北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】二条城,耐震補強成った御殿と天正地震にみる無防備都市京都

2024-09-18 20:23:38 | 写真
■無防備都市京都
 イタリア映画や西部警察第一話のような表題とともに歴史地震というものの視座からこの京都を考えてみたい。

 二条城は耐震強化工事を進めましたが、例えば熊本地震を受け文化財の破損という懸念を直視した仁和寺などは、大量の画像情報をあらかじめ記録することで、そのためにEOS-5Dmark4を経費で買ったのは少々首をかしげますが、撮影し、そのときが来てしまった際の復旧用データを集めている。

 仁和寺の五重塔は比較的新しい建物、それでも一応中世、そして醍醐寺の五重塔が天正地震、過去最大規模の歴史地震として知られる若狭湾を震源とする地震、に耐えていますから若干楽観的な視点を持ってしまうのですが、一方で天正地震は京都全体で見るとかなりの建物被害が記録されています。

 醍醐寺の五重塔が天正地震に耐えたのだからほかも大丈夫、とは言い切れないわけで、しかし文化財の多さを考えると、例えば南海トラフ、巨大地震が発生したときの被害と、そして復興をどのように道筋を立てればよいのか、ということは気の遠くなる、が、考えねばならない問題です。

 東寺の講堂が破損している、大垣城焼失、長浜城倒壊、伊勢長島城倒壊、清洲城液状化被害、亀山城全壊、木舟城倒壊、帰雲城山体崩壊で消滅、震源が若狭湾であることを考えればその被害の大きさというよりも被害範囲の広さに驚かされるのですが、直下型地震でもこういう被害があったということ。

 南海トラフ地震、ここに当面の焦点を移しますと、やはり、現実的な被害金額を元に現実的な費用での復興復旧のあり方を考えておく必要は、現行法では難しいならば特措法を成立させてでも模索すべきです。すると、直せない、という破損状況からの復旧方法を模索する必要があるのではないか。

 全壊でも倒壊さえしていなければ、もちろんそのまま作業員が中に入り補強する、ということは安全上難しいといいますか、余震で倒壊する懸念がありますから避けなければなりませんが、いまはUGV無人車両など各分野で無人機械の運用領域が拡大している時代ですから、なにか工法の方法はないか。

 倒壊していない建物の内部破壊状況を複数の小型無人機により、破損部位を特定するとともに、熊本地震における熊本城方式で、まず倒壊しないように持ち上げ、ここにH鋼のような支柱を挿入して仮骨組みを家屋内に設置して倒壊しかけた場合の補強部位を構築、そこから支柱にもたれかかるような復旧など。

 熊本城は、この工法を試験的に導入しまして、それは最初の事例故に費用がかなり大きくなったことは想像に難くないのですが、あの状況でも建て替えではなく復旧できるのだ、という可能性を示してくれました。こうした工法を普及させることで、現実的な費用で復興、派無理でも復旧を模索すべきと思う。

 建物は解体してしまいますと膨大な建築廃材を生んでしまいますので、この処分費ひとつとっても復興計画を圧迫します、が、そのまま倒壊しないように復旧し、第二次補修として情勢が落ち着いた後で耐震補強のかたちで次の地震に耐えられるよう改修するならば、少なくとも廃材は出ません。

 能登半島地震の高齢化世帯家屋被害をみればわかるように、費用面を考えた全壊家屋の復旧方式が必要だと考えるのは、今後の少子高齢化により、年金生活世帯が増える中で、家屋建て替えという選択肢が現実的ではない、という問題です。安価な方法を構築し、普及させることで安さの相乗効果を生む。

 復興を考えますと、高齢化は大きなリスクで、それは生産人口から切り離されてしまいますと、保険と貯蓄で考えなければならない、放置することは地域復興そのものを停滞させてしまう。そしてそれは寺社仏閣についても氏子さんや檀家さんがこれから減ってゆくことを意味するのですから、ね。

 二条城探訪とともに、防災の日を考える。なにかこういつものコジツケ感は否めないのかもしれませんが、8月8日の日向灘地震を受けての南海トラフ地震臨時情報もありましたし、地震災害というのは、九月一日と一月十七日と、三月十一日ともう一つくらいは真剣に備えを考えたいものです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】二条城,歴史に消えた織田信長武衛陣二条御所改築と足利義昭の二条城

2024-09-18 20:00:21 | 写真
■幻の二条城
 幻の、なんていう表現としましたならばなにか好奇心を誘う様な妙な始まりですが実際問題古地図でも曖昧であるのが少し昔の京都のまち。

 二条城、熱そうと思われるかもしれませんが、実際熱い、掘割の中のいきものたちで生き残れたこはいるのだろうかというほどに煮立つ中を鯉が泳ぐ。気候変動、なのだろうなあ、というような情景が広がっていまして、北大路機関創設当時との違いを痛感して。

 苔の生育に既に大きな影響が出ているゆえに庭園の情景が変化しているというこの気候変動ですが、松の木や桜並木、梅林と竹林の生育に今後影響が出ることも想定しておかねばならず、日本の美観、というものが危機に曝されているのだと実感するのだ。

 武衛陣、さて二条城の話題に戻りますと最初の二条城として造営された武衛陣を強化した日本最初の城郭型政経中枢は、完成前に永禄の変を受け三好三人衆のてにより焼失します。しかし二条城にはつぎがあった、室町幕府15代将軍足利義昭の御所として。

