北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】大阪城,海に開かれた大阪-南海トラフ地震では梅田周辺が津波被害に遭うという事前想定

2024-09-25 20:23:09 | 旅行記
■海に開かれた大阪
 大阪は水の都と呼ばれていますがもともと八十島といわれた立地を土地改良により造成した海抜の低い文字通り海に向け開かれた街です。

 大阪の街を飛行機やヘリコプターでみてみますと、地震はともかくとして津波に対して大きな脆弱性があることがわかります、それは中心部梅田と大阪湾が離れているように見えますが、淀川が広い河口を大阪湾に向けて開け放っているための危惧というもの。

 淀川の河口は広く大阪湾に向けられていますが、梅田の北側で大きく曲がっています、ここに津波が侵入しますと直進しようとする津波が新大阪と大阪駅の中間部分の屈曲点で正面からぶつかり、堤防を乗り越える懸念が生じるのですね、ここから堤防は低い。

 湾内はもうひとつ、大阪港埋め立てにより津波の速度をそぐ、そぐといってもその地形上に多くの市民が生活を営んでいる地形、地形上の利点はあるとはいえ、中之島も迂回した津波の直撃を受ける立地にありまして、津波に対してあまりに無防備だ。

 石山といわれた丘陵地に築城された大坂城は、そういう意味で津波から直撃を免れる立地にありまして、ここを選んだ秀吉はなかなか先見の明があったのだなあ、と。いや、石山本願寺をここにたてた顕如さんの見立てなのか、今見ても関心させられるのです。

 南海トラフ地震が発生した場合、紀伊水道を加太淡路の由良水道へ津波が到達した場合は確実に大阪湾内に津波が侵入します。航空機から大阪の街を眼下に望んだ際には、ここ、津波対策は高層ビルと高架道路を結ぶ垂直避難しか方法は無いように思えてきて。

 神戸はどうか、といわれますと市街地が傾斜地にあるので、摩耶と六甲にそって少し移動するだけで急激に標高が上がります、ここはちなみにJRや阪神阪急線をこえたあたりで勾配がでてきますので、散策してふと後ろを振り返ると高低差に驚くことがおおい。

 顕如さんや秀吉さんはおそらく南海トラフ地震まで考えたようには思えません、大阪城築城前の天正地震では津波被害はそれほどでも無い、ほかの被害が大きすぎたという理由はあるのでしょうけれども。しかし立地は奇跡的なまでに配慮されていたといえる。

 東日本大震災、懸念してしまうのは長周期震動などの影響も未知数なのですが、東日本大震災が発災した2011年、主要駅や公共建築物は安全確認のために利用者を外に出すことで対策官僚としていたのですね、これにより大量の避難民滞留が起こっています。

 東急電鉄などは避難民を全部駅の外に出して駅を閉鎖して無事終了、としたことがのちに東京都の小池知事に非難されることとなりましたが、大阪で、津波の来る路上に多くの避難民を出した場合はそのまま押し流されることになりかねない、ということ。

 梅田まで津波が来る、というのは大阪市が2012年に作成した南海トラフ地震ハザードマップに示されているところです。じゃあ大変だ駅に収容しよう、と阪神電鉄が覚悟を決めると、阪神梅田は地下駅なので映画の"地震列島"のように大変なことになるのだが。

 地震列島、1980年の東宝映画で首都直下型地震が舞台となっていましたが、丸ノ内線が水没する描写が当時の営団地下鉄、今の東京メトロに相当非難された。同じような描写があった"逮捕しちゃうぞSECONDSEASON"ではそんなにいわれなかったのだけれども。

 上町台地や大坂城まで徒歩で移動できることが望ましいのですが、何にもかににも大阪市の人口を考えると、由良水道を津波が超えるまでに全市民避難させるということはあまりに非現実的です、すると垂直避難と高層避難所間の移動を考えねばなりません。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都発幕間旅情】大阪城,夏の南海トラフ臨時情報と歴史地震の天正地震を受けての耐震構造という巨大城郭

2024-09-25 20:00:37 | 旅行記
■最も初期の耐震構造
 新幹線長期計画運休と地震臨時情報と物凄い熱さと空母カブールとこの夏は色々ありました、ラファールもタイフーンも来たね。

 南海トラフ臨時情報が発令されたのは今年八月八日、こちらは88艦隊の日ということで盛り上がっていまして、イスラエル大使を長崎平和記念式典に招かないことで波乱を生んでいた九日の前日に九州は宮崎県にて比較的大きな地震が発生したわけでした。

 大阪城、この大阪城は地震災害と大きな関わりがありまして、そしてこの大阪という大都市そのものも南海トラフ地震と所縁が、所縁というのも嫌なので想定被害地域、というべきなのでしょうか、含まれてしまっていますので、今回はこの視点から。

 日本で最も初期の耐震構造建築物、といいますと多くの方は五重塔を思い浮かべるのかもしれません、東京スカイツリー建設の際に五重塔の心棒という建築様式が耐震構造として採用された、ということが幾度か、ニホンノギジュツスゴイと紹介されたゆえ。

 五重塔の心棒、しかしこれ、明確に耐震構造であることをしめす文書などがのこっているわけではなく、そもそも仏教建築である五重塔が耐震構造を採用しているというならば、ご本堂の建築様式に耐震構造を採用しないのはなぜか、となってしまう。

