設置されるのですけれど、賀茂祭の行列でも沿道には多くの見物人が集いまして、面白いのは当時を記録した絵巻物の等を見ますと町人は勿論、不自然な牛車の渋滞も描かれ、貴人も町人に混じり牛車を仕立て車内からこう眺めていました。

 桟敷席の設置も平安朝後期の頃から行われていたようで、考えてみますと祭事は当時からも重要な娯楽として定着していた事が分ります。斎王を送る行列は、天皇の戦勝祈願成就という歴史的由来がありますが、平安遷都とともに平安京は別の祭事も醸成してゆきます。

 平安遷都は平城京や藤原京に長岡京と転々とした遷都事業の完了を意味するものですが、京都という動かぬ首府の造営は必然的に多くの人々の営みをひきつけ、これは人口が増大する事となります。すると当時の衛生環境では疾病退散も重要な祭礼となってゆきました。

 葵祭の歴史行列ですが、これとともに奉幣使の巡幸という行列は、のちに疾病退散を願う御霊信仰と重なり、北野社や今宮社と祇園社に稲荷社の御霊会による祭事を原型として象る事となり、いうなれば今日本全国の祭りの原型が、葵祭と重なるとさえ、は言い過ぎか。

 祭りといえば葵祭をしめした、平安時代の宮中行列として長らく町人に愛された祭事となっています。娯楽といいますか、当時もいろいろ娯楽はあったのですけれど宮中行事とは、日常では異世界と云うべき文化圏の行事が公開される、当時から娯楽は今と通じているのが、面白いですよね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】上賀茂神社(賀茂別雷神社) 山城国風土記-皇后媛蹈鞴五十鈴媛命実母玉依日子と玉依日売の神話

2022-05-18 20:00:48 | 写真
■京都最古の社殿その歴史
 春迎えた桜の季節のその終りに撮影しました社殿の様子ですので桜花も爛漫過ぎ散り際のある種は妖艶な彩り醸す情景です。

 賀茂別雷神社、ここ上賀茂神社は京都最古、天武天皇6年こと西暦677年創建とされる神社ですが、謂れを紐解きますと、山城国風土記にも遡ります。ただ、この一帯には賀茂氏という山城国葛野郡と愛宕郡を治めた豪族の氏神神社でもあるのですが、歴史に残るのは7世紀から。

 山城国風土記では、祭神として祀られています賀茂建角身命はここから北、丹波国神野の伝承に遡りまして、鴨建角身命の子、玉依日子と玉依日売の話から始まります。ある日に玉依日売が当地に在ります石河瀬見小川を散策していますと、ふと珍しいものを拾います。

 神山、こうやまの当たりの小川が舞台となっていまして此処は神社の神域となっており、柊野にあります標高301.5mの山です、元々地名は、かもやま、とまあ賀茂を冠していました。神社を代表する風景に立砂がありますが、並ぶ二つの立砂は神山を模したものという。

 丹塗矢、いまでいう破魔矢のようなものが上流から流れてきたというのですね。玉依日売は思わず拾いますと持ち帰り、飾っておきましたらばなんと妹の玉依日売が妊娠して子を生んでしまったという。変なものを拾ってはならないという説話の様にも思えるのですが。

 玉依日売を妊娠させた丹塗矢というものは、火雷大神、ほのいかづちのおおかみの化身であったといいまして、ギリシャ神話でもゼウスさんが良くやる手だったのですね。懐妊を知った際に丹塗矢が光りながら天に還って行ったことで神の化身であると知ったという。

 鴨建角身命というのは伝承では八咫烏の化身でもあるといいまして、神武天皇を当地に、といっても天孫降臨の地は高千穂、今の宮崎県ですので若干新幹線と九州横断特急の無い時代には無理がある距離ですが、神武天皇を日本に導いた伝説の鳥さんでもあるのですね。

 賀茂建角身命とは鴨建角身命の別名ですので、まあ流れとしては子供になるといえますので賀茂別雷命と名付けられ、賀茂氏一族がこの出来事を奉斎した事が、神社の始まり。なお、賀茂建角身命が祀られていますのが下鴨神社で、ここから歩いて葵祭半分の距離です。

 玉依日売は玉櫛媛ともいい、この名は初代皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命の実母という神話上の伝承となっています。山城国風土記という伝承ですので、神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛命の伝説は全国津々浦々にありますが、当地上賀茂神社が平安京遷都のあと、意味を持ちます。

