北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

あの日から十年,3.11東日本大震災追悼【5】百年後も覚えていてほしい-あの日の出来事を

2021-03-11 20:11:03 | 防災・災害派遣
■十年前の今日,それは起こった
 百年後も覚えていてほしいものです、あの日の出来事と如何に行動する事で生命が助かり社会が続くのかを。

 小松左京の“日本沈没”を読んだのは小学生の頃、長野県戸隠高原のスキー場の旅館、テレビは無いが大きな暖炉のある、小説でも書き上げたくなるような旅館の大きな書架にありました。丁度児童文学の本に“三陸の大津波”と“チェルノブイリ原発事故”を掲載した本が学校にありまして読んだ頃合いですので、あの描写には驚かされるものでした、が。

 あの“東日本大震災”から本日で10年となりました。考えてみれば、あの日に小学校の卒業を迎えた皆さんは大学卒業学位授与を迎えている頃合いでして、いやはや十年一昔とはよく言ったものだ、と感慨深いところ。2011年と2021年、大きく変わった所もあればそうでないところもある、しかし津波の危険への認識だけは、風化させてはならないですね。

 東京撮って、NHKがこう叫んだのを思い出します。東日本大震災当時は民主党菅(かん)内閣が外国人献金問題に揺れている最中で、職場情報収集用のTVはNHKが点いていましたが、ここに緊急地震速報が鳴り響きました。東北が揺れるという、この数日前にも地震が在った事を思いだし、遂に宮城県沖地震が発生したか、と身構えました。長年警告された。

 宮城県沖地震、1970年代に発生した地震は私より前の世代の地震なのですが、三陸地方は昔から地震が多いという例示の一つに周期的に発生している地震です。想定マグニチュードは7.9で実際5m規模の津波が発生する危険性があるのですが、あの日発生した東北地方太平洋沖地震はマグニチュード9、速報値は8.3でしたが、ニュース速報に驚かされます。

 東北地方太平洋沖地震は、緊急地震速報と東北沖の地震であるにもかかわらず東京が大混乱に至る程の揺れがあったのをNHKが中継、これはただ事ではないぞ、と、しかし仕事の調整を大車輪で進める算段を立てている最中に、こう、ゆっくりと、錯覚かな、いや、と頭上の照明が揺れ始めまして、遂に来たか、1000kmの距離を隔てて地震に遭遇しました。

 1000km離隔すれば、被害なんぞはありません、いや地震そのものの被害は、と限定して云うべきでしょうか、横にゆっくり引っ張られるようなこう船酔いを誘う様な妙な体験というものでして、阪神大震災の兵庫県南部地震も大阪府北部地震も経験しているのですが、いずれにせよ妙な不可思議な揺れを経験したのはあの一度だけでした、しかし、という。

 NHK,無音のテレビ。重要な情報を報道するNHKが突如無音になりまして、誰か消音スイッチを押したのかと訝ってみましたが、直後に電子音が断続警報を表示するとともに、画面片隅、見慣れた日本地図が表示され“大津波警報”“津波警報”“津波注意報”と表示されたのですが、驚いたのは沖縄県まで津波警報、そして大阪湾は注意報、伊勢湾に警報が。

 2004年インド洋大津波、これは知人が危ない所に居た、という出来事が在りまして、親戚宅がやられたとか、そういう津波が起こりうること、余所事ではないことは知っていたのですが。続いて近鉄が津波警報を受け運休となりまして、その津波は実は1000kmを隔てていても、全く影響がない訳ではないという事を認識させあっれましたが、その先には。

 津波は威力があるという予備知識はありましたが、なにしろ海から30km以上を隔てて生活する故に、スマトラ沖地震インド洋大津波の報道に接するまでは実感として危険性を認識できるものではありませんでした。報道映像は、受け留めるには想像力を必要とするものであり、一つだけ分かる事はこの瞬間に戦後史は分岐点を迎える、歴史的な災害だ、と。

 災害規模は、私自身は被災地へは行く事はありませんでしたが、応援に派遣された消防の穴埋めに消防団が大変な事になったり、自衛隊の派遣部隊車列をこんなところからも、と驚かされる等の出来事が続きましたが、数日後、遠方から来客がありまして京都駅まで行きましたところで号外が、福島第一原子力発電所で大規模な爆発が在った新聞号外でした。

 東北地方太平洋沖地震は、再度三陸に津波がやってくる、という懸念は主旨ではありません、環太平洋地域火山性地形弧状列島に位置する日本列島では、どの地域でもいつかは確実に巨大災害に見舞われる、という事です。多くの方が亡くなられ、また今も悲しみが続く最中ではあります。しかし、こうした災害が在り得る地域なのだ、という認識は常に。

 震源から1000kmを隔てている当方はやはり傍観者の一人でしかありません。それでも追悼の念を深く持ちたいという心持は、いずれ当地にも巨大災害はやってきます、故に自分と家族と大切な人たちが生き残れるように、出来る事をやっておこうという認識を改めて考える故に覚悟を改めるべく、心から冥福を祈りたいと思います。次の巨大災害に備えて。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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あの日から十年,3.11東日本大震災追悼【4】危機管理の概念とリスクコントロールの概念

2021-03-10 20:11:55 | 防災・災害派遣
■必ず来る次の”3.11”へ
 東日本大震災から明日で十年という今日、今この瞬間にも次の巨大災害が生じる可能性はありますし、現在のCOVID-19は対応を誤ればそれ以上の災厄となっていました。

 東日本大震災。この巨大な災害と多大な犠牲を生じさせた一つの分岐点から、十年を経た今日、私たちの社会や政治、価値観や文化はその教訓を活かせているのでしょうか。東日本大震災は戦後史という観点に幾つもの転換点を示すこととなりました。一つは平時と危機というものの分水嶺が存在すること、一つは危機管理という考え方、勿論ほかにも。

 危機管理の概念、これは戦後日本史において確かに存在していましたが、危機管理を構想する土台というものの概念が、単なるリスクコントロールという水準に留まっていたのではないのか、即ち危機の語原たるクライシスがギリシャ語の"切れている"という意味を持つものでしたが、東日本大震災以前には"切れている"事への対処を充分考えていたか。

 クライシスというよりはリスクコントロール、切れている突発状況に対処するのではなく切れないように措置するという段階に留まっていたのではないか、こうかんがえるのです。しかし、あの巨大な津波は、想定したままに日常を過ごすことは出来ません、リスクコントロールにあの水準の津波を盛り込めば、日常で沿岸部に営みを築く事は不可能です。

 リスクコントロールはまさに切れさせない事なのですが、問題は日本社会が東日本大震災の後に組み立てている危機管理体系、これは法制度でも社会的価値観でも、ですが、クライシスへの対応ではなく、最大規模の災害を東日本大震災に定めた上で、単にあの規模の災害を日常の出来事として無理にリスクコントロールしようとしているのではないか、と。

 民主主義国家ですので、この判断の分水嶺をクライシスかリスクコントロールとするかは為政者ではなく為政者を選ぶ有権者の責務です、しかし後者を選んでいる状況はないか。一例として、原子力発電への過剰な警戒感が挙げられる。もちろん東日本大震災の福島県を中心に甚大な被害を及ぼした福島第一原発事故は忘れてはならない災害です、しかし。

 リスクコントロールの視点から、恰も次の災害が間近に迫っているが如き当時の菅(かん)内閣の政治的判断による全国一律原子力発電停止は、続く無計画な再生可能エネルギーへの電力費用定額買い付け制度を定着させ、産業の基盤と言える電力価格は高騰、先端通信やサービス産業よりは製造業に軸点を置いていた日本産業は競争力を失い、今日に至る。

