北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】浜松城(静岡浜松)情景を振り返りつつ思うデジタル化の先にEOS-R7発表とミラーレスの波

2022-05-25 20:22:30 | 旅行記
■カメラでも思い出の浜松
 2005年の富士総合火力演習まではカメラにフィルムをひとつひとつ装填していたものでその頃東海道線は未だ113系電車が現役でした。

 浜松城の写真を眺めつつ、この城郭は東海道の要衝浜松に位置していまして、浜松基地航空祭や富士学校祭に駒門駐屯地祭、清水みなと祭護衛艦一般公開等の際に道中、浜松で少し散策する事もありました、この数年はCOVID-19によりほぼない自衛隊行事の際です。

 千僧駐屯地祭や久居駐屯地祭、久々に自衛隊関連行事を撮影へ行脚する様になりますと、要するに2020年1月の空挺団降下訓練始め以来の自衛隊行事となるのですが、じわりじわりとミラーレス一眼が傍流から主流の位置へと転換している様子を現場で実感しました。

 E-767早期警戒管制機などが大空を舞う浜松基地航空祭、EOS-Rという最初のミラーレス一眼のフルサイズ機が発表された直後に、航空祭でEOS-Rを使用した方と実際に使った感想を、そう浜松基地はここ浜松城から北へ3kmほどの距離なのですが聞いてみた事が。

 EOS-R,バッテリーが全然ダメだった、とは使った印象として聞かされまして、バッテリーパックを10個用意したが全然不充分でバックアップに持ってきた一眼レフが大活躍、と肩を竦めていまして、これが強烈な印象となったのですね、ミラーレスは使えない、という。

 EOS-90Dなどはフラッシュさえ焚かなければ一万枚撮影できるといいますが、問題はそんなことではなく、航空祭ではカメラは望遠鏡の代わりに何処に航空機が飛行しているのかを探し続けるのですね、これが一眼レフならば電源がOFFでもMFで探す事が可能です。

 航空祭は丸一日続くのですが、ミラーレス機ですとファインダーを表示させるにも電源が必要、一枚も撮らないが電源は常に入った状態、というものが続くものでして、喩えバッテリー完全充電で二百枚撮影可能といわれましても、それ以外で電池を消耗するわけで。

 カメラが無ければこうした城郭の写真も撮影出来ないのですけれども、そんななかであの浜松基地航空祭の厳しい評価からも五年以上が経ました、そんな中でつい先日、CANONがAPS-Cのミラーレス一眼新シリーズを発表しました、EOS-Mと別の新系統が誕生する。

 EOS-R7,いまも個人的に主力機種であるEOS-7DとEOS-7Dmark2にEOS-KissX7と同じ系譜の“7”を冠した新型機種なのですが、これがAPS-C区分のミラーレス一眼カメラになるという、CANONでは公式発表されたばかりで2022年6月下旬発売予定と発表だ。

 EOS-7Dシリーズと同じE-6バッテリーを採用していますので、更に明らかにEOS-7Dユーザーを意識しマウントアダプターによりEFレンズを使用可能という、もちろんEOS-Mシリーズもマウントアダプターはありましたが、ちょっとAF照合性能が難ありといえた。

 ミラーレス機の泣き所であるバッテリー持続性は省電力時で500から770枚という。CFカード方式ではなくSDカード専用というのは主力ではなく支援機種と考えてしまうのですが、街中お散歩カメラとして使うならばEOS-M3の後継機種あたりにちょっと考えたい。

 一眼レフに拘っている当方、考えれば二十年前はフィルム式カメラに拘っていました、便利ならば移行するのは吝かではないのですが、しかし凄い波の様に変革が訪れるのですね、他方、世の中はカメラブームが終わり写真はスマートフォンが主流となりつつあるもよう。

 カメラ、使いやすいものが一番だともうのですが、今の機種はカメラが撮影出来ない領域で撮影技術が生かせる冗長性が低くなっている、撮影出来ない被写体は無いと考えさせられる器材が、どうも新機種ならば良いやと性能より妥協が在りそうで、寂しいものですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都発幕間旅情】浜松城(静岡浜松)徳川家康の愛した城郭は関ヶ原に繋がる出世城の由縁

2022-05-25 20:00:49 | 旅行記
■徳川家康十七年間の居城
 浜松城、ここは新幹線と東海道本線拠点駅浜松駅から航空自衛隊浜松基地へ向かう道中に見上げる勇壮な城郭です。

 浜松城。濱松城とも慕われる城址は浜松市中区に所在する美しい城郭であり、望楼型三重四階鉄筋コンクリート造模擬天守閣を冠する故に過去の天守閣は破却されいまは現存しませんが、梯郭式平山城構造の城郭であり、徳川家康の出世城として知られる城郭です。

 曳馬城や出世城としての名を有するお城、造営は今川貞相とされ、詳しい歴史には諸説があるようですが概ね永正年間の西暦1504年頃から1520年頃に掛けて造営されたものと考えられています、曳馬城という名はこの初期の浜松城の名と云いまして位置も少し東に。

 今川義元が桶狭間の戦いにて織田信長に敗れ戦死した後、今川家の系譜は落日の時を迎え揺らいだ団結により今川家家人城主飯尾連竜に謀反の疑いありとして今川氏真に包囲されましたが、この際に防衛を維持できました。しかしこの揺らぎが今川家の生命を絶つ事に。

 徳川家康、浜松城という名は元亀元年の1570年に徳川家康が曳馬城に入城した際に改めたもので、浜松城へと改称したものです。もともと曳馬とは現在の浜松基地東方を示し、この一帯は古くから濱津郷即ち浜津郷と呼ばれ平安後期には濱松荘という荘園も造営された。

