エピローグ
「富士山 Sea to Summit」 を終え、帰宅してから一週間が経とうとしている。身体の中には4日間の疲れの記憶が微かに残っている。しかし、その記憶も一両日中には過去へのものと消え去るだろう。私の振り返るシリーズも今回を最後としたい。最後は今回の“旅”そのものを振り返ってみることとした。

※ できるだけ未掲載の写真を、と考えたときにM女史がフェイスブックに載せた写真を拝借しようと思った。
写真は私が太平洋に向かうところを撮っていただいたものです。(以下3枚がM女史提供)
私が今回の富士山の剣が峰登頂を目ざそうとしたのには、次のようなキッカケがあった。
そのキッカケとは、2013年7月に私が初めて吉田口から富士山登頂を果たし「日本のてっぺんに登ってきました!」というブログを発信したところ、知らない方から「剣が峰に立ったのか?剣が峰に立ってこそ富士山登頂といえるのだ」というコメントをいただいた。
実は2013年のときは、高山病に罹り吉田口山頂までが精一杯で、剣が峰は断念していたのである。そのため、先のコメントは私の中にず―――――っと気がかりな一事となっていて、「いつかリベンジを!」との思いがくすぶっていた。

※ 「はじまりの鐘」のところで登山の安全を祈願する私です。
その後も趣味として札幌近郊の山々を登っていたが、徐々に体力の低下も自覚するようになってきた。そうしたこともあり、「リベンジするなら今年だ!」との思いが強くなった。
その際、前回と同じようにツアーで吉田口から再び登るのは芸がないなぁ、という思いもあった。今回は単独で別の登山口から、ということがまず私を支配した。

※ 第一日目は不完全ながらも頭上高く聳える富士山を目ざしてスタートしたのですが…。
さらには、海抜〇(ゼロ)メートルから登るという方法があるようだが、私にもできるだろうか?という思いが頭をもたげ、思い切って挑戦してみることにした。このあたりの経緯については「Sea to Summit 富士山登頂計画」の中で触れているので復唱は避けたい。
さらに今回の「富士山 Sea to Summit」に意味付けを加えたのが、私自身の70歳(古希)の誕生日の日に剣が峰に立とう、と思いついたことだ。
この思い付きには我が意を得たりという思いだった。自分の節目の誕生日を最高の形で迎えられることができるとの思いにワクワクするのを禁じえなかった。
構想が固まったことで、私は走り始めた。旅の全体計画を作成し、それに基づいて、航空便を手配し、宿泊先を確保し、高速バスを予約し、と…。
実は旅をするとき、全体計画を立て、それに伴う各種の予約作業をする、この時間が実はとても楽しい時間である。私の場合、できるだけ安価な手段を選択するようにしているのだが、結果として旅行社などを通した方が割安になる場合もあるが、私はこの作業を手放したくない。私の場合は、そこから“旅”は始まっているからだ。インターネット時代に入り、自宅のパソコンから旅のすべてをプロデュースできることになったことで、“旅”する楽しみが増えた思いである。

※ 私の今回の旅で、最も印象的だった一枚を掲載します。
そしてブログである。ブログで自らの“旅”を公表すること、ブログで自らの“旅”の様子をライブで発信すること、こうしたこともインターネット時代に入って“旅”の形を変えることにつながっている。
2007年にベトナムへオシムジャパンのサッカー観戦に出かけたときは、まだ海外からブログを投稿するノウハウを身に付けていなかった。しかし、その後にアメリカ、ニュージーランドを旅した時には海外であるにも関わらず一日も欠かさずブログ投稿を続けてきた。
旅をライブで発信することは、私の場合、旅するうえでのモチベーションを高める役割を果たしている。また、家族などに無事を伝える役割を果てしているとも思っている。
ただ、今回のような冒険的、挑戦的な旅の場合は、ブログで公表していることで、無理をしてしまうというリスクを負っていることを自覚する必要がある。けっして無理はしない、ということをこの旅では心がけたつもりである。

※ 海抜〇メートル太平洋で採取した海水と砂利は結局我が家に持ち帰ってしまいました。
こうして迎えた本番。そのことについてはライブレポで伝えたとおりである。けっして楽な旅ではなかった。炎暑に苦しみ、暴風雨におののき、疲労と闘い、登山に入ったときには、すでに私の筋肉は疲労の極致という状態だった。
しかし、時間はかかろうとも一歩一歩が確実に山頂(剣が峰)に近づいているという登山の摂理が私を山頂へと押し上げた。
そうして立つことができた富士山の剣が峰は、何にも勝る悦びを私に与えてくれた。
私は70歳の誕生日という記念日に、最高のプレゼントを自分に与えることができた思いである。

