■北大路通先の社殿を詣でる
本日はクリスマスイヴということで紅葉のツリーを。北大路通は大徳寺前から金閣寺道へ壮大な上り坂が続きますが本日の散策はその上りました先のところ。
わら天神。敷地神社は北大路通りの終着地に在ります。市バス205系統や12系統をご利用の方にはバス停わら天神として耳にする方も多いでしょうが、隣が金閣寺道故にどうしても世界に知られた金閣寺を拝観しようと参拝の機会を逸しているという方も多いでしょう。
木花開耶姫命、このはなのさくやびめ祀る社殿はしかし歴史を辿りますと金閣寺に至ります。ただし歴史を紐解けば金閣寺よりも遥かに古く、遡ること社史によれば創建は天長年間の西暦831年に加賀国は菅生石部神社より敷地天神を勧請したところまで至るという。
衣笠山を拝するこの地は平安遷都前には葛野郡衣笠村として人々の営みが在り、敷地天神勧請より先には天神地祇が北山の神として奉じられていました。加賀国と衣笠山は距離こそ遠いですが当時は加賀白山寺と延暦寺とで荘園の繋がりあり、身近な地方だったのです。
平安遷都前にはこの衣笠山中腹には氷室が在り、加賀国からは氷塊を冬の間にこの地へ運び込み夏のこの地へ避暑へ訪れる殿上人に供したというのですが、その際に加賀国の人夫が氷塊の輸送と氷室の管理に移り住み、故郷の菅生石部神社より神を勧請したというわけ。
敷地神社に、わら天神、と親しまれる由来は木花開耶姫命、このはなのさくやびめ、富士山近くでは浅間大神として親しまれる日本神話の神であり、天照大御神の孫にあたる邇邇芸命と南九州日向の地で出会い、結ばれる事で木の花が咲く様に繁栄するとの謂れが在る。
このはなのさくやびめ、その通り花が咲くが如くという由縁ですが、この花が咲くという御利益で広く子沢を願う神社となりまして、古くから安産祈願の参拝に際しては御守として藁が授与される為、親しみこめて神社には、わら天神、と呼ばれるようになったという。
わら天神。お守りに授与されるわらについては、そのわらに節があれば男児の子宝が、わらに節がなければ女児という子宝に恵まれるという。しかし北大路通りの終着点、云わば洛中の境界線に位置する社殿は、創建当初から此処に在った訳ではない、というのですね。
北山殿金閣寺造営、足利義満による造営が始まったのは応永年間の1397年即ち神社創建から550年の後でした。実は創建当時、この社殿は北山のより奥は衣笠山の麓というよりは中腹に位置していました。氷室が設けられた地という事ですので確かに現在置は暑すぎだ。
足利義満、室町幕府第三代にして絶頂期の幕府実力者が治世下の時代ですので、北山殿金閣寺造営に際してその敷地を確保する必要が生じ、わら天神に遷座を命じた、これが現在地である北大路通りの終着地であり西大路通りの終着地近くに鎮座しています由来です。
天神地祇が祀られた社殿と菅生石部神母神木花開耶姫命を祀る社殿、遷座前の境内には確たる資料が残らないとの事ですが摂社というかたちであったのでしょうか、足利義満による遷座に際し二つの社殿は一つに合祀されまして今日の、わら天神敷地神社となりました。
金閣寺造営に併せての遷座ですが、しかしその結果としまして北大路通りと西大路通りに面する云わば日当たりの良い場所に遷座した訳でして、令和時代の今日的視点に立てば市バスで行きやすい立地ともいえます。しかし隣に金閣寺がありそちらに向かう人がおおい。
子孫繁栄の御利益ですが、考えてみれば足利義満の金閣寺造営に併せての遷座が二つの神社を一つとしたのですから、足利義満が二つの社殿を縁結びしたのだなあ、そんな不思議な事を考えつつ参拝いたしました。皆さんも金閣寺拝観前に是非参拝してはどうでしょう。。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