 天龍川支流に程近いこの地は防衛上の要衝であり、築城の要はあったのです。徳川家康はこの視点から浜松城を拡張しており、土塁の拡張を主として縄張りを広げています。ただ、石垣が荒々しい現在の城郭と違い、家康は石垣や瓦屋根構造物は設けなかったともいう。

 三方ヶ原の戦い。元亀時代の1573年には徳川家康は甲斐の覇者武田信玄の侵攻を受けます、一時籠城により家康は信玄との全面衝突を避けようとしますが、このままでは徳川の権威を維持できないとして攻勢に転じ、しかしこれを予見し待ち構えていた武田氏に大敗する。

 関ヶ原の戦いで家康は防御堅固な大垣城と西軍主力陣取る南宮山前を素通りし、焦った石田三成に決戦を強要し、戦機を手中に収める事が出来ましたが、考えればその着想の下が家康自身が素通りに耐えかねて戦機を見誤った三方ヶ原、浜松での経験があるのでしょう。

 天正年間1582年に浜松城の拡張は完了しますが、同年に盟友織田信長が本能寺で討たれ、時代は大逆人明智光秀を討った豊臣秀吉の時代となります。そしてその頃のその頃の1586年に徳川本営は駿府に本拠を遷し、在城期間17年間の内目一杯を拡張に費やしたことに。

 太閤秀吉の治世下では徳川家康は駿府はじめ徳川家所縁の東海道から当時最果ての江戸に移封する事となり、秀吉家臣堀尾吉晴の居城となります。しかし、実に17年の城主を務めた浜松城へ思い入れが在ったのか、関ヶ原の戦いの後は早速奪還、徳川頼宣を入城させた。

 出世城と親しまれたのは、歴代城主は尼崎の桜井松平家松平忠頼に高力忠房と大給松平家松平乗寿に太田資宗と青山宗俊、本庄松平家松平資俊と大河内松平家松平信祝に井上正経と水野忠邦と井上正春と、入城した大名が次々と出世階段を駆け上った為といわれます。

 幕府重役に取立てられる出世城の城主たち、しかし浜松城の城主はその分、次々と変わる事を意味しまして、江戸時代は265年間、この間に藩主は22回代わり、平均して12年間を経ずして代わる事となっています。楽器にバイク、浜松の新しいもの好き根底はここか。

 天守閣は1959年に再建されました。実は浜松空襲により延べ560機のB-29が四回に分け空襲し、終戦二週間前には戦艦サウスダコタ、マサチューセッツ 、インディアナ 、キング-ジョージ5世による艦砲射撃も受け城郭は勿論全市が灰燼に帰しますが、戦後市街地とともに復興しました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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ウクライナ戦争開戦三カ月-必死の抵抗実りロシア軍侵攻防ぎ続ける自由と民主主義の防波堤

2022-05-25 07:00:53 | 国際・政治

■臨時情報-ウクライナ情勢

 ウクライナ戦争は開戦から三カ月を迎えましたがこの三カ月間は驚きと現実の衝撃が続いていました。

 ウクライナ戦争はロシア軍ウクライナ侵攻から三カ月目を迎える事となりました、しかし、当初48時間で首都キエフが占領されるとの見通しはウクライナ軍の驚異的とさえいえる粘り強さの前に大きく外れ、21世紀の奇跡といえる、キエフ北方でのロシア軍撃退に成功しました。ロシア軍は延々とキエフ北方に65kmもの渋滞を連ねる醜態をさらしました。

 キエフ防衛成功は、キエフ市街戦という最悪の事態が回避されたものの、しかしキエフ北方近郊都市ではロシア軍による痛ましい虐殺行為が確認され、世界を驚愕させました。一方ロシア軍は、ハリコフなど東部地域攻略に重点を置くべく一旦後退し戦力を再編成しました、遂に今度はハリコフで市街戦が起こるのではないか、こうした覚悟を迫られました。

 ドニエプル川を境界線に東ウクライナと西ウクライナへ分割されるのではないかとの危惧もありましたが、ロシア軍は何を再編成したのかという程に東部再侵攻は頓挫、この背景には南部マリウポリのウクライナ軍守備隊が最後まで抵抗し大量のロシア軍を拘束、ハリコフ侵攻兵力を削いだことでロシア軍の東部再攻撃を破砕したという驚きがつづきます。

 ここまで勇敢且つ必死に抵抗する国を初めて見た、ウクライナ軍の抵抗は当初限られた米英製携帯火器と掻き集めた装備を元に市民の多くが火炎瓶で戦車軍団に対応する悲壮さがありましたが、ウクライナのゼレンスキー大統領は最後まで首都キエフを動かず、100km先の国境に砲声を聞きつつ、日欧米、世界へ支援を訴え続け、これは山を動かしたもよう。

 ウクライナは世界の防波堤となった、正直なところ当初の想定通りに48時間でウクライナが崩壊していれば、48日後にはジョージアやモルドバへロシア軍が侵攻していた、48週間後にはバルト三国のスヴァルキギャップを超えて飛び地カリーニングラードとの回廊確保に、これが最後だから、これは正当な権利だ、その名と共に拡大していた可能性はあった。

 東西ドイツ国境をロシア軍が超える可能性は少ないですが48カ月後には懐かしい核戦争前夜の緊張が延々と続く冷戦時代の緊張に戻っていた危惧は、いまや非現実とは言い切れないものがあります。ロシア軍の戦車が撃破される度に人命は失われているのですが、その戦車も市街地へ無差別砲撃を行っている、その後世界に向くだろう戦車を撃破できているのが、三カ月目の現在です。

 

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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