人が輝いていた時代の話をし始めたり、自分の成功噺をしたりすることは、その人が老いてしまったという証拠なのだろう。私は十分に老いてしまったようだ。私の若い時代の話をしようと思う。耳を塞いでお聞きいただきたい。
ブログを毎日投稿することを唯一無二の目的としている私にとって、最近の話題枯渇は深刻である。コロナ禍が恨めしい。そこで思いついたのが回顧噺である。
2日前の拙ブログで孫と「朝里川温泉スキー場」へスキーに行った話を綴った。その際、「朝里川温泉スキー場は私がスキー指導員検定に合格したスキー場である」と書いた。
※ 指導員検定時に私が付けていたゼッケンが奇跡的に保存してありました。
私にとって20代~40代にかけて冬と云えばスキー一色だった。私は拙ブログにおいてもスポーツ好きを広言して憚らない。だから若いころは色々なスポーツにトライした。しかし、他人と比べて体格や体力に劣る私は、どのようなスポーツに挑戦しても他者に優ることはなかった。そうした中で出会ったのがスキーだった。スキーならば多少の運動神経と巧緻性さえあれば、あとは努力次第で他に伍していけるのではないかと思った。さらにスキー技術を習得すれば、子どもたちの教育にも役立てることができるのではないかと考えた。
それからはスキー街道まっしぐら…。その頃の話をすると、多少誇張しているところもあるが、冬のボーナスの半分は毎年スキーにつぎ込んでいた。北海道と云っても道東は積雪が遅く、年末年始は旭川方面まで遠征してスキーに打ち込んだ。結婚し、子どもができても年末は家族三人で比布スキー場に宿泊して技術を磨いた。
本格的にスキーに取り組んだのが23歳と遅かったこともあり、準指導員に合格するまで時間がかかり、合格したのは30歳の時だった。
そしてそれから3年後の1979(昭和54)年、小樽市の朝里川温泉スキー場において指導員検定を受験した。日程は3月1日~4日までの4日間日程だったが、幸いにして合格することができた。
※ ちょっと歪んで写ってしまった合格証です。
以来、冬の週末はスキー指導に忙殺された。先述したように道東は雪が少ないこともあり、当時はまだまだスキー指導者が少なかった。そうしたこともあり、指導が地元だけにとどまらず他市町村からの要請を受け指導したり、バッジテストの検定をすることもあった。30代、40代の冬はスキー一色に染まって過ごしたのだが、本職の方で管理職になったころから夜間や週末に指導に出かけることが徐々に困難になり始めた。そのことを理解してくれる地元スキー協会もあれば、まったく一兵卒としてスキー協会に協力することを強制される組織もあった。転勤族はそこが辛いところである。やがて私は地元スキー協会に所属していることが苦痛になり始め、あんなに好きで熱中したスキー組織から離れることになってしまい、今日を迎えている。
スキーの本場スイス・フランスのヨーロッパアルプスを滑ることもできた。家族でカナダのスキー場で滑る体験もできた。スキーには思い出がいっぱいである。
若き日の甘酸っぱい思い出を振り返ってみた…。私は十分に老いてしまったようだ…。
※ モノを整理できない自分が、指導員検定当時のゼッケンや合格証を保存していたことは奇跡に近いことだ。珍しいこともあるものである。