門外漢の私は「森田勝」という登山家の名を本著に出合うまで知らなかった。“狼”とも呼称された森田は何かに取り憑かれたかのように岩壁に挑み続けた。常人にはなかなか理解できない彼の思いとは?そして森田の先に待っていたものは?
とうとう魔界に足を踏み入れた気分である。読書後の感想、あるいは書評なとどいうのは、その人の読解力とか、能力とかがもろに表出されるものと警戒し、けっして近寄りたくはなかった。さらには私には人様に誇れるほど読書の量が多いわけでもない。
あゝ、それなのに…、とうとう魔界に足を踏み入れることになってしまった。これもコロナ禍の影響の一つである。
加齢と共に徐々に外(戸外)へ出てゆく機会も減ってくるのかもしれない。あるいは魔界に足を踏み入れることも必然だったのかもしれないと観念し、そろりそろりと足を踏み入れようかな、と考えた次第である。
数少ない登山文学に接して、「登山文学とは、ある意味ノンフィクションの極致かな?」とも思えるのだが、どうだろうか?当然反論は覚悟のうえで述べてみた。私がこれまで接してきた登山文学の場合、生死をかけてのギリギリの状態の、しかも事実の描写が読む者に手に汗握る興奮を与えてくれると思うからなのだが…。
本書の主人公・森田勝も常人はおろか、山仲間からも困難とされる岩壁に次々と挑んだ姿を描写するそれはノンフィクションの極致なのでは?と思わせてくれた。
本著における森田は中学卒業後、金型工として職を得るが、当時若者の間でブームになりつつあった登山を始めるようになった。そして社会人の登山団体「東京緑山岳会」に入会し、本格的に登山を始めるのだが、そこからはのめり込むようにクライミングに熱中しだす。生活は登山中心で、仕事の方は金型工としての腕はあったが、職場を転々としながらの生活となっていった。山岳会には所属していたものの、組織的な行動は苦手で一匹狼的に谷川岳の難壁に登り続け、やがてクライミングの世界で名を知られる存在となっていく。やがて海外へもそのフィールドを広げ、アイガー北壁にも挑み登頂を果たした。
そうした実績から日本の山岳会が組織したエベレストやK2の登山隊に選抜されたが、組織に馴染むことができずに苦い思いを残すことになる。
森田も40歳を超え体力的にも限界を迎えるも、なお意欲は衰えず1979年(森田42歳時)ヨーロッパアルプスの難峰グランド・ジョラス北壁の厳冬期の日本人初登頂を目ざした。しかし、彼は滑落し骨折を負い挑戦は失敗に終わった。日本人初登頂は当時急速に頭角を現してきた長谷川恒夫にその座を譲ることとなった。
それでも彼のグランド・ジョラスへの熱意は冷めなかった。翌1980年、前年の骨折で脚に入ったボルトを入った中で再度挑戦したのだが、またまた滑落し帰らぬ人となった。
私が知るかぎり、多くの登山家が山で命を落としている例が多い。森田とグランド・ジョラスの先陣を争った長谷川恒夫も1991年、ウルタルⅡ峰で雪崩に巻き込まれ遭難死している。いったい何が彼らをそうさせるのだろうか?そこには私のような凡人が想像すらできない魔力が山には潜んでいるのだろうか?
生と死のギリギリの境で格闘する彼らは、おそらく私たちには計り知れないカタルシスを感じているのでは、とも思われるのだが…。
本著において著者の佐瀬稔氏は森田の心情に寄り添いながら、森田の軌跡を克明に辿っている。淡々と、しかし克明に書き綴る佐瀬稔の筆致には読む者を飽きさせず、森田勝の世界に惹き込む力があった。