■足利義政は京都をどう見たか
当地は東山の名の通りやや小高く造営の頃には応仁の乱後の京都と復興前途の様子が見えた事でしょう。
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慈照寺こと銀閣寺、慈照院殿の院号でも知られる臨済宗相国寺派の寺院で相国寺境外塔頭として位置付けられ、延徳2年こと西暦1490年に室町将軍足利義政の隠遁所東山山荘を寺院に改めたという寺院です。この時代は応仁の乱の戦災痕跡未だに色濃く残る時代です。
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応仁の乱、この一角は当時どのような面持ちかといいますと、戦乱の前には浄土寺という陣が広がっていたのですが、やはりといいますか戦災は当地の寺院も見逃さず、廃屋が並んだのみと云う。なおこの浄土寺、復興し今日は銀閣寺前に山門を構え今に至るのですが。
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足利義政は嫡子義尚に将軍職を譲り、応仁の乱に幕府の統治機構限界から将軍が戦乱を抑えるだけの権限を持たなかった為に将軍後見人として権限を拡大させようとしたものの、足利義尚はあっさり応仁の乱を終戦させ、その後の混乱もあり逃げ込んだのがこの山荘で。
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金閣寺こと鹿苑寺を造営したのは祖父に当る三代将軍足利義満です、足利義政はこの金閣寺を幾度か探訪し、この鹿苑寺の荘厳豪華な建築様式を北山文化と称しますが、慈照寺こと銀閣寺は金閣寺をある程度参考とし、自分だけの世界観を造営してゆく事となりました。
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東求堂と観音殿、この二つの実が創建当時の建築物ですが、失われた建物は意外と多く、隠居したとはいえ室町将軍の美的感覚を誇示する規模ではあったらしい。方丈が本堂、弄清亭そして庫裡と造営され今日に至るのですが、東求堂と観音殿は共に国宝に列せられる。
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観音殿は長享3年こと西暦1489年に完成していまして、山荘の頃に既に今でいう銀閣を完成させており、御本尊を奉じる観音殿を完成させたことが此処を山荘から慈照寺とした転機なのかもしれません、しかし足利義政が此処に籠ったのはこう事情が事情なのですから。
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高倉殿や室町殿、義政が作庭を行うのはこの慈照寺が初めてではなく、かつて幕府に関連する建物や庭園を造営しているのですね、室町将軍としての権限をまったく与えられなかったものの、建物の造営や設計には権限が及んだようで、故に慈照寺も洗練された風景で。
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会所と泉殿、西指庵に船舎というように慈照寺の伽藍は年々広まっていたのですが、不思議であるのは義政はこの山内に会所こそ造営したものの、公的会議施設や接遇施設にあたる施設は無く、要するに幕府の行政施設や院政の様な将軍後見人の機能を考えていません。
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義尚、若き将軍は実父義政の隠遁とは別に栄光の道を歩み、応仁の乱鎮定とともに、その残り火というべき大和河内の騒擾も落ち着くと、幕府権力の再構築に目処をつけます、そして近江の地にて幕府と対立した六角高頼の討伐へ派兵することとなります。将軍らしく。
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六角高頼は近江の寺社領や公家所領の不法占拠を続け、陳情に応える形で長享元年の西暦1487年、大兵力を以て出陣、丁度正午の頃でいわば時代祭か観閲行進の威容を誇示しての出陣です。義政は小高い当地から、どのように俯瞰する京都の復興を見たのでしょうか。
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義尚の六角討伐は、武田に細川と伊庭や伊勢の諸将も呼号、六角氏が膨大な幕府軍に驚き甲賀に逃げ込んだ事でこう着状態となり幕府は、鈎、いまの栗東市あたりに本陣を引きました、膠着状態、しかし第一次大戦の西部戦線と違い毎日朝夜酒宴の余裕はあったらしい。
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鈎の本陣、一向に膠着状態が解けず将軍義尚は尚の字が悪いとおもい名を義煕と改めますが、そんなものではどうにもならず、鈎の本陣で体調を崩し長享3年にあっさりこの世を去ります。義政は将軍職譲った我が子の訃報さえも、ここ慈照寺で聞く事となるのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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当地は東山の名の通りやや小高く造営の頃には応仁の乱後の京都と復興前途の様子が見えた事でしょう。
