■貴族政治武家政治の転換期に
東福寺の美しい伽藍を眺めますと、意外と気づかないものですけれども歴史は繰り返す、という実は不思議で単純な実情を歴史から読み解く事ができるかもしれません。
日本と中国の歴史は、なにしろ地理的な隣国であり、そして海洋が国境を隔てていますので直接国境を接する国ほどの摩擦を多くは経験していません、東福寺もその成果として造営された、こう考える事が出来るのですね。しかし寺そのものの歴史よりも背景は深い。
禅宗は武家政権により保護された、この構図は鎌倉幕府の頃に始り、そして鎌倉幕府を倒して成立した室町幕府でも保護する事となります。すると上向きの物には便乗する方が集うという構図はやはり今も昔も同じもののようでして自然な流れが形成されてゆきました。
東大寺と興福寺、奈良の巨大寺院から一文字づつ頂戴して東福寺、としましたのは九条道家の影響力拡大の願いを具現化したようなものでして、その為に中国から帰国したばかりの円爾弁円を開祖に充てました。もっとも九条道家は早々と失脚してしまうのですけれど。
鎌倉時代の京都と日本、全集が日本に大量に入ります時代ですが、同時に貴族政治から武家政治へと大きく転換する時代でもありました、要するに変革の時代なのですね、すると、少し前に平清盛が日宋貿易を強化した通り、変革を迎え又は嫌い、外国との交流が盛んに。
日宋貿易の強化とともに渡来僧も増えてゆきまして、宇治の万福寺のような中国風の寺院というよりも中国寺院そのものが日本国内に並ぶようになります、当時既に日本では最澄と空海の天台宗に真言宗が飽和状態にありましたので、打破するには新しいものが必要だ。
北条時頼、鎌倉幕府執権は九条道家が影響力を増大させるために東福寺を造営した点に着目し、既存勢力に対抗するには新勢力をという流れで、幕府の置かれた鎌倉にも禅寺を造営する事とし、東福寺に対抗してより長大な伽藍を備えた建長寺の造営へ走ってゆきます。
天台宗が奈良仏教への牽制という役割を担ったように、禅宗もこのように政治的に利用されるようになるのですが、同時に信仰としての核心部分は残りまして、建長寺の近くには円覚寺と浄智寺というような宋風寺院が、鎌倉の中華街の如く中国文化を華やかに広めた。
虎関師錬という高僧が、この時代の日本の僧侶について、平凡な僧侶でも箔をつける為にだろうか兎も角誰もが宋に行きたがり程度の低い僧侶を留学させることは遠まわしに日本の品格を問われるとともに恥ではないのか、と実情を強く諫言していたりもするのですが。
しかし、関係を強めすぎますと注意しなければ摩擦を生む、という事なのかもしれません、これは禅宗の日本伝来と武家政治との親密化とともに、禅宗を会得するには宋に渡る必要があり、そして宋は滅亡し元朝の時代に入りましても続く事となります。ここから摩擦が。
元朝、日本では元寇として厳しい二国間関係の結末に繋がる事を歴史として広く周知されていますけれども、日本の僧侶、僧侶だけではなく商人も含めて足繁く中国を訪れ、尊崇するような行動をとりますと、これは同胞意識が生まれ、いっそ併合を、となる訳でした。
嘉禎2年こと西暦1236年に東福寺は造営されますが、大陸との繋がりは、しかし外交関係ではなく民間外交の延長線で進んだ結果、政冷経熱を無視して進み1274年文永の役と1281年弘安の役、展開しました。国家の距離感、これは今も昔も難しい課題のままなのですね。
政冷経熱、この視点は2000年代の日中関係を示すような表現ではあるのだけれども、実はこうして古くて新たらしい視点だ。もっとも、日本は経験上慣れている部分がありますが、世界の多くの国はそうではない、東福寺通天橋のような橋渡し的存在になりたいものです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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東福寺の美しい伽藍を眺めますと、意外と気づかないものですけれども歴史は繰り返す、という実は不思議で単純な実情を歴史から読み解く事ができるかもしれません。
日本と中国の歴史は、なにしろ地理的な隣国であり、そして海洋が国境を隔てていますので直接国境を接する国ほどの摩擦を多くは経験していません、東福寺もその成果として造営された、こう考える事が出来るのですね。しかし寺そのものの歴史よりも背景は深い。
禅宗は武家政権により保護された、この構図は鎌倉幕府の頃に始り、そして鎌倉幕府を倒して成立した室町幕府でも保護する事となります。すると上向きの物には便乗する方が集うという構図はやはり今も昔も同じもののようでして自然な流れが形成されてゆきました。
東大寺と興福寺、奈良の巨大寺院から一文字づつ頂戴して東福寺、としましたのは九条道家の影響力拡大の願いを具現化したようなものでして、その為に中国から帰国したばかりの円爾弁円を開祖に充てました。もっとも九条道家は早々と失脚してしまうのですけれど。
鎌倉時代の京都と日本、全集が日本に大量に入ります時代ですが、同時に貴族政治から武家政治へと大きく転換する時代でもありました、要するに変革の時代なのですね、すると、少し前に平清盛が日宋貿易を強化した通り、変革を迎え又は嫌い、外国との交流が盛んに。
日宋貿易の強化とともに渡来僧も増えてゆきまして、宇治の万福寺のような中国風の寺院というよりも中国寺院そのものが日本国内に並ぶようになります、当時既に日本では最澄と空海の天台宗に真言宗が飽和状態にありましたので、打破するには新しいものが必要だ。
北条時頼、鎌倉幕府執権は九条道家が影響力を増大させるために東福寺を造営した点に着目し、既存勢力に対抗するには新勢力をという流れで、幕府の置かれた鎌倉にも禅寺を造営する事とし、東福寺に対抗してより長大な伽藍を備えた建長寺の造営へ走ってゆきます。
天台宗が奈良仏教への牽制という役割を担ったように、禅宗もこのように政治的に利用されるようになるのですが、同時に信仰としての核心部分は残りまして、建長寺の近くには円覚寺と浄智寺というような宋風寺院が、鎌倉の中華街の如く中国文化を華やかに広めた。
虎関師錬という高僧が、この時代の日本の僧侶について、平凡な僧侶でも箔をつける為にだろうか兎も角誰もが宋に行きたがり程度の低い僧侶を留学させることは遠まわしに日本の品格を問われるとともに恥ではないのか、と実情を強く諫言していたりもするのですが。
しかし、関係を強めすぎますと注意しなければ摩擦を生む、という事なのかもしれません、これは禅宗の日本伝来と武家政治との親密化とともに、禅宗を会得するには宋に渡る必要があり、そして宋は滅亡し元朝の時代に入りましても続く事となります。ここから摩擦が。
元朝、日本では元寇として厳しい二国間関係の結末に繋がる事を歴史として広く周知されていますけれども、日本の僧侶、僧侶だけではなく商人も含めて足繁く中国を訪れ、尊崇するような行動をとりますと、これは同胞意識が生まれ、いっそ併合を、となる訳でした。
嘉禎2年こと西暦1236年に東福寺は造営されますが、大陸との繋がりは、しかし外交関係ではなく民間外交の延長線で進んだ結果、政冷経熱を無視して進み1274年文永の役と1281年弘安の役、展開しました。国家の距離感、これは今も昔も難しい課題のままなのですね。
政冷経熱、この視点は2000年代の日中関係を示すような表現ではあるのだけれども、実はこうして古くて新たらしい視点だ。もっとも、日本は経験上慣れている部分がありますが、世界の多くの国はそうではない、東福寺通天橋のような橋渡し的存在になりたいものです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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