(岐阜市加納丸之内 2004年9月12日)
加納城は元々、文安二年(1445)に土岐氏家宰斎藤利永によって築かれたのが始まりであるが、天文七年(1538)に一旦廃城となる。
その後慶長六年(1601)に岐阜城が廃城となり、岐阜城天守の廃材を加納城再建のため、加納城二の丸櫓に利用したといわれている。また、川手城跡の土砂も利用し、造成が行われた。
加納藩奥平氏十万石として始まり、寛永九年(1632)からは奥平信昌の娘婿大久保忠職が入城、寛永十六年(1639)に明石藩へ移封となったため松平氏が入城。
正徳元年(1711)からは備中松山から安藤氏、宝暦六年(1756)からは武蔵岩槻から永井氏が入城。以後明治廃藩まで続いた。
現在は公園となっているが、石垣と堀の一部が残されている。
1983年に国指定史跡となった。
加納城は元々、文安二年(1445)に土岐氏家宰斎藤利永によって築かれたのが始まりであるが、天文七年(1538)に一旦廃城となる。
その後慶長六年(1601)に岐阜城が廃城となり、岐阜城天守の廃材を加納城再建のため、加納城二の丸櫓に利用したといわれている。また、川手城跡の土砂も利用し、造成が行われた。
加納藩奥平氏十万石として始まり、寛永九年(1632)からは奥平信昌の娘婿大久保忠職が入城、寛永十六年(1639)に明石藩へ移封となったため松平氏が入城。
正徳元年(1711)からは備中松山から安藤氏、宝暦六年(1756)からは武蔵岩槻から永井氏が入城。以後明治廃藩まで続いた。
現在は公園となっているが、石垣と堀の一部が残されている。
1983年に国指定史跡となった。
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