原作が三浦綾子さんのものだとは信じられないくらい、家族の間のドロドロとした救いようのないようなストーリーだった。原作は読んでいないので何とも言えないのだが、三浦さんは「家族とはいっても、中には不条理な形もある」ということを言いたかったのだろうか?
「めだかの学校」4月11日開催の「映画の中の北海道」は、今回、三浦綾子原作・増村保造監督で、1968(昭和43)年、大映が制作した「積木の箱」が取り上げられた。
映画は三浦綾子さんが住まわれていた旭川が舞台となっている。しかし、映画で旭川の情景が映されるものの、そこに俳優たちの姿はなく、ロケが旭川では行われなかったそうだ。
当時、大映はかなりの苦境に立たされていたということなので、ロケもままならなかったということが真相のようだ。
映画は、北海道の観光王として羽振りを効かせる佐々林豪一が嫁妾を同居させ、さらには会社の秘書にも手を出すなど、無茶苦茶な家庭生活を強いている様子を克明に描いてゆく。
原作者であるクリスチャンの三浦綾子は自作の映画化を見て嘆いたのではないだろうか?映画は成人指定ではなかったかと思えるくらい、危ういシーンが多い。もっとも、ウェブ上で見ると、監督の増村保造はそうした映画づくりが得意な監督でもあったらしい。
そうした映画だったが、今回の映画のナビゲーターのS氏は三浦綾子さんが原作について説明した次の文章を提示してくれ、救われた思いがした。その文章とは…
《原作「積木の箱」より》
犯人だと知られて、この一郎は自分を憎んでいるにちがいない。帽子まで証拠に握られては、殺したいほど憎いかも知れないのだ。それが秘密を握られた者の心理かもしれない。
悠二(一郎の担任)は、今夜佐々林家を訪ねてみようかと思った。だが、おそらく徒労であろう。悠二は二度訪ねた佐々林家を思った。豪壮な邸宅に反比例して、何と寒々とした空虚な家であろう。人の心や愛情よりも、世間体や、名誉や、地位や、そして金が何よりも大事な人種なのだ。そこに育った一郎は、豪一やトキ(豪一の妻)の生き方に反発しながらも、次第にスポイルされていくのだろう。
(あの親たちは、子どもを毒するだけなのだ)
悠二は心からそう思った。いくら教師が、全員まじめに生徒を導こうとしたところで、家庭が動揺していてはどうにもしょうがない。積み木細工のように、がらがらと、すぐに崩れてしまうのだ。小さな崩れなら、ある程度教育で防ぐこともできるだろう。
しかし、人間の心の奥底から、なだれるように崩れ落ちてくるものを、果たして教育だけでくいとめることができるだろうか。できるわけはないと悠二は思った。
「佐々林、先生は放火犯人が立ちなおるように祈るよ。君も一緒に祈ってくれないか」
促されて一郎はのろのろと立ち上がった。