 ストゥーパ、五重塔を含めた仏塔は仏教建築においては舎利殿という、要するにお釈迦様の遺骨を奉じる場所となっています、すると簡単に倒れては困る、となりますので耐震構造だ、といってしまえるのかもしれませんが、それを示す文献がないのですね。

 舎利殿と心棒の関係は、耐震構造という視点は結果的に副次的な要素があり、舎利を天と繋ぐ宗教的な要素があるのかもしれませんし、もしくは実際に耐震構造も、模型が現存しないだけで耐震研究の結果として残ったのかもしれず、研究はまだまだ余地がある。

 大阪城は、しかし、この大阪城は、この、といいますと1936年に建築されたものが現存する大阪城ですから、鉄筋RC構造の大阪城を示すと耐震せいはあるのでしょうけれども、最初の大阪城、いや大坂城というべきか、こちらの耐震性のほうは文献がある。

 大坂城を築城したのは豊臣秀吉ですが、この少し前に天正地震という、歴史地震としてみても有史以来最大の、関東大震災や濃尾地震よりもおおきな直下型地震が発生していまして、この際に豊臣秀吉恩顧の家臣がかなりの数、倒壊などで亡くなっています。

 なまずにちゅういすべし。天正地震ののちに造営することとなりました大坂城の建築に、豊臣秀吉自身が地震に耐えられる城郭を求めている書簡がありまして、耐震性に留意した建築物を注文している建物というのは、これが最古なのではないか、と。

 天正地震ののちに、大坂城そのものは大坂戦役、大坂夏の陣大坂冬の陣とで灰燼に帰しているわけですから、耐震構造物は失われている、といわれるのかもしれませんが、城壁石垣を含めて大坂城としてみるならば、拡張はおこなわれているものの基礎部分は。

 熊本地震における熊本城をみればわかりますように、石垣を水平ではなく斜度を以て敷き詰めておきますと地震の揺れに対して石垣が水平移動せず、加重が上下にかかることでお互いに支え合って倒壊を回避するという構造が、地震後の研究で判明しています。

 大坂城も熊本城も城普請は加藤清正、耐震構造の研究を重ねたことで崩れにくい城郭を造成していた、昔の建物であってもやれることはあったのだが、さていまはどうだろう、手抜きはないか大丈夫なのか400年後の今、とふとそんなことを思ったりするのですね。

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ウクライナ情勢-ホストレとクラスノホリフカ周辺にロシア軍増強大隊規模の攻撃

2024-09-25 07:00:11 | 防衛・安全保障
■防衛情報-ウクライナ情勢
 ロシア軍の残留機械化戦力の概要が余りわからないようになってきたのですが。

 ウクライナ軍はクルスク州ヴェセロエを占領した、ISWアメリカ戦争研究所が9月14日付ウクライナ戦況報告において分析したところによれば、ヴェセロエはスジャの西方40km地点にある。この概況についてISWはウクライナ軍北方作戦司令部のミーニスク報道官の発表を引用、ロシア軍は8月の時点でクルスク州に11000名を駐留させていた、と。

 クルスク州駐屯ロシア軍は、ウクライナのゼレンスキー大統領の13日発言によれば、この時点でロシア軍はクルスク州に40000名規模の部隊を集中させていて、間接的にウクライナ東部戦線へのロシア軍集中を防いでいる効果を示唆しました。ゼレンスキー大統領によれば今後、60000名から70000名の部隊をクルスクに抽出させるのが狙い、としています。

 東部戦線では戦線が膠着しているためにウクライナ軍固定陣地への大規模な砲撃がウクライナ軍に損耗を強いています、特にウクライナ軍は弾薬不足により、初夏までロシア軍の十分の一程度の火力に落ち込んでいましたが、クルスク戦線の戦端が開かれた後、火力の差は三分の一程度まで収まっているという。ただ劣勢であることはいなめません。■

 ポクロフスク周辺での戦闘について、ISWアメリカ戦争研究所は9月13日付ウクライナ戦況報告にその概況をまとめています。ロシア軍はポクロフスク周辺で複数の橋梁を破壊したとされていて、ウクライナ軍の兵站線にたいする生涯を増加させる狙いがあり、補給物資や交代部隊の移動を制限させた上で中心部への攻撃を計画している可能性がある。

 東部戦線全体に視野を広げるとドネツク市西方においてロシア軍はひさしぶりに増強大隊規模の機械化部隊を用いた攻撃を実施したとのこと。この攻撃はかなりの距離を前進することとなっていて、クラスノホリフカ周辺の開けた地形を一気に横断、ドネツク市西方のホストレまで8kmもの距離を進出したとのこと。ただ、損害もかなりの規模となった。

 ホストレとクラスノホリフカ周辺にはウクライナ軍1個旅団が展開しており、ウクライナ軍の発表によれば12日払暁から正午に掛け4波にわたるロシア軍攻撃が行われ、確認されただけで46両の装甲車両が正面に展開したとしていますが、ウクライナ軍は各種火器及び無人機によりロシア軍装甲車両の半数もしくはそれ以上を破壊したと報告しています。

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