 危機管理というものを再検討するべきではないか、クライシスに備えるのではなく単にリスクコントロールという平時の感覚をそのまま平時に起こり得る災害の上限をそれまでの阪神大震災水準から東日本大震災水準に上げただけ、規制制度が平時に増えた部分に相応として社会が息苦しくなった、こうした印象も拭えません。社会はかえって脆弱に。

 災害への脆弱性を増したのではないか、こう考えるのは東日本大震災を平時に起こる最大の災害と考えた場合、当たり前ですが危機と平時の切り替えという前提が成り立たないのですが、同時に東日本大震災は津波と原子力事故が最大の被害を及ぼしていた災害でしたので、日本の災害史を俯瞰すれば火山災害や直下型地震という別の比重をもつものも多い。

 危機管理、リスクコントロールとクライシスの混同というべきでしょうが、もしくは防災減災と危機管理を混同している、といえるのかもしれません。危機は切れている状態という語原を紹介しましたが、なにが切れているのかは子細を敢えて示していません、これは語原ではなく用語として定着した背景になにが起こるか判らない事を暗に盛り込んだ。

 防災減災という概念は、例えば地震、例えば水害、例えば火山、危機対処要領を予め具現化して対処するものです。このあたりは日本は得意だ、アメリカも得意です、こういうのもアメリカのオレンジプラン、日本の"あ号計画"にあげられるように仮想敵国を予め明確に示した上で必勝計画を示すという、いわば日本もアメリカも王道をいっていました。

 しかし、日本もアメリカも得意の分野ではあるのですが、それはプランニング段階のものであり、結局、あ号計画もオレンジプランもその存在が国際関係に不協和音を来しただけで、正確な作戦計画としてはともに意味のないものでした。一方、危機管理という概念で進んでいた国がありました、それはイギリスです。イギリスは危機を定形化しない。

 危機管理、イギリスは敢えて定形化された対処計画を演練するだけではなく荒唐無稽な状況を敢えて取り入れ、判断力を取り入れる対応策を採ってきました。これは単に軍事における分野のみならず政治家を参画させての想定外の事態に対応するための訓練体系を枠組として構築しています。この災害にはこの対処を、ここに留まらない対策が日本も必要だ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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あの日から十年,3.11東日本大震災追悼【3】原子力事故対策,事故自体禁忌の対策は変らず

2021-03-09 20:11:52 | 防災・災害派遣
■福島第一原子力発電所事故
 福島第一原子力発電所事故は東日本大震災の性格を根底から覆した巨大な原子力事故でした。あれから十年が。

 福島第一原発事故。当時の事故を回顧する書籍や報道特集番組等を観ていますと、事故は発生させないという電力会社の姿勢について、政治が仮に重大事故につながる事態が発生した場合に放射性物質漏えいに至らないダメージコントロールの在り方を責任を以て検証してこなかった事、これは現状を含めてですが、姿勢は問題であったのかもしれない、と。

 バビロン作戦、1981年にイスラエル空軍が実施したイラク原子力発電所爆撃作戦です。事故は起きえない、という電力会社の主張には、しかし日本周辺には友好的でない諸国によるミサイル実験が繰り返されていますし、原子力施設は聖域か、と問われれば、隣国はそうは考えていないからこそ、寧辺核施設周辺を重点警備していました。リスクはあった。

 勿論、自衛隊に原子炉の専門家を養成しろと主張するつもりはありません、原子炉のどの部分を制御すれば冷温停止に至るかの研究は何処を叩けば暴走させるかの研究に応用出来るのだから策源地攻撃の観点から保持すべき、と反論があるのかもしれませんが、これは慎重であるべきです。しかし、国としては電力会社の事故対処能力を検証すべきだった。

 原子力災害と国の関係、この問題は結局この十年間なにも進歩しなかった、という課題があります。もちろん国は監督官庁を有していますので原子力発電所の新設や廃止の認可という視点で大きな責任と権限を有しています。しかし、ひとたび事故が発生した際には原子炉冷却や冷却材の投入といった実任務へ対応するのは電力会社である状況はそのまま。

 福島第一原発事故の際には自衛隊は原子力事故対処要領は既に存在したのですが、自衛隊の任務は主として避難誘導と住民輸送など、支援的な任務であり、メルトダウンのような危険な状況は想定されていたものの、ここに第一線を自衛隊が対応するというものは想定されていませんでした。当たり前ですが、自衛隊は原子炉を有していませんから、ね。

 アメリカ軍であれば、海軍や空軍と陸軍および海兵隊については原子力事故に関する専門部隊が存在します、それは万一アメリカ国内原発事故に備えるものでは必ずしも無く、海軍が原子力空母や原子力潜水艦を装備していますので原子炉を管理する必要がありますし、空軍と海兵隊及び陸軍は核兵器を管理していますので万一の危険を想定する必要はある。

 実は自衛隊の東日本大震災対処に関する日米間の取り組みをみますと、アメリカ国務省が震災下での福島第一原発制御に関する日本政府の情報不足から在日アメリカ人保護の必要な情報を得られないが、外務省は日本政府のもつ情報のみしか有していないとして、アメリカ太平洋軍、現在のインド太平洋軍を通じて防衛省へ要請があった、という事例も。

 しかし、この一点については当時情報要請を受けた防衛省自衛隊が、もっと前面にたって主導権を執るべきとのアメリカ側連絡士官意見を、自衛隊が原子炉冷却の前面に立つべきとの意見と誤解し、自衛隊に原子炉制御能力を有していると勘違いしているのではないかとの齟齬もあったようです。実際、当然ですが自衛隊の任務に原子炉制御はありません。

 仮に自衛隊が独自の戦術核兵器を保有するとか、原子力潜水艦でも保有して事故を経験したならば、核兵器保全部隊や原子力非常対処部隊はありえたかもしれません、陸上配備イージスシステムが原子力動力であったならば、あり得たかもしれませんが、そんなものは計画含め存在しません。具体的には総務省か経済産業省、もしくは電力会社に必要だ、と。

 もっと原子力事故を経験していれば変わった、とは考えません。例えばイギリスをみますと豊富な経験があります、2000年から2016年までに原子力潜水艦は少なくとも三回の原理路や冷却系統の小規模な事故を起こしていますし、イギリスは世界初の原子炉火災事故、発電用とともに原爆用原子炉で、引き起こしています、故に事故対処部隊が出来ている。

 しかし、日本の場合はこの方式は当て嵌まらないように思うのですよね、日本は事故を禁忌とした。故に核事故を重ねて経験を積むという方式ではなく、事故が起これば原子力そのものが禁忌となっていた可能性がありますし、現に現在の全国原子力発電所現状がそれを物語っています。しかし、事故そのものを想定外とし、対処能力の欠如は、問題でした。

 事故を起こさない原子力監督行政からダメージコントロールへの行政へ転換することは事故から10年を経ても選択肢にさえ載らず、政治は電力会社に有限責任ではなく事故の無限責任を負わせた場合でも民生被害を抑えられないことから、事故を起こさない対策に収斂し続けることで、原子炉を動かすことができない、日本全体の電力不足傾向はいまも続く。

 東海村臨海事故、2000年に日本ではウラン燃料をバケツで濃縮作業を行う簡略化作業を行ったことで臨界状態となり、日本初の死者が出る事故が発生しましたが、この際に自衛隊は初の原子力災害は件を実施したものの、臨海事故対処は事故を起こした日本原燃の所管で、実施命令のみ政府が行うものでした。ここは福島第一原発事故対処でも同じでした。