本日はクリスマスイヴということで紅葉のツリーを。北大路通は大徳寺前から金閣寺道へ壮大な上り坂が続きますが本日の散策はその上りました先のところ。
わら天神。敷地神社は北大路通りの終着地に在ります。市バス205系統や12系統をご利用の方にはバス停わら天神として耳にする方も多いでしょうが、隣が金閣寺道故にどうしても世界に知られた金閣寺を拝観しようと参拝の機会を逸しているという方も多いでしょう。
木花開耶姫命、このはなのさくやびめ祀る社殿はしかし歴史を辿りますと金閣寺に至ります。ただし歴史を紐解けば金閣寺よりも遥かに古く、遡ること社史によれば創建は天長年間の西暦831年に加賀国は菅生石部神社より敷地天神を勧請したところまで至るという。
衣笠山を拝するこの地は平安遷都前には葛野郡衣笠村として人々の営みが在り、敷地天神勧請より先には天神地祇が北山の神として奉じられていました。加賀国と衣笠山は距離こそ遠いですが当時は加賀白山寺と延暦寺とで荘園の繋がりあり、身近な地方だったのです。
平安遷都前にはこの衣笠山中腹には氷室が在り、加賀国からは氷塊を冬の間にこの地へ運び込み夏のこの地へ避暑へ訪れる殿上人に供したというのですが、その際に加賀国の人夫が氷塊の輸送と氷室の管理に移り住み、故郷の菅生石部神社より神を勧請したというわけ。
敷地神社に、わら天神、と親しまれる由来は木花開耶姫命、このはなのさくやびめ、富士山近くでは浅間大神として親しまれる日本神話の神であり、天照大御神の孫にあたる邇邇芸命と南九州日向の地で出会い、結ばれる事で木の花が咲く様に繁栄するとの謂れが在る。
このはなのさくやびめ、その通り花が咲くが如くという由縁ですが、この花が咲くという御利益で広く子沢を願う神社となりまして、古くから安産祈願の参拝に際しては御守として藁が授与される為、親しみこめて神社には、わら天神、と呼ばれるようになったという。
わら天神。お守りに授与されるわらについては、そのわらに節があれば男児の子宝が、わらに節がなければ女児という子宝に恵まれるという。しかし北大路通りの終着点、云わば洛中の境界線に位置する社殿は、創建当初から此処に在った訳ではない、というのですね。
北山殿金閣寺造営、足利義満による造営が始まったのは応永年間の1397年即ち神社創建から550年の後でした。実は創建当時、この社殿は北山のより奥は衣笠山の麓というよりは中腹に位置していました。氷室が設けられた地という事ですので確かに現在置は暑すぎだ。
足利義満、室町幕府第三代にして絶頂期の幕府実力者が治世下の時代ですので、北山殿金閣寺造営に際してその敷地を確保する必要が生じ、わら天神に遷座を命じた、これが現在地である北大路通りの終着地であり西大路通りの終着地近くに鎮座しています由来です。
天神地祇が祀られた社殿と菅生石部神母神木花開耶姫命を祀る社殿、遷座前の境内には確たる資料が残らないとの事ですが摂社というかたちであったのでしょうか、足利義満による遷座に際し二つの社殿は一つに合祀されまして今日の、わら天神敷地神社となりました。
金閣寺造営に併せての遷座ですが、しかしその結果としまして北大路通りと西大路通りに面する云わば日当たりの良い場所に遷座した訳でして、令和時代の今日的視点に立てば市バスで行きやすい立地ともいえます。しかし隣に金閣寺がありそちらに向かう人がおおい。
子孫繁栄の御利益ですが、考えてみれば足利義満の金閣寺造営に併せての遷座が二つの神社を一つとしたのですから、足利義満が二つの社殿を縁結びしたのだなあ、そんな不思議な事を考えつつ参拝いたしました。皆さんも金閣寺拝観前に是非参拝してはどうでしょう。。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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