 織田信長による武衛陣二条御所を改築しての新しい二条城は永禄11年こと西暦1568年に造営されました、それは足利義昭の織田信長による支援を受けての上京に際しての御所というもので、しかし場所は今の二条城とは異なる場所に造営されていましたが。

 平安京二条というのは、二条大路と中御門大路に挟まれた通りでして、今は相当に入り組んでいますが椹木通というところになっています。そもそも状況を果たした足利義昭は、先ず第一に御所が無く、六条本圀寺を宿所として、仮御所のようにしていました。

 六条本圀寺はそののちに細川京兆家邸に遷り、そして今とは場所が違いますが本能寺へうつるとともに、そして再び本圀寺に戻った流浪の将軍なのですが、織田信長はそのさなかに武衛陣二条御所を改築し、新しい二条城を造営していた訳です。その姿は。

 信長の二条城、それは400m四方の平城を基本として、二重の掘割に守られ、三層天主を備えた城郭造の邸宅となっていたという。天守閣ではなく天主、これは織田信長が安土城を造営する前の天主となっています。ああ、岐阜城の天主は造営した後でしたが。

 義昭の二条城、規模は中々の迫力だったのでしょうが現存しません、そして歴史も短かった。元亀3年こと西暦1572年に義昭は信長と対立し、信長追討令を発布しています。これに呼応した武田信玄が西進を開始し三方ヶ原の戦いにて徳川家康に勝利します。

 信玄の勢いを見た義昭は二条城にて信長に対し自らも挙兵するのですが、この時信長の居館は二条城の隣にあったものの、本人は不在で、信長は逆に上京の町屋を焼き払い二条城を包囲、正親町天皇の勅命を得て和睦に至るのですが、緊張関係はそのまま続く。

 二条城の運命が決したのは同年、義昭の宇治槇島城での挙兵により槇島城の戦いが勃発し対立は破滅的となり、二条城はこの時幕臣伊勢貞興と三淵藤英が留守居に充てられたものの織田軍包囲により無血開城、義昭の安芸遷座により二条城は終わりました。

 二条城の天主や門扉はそのまま天正4年こと西暦1576年に解体、安土にて築城中の安土城に転用されることとなり、文字通り姿を消しました。その後、信長は京の宿所として二条晴良から邸宅である二条邸を譲り受け、新しい、別の二条城を造営しています。

 皇太子の誠仁親王に献上される二条城は、その後廃城となりまして、別の場所に徳川家康が、今の二条城を造営します。この確たる規模の城郭は宮内省管理下で離宮となり、戦後は一時GHQが占領した後に、今日の二条城として今も健在なのです。

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ウクライナ情勢-イランがファトフ360弾道ミサイルをロシアへ供給,ロシア軍需産業の現状

2024-09-18 07:00:09 | 国際・政治
■防衛情報-ウクライナ戦争
 地中海や大西洋ならば臨検を行う機会があるのかもしれませんがカスピ海を通られるとどうにもなりません。

 イランはロシアへファトフ360弾道ミサイルを供給した、9月13日に発表されたイギリス国防省ウクライナ戦況報告によれば、イランのロシア軍事援助の拡大が報告されています。これにはイランは過去、自爆用無人機の供給とロシア国内での生産能力構築支援、砲弾の供給が行われていたが、弾道ミサイルの供給は今回が初めて、とされています。

 ファトフ360弾道ミサイルはイランが2020年に初めて公開した弾道ミサイルで、BM-120という識別名称でもしられているもの。弾頭重量は150kgであり、射程は120km程度、短射程弾道弾ですが、CEP半数命中界は30m以下と弾道ミサイルとしては精度が高く、移動発射装置は6発を搭載することが可能で、ほぼ同時に発射可能とされています。

 イギリス国防省はこのイランによるロシアへの軍事援助について、ロシアとイランの軍事協力を深化させるとともに、前線付近のウクライナ民間施設インフラ攻撃の精度を向上させる目的はもちろんのこと、ロシア軍が自国で調達することが可能である長距離打撃力をウクライナ深部攻撃にむけて温存する事が狙いでは無いかと分析しています。
■防衛情報-ウクライナ戦争
 まだまだ厳しい状況は続く。

 ロシアの軍需産業についてISWアメリカ戦争研究所は9月10日のウクライナ戦況報告において、キール世界経済研究所の報告を引用する形で現状をまとめています。これによれば2022年から2024年までの期間、経済制裁が行われた中でも、戦車やミサイルシステムと火砲や弾道ミサイルなどでいずれの分野でも大幅な拡大が指摘されています。

 戦車生産は123両から387両に215%増加、装甲車生産は585両から1409両へ141%増加、火砲生産は45門から112門へ149%増加、短距離地対空ミサイルシステムは9基から38基へ200%増加、広域防空システムは6基から12基に100%増加、自爆用無人機は93機から535機へ400%増加、開戦後の2022年末から2024年6月までの期間の増加率です。

 旧ソ連時代に大量に生産され保管されていたものを再生することでこうした生産を維持しています。ただ、旧ソ連時代の備蓄は有限で2026年以降枯渇する可能性をキール世界研究所は指摘してますが、同時に数年内にロシアが新しい生産ラインを構築する可能性を指摘、2026年以降も戦車を年産350両生産する能力を獲得する可能性を示唆しました。

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