 原子力事故について、福島第一原発では東京電力と関連企業による炉心冷却作業が行われていますが、結果的に監督官庁を含め主導権が非常に曖昧であり、その曖昧さが政府の原子力事故対処という政策への不明確さに直結していました。重要な点は工場火災や化学事故とことなり原子力事故は被害が広域化する点で、絶対に敷地内に被害は収まりません。

 CH-47を電力会社が各5機程度装備してもらい、全体でヘリコプターを融通しあい事故の際には冷却作業から、そういう選択肢もあるのかもしれませんが、これではハード面を揃える事は出来たとしても、電力会社の対処能力が十分機能するかを第三社が検討する事は出来ません、実際福島第一原発事故も事前検証が役に立たなかった点を忘れてはならない。

 原子力事故の特性は被害の広域化です、どれだけ電力会社が広い敷地を確保しようとも、東北地方全域を買う事は出来ません、すると必ず被害は民有地まで及ぶ、被害の広域化は責任を電力会社に無限責任を負わせて国が監督に特化する制度には限界もあります。すると実働部隊として総務省消防庁か経済産業省に原発事故にのみ対応する組織が必要だ、と。

 自衛隊と原子力事故の関係ですが、主導権を得る構図は必要とは考えていません、特に費用が必要な分野が多い割には、自衛隊の主任務と関係する部分は少なく、防衛費を過度に空費する為です。しかし、住民避難や必要物資空輸に除染支援、可能な範囲において協力する体制は必要であり、なによりも事故が起きた際を想定した総合演習に参画すべきです。

 具体的には。東日本大震災については、防衛省自衛隊は早い時期に福島第一原子力発電所へ部隊を派遣していますが、これは原子力事故に対応する中央即応集団ではなく、原発を隊区とする郡山駐屯地の第6特科連隊を中心とする部隊でした。中央特殊武器防護隊先遣のが到着したその瞬間に、三号炉水蒸気爆発が発生している、という蚊帳の外と云うべき対応だったのですね。

 自衛隊の出動は遅れたのか、と問われれば、そもそも東京電力から全電源喪失の報が内閣危機管理センターに寄せられたのが津波到達から数時間後、しかし同時に東京電力より、八時間程度で復旧の見込み、と報告された事で、自衛隊の災害派遣は原子力災害派遣ではなく、巨大な津波被害による膨大な人命の危機への対策に重点が置かれていた背景がある。

 当時の自衛隊としても、原発内に火災は発生するという、新潟中越地震柏崎刈羽原発ディーゼル発電装置火災のような認識があったものの、電源喪失は回復の見込みという以上は自衛隊自身も東京電力からの情報を無視する選択肢は無く、また、報道以上に情報を得られなかった、という実情がありました。事態対処に参画できない以上、正確な情報も無い。

 事故対処に電力会社からの責任を分散させる目的での参画を行う、というものではなく、被害が広域化する以上、その被害を管理する為の情報手段と、電力会社の事故対処能力を評価し、またメルトダウンのような状況となった場合に放射性物質のプルームが人口密集地域に及ばないよう対処する能力の保持を評価するという形で、国は関与すべきです。

 逆に言うならば、この部分で明確な施策を執らなければ電力高騰のまま、という状況からは脱却できないのですね。大事故は起こり得る、この認識とともに安全神話という概念から大事故は有り得るという認識に転換、ダメージコントロールというものを想定、ダメージコントロールに必要な技術と訓練に視野を充てねば、あの事故を直視したとは言えない。

 東日本大震災以降、計画停電こそ終了はしていますが電気料金は高騰したままです。しかしその原因が原油高騰などの要素ではなく、再生エネルギー買い取り制度により原発代替電源に高いエネルギーを採用したためであり、ここが結果的に製造業に必要な電力費用を肥大化、工業製品が国際競争力を失い、周り回って復興にも影響する状況が続きます。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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あの日から十年,3.11東日本大震災追悼【2】震災十年,大きく減った災害派遣活躍自衛隊装備

2021-03-08 20:10:52 | 防災・災害派遣
■偵察機全廃,ヘリコプター激減
 3.11の巨大地震を前に空前の規模で実施されたものが自衛隊災害派遣でした。やりきったといえるのですが使い切ってしまった装備も多い。

 東日本大震災以降、テレビ番組では自衛隊を持ち上げる特集が増えたように印象がありますが、演習映像や感動秘話を紹介するものが多く、視聴率も簡単に採れるとか制作費が掛からないという理由もあるのかもしれませんが、東日本大震災後、災害派遣に活躍した様々な装備品が縮小され、かつての様な活動が出来なくなった点を紹介する番組はありません。

 東日本大震災で自衛隊への評価は大きく変わった、こう世論調査の結果を散見するのですが、震災から十年、自衛隊の装備はしかし老朽化されたものを置き換えることなく財政難という錦の御旗とともに削減されています。偵察機全廃、輸送艦は数の上では四割削減、観測ヘリコプターは八割削減、多用途ヘリコプターも老朽機除籍にて三割縮小しました。

 南海トラフ巨大地震。東日本大震災以降政府は過去の歴史地震の再来を現実的な脅威と認識し、防災計画を一部変更していますが、現状の自衛隊装備では東日本大震災の規模であっても自衛隊に同等の派遣を望むことはできません。そして財政難はなにも政府と自衛隊に限ったものではなく、自治体財政も逼迫し、防災ヘリコプターは実質増えていません。

 RF-4偵察機。航空自衛隊は東日本大震災に際しては、旧式ではありましたがRF-4を多数活用し被災地全容の把握に務めました。旧式というのはRF-4は撮影にフィルムを用いており、撮影した画像を百里基地へ一旦戻り現像、写真を入間基地へ空輸し、入間から首相官邸へヘリコプターで空輸していたのです。しかし立体写真など高精細な写真を届けた。

 RF-4はリアルタイムで被災地画像を提供できたアメリカのRQ-4グローバルホークと比較し、画像伝達への即応性に欠けた点は指摘されていますが、結局RQ-4の導入は東日本大震災後十年を経ても実現せず、2020年にRF-4退役を迎えています。陸上自衛隊に小型のスキャンイーグル無人機はありますが、防災ヘリコプターと運用高度が同じ難点があります。

 ゆら型輸送艦、満載排水量710tの小型輸送艦ではありますが、東日本大震災では、ゆら、のと、とともに小型ながら北海道と東北の輸送に活躍しています。海上自衛隊は2000年ごろに後継として1700t型輸送艇を計画していたのですが財政難により実現せず、震災後、のと、ゆら、ともに後継艦もなく用途廃止となっています。震災当時,輸送艦は5隻だ。

 おおすみ型輸送艦3隻、ゆら型輸送艦2隻、この前者が満載排水量14000tと充実した輸送力を有しますので、小型輸送艦が全廃されたとしてそれほど大きな輸送力低下とは言えないのかもしれませんが、海岸線に揚陸できる小型輸送艦の削減は現実です。政府傭船はくおう、高速フェリーがチャーターされましたが、港湾が破壊された場合、接岸できません。

 OH-6D観測ヘリコプター全廃、最盛期180機の勢力を誇った小型の、乗用車六台分の駐車スペースがあれば発着できる、軽快なヘリコプターは後継機が選定されることなく、全廃されています。観測能力は高くはありませんが、災害時にいち早く離陸し情報収集にあたる航空機が無くなり、現在は情報収集に多用途ヘリコプターを輸送から外して用いている。