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慈照寺こと銀閣寺、慈照院殿の院号でも知られる臨済宗相国寺派の寺院で相国寺境外塔頭として位置付けられ、延徳2年こと西暦1490年に室町将軍足利義政の隠遁所東山山荘を寺院に改めたという寺院です。この時代は応仁の乱の戦災痕跡未だに色濃く残る時代です。
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応仁の乱、この一角は当時どのような面持ちかといいますと、戦乱の前には浄土寺という陣が広がっていたのですが、やはりといいますか戦災は当地の寺院も見逃さず、廃屋が並んだのみと云う。なおこの浄土寺、復興し今日は銀閣寺前に山門を構え今に至るのですが。
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足利義政は嫡子義尚に将軍職を譲り、応仁の乱に幕府の統治機構限界から将軍が戦乱を抑えるだけの権限を持たなかった為に将軍後見人として権限を拡大させようとしたものの、足利義尚はあっさり応仁の乱を終戦させ、その後の混乱もあり逃げ込んだのがこの山荘で。
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金閣寺こと鹿苑寺を造営したのは祖父に当る三代将軍足利義満です、足利義政はこの金閣寺を幾度か探訪し、この鹿苑寺の荘厳豪華な建築様式を北山文化と称しますが、慈照寺こと銀閣寺は金閣寺をある程度参考とし、自分だけの世界観を造営してゆく事となりました。
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東求堂と観音殿、この二つの実が創建当時の建築物ですが、失われた建物は意外と多く、隠居したとはいえ室町将軍の美的感覚を誇示する規模ではあったらしい。方丈が本堂、弄清亭そして庫裡と造営され今日に至るのですが、東求堂と観音殿は共に国宝に列せられる。
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観音殿は長享3年こと西暦1489年に完成していまして、山荘の頃に既に今でいう銀閣を完成させており、御本尊を奉じる観音殿を完成させたことが此処を山荘から慈照寺とした転機なのかもしれません、しかし足利義政が此処に籠ったのはこう事情が事情なのですから。
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高倉殿や室町殿、義政が作庭を行うのはこの慈照寺が初めてではなく、かつて幕府に関連する建物や庭園を造営しているのですね、室町将軍としての権限をまったく与えられなかったものの、建物の造営や設計には権限が及んだようで、故に慈照寺も洗練された風景で。
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会所と泉殿、西指庵に船舎というように慈照寺の伽藍は年々広まっていたのですが、不思議であるのは義政はこの山内に会所こそ造営したものの、公的会議施設や接遇施設にあたる施設は無く、要するに幕府の行政施設や院政の様な将軍後見人の機能を考えていません。
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義尚、若き将軍は実父義政の隠遁とは別に栄光の道を歩み、応仁の乱鎮定とともに、その残り火というべき大和河内の騒擾も落ち着くと、幕府権力の再構築に目処をつけます、そして近江の地にて幕府と対立した六角高頼の討伐へ派兵することとなります。将軍らしく。
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六角高頼は近江の寺社領や公家所領の不法占拠を続け、陳情に応える形で長享元年の西暦1487年、大兵力を以て出陣、丁度正午の頃でいわば時代祭か観閲行進の威容を誇示しての出陣です。義政は小高い当地から、どのように俯瞰する京都の復興を見たのでしょうか。
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義尚の六角討伐は、武田に細川と伊庭や伊勢の諸将も呼号、六角氏が膨大な幕府軍に驚き甲賀に逃げ込んだ事でこう着状態となり幕府は、鈎、いまの栗東市あたりに本陣を引きました、膠着状態、しかし第一次大戦の西部戦線と違い毎日朝夜酒宴の余裕はあったらしい。
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鈎の本陣、一向に膠着状態が解けず将軍義尚は尚の字が悪いとおもい名を義煕と改めますが、そんなものではどうにもならず、鈎の本陣で体調を崩し長享3年にあっさりこの世を去ります。義政は将軍職譲った我が子の訃報さえも、ここ慈照寺で聞く事となるのですね。
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