昭和58年、私は豊川市市田町の伊知多神社南側崖面下から布目瓦片と瓦質の線刻仏画片を採集した。この地に郡明神が存在していたことが分かっている点や三河国府に近いこと、奈良平安時代の遺物が散見できることなどから、宝飯郡衙が存在しただろうと想定していた。その後、昭和61年、同じ場所が崖面災害防止工事を行うことになり、その際瓦堆積層が見つかって発掘調査が行われた。
布目瓦片は厚みが薄い小片で、寺院のような大規模な建物で使用されるものではないと推察する。また、線刻瓦片は、非常に薄手で、裏面に線刻を施し、串状のもので簡単になぞった単純な仏画であるが、天蓋や光背などが線刻されており、貴重な瓦片といえるであろう。或いは仏教末法思想が広まった平安後期頃に多量につくられた、瓦経の一種である可能性もある。然し、線刻仏画胴体付近が不鮮明、欠損をしているためはっきりしたことはわからない。
これらにより、この地が単なる遺物包含地ではないことが明確となったといえる。
※布目瓦: 奈良・平安時代に造られた素焼きの瓦。成形の際、木型から取り出し易くするため、瓦と木型の間に挟んだ布が跡形として残り、これを見て布目瓦という。
※郡明神: この時代の郡として祀ったお宮。
※郡衙(ぐんが): 奈良・平安時代の郡役所。
※瓦経: 仏法の途絶える末法の世まで経典を残すために、瓦質の土器に経文を刻んだ経。
布目瓦片は厚みが薄い小片で、寺院のような大規模な建物で使用されるものではないと推察する。また、線刻瓦片は、非常に薄手で、裏面に線刻を施し、串状のもので簡単になぞった単純な仏画であるが、天蓋や光背などが線刻されており、貴重な瓦片といえるであろう。或いは仏教末法思想が広まった平安後期頃に多量につくられた、瓦経の一種である可能性もある。然し、線刻仏画胴体付近が不鮮明、欠損をしているためはっきりしたことはわからない。
これらにより、この地が単なる遺物包含地ではないことが明確となったといえる。
※布目瓦: 奈良・平安時代に造られた素焼きの瓦。成形の際、木型から取り出し易くするため、瓦と木型の間に挟んだ布が跡形として残り、これを見て布目瓦という。
※郡明神: この時代の郡として祀ったお宮。
※郡衙(ぐんが): 奈良・平安時代の郡役所。
※瓦経: 仏法の途絶える末法の世まで経典を残すために、瓦質の土器に経文を刻んだ経。