 OH-1観測ヘリコプターが31機ありますが、元々250機量産される計画を大幅に縮小し31機、そして小型のスキャンイーグル無人機は導入されているのですが、巡航高度は4000m程度、小型で小回りは利くのですが防災ヘリコプターの飛行高度と重なってしまい、自動回避機能は一応あるものの、防衛出動以外では使いにくい状況があるといわざるをえない。

 自衛隊の装備、もちろん東日本大震災と比較し増えた装備もあります、例えば水陸機動団のAAV-7両用強襲車、次の津波災害時には沿岸部での機能が期待できる。例えば政府傭船はくおう、被災地は無理でも太平洋側の災害に際し日本海側に輸送することは可能だ。例えばC-2輸送機、前型C-1輸送機よりも輸送能力は増えた。しかし、減ったものも多い。

 勿論、今更OH-1観測を大量生産させる事は不可能ではあります、しかしアグスタA-109やエアバスTH-135派生型のような観測機としても軽対戦車用としても連絡機としても用いられる機体を第一線の師団や旅団へ配備できる中央の体制はあって良いと思いますし、有事の際には電子戦機として用いるとしてEA-18Gを導入し偵察ポッドを積んでも良い。

 EA-18G,例えば偵察航空隊のように総隊司令部飛行隊に配備し電子戦と偵察に充てる方法が考えられる。輸送艦についても新規に輸送艦を建造するのが難しいのであれば、例えば既存輸送艦を支援する大型揚陸艇、フランスのCDIC揚陸艇のように単独で輸送艇として用いられる750t程度の輸送艇を地方隊に輸送隊単位で装備させる選択肢も考えられます。

 財政再建は必要ではありますが、同時に国は次の大規模災害が発生する蓋然性を、少なくとも震災直後の菅(かん)内閣時代に南海トラフ連動型地震というかたちで示唆しているのですから、もちろん財政難故に自衛隊装備を増勢する事への風あたりの厳しさは理解するのですが、必要な装備品を揃える努力は政治の責任、為政者の責務ではないでしょうか。

 勿論、無際限に防衛装備の調達を認めろというものではありません、そんな事を行えばそれら装備が老朽化した際に後継装備を必要とする時代となれば、防衛費は破綻してしまいます。しかし同時に、例えば多用途ヘリコプター、例えば戦術偵察機、例えば観測ヘリコプター、例えば水陸両用車、これらは“次の巨大災害”を考えるならば、必要な装備です。

 オペレーションリサーチを行う必要がある。自衛隊の任務は防衛であり災害派遣院無は第一の任務ではない、こう自衛隊からは説明されるものです。これは単なる災害派遣への価値観ではなく、災害派遣をどの程度見積、対応能力を構築するかというオペレーションリサーチを行う難しさがある為です。すると、この能力構築は政治主導が求められるという。

 自衛隊の災害派遣、どの程度必要か、首都直下型地震や南海トラフ巨大地震を想定し、京阪神中京同時被災と九州から京浜地区までの津波災害に十分対応できる能力を政治が自衛隊に求めたならば、防衛省は高度経済成長期の要求、V-107輸送ヘリコプター600機構想のような、大幅な装備拡張が出来なければ任務遂行は不可能である、と応じる事でしょう。

 政治主導が求められるのは、ここです。政治主導、具体的には自治体の保有する航空機材や協力企業と土木系公務員の災害対応能力をどの程度有しているかを、防衛力整備のように“防災力整備計画”として数値化、その上で具体的な自衛隊に求める能力を数値化する。その為に必要な輸送力や工兵能力を元に防衛力整備へ自衛隊が反映し、予算を政治が、と。

 輸送艦は3隻で良いのか、ローテーションを考えれば重整備入渠時や派米訓練と災害が重なる可能性がある。戦術偵察機を無人偵察機に切替える長期計画は理解できるが、いつまでその能力整備に要するのか、RQ-4はアメリカ軍が東日本大震災に際し情報を提供しましたが、同時に偵察ポッドを積んだF/A-18Fも活躍している、本当に戦術偵察機は不要か。

 こういったものは、オペレーションリサーチを行わなければ、シナリオに発災から大団円までが明記されている形だけの防災訓練では分らないものがあります。訓練はしているし備えている、こういう反論が政治から為されるとするならば、その能力構築の土台は大丈夫なのかとの視点を持たねば、次の大災害に東日本大震災の教訓は、活かせないでしょう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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あの日から十年,3.11東日本大震災追悼【1】復旧が一週間遅れれば復興実現が一年間遠のく

2021-03-07 20:09:50 | 防災・災害派遣
■津波被災地復興への遠い道
 阪神大震災の教訓ですが、復旧が一日遅れれば復興は一ヶ月遅れ復興着手が一週間遅れれば復興実現が一年間遠のく。

 復興というものをどのように考えるか、東日本大震災は発災一年や発災二年という追悼の記憶の深い震災祈念日と比して、大きな区切りとなる発災十年の重責は"復興は実現したのか"という部分に収斂するように思います。しかし、復興と呼ぶには厳しい状況があることも否めません。いや復興は簡単ではない、1995年、阪神大震災後の神戸でもそうでした。

 民を忘れた政治が在った。実際のところ東日本大震災の復興を法的手続きの観点から見た場合は適法で手続きも検証しやすいものです。しかし、これは平時の感覚であり、果たしてあの巨大災害は平時の感覚で復興に臨む事は適当だったのでしょうか。政治、特に政府は建物や街並みの形或る物の建て直しを重視したものの、其処の民を忘れていなかったか。

 津波被災地では復興の実感できない地域がまだ広くあり、これは原発帰還困難地域や核汚染地域に留まらず、津波災害地域全般に当てはまる事例です。難しいのは、時間をかけ高台移転を住民合意の上で実施した地域でも、過疎化が想定外の水準で進んでおり、多くの公的支援と共に移転した地域、新興住宅街であるべき地域で復興が遅れている、という。

 宮城県沿岸部や岩手県沿岸部、原発帰還困難区域を除く福島県沿岸部では、高台造成や沿岸部瓦礫撤去というものは進んだ、住宅再建も可能な範囲内で進んでいる、という印象はあります。しかし、高台移転をどこに行うのか、財源をどうするのか、高齢化世帯の住宅再建資金の問題、復興遅れからの雇用流失による人口減少問題は全く解決されていない。

 戻りたいが戻れない、こういう声は実際のところ、戻る時機を逸したもので、仕事が無いにもかかわらず住宅再建を行う事は出来ませんし、産業が復興できていない地域で公的支援に依存して敢然と地域復興を待つ、というよりは広域避難の先で仕事を探すというのが普通の対応でしょう。だからこそ拙速でも十年前、復興着手を急がねばなりませんでした。

 商店街を箱モノだけ再建したとしても、商店街の活力源は住宅街であり住民です。住民は商店街で自給自足するのではなく、会社や事業所や工場に農林漁業といった生活基盤とともに街を構成するのです。つまりどれか一つを再建しても意味が無いのですね。そして、住民は一時的に別の場所に生活基盤を構築したならば、戻るには経済的負担が大きいのだ。

 震災十年。東北復興の現状を考えるとともに忘れてはならないのは、この規模の災害と言うものは次も必ず発生する、という事です。この規模の、と冠したのは敢えてここに再度津波が襲来するという点ではなく、南海トラフ地震、沖縄トラフ地震、南九州沖地震、宮城沖地震、千島海溝地震、日本海中部地震、どこでいつ起こるかは限らない、という。

