周りに合わせて自分を制したり抑えたりし、波風立てずに暮らしていくのがつらくなり、リラックスし自然体で自分の道を歩むようになると不思議な現象に出会う。自然体でいる自分から離れていく人がいる一方、不思議に近づいてくる人も出て来る。このようなことは、人生のいろいろな局面でおこるようだ。
小学校の2年生の時にアラスカに生き、一年足らずに日本に戻ったときもそうであった。子供だから大人より自由にしているわけだが、同じことをしてもアラスカでは褒められるのに、日本では叱られたりする。大人になって「生き甲斐の心理学」を学んでからAという環境・文化からB、C, Dといった異なる環境・文化に移った経験をしたが、これまた同じ。同じ自分なのに周りの反応が異なるのだ。
さらに、「生き甲斐の心理学」を学んでいくなかで、環境・文化といった大きな枠組みではなく、集まってる人による場の雰囲気で反応が大きく変わることに気づく。深層心理学的に「自分以外の他人は驚きの対象」ということを学んだが実にそのとおりなのだ。
さて、今日はここで終わらない。1970年台に読んでいたく感動した石牟礼道子の「 苦海浄土」 のことを思い出したからである。当時は公害問題がクローズアップされており、その流れの中で読んだ本であるが、自分の人生に影響を与えたようだった。普通ではない中でこそ人間とは何かが問われる。「生き甲斐の心理学」の人間観は「人の身体は神の神殿」という聖パウロの思想の影響が大きいが、50歳代になって福祉の世界に入り、障がい者の世界に足を踏み入れたのは「 苦海浄土」 の影響もあったかもしれない。人間の本質。人間の尊厳とか言われるが、それは本当に尊く美しい。
個性の美とは何か。一人ひとりの「自分以外の他人は驚きの対象」と言われる領域の先に、魂の世界、美の世界があるのではないだろうか。
ところで縄文時代はどうだったのだろうか。中期の村は複数のグループから成り立ち、そのグループ間では交流関係が殆どないということが一般的だったという説がある。生活の中にうまく多様性を取り入れていたのかもしれない。考えてみれば井上ひさしの短編だったか、日本語の標準化の前などは、例えば江戸の屋敷にはいろいろな地方からの使用人がいて、東北と九州の人との間では方言で通じなかったそうだ。そういう時代が日本では当たり前で、縄文時代はさらにその上を行っていたと考えられないだろうか。
最後に、他人の個性の美を意識するようになると、不思議な効果があり自分の個性の美に気づき始める。とかく他者否定や自己否定の方向に走りがちな私であるが、自他肯定の道を歩むうえでも個性の美を意識することはとても役立つようだ。
2/10 愛の孤独から
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