(愛知県幡豆町寺部 2005年5月31日)
先回訪れてから14年の歳月が流れ、三河湾に面する城跡も整備が進んだ。
本丸、二の丸、三の丸、堀、土塁といった案内標示等が設けられ、整備範囲は狭いながらも、分かりやすくなっていた。
寺部城は、永正十一年(1514)それまでの早川三郎に代わって今川氏臣小笠原定政が居城し、定正、広政、重広、信元と続いた。
永禄年間、徳川勢が寺部城を攻め込み、小笠原氏は家康の家臣となった。そして天正十八年(1590)小笠原信元のとき、家康の関東移封に伴って上総富津に移り、二千五百石の旗本となっている。

(関連記事:西幡豆)
先回訪れてから14年の歳月が流れ、三河湾に面する城跡も整備が進んだ。
本丸、二の丸、三の丸、堀、土塁といった案内標示等が設けられ、整備範囲は狭いながらも、分かりやすくなっていた。
寺部城は、永正十一年(1514)それまでの早川三郎に代わって今川氏臣小笠原定政が居城し、定正、広政、重広、信元と続いた。
永禄年間、徳川勢が寺部城を攻め込み、小笠原氏は家康の家臣となった。そして天正十八年(1590)小笠原信元のとき、家康の関東移封に伴って上総富津に移り、二千五百石の旗本となっている。

(関連記事:西幡豆)