 次の巨大災害は必ずやってきます、しかし、どのように復興するのか、復興に必要なコミュニティが解消してしまう前に迅速に復旧を復興に繋げる枠組というものを考えておかねば、南海トラフ地震、沖縄トラフ地震、南九州沖地震、宮城沖地震、千島海溝地震、日本海中部地震、数多可能性ある巨大災害を前に日本という社会が存続できなくなるのです。

 復興の課題。ここを敢えて震災十年の際に考えなければならないのは、復興を迅速とするための、為政者が後年批判される覚悟も含め、枠組みと反省点を十分に検討しておかなければ、順次日本全域が復興できない被災地というもので覆われてしまう、という切迫感があるためです。海溝型巨大地震は頻発しないものの、定期的に発生しているのですから。

 神戸の復興は、都市計画というものの画定にいたるまでは拙速と批判されても速度を重視したために行政手続きを再検証した場合、越権的な決定を政治決断により合法化した事例が散見されました。この背景には復興は着手に一週間遅れれば実現まで一年遅延する、という、住民生活基盤の残る内に着手し実現するという切迫感があったとされています。

 東日本大震災では、復興には多額の予算が確保されたものの、その手続きが煩雑であり、また適用可能と判断された後に些末な書類上欠落や現地調査の手落ち等から必要な予算が突如中止されたり適用除外となる等して復興等の時機を逸する事例も多く、高台移転には合議制を求めた為に先ず住民集会の立ち上げ等に時間を要し、時機を逸した印象が強い。

 復旧が一日遅れれば復興は一ヶ月遅れる、復興着手が一週間遅れれば復興実現が一年間遠のく。この観念の要諦は、電力や水道ガスなどのインフラが復旧しなければ復興のために住民が被災地へ戻れない、被災地に戻ることができなければ時間とともに住民の生活基盤や経済活動基盤が分散してしまい、街を再建しても住民が戻れなくなる、という懸念です。

 東北地方の復興の場合は、決定が一週間遅れることで実現が一年遅れる、という状況が現実化しているようにも懸念します。具体的には高台移転の可否と行政手続きの平時手続きへの固執、政治決断を求められる際の責任者の空白化という状況が遅滞を生んだように思います。そして当時の政府が後世の批判をおそれ、手続き厳格化に固執した点も響いた。

 しかし、復興が遅延しようとも、手続きが明確で合法的であれば、これは政治の怠慢だが、誰も責める事が出来ないのですよね、例えば法的根拠が曖昧でも津波で更地となった被災地で長期浸水地域以外の居住可能地域には、将来、例えば百年後千年後、津波が押し寄せる地域であったとしても、私有地だっても仮設住宅貸与を行うべきであった、とおもう。

 再度津波の危険がある地域には時間を掛けて高台移転を行う、これはある意味妥当に思えるかもしれませんが、高台に適当な住宅地がある訳でもなく、先ず何処に移転するのかの議論から住民参画で行わねばなりませんでした、これは民主主義的手続きではあるのですが、それならば、移転までに元の居住地に仮設住宅を建ててでも人口を維持すべきだった。

 住民参画といっても、結局のところ直接民主主義の手法を持ち込んだものであり、要するにどこまで費用負担できるかの折衝を行政が限られた選択肢を提示した上で住民全体に責任を分散させる手法に他なりませんでした。高台移転が最初に造成し実現したのが2015年といいますが、制度の土台が拙速より手続きを重視した為ですので、致し方なかったとも。

 津波再来に備える事は重要ですが、昭和三陸地震から東日本大震災まで相当時間がありましたし、千年に一度の津波に備えるならば千年単位で造成し、先ずは被災地域に住宅を、万一の際は津波避難に適する高層住宅建設へ公的支援を出す方式に留め、先ず、千年単位の安全を企図した復興よりも、年内に可能な復興を先行させるべきだったとも考えます。

 復興着手は時間との闘いであるが、少なくとも被災地自治体や県庁の切迫感の認識に対して、中央政府は非常時という認識はあってもそれを制度に反映させる事無く平時手続きに固執した状況がありました。少なくとも阪神大震災の様な決断を強いられた際に、政治は、決断を避け平時手続きとした。当時の政治への非難云々でなく、いまの被災地の現実です。

 政治は責任、東日本大震災の復興における大幅な遅れに際して大事だと考えるのは前首相が震災前の第一次内閣時代に述べた気構えでしょうか、具体的には、法令に触れる可能性があっても、法的根拠が曖昧であっても、責任をとる覚悟というものを示さねばならない、逆に教条主義厳格さであっても手続き主義的で怠惰な政治家を主権者は選んではならない。

 実際のところ、津波被災地域ほど、高台移転という百年後千年後の津波に備える手法を政府が固執した事で遅れた復興の着手は、相当長期間に渡り影響は残るでしょう。ただ、復興が不可能であるとは考える必要はありません、次の世代まで要するでしょうが、震災前のコミュニティは分散してしまっても、新しいコミュニティの形成が実現するでしょう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【G3X撮影速報】岐阜基地ファントム撮影,E-2C&P-1&C-1FTB上空大集合(2021-03-03)

2021-03-06 20:01:53 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■E-2C早期警戒機の飛来
 三月三日はひな祭りでしたが敢えてこの日に岐阜基地へと午後から歩みを伸ばしてみました。

 E-2C早期警戒機の着陸、岐阜基地にE-2C早期警戒機は配備されていませんが、ここ岐阜基地に隣接する川崎重工岐阜工場はE-2C早期警戒機の整備及び定期検査などを請け負っていまして、定期的に航空自衛隊へ配備されるE-2Cはここ岐阜に飛来し定期整備を行う。

 T-7練習機、飛行開発実験団に配備されている初等練習機です。思えばWeblog北大路機関の運営を本格化し、此処で撮影を始めた当時は未だ初等練習機はT-7の前のT-3でしたね。航空自衛隊の航空機は着実に機種を更新し、その精鋭を維持しているという一例といえる。

 E-2C早期警戒機、観ての通り従来のE-2Cと比較しプロペラ翅が増大していまして、これは近代化改修の一環として行われているもの、一見E-2D早期警戒機と勘違い思想ですが航空自衛隊が導入するE-2Dは胴体上部の形状がE-2Cとは大きく違いますので識別点です。

 P-1哨戒機、こちらは川崎重工岐阜工場において製造されている国産機です。試験飛行の最中の飛来ですが、観ての通り車輪を出していません、この日の撮影は空の公園各務原、ここは着陸する機体を撮影する撮影立地ですので車輪を出していない状態というのは珍しい。

 P-1,車輪を出していますが胴体側面に小さなプロペラが出ているのはご覧いただけるでしょうか、これはラムエアタービンという非常用発電装置です。すは、エマージェンシーか、と思われるかもしれませんが、試験飛行の一環、緊急時はこの動力でエンジンを点火する。

 F-15がフォーメーションを組んだまま、飛来してきます。どうしても撮影機材がG-3X,コンパクト機種ですのでライトに眩惑されているのは残念、一眼レフならば即座にマニュアル操作でピントを合致させるのですが、コンパクト機種は軽くて使いやすい分、限界がね。

 フォーメーションインを果たしたF-15はそのまま編隊を崩すことなく基地西方を大きく北方へ旋回します、圧縮効果で本当に近く飛んでいるように見えるのですが、上空では200m程度は離隔を採っているのだと思います。もう一度撮影できるというのは、有難いですよ。

 F-15二機編隊で。日常風景の様なタッチ&ゴーの情景もなかなかに基地周辺以外では非日常となってはいるのですけれども、こうした編隊飛行を撮影できるというのは、日常と云えるものではありません、要するにこの日は撮影へ進出してよかった、という事なのです。