 媛蹈鞴五十鈴媛命と繋がる神話上の人物、その生誕に所縁ある神域ということで、上賀茂神社は平安遷都ののちに、皇城守護という位置づけを持つと、更に大きな意味を持つようになります、それは平安時代初期かた鎌倉時代初期まで斎院が設置されたからなのですね。

 伊勢神宮の斎宮、未婚の皇女を占いにより選び神に奉仕させる制度はもともと朝廷の戦勝祈願に際し時の帝が、戦勝成れば皇女を差し出すという少々無理な祈願が通った為の制度なのですが、潔斉という宮中を出て斎院にて禊を済ませた後に伊勢神宮へ赴いていたもの。

 斎宮を上賀茂神社へ置いた事で、皇城守護の意味を持つ上賀茂神社はそのままその祈祷所に直結する、伊勢神宮への入り口といえる社殿となった歴史があります。そしてその群行という斎王を送る行列がそのまま葵祭を形成してゆくという、まさに国家行事なのでした。

 斎王、鎌倉初期には制度としてなくなりますのは、皇城鎮護は正に征夷大将軍の責務となるわけでして、勿論祈るだけで平和が勝ち取れるという考えは恰も現行憲法九条のようですけれど、こうした考え方の根底を、この社殿からもなにか感じられるようで、興味深い。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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アゾフスターリ製鉄所死守命令解除をウクライナ国防省が命令-ハリコフ防衛戦の成功を受け,マリウポリ失陥

2022-05-18 07:02:24 | 国際・政治
■臨時情報-ウクライナ情勢
 死守命令というものは日本で昔の様に再び発令された際にウクライナのような合理的な判断ができるのでしょうか、軍事教科書に載るであろう戦訓です。

 ウクライナ国防省は南東部の要衝マリウポリ市内最後の抵抗拠点であるアゾフスターリ製鉄所守備に当っていたアゾフ連隊、海軍歩兵第36旅団に対し戦闘終了を下達しました、これは事実上の“死守命令の解除”となっています。ただ、守備部隊は目下ロシア軍に包囲されているかたちであり、事実上の武装解除と降伏で、マリウポリは遂に失陥しました。

 死守命令、死をも辞さずに期限を定めず防衛せよ、こうした事実上の命令となっていましたが、死守命令とは死ねという単純な命令ではありません、同時に発表されている限りでは、命令にいつまで持久との明示も無く、マリウポリのアゾフスターリ製鉄所を死守する事でウクライナ全体が得られる重要な時機を達成したことが、今回の終了命令といえます。

 アゾフ連隊の死守命令は大きな意味がありました、それはハリコフ防衛を間接的に支援した事です。どういうことか、アゾフスターリ製鉄所を包囲するロシア軍を一定数拘束した事です、ロシア軍のBTG大隊戦術群は歩兵中隊が2個であり、広大な製鉄所を包囲するには複数のBTGを専従させる必要があり、結果としてこのBTGは動く事が出来ません。

 アゾフスターリ製鉄所に複数のBTGを拘束することにより、ハリコフ正面やドンバス方面へロシア軍の兵力集中を阻止する事が出来ました、そのうえで、ハリコフ正面のロシア軍が大規模後退に転じた事でハリコフ防衛という任務は達成された事となり、遂にアゾフスターリ製鉄所死守命令が解除されたという事になるのでしょう、命がけの任務完遂という。

 マリウポリ失陥は、しかしアゾフスターリ製鉄所の死守命令解除により確実となりました。これによりウクライナは黒海沿岸のアゾフ海から黒海への要衝を喪失した事となります。ただ、アゾフスターリ製鉄所の死守が予想以上に長期化させたことでマリウポリ以西の黒海沿岸港湾都市オデッサへのロシア軍侵攻は当面不可能となったことは大きな意味が。

 アゾフスターリ製鉄所については、ソ連時代に建設された地下施設が迷路のように入り組み、しかし地下施設である為にロシア軍が通風孔等の施設に対し化学兵器を使用する可能性がありました、15日にはサーモバリック弾頭のような兵器も投入されたようですが、このウクライナ侵攻に際して初となるNBC兵器使用が危惧されていましたが、回避できた。

 死守命令解除は、同時にウクライナ軍が軍事合理性にも続き判断している現れともいえます、ハリコフ防衛が達成できた中での死守命令維持には意味がありません、その軍事合理性を優先し、例えば面子のような玉砕命令という愚行を冒さず判断出来た事です。付け加えれば、マリウポリ市街も体制が整えばウクライナ軍は奪還可能ということも追記します。

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