※ 旅での唯一購入した記念物は山頂の売店で購入した富士山がデザインされた手拭いでした。
そして、私が体験してきた数ある“旅”の中でも今回の“旅”は記念碑的な旅になったと思っている。
東京での一日、高尾山に登るというアイデアにも私は満足してしまった。自画自賛? (了)
「富士山 Sea to Summit」 を終え、帰宅してから一週間が経とうとしている。身体の中には4日間の疲れの記憶が微かに残っている。しかし、その記憶も一両日中には過去へのものと消え去るだろう。私の振り返るシリーズも今回を最後としたい。最後は今回の“旅”そのものを振り返ってみることとした。

※ できるだけ未掲載の写真を、と考えたときにM女史がフェイスブックに載せた写真を拝借しようと思った。
写真は私が太平洋に向かうところを撮っていただいたものです。(以下3枚がM女史提供)
私が今回の富士山の剣が峰登頂を目ざそうとしたのには、次のようなキッカケがあった。
そのキッカケとは、2013年7月に私が初めて吉田口から富士山登頂を果たし「日本のてっぺんに登ってきました!」というブログを発信したところ、知らない方から「剣が峰に立ったのか?剣が峰に立ってこそ富士山登頂といえるのだ」というコメントをいただいた。
実は2013年のときは、高山病に罹り吉田口山頂までが精一杯で、剣が峰は断念していたのである。そのため、先のコメントは私の中にず―――――っと気がかりな一事となっていて、「いつかリベンジを!」との思いがくすぶっていた。

※ 「はじまりの鐘」のところで登山の安全を祈願する私です。
その後も趣味として札幌近郊の山々を登っていたが、徐々に体力の低下も自覚するようになってきた。そうしたこともあり、「リベンジするなら今年だ!」との思いが強くなった。
その際、前回と同じようにツアーで吉田口から再び登るのは芸がないなぁ、という思いもあった。今回は単独で別の登山口から、ということがまず私を支配した。

※ 第一日目は不完全ながらも頭上高く聳える富士山を目ざしてスタートしたのですが…。
さらには、海抜〇(ゼロ)メートルから登るという方法があるようだが、私にもできるだろうか?という思いが頭をもたげ、思い切って挑戦してみることにした。このあたりの経緯については「Sea to Summit 富士山登頂計画」の中で触れているので復唱は避けたい。
さらに今回の「富士山 Sea to Summit」に意味付けを加えたのが、私自身の70歳(古希)の誕生日の日に剣が峰に立とう、と思いついたことだ。
この思い付きには我が意を得たりという思いだった。自分の節目の誕生日を最高の形で迎えられることができるとの思いにワクワクするのを禁じえなかった。
構想が固まったことで、私は走り始めた。旅の全体計画を作成し、それに基づいて、航空便を手配し、宿泊先を確保し、高速バスを予約し、と…。
実は旅をするとき、全体計画を立て、それに伴う各種の予約作業をする、この時間が実はとても楽しい時間である。私の場合、できるだけ安価な手段を選択するようにしているのだが、結果として旅行社などを通した方が割安になる場合もあるが、私はこの作業を手放したくない。私の場合は、そこから“旅”は始まっているからだ。インターネット時代に入り、自宅のパソコンから旅のすべてをプロデュースできることになったことで、“旅”する楽しみが増えた思いである。

※ 私の今回の旅で、最も印象的だった一枚を掲載します。
そしてブログである。ブログで自らの“旅”を公表すること、ブログで自らの“旅”の様子をライブで発信すること、こうしたこともインターネット時代に入って“旅”の形を変えることにつながっている。
2007年にベトナムへオシムジャパンのサッカー観戦に出かけたときは、まだ海外からブログを投稿するノウハウを身に付けていなかった。しかし、その後にアメリカ、ニュージーランドを旅した時には海外であるにも関わらず一日も欠かさずブログ投稿を続けてきた。
旅をライブで発信することは、私の場合、旅するうえでのモチベーションを高める役割を果たしている。また、家族などに無事を伝える役割を果てしているとも思っている。
ただ、今回のような冒険的、挑戦的な旅の場合は、ブログで公表していることで、無理をしてしまうというリスクを負っていることを自覚する必要がある。けっして無理はしない、ということをこの旅では心がけたつもりである。

※ 海抜〇メートル太平洋で採取した海水と砂利は結局我が家に持ち帰ってしまいました。
こうして迎えた本番。そのことについてはライブレポで伝えたとおりである。けっして楽な旅ではなかった。炎暑に苦しみ、暴風雨におののき、疲労と闘い、登山に入ったときには、すでに私の筋肉は疲労の極致という状態だった。
しかし、時間はかかろうとも一歩一歩が確実に山頂(剣が峰)に近づいているという登山の摂理が私を山頂へと押し上げた。
そうして立つことができた富士山の剣が峰は、何にも勝る悦びを私に与えてくれた。
私は70歳の誕生日という記念日に、最高のプレゼントを自分に与えることができた思いである。

※ 旅での唯一購入した記念物は山頂の売店で購入した富士山がデザインされた手拭いでした。
そして、私が体験してきた数ある“旅”の中でも今回の“旅”は記念碑的な旅になったと思っている。
東京での一日、高尾山に登るというアイデアにも私は満足してしまった。自画自賛? (了)