 編隊を解いて着陸へ大きく旋回するF-15,そろそろF-4戦闘機が引退する、という頃合いではあるのですがF-15戦闘機も寿命が無い頑丈な設計ではある、そういった設計思想なのですけれども、それでもF-15はF-4が自衛隊に配備された僅か十年後に配備開始という。

 着陸へ向かうF-15戦闘機、F-4戦闘機の十年後に配備開始となった機体、要するにF-4最後の機体に続いてライセンス生産が開始された航空機ですので、そろそろ先が見えているべき機種なのですけれども、一部はF-35に置き換わるもののかなりの数は改修をうけ残る。

 F-4とF-15戦闘機、一寸惜しい事をした構図でしょうか、1秒前にシャッターを押していたならばこのF-4とF-15が重なったはずなのですよね。AF性能では流石に限界のあるコンパクト機種、これで望遠の向こうを撮影する、これは慣れが必要で簡単ではありません。

 ファントムとイーグル、一瞬重なった直後にそのまま岐阜基地上空を飛翔します。もちろんそのまま飛び去るという様なことは無く、旋回して着陸態勢に入ります。なにかエアインテイク部にスペシャルメッセージが記されているのが嬉しい。さあファントムの時間だ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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令和二年度三月期 陸海空自衛隊主要行事実施詳報(2021.03.06-2021.03.07)

2021-03-05 20:12:18 | 北大路機関 広報
■自衛隊関連行事
 今週末は小牧基地にて募集対象者限定事前公募制後方行事が行われるようではありますが自衛隊行事は行われません、さてその原因のCOVID-19について。

 首都圏政府緊急事態宣言布告が二週間延長の方針で既定方針化するようです。日本の場合は致命的な感染爆発を回避できたことで、言葉は悪いですが“この程度の自粛要請”で社会を維持できているように思うのですが、一部に反発もあるようです。現実問題としてロックダウン都市封鎖まで感染を放置した欧州や北米と比較しますと、まだ幸い、とも。

 緊急事態宣言延長に反対という声を側聞しますと、この規模の感染で社会を止めていては経済が回らない、との批判もあるのですが、実のところ遊興や酒宴と旅行に自粛が要請されている範囲内ですので、夜間外出禁止と外出許可証必携の戦時下の様な欧州と比較しますと、しかし抑制的でも外食で飲酒も出来、通勤も自由に行える本邦の規制は極めて低い。

 COVID-19,現実的な数字は致死率2%です、高齢者が危険なだけ、と誤解されていますがWHO発表の重篤化リスクが高い層は昨年五月の時点で高齢者ではなく36歳以上、としています。高齢化の進む我が国では理解されにくいかもしれませんが、こうした認識であると共に昨年12月からの変異種には若年層に脅威度の高い変異株が既に出現しているのです。

 20万人死ぬまで経済を回そう、人命軽視のこういう発想もあるのかもしれません、しかしCOVID-19の最大の脅威は、20万に行ってしまったので急ブレーキ、と為政者が厳しい規制を泥縄式に施行したとしても、制御不能となる、潜伏期間が長く無症患者が無制限に感染拡大させるCOVID-19は制御しようと急に規制を加えても潜伏期間とされる二週間は爆発的感染が。

 ワクチン接種。因果関係不明の死亡例が日本国内で発生しています。重大な副作用発生例はごく僅かではあるものの、例えば既に3000万のワクチン接種を完了させたアメリカでは1000名の接種後因果関係不明事例を中心に死者が出ていますので、この通りの数字が日本国内に発生する場合、因果関係不明を含め人口比で4000名の生命が危険にさらされると。

 感染対策に成功した我が国ですので、一年間の死者数は7000名規模、これも阪神大震災死者数を超えている事は非常に衝撃的ではあるのですけれども、こうした数字で抑えているだけに、副作用で4000名という数字を示されますと、果たして大丈夫なのか、というワクチンリスクと感染リスクの数字が4:7の比率で並んでしまうのが、現状の問題点といえる。

 厚生労働省の昨年3月概算値では、感染対策が取られない場合には一年後に40万が死亡する、という数字がありました、これが回避出来た為、ワクチンリスクは4:7に、当初の数値であれば1:100となっていたでしょうから、感染抑制を成功させたことが感染防止の決め手となるワクチン接種に対しても抑制的な心理を醸成していることは皮肉ではありますが。

 充分な治験と、国産治験が漸く始まった国産ワクチン、これは日本国内の感染者が少なすぎた事で検体も含めワクチン開発が遅れていたという皮肉な事例の積み重ねなのですけれども、時間を掛けた対策を採った方が良いのか、それとも治験レベルでは顕著な危険が生じなかったものの徐々にリスクが指摘された海外製ワクチンか、選べる状況なのですよね。

 この程度の犠牲ならば容認すべき、この緊急事態宣言延長に反対する声には、制御不能となって数万に十数万の死者を出した国々が余りに多すぎる為に全く同調できないのですが、唯一部分的に同調するならば、ワクチンにはリスクは絶無ではないものの、この程度のリスクならば容認すべき、という点でしょうか。COVID-19の方ではなくワクチンに、と。

 政治はリスクを慎重に計算した上でファイザー社製ワクチン、アストラゼネカ社製ワクチンを容認したのではないか。実は国内でのワクチン提供開始までの時間差が在った事を当初不可解に思っていまして、ワクチンリスクを過剰に考える故に責任分散を考えているのではないか、という疑義を昨年11月頃には抱いていたのですが、逆なのかもしれません。

 4000名か7000名、アメリカでのワクチン接種後因果関係不明含む死者数比率を日本国内で同等の犠牲が生じた場合には4000名のリスクがある、もっともアメリカの場合は感染者がワクチン接種に間に合わず、という事例もありますし、ワクチン無関係の疾病も医療制度の比較が日本とは異なる故に軸の相違が存在しますが、この通りリスクはあるのですね。

 緊急事態宣言延長、ここに様々な意見がある事は承知します、しかし地方自治法に基づく感染症対策を授権された都県知事が冷静に科学的知見と医学的数値を元に算出された助言を元に判断された延長要請、これを政府が受け留めた構図です。現状の程度の規制を維持すれば、東京大空襲や広島原爆のような死者は出ません、この点が重要だと考えるのです。

■駐屯地祭・基地祭・航空祭

・今週末の行事なし

■注意:本情報は私的に情報収集したものであり、北大路機関が実施を保証するものではなく、同時に全行事を網羅したものではない、更に実施や雨天中止情報などについては付記した各基地・駐屯地広報の方に自己責任において確認願いたい。情報には正確を期するが、以上に掲載された情報は天候、及び災害等各種情勢変化により変更される可能性がある。北大路機関
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【京都幕間旅情】見樹寺,軍港都市舞鶴の西舞鶴愛宕山麓には田辺城と細川幽斉所縁の寺院あり

2021-03-04 20:01:19 | 写真
■田辺藩主牧野氏菩提寺
 舞鶴と云えば昔の鎮守府、ひゅうが、あたご等数多護衛艦母港の舞鶴基地を思い浮かべますが其処は東舞鶴でありまして、一方の西舞鶴には昔からの古い町並みが広がる。

 見樹寺、けんじゅじ、と読みます。ここは舞鶴、田辺藩主牧野家の菩提寺です。舞鶴とれとれセンター、日本海の海産物はもちろん遠く北海道は小樽より北海より海の幸を新日本海フェリーにて運び並べる道の駅、お寺はその山手は愛宕山麓いや中腹に鎮座しています。

 西舞鶴駅、今では舞鶴として京都府日本海側最大の都市を形成するこの一帯かつては田辺といい、細川幽斉が1579年に田辺城を築城しました。西舞鶴駅の舞鶴警察署前には田辺城の大手門だけが復元され当時の面影を伝えますが、実はこの見樹寺と城郭はゆかりがある。

 城郭を思わせる重厚な石段の奥に山門が広がり、なるほど舞鶴の市街地を一望する小高い場所に立地しています。この城郭のような重厚な出で立ちはそれもそのはず、ここは元々田辺城、舞鶴城としても知られる、その城郭の支城として一角を形成していたためという。

 京極高三。1600年に関ヶ原の戦い勲功を以てこの地に転封されました京極氏、もともとは室町幕府開府に際し足利高氏に付き従い六波羅を攻め室町幕府樹立の功労者となった系譜の武将は隠居の際、細川幽斉所縁の寺院があります舞鶴愛宕山に庵を開くこととしました。

 愛宕山といいますと京都西方の鎮守である愛宕神社の愛宕山を思い浮かべますが、田辺城から見上げる203mの小峰である愛宕山、ここに京極高三は瑞泰寺という庵を開き、京極氏の菩提寺としました。しかし領地経営に長けた京極氏は隣の豊岡藩に転封となります。

 瑞泰寺、ここ田辺藩を受け継いだのは牧野親成、徳川秀忠の小姓として出仕し江戸書院番や京都所司代を務めた、戦国時代から太平の時代への武家政権転換期、文系武将というべき新時代の武士です。書院番などの実績が認められ関宿藩藩主、そしてここ田辺藩へ。

 京極高三の田辺との系譜は、娘婿にあたる牧野富成が田辺藩二代藩主となりまして、豊岡と田辺は親類縁者として結ばれるのですね。牧野富成は旗本の子として下総に生まれ四代将軍徳川家綱の小姓として取り立てられます。この牧野富成の時代、瑞泰寺は遷座します。

 阿弥陀如来を奉じる寺院。見樹寺として御山の山号を瑞泰寺から改めたのは牧野富成の時代であり、そしてこの遷座とともに見樹寺は牧野家の菩提寺となりました。以来、田辺藩は牧野氏が明治維新まで代々藩主を務めることとなり、この地は良政に治められたという。

 大石灯籠。見樹寺には赤穂浪士で知られる大石蔵助に縁有る石灯籠があります、これは大石蔵助の妻りく、その曾祖父横田清左衛門が寄進した灯籠、赤穂浪士の忠君を讃える意味で舞鶴では崇敬を集め、赤穂浪士から数百年、いまでは舞鶴最古の石灯籠となっています。

 細川幽斉。明智光秀の盟友です。京都は東山に室町幕府の幕臣三淵晴員の子として生まれ足利義晴を支える幕臣として名を挙げ、足利義昭将軍宣下へも尽力。この際に明智光秀と盟友となり、後に織田信長に仕えています。ただ盟友ですが本能寺の変には加わりません。

 愛宕山。見樹寺の始まりはこの山頂に細川幽斉が開いた小寺だったわけなのですが、明智光秀が本能寺の変へ出兵したのは、愛宕山の愛宕神社なのですね。光秀からの再三の参陣を求められつつ後の天王山の戦いへ中立を保った武将が、ここに山門を、なにか感慨深い。

 あたご。舞鶴といえばイージス艦あたご、海上自衛隊舞鶴基地がもっとも活況を集める昨今ではありますが、かつての広大な田辺城の一角を構成した舞鶴愛宕山麓の見樹寺へも散策の歩みを伸ばしてみますと、軍港都市の遙か昔を感じることができるかもしれません。

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もがみ(FFM01)三菱重工長崎にて本日進水式-重巡洋艦最上を継承,二番艦くまの共に来年竣工

2021-03-03 20:12:00 | 先端軍事テクノロジー
■3900t型は護衛艦もがみ型へ
 もがみ。3900t型護衛艦として海上自衛隊が大量に導入する新型艦の一番艦が本日長崎にて進水式を迎えました。

 もがみ。これは二番艦くまの先行で命名式が執り行われ一番艦が命名されない事には本型を何型の二番艦かと云えなかった為に、漸くの一歩です。もがみ型護衛艦は、はつゆき型、あさぎり型、冷戦時代末期に大量建造、この冷戦時代の遺産と云うべき護衛艦が2010年代に入り急激に増大した中国海軍脅威へ対応できましたが、旧式化したこれらの後継という。

 基準排水量3900t、もがみ型護衛艦は名前こそ沿岸護衛艦を意味するDE,ここに伝統的に冠せられた河川名を踏襲していますが、その排水量は旧海軍の天龍型軽巡洋艦や軽巡洋艦夕張以上に大型となっています。はつゆき型が2900t、あさぎり型が3500tでしたので大量建造される護衛艦ではあるのですが、相応に大型化し厳しい将来の任務へ臨む事となります。

 30FFM、こう称された背景には一番艦と二番艦の予算が平成30年度予算において要求されたためでした。平成30年度予算概算要求では本型2隻が964億円で要求されまして、財政難から1隻へ縮小されるところを毎年2隻を建造する目的の艦であるとして大臣折衝で2隻建造が実現、2隻922億円を初度費は別として建造しています。それが、もがみ、くまの。

 もがみ。三菱重工業長崎造船所にて一番艦として2019年10月29日に起工されました、もがみ型護衛艦、命名されたのは本日でして、本日午前中までは3900t型護衛艦や30FFMと呼称されていました。二番艦くまの、こちらは三井E&S造船玉野艦船工場にて一日遅れの2019年10月30日に起工しているのですが、一番艦建造最中、タービン破損が見つかる。

 くまの進水式2020年11月19日に執り行われています、こちらは順調に建造がすすんだためでして2022年3月に竣工する予定となっています。もがみ竣工も同時期が予定されているのですが、進水式で三か月半も期間が空いていますので、同時に竣工できるかは定かではありません。ただ、現在6番艦まで予算が通り3番艦から5番艦までは長崎で建造です。

 最上。護衛艦もがみ、は旧海軍の巡洋艦最上の名を継承する護衛艦としては二代目となります。重巡洋艦最上は日本海軍草創期の通報艦最上艦名を継承した二代目ではあるのですが、太平洋戦争に参戦した巡洋艦最上は数々の海戦に参加し、マレー作戦、バタビア沖海戦、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦と戦積を数え、最後はレイテ沖海戦に散りました。

 いすず型護衛艦もがみ。旧海軍の最上は戦後海上自衛隊においても強く印象付けられるものであり、1961年に護衛艦いすず型3番艦としてその名が継承されています。いすず型とは小型護衛艦、一番艦いすず、は旧海軍において水雷戦隊旗艦として又対潜掃討部隊旗艦として活躍した巡洋艦五十鈴の艦名を継承したもので、護衛艦としての任務も対潜でした。

 FFM,こう称される本型はフリゲイトを示す“FF”と機雷戦や多機能を意味する“M”を冠している新型艦ですが、海軍の巡洋艦最上も、多種多様な運用を担いました。最上型巡洋艦はロンドン海軍軍縮条約下で軽巡洋艦を艦砲6インチ砲まで、排水量1万tとしていまして、元々5000t程度であった軽巡洋艦は一万トンに何門6インチ砲を積むかが重視される。

 軽巡洋艦として建造された最上型はロンドン軍縮条約が期限切れとなりますと、艦砲を8インチ砲に換装、これにより条約型戦艦に対し限定的ではありますが対抗できる打撃力を保持します。しかし日本海軍はミッドウェー海戦以降、水上打撃力が航空打撃へ移行すると共に最上を航空巡洋艦へ改装し、水上爆撃機10機を運用する新区分の巡洋艦としました。

 FFMは、流石に航空巡洋艦になる事は出来ませんが、127mm艦砲とSEA-RAM個艦防空ミサイル及び17式艦対艦ミサイルを搭載し、多目的ドックに無人艦艇、SH-60哨戒ヘリコプターを搭載しますが、将来はVLSに国産AAM-4艦対空ミサイル技術を応用したA-SAM新艦対空誘導弾や、射程が大幅に延伸される地対艦ミサイル艦載型を装備する方針です。

 ちくご型護衛艦くまの。現在建造中の二番艦くまの先代は護衛艦ちくご型に続く護衛艦二代目でした。そして今回は護衛艦いすず型もがみ続く護衛艦二代目、この意味するところは。海上自衛隊は本型を22隻と大量に建造する方針です、故に11隻が建造された護衛艦ちくご型、4隻とはいえ短期間で整備された護衛艦いすず型の名を継承した、といえます。

 三菱重工業長崎造船所は有名な長崎市のグラバー園対岸にありましてイージス艦こんごう筆頭に多数の護衛艦を建造し、旧海軍も戦艦武蔵等強力な艦艇をこの造船所にて建造しています。建造の様子は対岸からも良く見えまして、護衛艦もがみ建造の様子は今年いっぱいから護衛艦として竣工する来年まで、長崎の情景の一つとなるのかもしれませんね。

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【防衛情報】IDEX-21アブダビ国際兵器展,ロシア次世代戦車T-14アルマータとF-35の影

2021-03-02 20:20:05 | 先端軍事テクノロジー
■特報:世界の防衛,最新論点
 IDEX-21アブダビ国際兵器展の速報、ロシアが開発するアルマータ戦車は自衛隊の戦車でいかに対抗しるのかという視点で興味深い存在ですが、アブダビで動きが。

 IDEX-21アブダビ国際兵器見本市においてロシアは最新鋭戦車T-14アルマータの改良型を展示しました。これは二月中旬にロシアが発表したもので、T-14の将来発展型についても詳細を発表しています。これによればアルアータ戦車は現在125mm戦車砲を搭載していますが将来的には極めて強力な新型の152mm戦車砲への転換を計画しているとのこと。

 T-14アルマータ戦車の将来型は、TASS通信の関連報道において152mm砲から戦車砲弾やミサイルを発射するとともに偵察用無人機をも152mm砲から投射するものとしており、更に電子装備を強化する事で1km以内の戦車接近を自動感知し追尾する複合光学システム、ミサイル誘導を自動検知し電子的に無力化する電子戦システムなどの搭載を構想している。

 将来戦車として開発されたアルマータは、改良型の前に現行生産されていません、電子装備の強化により火器管制装置は6km以遠の目標を識別させる車長用外部視察システム等も構想しているようですが、同時に2015年に対独戦勝70周年観閲式にて行進し新世代を印象つけさせたアルマータ戦車は2021年においても事実上未完成である事を示唆しています。

 IDEX-21アブダビ国際兵器見本市に展示されるロシアの次世代戦車T-14アルマータは、将来的に24時間にわたる無補給での戦闘を想定した人間工学上の配慮と居住性が付与されるとの方針が示されました。これは世界の戦車を見ても24時間連続稼働する戦車は数多ありますが、食事や手洗い等で乗員は幾度か下車せねばなりません、しかしアルマータは。

 24時間戦闘能力は乗員が一度も下車する事無く戦闘を展開する事を目指しており、人間工学上の配慮とは喫食は勿論、仮眠や手洗い施設などの設備追加を意味しているのでしょう。アルマータ戦車は戦車砲を152mmとする方針で、冷戦時代にガンランチャーとして搭載したアメリカM-551等を除けば世界最大です。しかし連続乗車は更に新しい次元の概念です。

 ロシアのロステック社はIDEX-21アブダビ国際兵器見本市においてブーメラン装甲車を展示しブーメラン装甲車には各国製武器システム等のモジュールを搭載する事が可能であると発表しました。ブーメラン装甲車はロシア軍がBTR-80装輪装甲車の後継とするべく開発した装甲車ですが、ロシア財政難により調達配備は伸び悩み量産が進んでいません。

 VPK7829共通車体として開発されたブーメランは25t型のK-17装甲戦闘車両と22t型の水陸両用装甲車が開発されており、BTR-80は車両側面の小型扉から乗降しますがブーメラン装甲車は後部兵員室から乗降する合理的な設計となっています。ロシア軍では共通車体に各種モジュールを搭載する事で装甲車両体系を構築するものですが、予算が足りません。

 ブーメラン装甲車を輸出する事で、取り敢えずの量産体制を確立させたい、という事でしょう。各国製武器システム等のモジュールを搭載する事が可能、これは砲塔ビジネスと称されるような販売手法があり、各国では完成車体を開発するのではなく、既存装甲車に搭載可能な砲塔システムを単体で販売するもので、装甲車の能力向上に用いられる方式です。

 IDEX-21アブダビ国際兵器見本市、2月21日から25日に行われた世界最大規模の兵器見本市においてスロバキアのCSM社はTATRA815-UDS工兵掘削車を展示すると共にアラブ首長国連邦のIGG社との間で企業間提携を締約したと発表しました。TATRA815-UDSは建設工兵用の器材であり、タトラ製六輪型大型トラックに工兵器材を搭載したものです。

 TATRA815-UDSは、大型バケットを基本としてアタッチメント方式にて作業装置一式をトラック荷台に搭載しています、タトラはチェコスロバキア時代からの欧州を代表するトラックメーカであり、各種軍用トラックは勿論、装輪装甲車や装輪自走榴弾砲なども冷戦時代から優れた製品を製造しています。輸出に際し現地へ合弁企業は近年の新しい潮流です。

 IDEX-21アブダビ国際兵器見本市においてロシア当局者はロシアが開発する第五世代戦闘機Su-57に関連する展示を行いましたが、当局者の話として中東諸国ではSu-57E戦闘機に関心を示した国は無かった、22日付TASS通信が報道しました。ただ、同じ当局者の話として中東諸国以外の国であればSu-57Eについて、関心を示す事例はあったとのこと。

 中東諸国ではSu-57Eに関心を示さなかった分、イスラエルに続きアラブ首長国連邦が導入するアメリカ製F-35戦闘機についての関心は深く、サウジアラビアもF-35戦闘機の導入を希望しているとのこと。またアラブ首長国連邦はF-35に続いてMQ-9無人偵察機の導入を行う希望を示しており、第五世代戦闘機と無人機の分野で米ロの技術差が垣間見えます。

 アラブ首長国連邦は2月22日、スウェーデンのサーブ社からグローバルアイ早期警戒機三号機を導入したと発表しました。グローバルアイ早期警戒機はボンバルディア製ビジネスジェットのグローバル6000にサーブ社が新しく開発したエリアイエクステンデッド長距離レーダーを搭載したもので、アラブ首長国連邦は2020年4月と9月に納入されている。

 グローバルアイ早期警戒機はアラブ首長国連邦空軍へ5機が納入される事となっており、これは広範囲の航空機を長距離で探知し追尾する能力とともに近年特に脅威度を増している簡易無人機による長距離攻撃に対しても探知能力を発揮します。丁度IDEX-21アブダビ国際兵器見本市が開催されている最中に納入を合せた点は商業的な視点もあるでしょう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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